第16話
あの歴史的なファーストコンタクトから数ヶ月。日米合同で進められる異世界探査プロジェクトは、驚くほど順調に進展していた。
富士の樹海地下に建設された巨大な研究開発拠点。そして異世界『アステルガルド』の森に、橘栞の分身が一夜にして建設した前線基地『ベースキャンプ・フロンティア』。二つの拠点を結ぶ光り輝く『扉』は、今や両世界の技術と資源、そして希望を運ぶ安定した大動脈となっていた。
「――以上が、第三次調査団までの活動報告と、そこから得られた成果です」
富士の地下基地メインブリーフィングルーム。チーム・フロンティアの総責任者である小此木が、巨大なモニターに映し出されたワシントンのホワイトハウスと東京の首相官邸の面々に向けて、報告を締めくくった。その声には、確かな自信と興奮が満ちていた。
モニターには、異世界の街『リリア』の活気あふれる映像が映し出されている。地球から持ち込まれた鉄製の農具や保存食によって、人々の生活は目に見えて豊かになっていた。白狼商会との間に結ばれた独占交易契約によって、日米両政府は莫大な量の『魔石』や未知の薬草を、安定して手に入れることに成功していた。
「素晴らしい。実に順調だ」
官邸の席で、沢村総理が満足げに頷いた。
「科学技術チームからの報告も、目覚ましいものだった。持ち帰った『魔石』から、我々の物理学の常識を覆す新たなエネルギー原理が発見されつつある。薬草から作られる新薬は、あらゆる難病を克服する可能性を秘めていると」
『うむ。こちらの成果も同様だ』
モニターの向こうで、アメリカのトンプソン大統領も笑みを隠せないでいた。『我が国の超人兵士計画は、最終フェーズへと移行した。彼ら一個師団の戦力は、今や我が国の一個軍団に匹敵する。未来予知ユニット『カサンドラ』も、驚異的な精度で国内外の脅威を排除し続けている。我が国は、かつてないほど安全で強力になった』
日米両政府は、確かに蜜月の中にいた。
神の力を二大国で独占する。その圧倒的なアドバンテージは、彼らに絶対的な自信と、一種の万能感さえ与えていた。世界は我々の手の中にある。そう、誰もが信じ始めていた。
そのあまりにも楽観的で傲慢な空気を、引き裂くように。
それは再び、唐突に現れた。
富士のブリーフィングルームの中央に。
そして、ワシントンのシチュエーションルームの中央に。
全く同じタイミングで、あのゴシック・ロリータ姿の少女が、すぅっと音もなく姿を現した。
「――ッ!」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
部屋の隅に控えていた超人兵士たちでさえ、その存在の前では、ただ緊張に身を固くするしかなかった。
「あら奇遇ね。ちょうど日米合同会議の最中だったなんて」
少女は、まるでアポイントもなしに役員会議に顔を出した気まぐれな会長のように、軽い口調で言った。
「話が早くて助かるわ」
「……KAMI」と、トンプソンが呻くようにその名を呼んだ。「我々に、何か御用でしょうか」
「ええ」
少女は、こくりと頷いた。「あなたたちとのビジネスが、思いの外順調に進んでいるから。次のフェーズに移ろうと思って」
彼女は楽しそうに、そして、あまりにも無邪気に告げた。
「異世界を探索しているのは良いけど。サプライヤーを増やすわよ」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
そして理解した瞬間、沢村もトンプソンも、そしてその場にいた全員の顔から血の気が引いていった。
「……サプライヤーを、増やす…?」
沢村が、かすれた声で聞き返した。「それは、まさか…」
「ええ」
少女は、その最悪の可能性をあっさりと肯定した。
「中国とロシアにも、力を売るわ。条件は、あなたたちと同じよ」
雷鳴が室内に轟いたかのようだった。
いや、それ以上の衝撃。
日米両政府がこの数ヶ月、最も恐れ、そして決して起きてはならないと願っていた悪夢のシナリオ。それが今、神自身の口から決定事項として通告されたのだ。
「そ、それはお待ちください!」
小此木が、外交官としての本能から思わず前に進み出た。
「なりません! 外交上、中国とロシアが我々と同じ力を手にした場合、世界のパワーバランスは完全に崩壊します! 制御不能の事態になる可能性が、あまりにも高すぎます!」
『その通りだ!』と、モニターの向こうでトンプソンも激昂した声を上げた。『彼らは、我々のような民主主義国家ではない! その力を、必ず自国の覇権拡大のために利用するだろう! 台湾、ウクライナ…いや、世界中が新たな戦火に包まれることになる!』
二つの大国の悲痛なまでの抗議。
それを少女は、まるで子供の癇癪でも聞くかのように、退屈そうな顔で聞いていた。
「え? いやよ?」
少女は、心底不思議そうに首を傾げた。
「あなたたちが何をそんなに騒いでいるのか、私には理解できないわ」
彼女の赤い瞳が、冷ややかに人間たちを見据える。
「私のビジネスの基本ルールを、教えてあげる。それは、『クライアント同士の私の力を利用した直接的な武力衝突は禁止する』ということ。あなたたちが中国に、私の力で攻撃を仕掛けることはできない。逆もまた然り。それは契約違反よ。そんなことをすれば、あなたたちから力を取り上げるだけ。簡単な話でしょう?」
「……では」と、九条がかろうじて冷静さを保ちながら問うた。「その『契約』を結んでいる国家への、不可侵の確約はあると?」
「最低限、私と契約してる国家への侵攻をしない確約は必要だけど」
少女は、当然でしょとばかりに頷いた。そして続けて、あまりにも残酷な言葉を口にした。
「それ以外の国は、知ったことではないわ」
絶句。
その言葉が意味する恐るべき未来図に、誰もが戦慄した。
日米中露。
神と契約した四つの超大国が、互いに不可侵の力を手にする。
そして、その四カ国以外の全ての国々が、彼らの草刈り場となる。
それは、世界の新たな分割統治。
人類史上、最も不平等で、そして、最も残酷な新しい世界秩序の幕開けだった。
「あなたたちの懸念は分かったわ。でも、それはあなたたちの都合でしょ? 私の目的は、対価の安定的かつ最大効率での確保。そのために、中国とロシアという巨大なサプライヤーは欠かせないの。分かる?」
少女の論理は、どこまでもビジネスライクで、そして非情だった。
「ええ…そうですよね…。分かりました…」
沢村は、絞り出すようにそう答えるしかなかった。
神の前では、人間の外交努力もパワーバランスも、理想も平和への祈りも、何の意味もなさない。
ただ、その気まぐれな「ルール」に従うしか道はないのだ。
その時、九条が、一つの最後の希望とも、あるいは懸念ともつかない質問を口にした。
「……では、その異世界の件も、中国、ロシアに参集させますか?」
その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
異世界プロジェクト。それはこの苦境の中で、日米両政府が唯一独占を許された、最後の聖域のはずだった。
「あれは、日本とアメリカ政府でリスクを取って始めたプロジェクトです。今さら後から、彼らに相乗りはされたくないですね」
九条のその、ほとんど懇願に近い言葉に、少女は初めて少しだけ考えるように、うーんと唸った。
「うーん…まあ、異世界は別の話ね」
数秒の沈黙の後、彼女はあっさりとそう言った。
「あのプロジェクトは、あなたたち二国が最初の『投資家』よ。今から新しい株主を加えれば、利益配分が面倒くさくなるわ。それに何より、あなたたちが一つの目標に向かって協力している様子は、見ていてなかなか面白いし」
少女は、楽しそうにくすくすと笑った。
「だから、あれは当分、日本とアメリカ政府だけで良いわよ」
「……!」
その言葉に、沢村もトンプソンも、そしてその場にいた全員が、暗闇の中で一筋の光を見出したかのように顔を上げた。
「良かった…!」
誰かが、安堵の声を漏らした。
世界の覇権は、四カ国で分かち合うことになった。
だが、新しい世界のフロンティアは日米だけのものだ。
それは屈辱的な、しかし、あまりにも大きな譲歩だった。
「じゃあ、話は決まりね」
少女は、もう用事は済んだとばかりに、くるりと背を向けた。
「あなたたちには、私の新しいクライアントへの最初の『営業』をお願いするわ。窓口は、あなたたちよ。私からの正式な提案であると、北京とモスクワに伝えなさい。詳しいメニューは、また後であなたたちの端末に送っておいてあげる」
それは、命令だった。
かつての敵国。そして、これからのライバル。
その最も危険な二つの国への扉を、自らの手で開けと。
神は、そう命じたのだ。
「では、中国政府とロシアに接触しましょう…」
沢村は、まるで自分の死刑執行命令書にサインをするかのように、力なくそう頷いた。
それが、彼らに残された唯一の道だった。
少女は、満足げに頷くと、来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、二つの大国の絶望と、そしてほんのわずかな希望を抱いたリーダーたちだけだった。
世界は、新たな、そして、より危険な時代へと突入する。
神の力を手にした超大国たちが、互いに牽制しあいながら、それ以外の国々を草刈り場とする新しい冷戦の時代。
そして、その水面下では、日米だけが秘密裏に異世界という無限の富を独占する。
そのあまりにも歪で、不安定な新しい世界秩序が、今まさに始まろうとしていた。
そして、その全ての引き金を引いたのが、日本のどこかのマンションで、ただ自らの究極の目標のためだけに、効率的な「対価」の集め方を考えている一人の女であるということを、まだ誰も知る由はなかった。