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第18話

 橘栞が中国とロシアに「力」を売ると宣言してから一ヶ月。

 世界は水面下で、劇的な、そして極めて危険な変貌を遂げていた。

 北京とモスクワに、日本の官房長官、九条からもたらされた「神の提案」は、当初こそ深い疑念と警戒心をもって受け止められた。しかし、日米両政府が提供した動かぬ証拠――超人兵士の驚異的な戦闘記録と、未来予知によるいくつかの小規模な事件の正確な予測――を前にして、彼らの猜疑心は、やがて剥き出しの欲望へと変わった。

 彼らは、その「力」を受け入れた。

 こうして、地球という惑星には、神と契約を交わした四つの「超大国」が誕生した。

 日本、アメリカ、中国、そしてロシア。

 彼らは、互いに神の力による直接的な武力行使を禁じられた、奇妙な「神聖同盟」を結ぶことになったのだ。


 そして、その歴史的な合意からさらに一ヶ月後。

 太平洋上の、地図には存在しないとある無人島に、その四カ国の最高レベルの代表団が、一堂に会していた。

 表向きの議題は、「超常的能力の平和的利用に関する第一回・四カ国合同協議」。

 しかし、その真の目的は、各国がこの一ヶ月でどれほどの「力」をその手中に収めたのかを互いに見せつけ、そして探り合うための、危険な腹の探り合いの場だった。


 島の中心部に、この日のために急遽建設された巨大な演習場。

 その防弾ガラスで覆われた観測司令室には、各国の代表団が顔を突き合わせていた。

 日本の九条官房長官、アメリカのマッカーサー将軍、中国の王将軍、そしてロシアのヴォルコフ将軍。

 彼らは、互いに笑顔一つ見せず、ただ正面の巨大モニターを凝視していた。


「――ではこれより、第一回・合同能力実証演習を開始する」

 無機質なアナウンスが、司令室に響き渡る。

 モニターに、演習場の荒涼とした風景が映し出された。そこは、複雑な市街地を模した、巨大なコンクリートの迷路だった。


 その中央に、四人の兵士が姿を現す。

 一人は、日本の自衛隊特殊作戦群から。

 一人は、アメリカの海軍特殊部隊ネイビーシールズから。

 一人は、中国の人民解放軍特殊部隊から。

 そして一人は、ロシアの特殊任務部隊スペツナズから。

 彼らこそ、各国が威信をかけて神の力で「覚醒」させた、第一世代の超人兵士たちだった。


 次の瞬間、演習場の壁や地面から、無数の自動化された戦闘ドローンや無人機銃が、その姿を現した。

 演習の始まりを告げるブザーが、鳴り響く。

 直後、凄まじい轟音と共に、数百の銃口から弾丸の嵐が、四人の兵士に向かって一斉に放たれた。


 司令室の誰もが、息を呑んだ。

 だが次の瞬間、彼らは信じがたい光景を、目の当たりにする。


 四人の兵士の姿が、消えたのだ。

 いや、違う。彼らは、人間の眼球がその動きを捉えることのできないほどの、超高速で動いていた。

 モニターのコマ送りを最大までスロー再生して、ようやく彼らの神がかりの機動が理解できた。

 ある者は、銃弾が自らの身体に到達するコンマ数秒前にその軌道を完璧に予測し、最小限の動きで回避している。

 またある者は、回避することさえ放棄し、その肉体に真正面から銃弾を受け止めていた。だが銃弾は、皮膚にまるで見えない壁があるかのように弾かれ、火花を散らして砕け散る。

 ある者は、壁を、地面を、まるで重力など存在しないかのように駆け上がり、跳躍し、立体的な機動で敵の死角へと回り込んでいく。

 そしてある者は、その両腕で分厚いコンクリートの壁を、まるで粘土細工のように引きちぎり、それを巨大な盾として、あるいは凶悪な投擲武器として利用していた。


 それは、もはや戦闘ではなかった。

 一方的な蹂躙。

 あるいは、人間という種の限界を超えた者たちによる、死の舞踏だった。

 無数のドローンが火を噴き、爆発し、鉄の残骸となって地に落ちていく。

 わずか十分。

 一個大隊にも匹敵する自動化部隊が、たった四人の兵士によって、完全に沈黙させられた。


 演習が終わった。

 司令室は、水を打ったように静まり返っていた。

 モニターには、ほとんど息も乱れていない様子で佇む、四人の超人兵士の姿が映し出されている。

 彼らのその人間離れした圧倒的な力が、この場の全ての者の脳裏に焼き付いていた。


「……すんげーな。まるで、創作の世界かな?」

 九条は、誰に聞かせるともなくそう呟いた。

 彼の脳裏には、数ヶ月前、アドバイザーとして招聘したあのライトノベル作家の顔が浮かんでいた。彼らが紙の上で描き続けてきた荒唐無稽な空想が、今、目の前で現実のものとなっている。


「しかし…」と、彼は隣に座るアメリカのマッカーサー将軍に小声で語りかけた。「もし日本、アメリカ、中国、ロシアが本気で手を組んだら、我々は本当に無双できますね…。この星のどんな問題も、解決できるのではないですかな」


「……」

 マッカーサーは、何も答えなかった。ただ、その百戦錬磨の軍人の目が、モニターの向こうの中国とロシアの超人兵士の姿を、険しい光を宿して見つめていただけだった。

 九条は、自嘲するように小さく息を吐いた。

「…いや、現実逃避はおいておいて。お互い、腹の中は探り合いですからな」


 その張り詰めた、しかし、どこか奇妙な連帯感さえ漂い始めていた司令室の空気を引き裂くように、九条の部下である一人の情報分析官が、彼の元へと駆け寄ってきた。

 そして、一枚のデータタブレットを九条にそっと手渡した。


「……長官。緊急の報告です。先日より東欧に潜入させていた我々の『資産』が、先ほど帰還しました」


「ご苦労」

 九条は、短くそう言うと、タブレットに目を落とした。

 そこに表示されていたのは、彼らが「資産」と呼ぶ日本初の超人兵士の一人が、その強化された五感と身体能力を駆使して収集した、生々しい機密情報だった。

 数分間、その報告書を食い入るように見つめていた九条の顔から、急速に血の気が引いていく。

 彼の完璧なポーカーフェイスが、わずかに絶望の色に歪んだ。


 会議が終わった。

 各国の代表団は、互いに腹の中を探り合うような儀礼的な挨拶を交わすと、それぞれの帰国の途についた。

 その夜。

 日本の代表団が宿泊する施設の一室で、九条は東京の沢村総理と、緊急のビデオ会談を行っていた。


『……どうだった、九条君。演習の結果は』

 モニターの向こうで、沢村が緊張した面持ちで問いかける。


「……予想以上です、総理」

 九条は、重い口調で答えた。「彼らの力は、我々のシミュレーションを遥かに上回っていました。特に、中国とロシアの兵士の躊躇のないその戦闘スタイルは…」

 彼は、言葉を一度飲み込んだ。


「……それ以上に問題なのは、演習の後に手に入れた情報です」

 九条は、部下から受け取ったタブレットの内容を沢村に伝えた。


「うーん…中国とロシアさん。侵略するつもり、バリバリみたいですよ?」


 そのあまりにも場違いなほど軽い口調。しかし、その内容は世界の終わりを告げるに等しいものだった。


『……何だと?』


「我々の『資産』が掴んだ情報です。ウクライナと台湾に侵攻する。そう、あいつら息巻いていると」

 九条は、淡々と報告を続ける。

「神との契約で、我々四カ国間の直接的な武力衝突は禁じられた。ですが、契約はそれ以外の国々には及びません。彼らは、その『ルール』を最大限に利用するつもりです。神の力を手にした無敵の軍隊を背景に、これまで手を出せなかった領域へと、その覇権を拡大しようとしている」


『……馬鹿な! そんなことをすれば、世界大戦に…!』


「なりませんよ、総理」と、九条は静かにかぶりを振った。「なぜなら、我々もアメリカも手出しができないからです。もし我々が台湾やウクライナを守るために軍事介入すれば、それは神との契約に違反する『力を持つ者同士の武力衝突』と見なされる可能性がある。そうなれば、我々は力を剥奪される。そのリスクを、彼らは完璧に計算しているのです」


『…………』

 沢村は、言葉を失った。

 彼らが恐れていた最悪のシナリオ。それが、今、現実のものとなろうとしていた。

 神の力は、戦争を抑止するどころか、むしろ新たな、そしてより残酷な戦争の引き金を引いてしまったのだ。


「Xデーは近いみたいですし。おそらく、数ヶ月のうちに彼らは動くでしょう」

 九条は、報告を締めくくった。


 モニターの向こうで、沢村の側近の一人が、頭を抱えて呻き声を上げた。

「マジかよ…もう終わりだ…。おしまいだぁ!」


「いや、冗談を言っている場合じゃありませんよ」

 九条は、その情けない声を冷たく一蹴した。

 そして彼は、悪魔の囁きにも似た、究極の、そして唯一の選択肢を口にした。


「……総理。こうなってしまった以上、我々にできることは一つしかありません」

 九条は、モニターの向こうの絶望に打ちひしがれる日本のトップを、まっすぐに見据えた。


「まあ、台湾とウクライナを彼らに渡して、とりあえずおとなしくしてくれるなら、それで良いんじゃないでしょうか?」


 それは、あまりにも冷酷で、そしてあまりにも現実的な提案だった。

 友人を見捨て、同盟国を切り捨てる。

 そうすることでしか、この新たな世界での日本の平和と生存を確保することはできない。

 神の力を手にした彼らが行き着いた、哀れな結論。

 それは、かつて彼らが最も軽蔑していたはずの、無力な傍観者へと成り下がるという選択だった。

 沢村は、何も答えることができなかった。ただ、モニターに映る九条の感情のないその瞳を、見つめ返すことしかできなかった。

 世界が静かに、そして確実に破滅へと向かっていくその足音が、彼には聞こえているような気がした。

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