第140話
東京・大手町。
日本経済の総本山、経団連会館の最上階にある特別会議室。
窓の外には皇居の緑と東京の摩天楼が広がっているが、ここに集う男たちの視線はテーブルの中央に置かれた一枚の書類――政府から内々に示された『ダンジョン事業特区』への参入許可に関する合意文書に注がれていた。
パチパチパチパチ……。
重厚で、しかし確かな熱気を帯びた拍手が会議室に響き渡る。
それは、長く困難な政府との折衝を制し、ついに「企業の直接参入」という悲願を勝ち取った者たちが互いの労をねぎらい、そして勝利を祝う拍手だった。
「――いやあ会長。お見事でした」
五菱商事の社長、権藤が満面の笑みで葉巻をくゆらせながら言った。
「あの石頭の麻生大臣と九条長官相手によくぞここまで押し切りましたな。『全面解禁』とはいかずとも、『特区での実証実験』という名目さえ手に入れば、あとはこちらのものです。事実上の解禁に等しい」
「ええ、その通りです」
経団連会長の三田村は、深々と椅子に背を預け、満足げに頷いた。
「政府も、これ以上の経済停滞と個人探索者による無秩序な活動の限界を認めざるを得なかったのでしょう。『組織の力』、『資本の力』が必要不可欠であると、彼らも理解したのです。
……さて皆様。祝杯は後にしましょう」
三田村は眼鏡の位置を直し、会議室に並ぶ日本経済の重鎮たち――重工業、自動車、建設、商社、金融のトップたちを見渡した。
「我々は権利を勝ち取りましたが、これはスタートラインです。
これより経済連としての方針を固める必要があります。具体的には、『どの企業が参入するか』、そして『どの範囲まで攻略を行うか』。
政府との最終調整の前に、我々の総意をここで決定しておきたい」
***
「では最初の議題です」
事務局長が進行役を務める。
「特区において、我々が業務として攻略するダンジョンの『範囲』についてです。
現在開放されているF級、E級。そして今後開放が予想されるD級、C級……。
我々はどのラインまでを『事業領域』として設定すべきでしょうか?」
最初に手を挙げたのは、慎重派で知られる大手損害保険会社のトップだった。
「まずはF級、そしてE級の範囲で留めるべきではないでしょうか?
F級はゴブリン程度ですから問題ありませんが、E級からは魔法攻撃を行うモンスターが出現します。
確かに装備で耐性は確保できますが、被弾すれば痛みはある。社員への心理的負担や、装備のコストも馬鹿になりません」
彼は懸念を示した。
「それに、もし装備に不備があったら? 現場指揮官が指示をミスしたら?
E級以上の魔法や物理攻撃は強力です。万が一、社員が死亡するような事故が起きれば、まだ免責事項が明記されていない現状では、企業責任を問われかねません。
ここは安全第一で、弱いゴブリンのF級程度で実績を作り、様子を見るのが得策では?」
その慎重論に、会場の一部が頷く。
企業の論理として、リスク回避は最優先事項だ。世論は企業に厳しい。「金儲けのために社員を危険に晒した」というレッテルは避けたい。
「いやいやいや!」
その空気を打ち破るように、五菱商事の権藤が声を張り上げた。
彼は呆れたように首を振った。
「F級ですよ? ゴブリンですよ?
あんな子供の遊び場で、どうやって巨大資本を動かす利益を出すと言うんですか?
F級の魔石など単価が知れている。人件費と装備代を引けば、利益率は数パーセントでしょう。そんな薄利多売は個人にやらせておけばいい!」
権藤はテーブルを指で叩いた。
「我々が狙うべきはその先です!
E級、いやその先のD級、C級ですよ!
希少金属、高純度魔石、そして高ランクの装備品!
そこまで踏み込んでこそ、初めて『企業がやる意味』があるのです。
リスクを恐れて利益を逃しては、株主に説明がつきませんぞ!」
「しかし権藤社長!」
保険会社トップが食い下がる。
「死人が出たらどうするのです!
まだ法整備は完全ではない。特区といえど、死亡事故が起きればプロジェクト自体が凍結されかねないのですよ!」
「死人ねぇ……」
ここで、それまで黙って議論を聞いていた三田村会長が、ゆっくりと口を開いた。
彼は手元のタブレットを操作し、ある一つの議事録をスクリーンに投影した。
「皆様。その点については、既に『答え』が出ているのではありませんか?
我々はリスクを過大評価しすぎているように思えます」
スクリーンに映し出されたのは、スイス・ジュネーブで行われた『ダンジョン法整備に関する超国家合同準備委員会・第一回会合』のKAMIの発言録だった。
神の言葉そのものである。
「これをご覧ください。KAMI様は各国の代表の前で、ダンジョンの仕様について明確にこう発言されています」
三田村はその一節を読み上げた。
『基本的にダンジョンでの死者は出ないと考えていいわ。
正確に言うと、ダンジョンの難易度はF級から始まってSSS級まであるんだけど。
最初のうちはC級以下のダンジョンしか解放しないから。
そのレベルで死者が出ることはまずないかなーって感じね。
ちゃんと装備を整えればの話だけど』
会場が静まり返る。
「死者が出ることはまずない」。
神の保証。
この世界を作ったシステム管理者が、そう断言しているのだ。
「KAMI様の言葉を信じるのであれば」
三田村は断言した。
「C級までは死亡事故は『システム的に』起こり得ないのです。
彼女は『調整』すると言った。ならばそれは、物理法則と同じく絶対的なルールです」
彼は続けた。
「我々は企業です。個人の探索者とは違い、資金力がある。
KAMI様が仰った『ちゃんと装備を整えれば』という条件を、最も確実に、そして完璧にクリアできるのは我々です。
最新鋭の耐性装備を支給し、ポーションを十分に持たせれば、理論上、死亡リスクはゼロに等しい」
「……確かに議事録は残っていますが」
保険会社のトップが、まだ少し渋い顔をしている。
「『まずない』というのは『絶対にない』ではありません。万が一というのもあるのでは?」
「その『万が一』とは、装備を忘れて裸で突っ込むような愚か者の話でしょう」
三田村の声が冷徹に響く。
「我々の管理下で、そんなことはあり得ない。
それに、KAMI様が『死なない』と仰っている以上、万が一の事故が起きたとしても、それは『想定外のシステムエラー』か、あるいは『軽微な負傷』の範疇です。
通常の建設現場や工場でも事故は起きます。それと同じ、いや、神の保証がある分、それ以上に安全な『通常の労災』扱いで済む話です」
「そうです!」
自動車メーカーの社長が声を上げた。
「リスクを恐れていてはダメです!
KAMI様が安全だと言っているのに、我々が勝手に怯えてチャンスを逃すなど、経営者として失格だ!
中国やアメリカの企業は、ガンガン深層へ潜っている。
ここで我々がF級で足踏みしていては、国際競争に負けます!」
「どうでしょう会長!!!
ここはC級まで、いやKAMI様が安全だと保証した範囲全てを、我々の事業領域とすべきです!」
IT企業の社長も同調する。
「死なない戦場。これほど効率的なビジネスフィールドはありません!」
「……私も同意見です」
「ありがとうございます!」
勝ち誇る発言者たちの声が、会議室の空気を塗り替えていく。
慎重派の声は、神の絶対的な保証と、目の前の巨大な利益の前に掻き消された。
「神が安全だと言ったのだから、それは絶対だ」。
その結論は、彼らにとってあまりにも都合が良く、そして強力な免罪符だった。
「では」
三田村会長が議論を締めくくった。
「経済連としての方針は決まりました。
特区においては、F級に留まらずE級、D級、そしてC級までの参入を前提として事業計画を策定する。
『KAMI様の発言を信じ、C級までは安全圏と見なして許可する』。
政府にはそう伝え、それに見合った広範囲な採掘権を要求します。これでよろしいですな?」
拍手が起こる。
それは冒頭の重苦しい拍手とは違う、欲望と確信に満ちた熱い拍手だった。
***
「さて第二の議題です」
三田村は冷ややかな目で円卓を見渡した。
ここからが本日の裏のメインイベント、利益の分配に関する議論だった。
「では、この特区事業に参入する企業……すなわち、この巨大な果実を分け合う『仲間』をどうするかですが」
彼は一枚のリストをスクリーンに映し出した。
そこには、経済連に加盟する主要企業の名前がずらりと並んでいる。
そしてそのリストに含まれていない企業――新興のベンチャー、外資系企業、そして地方の中小企業の名前は一つもなかった。
「議論するまでもありませんが」
五菱商事の権藤が、傲慢に言い放った。
「大手以外はダメでしょう。
特区事業は国家の威信をかけたプロジェクトです。
資金力、技術力、そして何より『組織管理能力』。全てにおいて最高水準が求められる。
体力のない中小零細や、どこの馬の骨とも知れぬベンチャーに、C級ダンジョン攻略などという国家事業を任せるわけにはいきません」
「その通りです」
銀行の頭取が頷く。
「装備を整えるだけでも一人当たり数百万。部隊単位なら億単位の投資が必要です。
その資金を用意でき、かつ万が一の際の補償能力がある企業でなければ参入資格はない。
資本金100億円以上、従業員数1000名以上。これくらいの基準は最低限必要かと」
「もっと言うと」
三田村会長が静かに、しかし残酷な一言を付け加えた。
「経済連に参加していない企業は、原則NGで固めるべきです」
その言葉に、会場の空気が一瞬固まり、すぐに「当然だ」という同意の空気に変わった。
「この特区という特権は、誰が勝ち取ったものですか?
我々です。
我々が政府に働きかけ、麻生大臣を説得し、政治献金とロビー活動を積み重ねて、ようやくこじ開けた扉なのです。
汗もかかず、金も出さず、ただ美味しいところだけを啜ろうとするフリーライダー(ただ乗り)を許すわけにはいきません」
それは、日本の大企業病とも言える排他性の極致だった。
既得権益。
自分たちの庭に入ってくるよそ者は、徹底的に排除する。
「安全性確保」「信頼性」という大義名分の裏で、彼らが守ろうとしているのは、自分たちのシェアと、自分たちの秩序だけだった。
「月読ギルドのような民間団体はどうしますか?」
誰かが尋ねた。
「彼らは実績もありますが」
「排除です」
権藤が即答した。
「彼らは法人格すら持たない任意団体だ。責任能力がない。
それに、彼らの『利益度外視』の活動方針は、我々のビジネスにとって邪魔になる。
特区はあくまで『営利事業』の場。ボランティアの入る余地はありません」
「外資については?」
「排除は難しいでしょうが、主導権は渡しません。
あくまで日本企業が主体となるJVに限り認める。
ここは日本のダンジョンです。日本の資源は我々経済連が管理すべきだ」
結論は出た。
特区は巨大資本による、巨大資本のための、閉ざされた楽園となる。
「……よろしい」
三田村会長は満足げに頷いた。
「この方針で麻生大臣と最終調整に入ります。
『国民の安全と事業の確実性を担保するため、実績ある経済連加盟の大手企業に限定する』。
この理屈なら、政府も国民も納得せざるを得ないでしょう」
彼はグラスを掲げた。
「では皆様。
神が保証した『安全な戦場』と、我々が勝ち取った『独占的な市場』に。
乾杯」
「乾杯!」
カチンという高い音が会議室に響き渡る。
彼らは勝利を確信していた。
KAMIの言葉を盾に安全神話を築き上げ、政治力を使って参入障壁を築き上げ、そして莫大な富を独占する。
完璧な計画だった。
神の言葉は絶対だ。
C級までは死なない。
ならばそこは、ただの「高利回りの鉱山」に過ぎない。
彼らはその確信の下に、膨大な資本と人員を躊躇なくダンジョンへと投入することを決めたのだった。
大手町のビル群の窓の外、東京の夜景は美しく輝いていた。
その光の中で、経済界の巨人たちが描いた設計図通りに、日本という国がまた一つ、大きな歯車を回し始めようとしていた。




