第17話
あのゴシック・ロリータ姿の少女が、日米両政府の目の前で世界の新たなルールを一方的に通告してから、三日が経過した。
その三日間、日本の首相官邸、そして富士の地下基地は、かつてないほどの緊張と静かな狂騒に包まれていた。
神は、確かにそう言ったのだ。
「中国とロシアにも力を売る」と。
そして、「その交渉の窓口はあなたたちよ」と。
それは、外交という人間の叡智と理性が織りなす繊細なゲームの盤上を、土足で踏みにじるような、あまりにも乱暴な神託だった。
彼らは、人類史上最も危険な「セールスマン」の役割を、強制的に与えられたのだ。
その商品とは、「神の力」。
そしてその最初の顧客は、この数十年、日本が、そしてアメリカが最大の仮想敵国として、あらゆる警戒と駆け引きを続けてきた巨大な赤い龍――中華人民共和国だった。
「……準備は、よろしいですかな、総理」
首相官邸地下危機管理センター。
その一角に急遽設えられた、最高レベルのセキュリティを誇る対外通信室。官房長官の九条が、硬い表情で受話器の前に座る沢村総理に、最後の確認を行った。
沢村は何も答えず、ただ無言で頷いた。彼の顔からは血の気が失せ、まるで死刑台に上る罪人のように、蒼白になっていた。
無理もない。これから彼が行おうとしていることは、自らの手でパンドラの箱を開ける行為に等しいのだから。
通信回線は、この日のために極秘裏に設定された、北京の最高指導部へと繋がる特別なホットラインだ。盗聴の可能性は、限りなくゼロに近い。
しかし、問題はそこではなかった。
問題は、何をどう伝えるかだった。
『我が国の後ろ盾である神が、貴国にも力を分け与えたいと申しております。つきましては対価として、貴国内のゴミを全て頂戴したい』
……馬鹿げている。
あまりにも、馬鹿げている。
こんなことを伝えれば、相手は日本の首相がついに正気を失ったと判断するだろう。あるいは、これを日本側からの高度で悪質な情報戦だと見なすかもしれない。
どちらにせよ、まともな対話になるはずがなかった。
「……九条君」
沢村が、かすれた声で隣に立つ腹心の男に問いかけた。「我々は、本当にこれをやるのかね」
「やるしかありません」
九条は静かに、しかし、きっぱりと答えた。「我々には、選択肢はない。我々は、神の代理人に過ぎないのですから。我々の仕事は、ただ神の言葉を正確に、そして誠実に伝えること。ただ、それだけです」
その瞳には、恐怖も絶望も浮かんでいなかった。
あるのは、このあまりにも不条理な現実をただ受け入れ、そしてその中で国家として最善の道を探ろうとする、冷徹なまでの覚悟だけだった。
沢村は、ふーっと長い息を吐いた。そして、意を決したように通信開始のボタンを押した。
数秒の、心臓が凍るような呼び出し音。
そして、回線が繋がった。スピーカーから、低く重々しい中国語の音声が流れてくる。自動翻訳システムが、それを瞬時に日本語へと変換した。
『――沢村総理。こちら、中央国家安全委員会の王だ。貴殿からこのような形で直接連絡があるとは。一体、どのような緊急事態かな?』
相手は、中国の安全保障を裏で一手に握ると言われる、大物中の大物。王将軍。
その声には、慇惇な響きの裏に、鋭い剃刀のような警戒心が隠されている。
「……王将軍。本日は他でもない。我が国の、そして貴国の未来を左右する、極めて重要なご提案があり、ご連絡を差し上げた次第です」
沢村は、用意された原稿をなぞるように話し始めた。
その交渉は、おそらく人類の歴史上最も奇妙で、そして最も緊張に満ちたものだっただろう。
沢村は、九条の助けを借りながら、慎重に言葉を選び、神の存在、そしてその力がもたらした日米両国の驚異的な変化について説明した。
もちろん、全てを話したわけではない。異世界プロジェクトについては、固く口を閉ざした。
ただ、神が対価と引き換えに物理法則を捻じ曲げる「力」を与えるという、その核心部分だけを。
電話の向こうで、王将軍はただ黙ってその荒唐無稽な話を聞いていた。
相槌も、質問も一切ない。その沈黙が、逆に沢村の神経をじりじりと焼き焦がしていく。
そして、一通りの説明を終えた後。
沢村は、この交渉の最大の核心部分を切り出した。
「……実は、本日ご連絡を差し上げたのは他でもありません。我が国の『神』が、貴国中華人民共和国にもその力を分け与える用意があると、そう仰せになりまして」
その言葉に、電話の向こうで初めて、王将軍の息を呑む気配が感じられた。
「……ええ。つきましては、その対価として、貴国内のあらゆる廃棄物の所有権を譲渡していただきたいと。それが、彼女の提示する条件です」
沢村は、一気にそこまで言い切った。
数秒の沈黙。
やがて、スピーカーから王将軍の押し殺したような、低い笑い声が聞こえてきた。
『……ハハハ。沢村総理、貴殿は実に面白い冗談をおっしゃる。我が国のゴミが欲しいと? そして、その見返りに神の力を与える? それが、貴殿がこの私に伝えようとしているおとぎ話のあらすじかな?』
その声には、侮蔑と、そして明確な怒りの色が滲んでいた。
やはり、駄目か。
沢村の背中に、冷たい汗が滝のように流れる。
「将軍。これは冗談ではありません」
その時、沢村の隣にいた九条が、マイクをひったくるように取った。
「我々が、貴国を愚弄しているとお考えですか? 我々がこのような、一歩間違えば全面戦争の引き金になりかねない危険な嘘を、貴国につくと本気でお思いですか?」
九条の声は、どこまでも冷静だった。しかし、その中には相手の心を突き刺すような、鋭利な刃が隠されていた。
「一つだけ条件があります。この力を持つ者同士の直接的な武力衝突は、『神』によって固く禁られています。それは、我が国も、アメリカも、そしてもし貴国がこの契約を受け入れるのであれば、貴国もまた遵守しなければならない絶対のルールです。その上で、お伺いしたい」
九条はそこで、わざと挑発するような間を置いた。
「……まあ、貴国のような偉大な大国には、そのような我々が『神頼み』で手に入れたような、胡散臭い力はいらないですよね?」
それは、計算され尽くした悪魔的な問いかけだった。
断れば、プライドは保てる。だが、もし日本とアメリカが語るこの力が本物だった場合、中国は歴史の新しいステージから取り残されることになる。
受け入れれば、プライドは傷つく。だが、手に入るかもしれないものは、世界の覇権そのものだ。
電話の向こうで、王将軍が息を詰めるのが分かった。
数秒が、数時間にも感じられる長い長い沈黙。
やがてスピーカーから聞こえてきたのは、先ほどまでの嘲笑の色が完全に消え失せた、乾いた、そして欲望に満ちた声だった。
『……いるよ』
たった二文字。
だが、その言葉は世界の運命を決定づける、あまりにも重い響きを持っていた。
『何言ってるんだ、九条長官。いるに決まっているだろう』
「……ですよねー」
九条は、マイクから少しだけ顔を離し、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。その声には、深い深い疲労と、諦観の色が滲んでいた。
「えー、では将軍」と、九条は再び外交官の仮面を被り直した。「確認ですが、先ほどの条件。すなわち、アメリカ、日本、そして近々お声がけをする予定のロシア。そして貴国中国。これら神と契約した国家間での軍事衝突を、未来永劫避けるという条項に同意しますね?」
『する。するとも』
王将軍の返答は、食い気味だった。もはや、彼に迷いはなかった。
『それで力が手に入るのならな。それで、さっさとその力をこちらにくれよ』
「えー、ではまず」と、九条は事務的な口調で続けた。「貴国が、我が国の協力者から提供を受けたいと望む『力』の具体的な内容を、お聞かせください。我が国とアメリカが最初に提供を受けたのは、『限定的未来予知』と『兵士の身体能力強化』の二つでしたが」
『……ふむ。ならば我々も、それでいこう。まずは様子見だ』
「承知いたしました。では、その二つの力を付与する対象となる人材のリストを、可及的速やかに作成し、こちらの指定する暗号化された回線で送付してください。身体能力強化については、対象となる兵士の全部隊、全人員の個人識別情報が必要です。未来予知については、対象となる諜報機関の分析ユニットを、特定してください」
九条は、まるで新しいスマートフォンの契約手続きでもするかのように、淡々と説明を続けた。
「リストをこちらで確認し、我々の協力者…KAMIに提出いたします。その後、KAMIが直接貴国の対象者に力を付与したとこちらで確認が取れ次第、改めてご連絡を差し上げますので、それまでお待ちください。本日のご提案は、以上です」
『……分かった。リストは、一両日中に送る』
王将軍は、それだけを言うと、一方的に回線を切った。
ブツリ、という無機質な音。
そして、後に残されたのは、絶対的な静寂だけだった。
沢村総理は、まるで全身の力が抜けてしまったかのように、椅子の背もたれに深く身を沈めた。
「…………終わったか…」
「いえ、総理」と、九条は静かに首を振った。「まだ、半分です」
彼は、ぐったりとしている沢村の肩にそっと手を置いた。
「えー、次はロシアだ。…中国だけで、こんなに疲れたんですけど…」
九条は、初めてその完璧なポーカーフェイスをわずかに崩した。その顔には、外交官としての誇りも野心もなかった。
ただ、あまりにも重すぎる神の代理人という責務に押し潰されそうになっている、一人の疲れ果てた中年の男の顔が、そこにあった。
彼らは、確かに歴史を動かした。
だが、その歴史がどこへ向かうのか。
その先に待つのが、新たな安定した秩序なのか、それとも、これまでとは比較にならないほどの混沌とした地獄なのか。
それを知る者は、誰もいない。
ただ、彼らは神の気まぐれなシナリオの上で、与えられた役を演じ続けるしかないのだ。
そのあまりにも不条理な現実を、彼らは今、改めて噛み締めていた。