第15話
白狼商会の主人、ガランからの紹介状は、絶大な効果を発揮した。
街の目抜き通りから少し脇道に入った、薬草の独特な匂いが立ち込める一角。そこに、その店はあった。『賢者の釜』と記された古びた木製の看板が掲げられた、こぢんまりとした店。ポーション屋だ。
「――ガラン殿からの、ご紹介で?」
店の主である白髪の混じった人の良さそうな老婆は、小此木たちが差し出した紹介状に目を通すと、警戒していた表情をわずかに和らげた。
「なるほど。旅の商人の方々が、この辺りの薬草についてお知りになりたいと。よろしいでしょう。分かる範囲で、お教えいたしましょう」
そこから、チーム・フロンティアの科学者たちにとって、夢のような時間が始まった。
老婆は、店の棚に並べられた乾燥させた薬草や、瓶詰めにされた植物の根を、一つ一つ丁寧に説明してくれた。
「これは、『月光草』。夜露に濡れた時だけ淡く光る性質がありましてね。粉末にして傷口に塗れば、痛みを和らげる効果があります。ポーションの、基本的な材料の一つですよ」
「こちらは、『陽だまりの苔』。常にほんのりと温かい、不思議な苔です。煎じて飲めば、身体の芯から温まり、風邪の予防になります」
その説明を聞きながら、科学者たちはポケットに忍ばせた小型のセンサーで、それらの植物が放つ微弱なエネルギーや、未知の有機化合物のスペクトルを、必死に記録していた。彼らの目には、老婆が語る「効能」が、地球の科学では説明のつかない、異常な物理現象として映っていた。
「……なるほど、なるほど。大変勉強になります」
小此木は、感心したように頷きながら、最終的な決断を下した。
「女将さん。失礼ですが、今ご紹介いただいた薬草、そしてこの店にある全ての薬草を、一つ残らず我々に売っていただけませんか?」
「……はぇ? 全て、ですかい?」
老婆は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「ええ、全てです。研究用として、ぜひ持ち帰らせていただきたい」
小此木は、先ほど白狼商会で手に入れた、ずしりと重い金貨袋をカウンターの上に置いた。「代金は、これで足りるでしょうか?」
そのあまりにも豪快な買い方に、老婆はしばらく呆気に取られていたが、やがてしわくちゃの顔を、くしゃりと綻ばせた。
「……分かりました。お客さん、どうやらただの商人じゃないようだね。ええ、いいでしょう。うちの在庫、根こそぎ持っていきなされ!」
老婆は、店の奥から様々なポーションも持ってきてくれた。
「うちのような田舎町で出せるポーションは、これくらいなものですよ。『怪我治癒ポーション』。軽い切り傷や打撲くらいなら、これを飲むだけで、数時間で綺麗に治っちまう魔法の薬です」
緑色に淡く輝く小さな瓶。科学者たちの目が、それに釘付けになる。
「もっと大きな都市部…王都なんかに行けば、どんな病でも治すと言われる幻の『エリクサー』なんてものがあるとか、ないとか。まあ、噂話の類ですがね。ここには、そんな大層なものはありませんよ」
「いえ、とんでもない。これは、素晴らしい品です」
小此木は、そのポーションに金貨数枚を支払った。「とりあえず、その『怪我治癒ポーション』を五本いただけますか?」
こうして、チーム・フロンティアは、この世界における最初の、そして最も重要な「科学的サンプル」の入手に成功した。
「ふー…とりあえず、今日のところはこれくらいにして、ベースキャンプに戻りましょうか」
ポーション屋を後にした小此木は、安堵のため息をついた。「今日の収穫は、実に多い」
その言葉通りだった。
チョコレートという、地球ではありふれたお菓子を売却し、この世界の通貨である「金貨」を手に入れた。そして、その金貨を使い、未知の効能を秘めた大量の薬草と、魔法のポーションを入手した。情報収集、交渉、そしてサンプルの確保。第一次接触の目的としては、これ以上ないほどの成果だった。
彼らは、帰り道も調査を怠らなかった。
科学者たちが、道端の石や土、小川の水を、次々とサンプルとして採取していく。その間、超人兵士たちが森の奥から聞こえる未知の獣の咆哮に鋭い視線を向け、完璧な警護体制を敷いていた。
そして、数時間の後。
彼らが、出発地点である森の開けた場所に戻ってきた時。
彼らは、我が目を疑った。
「…………なんだ、これは…」
そこにあったはずの、ただのだだっ広い空き地は、影も形もなくなっていた。
代わりに、彼らの目の前にそびえ立っていたのは、まるでSF映画から飛び出してきたかのような、近未来的な巨大な「基地」だった。
地面は、寸分の狂いもなく平らな金属質のプレートで覆われ、その中央には、いくつかの滑らかな曲線を描くドーム状の建造物が、音もなく鎮座している。建造物の表面には淡い光のラインが走り、その周囲には、目に見えないエネルギーのバリアが陽炎のように揺らめいていた。
「こりゃあ…すごい…」
誰かが、呆然と呟いた。
数時間前まで、ここがただの森だったとは到底信じられない。
その基地の中央ドームの入り口が、すぅっと音もなく開いた。
そして、中からあのゴシック・ロリータ姿の少女が、まるで自宅の玄関から出てくるかのように、ひょっこりと顔を出した。
「あら、お帰りなさい」
少女は、ぱちぱちと大きな赤い瞳を瞬かせた。
「どうやら、収穫はあったみたいね」
「あ、ああ…」と、小此木はまだ目の前の光景が信じられないという顔で頷いた。「これは、一体…?」
「設営、終わったのよ」
少女は、当然でしょ、とばかりに胸を張った。
「あなたたちがいつでも安全に、快適に二つの世界を行き来できるように、完璧なベースキャンプを作っておいてあげたわ。電気も、水道も、空調も、もちろんネット環境も完備よ。地球と、リアルタイムで通信できるわ」
そのあまりにも規格外な「おもてなし」に、調査団の面々はもはや驚く気力さえ失っていた。
「で、収穫は?」
少女は、小此木が大事そうに抱えているサンプルの箱に目を向けた。
「は、はい。金貨をいくつかと、大量の薬草、そしてポーションを五本。あと、帰り道にいくつかの地質資料や植物資料を採取してきました」
「なるほどね」
少女は、特に感心した様子もなく、こくりと頷いた。
「まあ、最初の成果としては上々といったところかしら。ご苦労様」
そして彼女は、まるで次の日のスケジュールを確認するかのように、あっさりと言った。
「じゃあ、待機組の数名を残して、あなたたち主力部隊は一回地球に戻るわよ。そのサンプル、早く解析しないと意味ないでしょ?」
彼女は、基地の隅で待機していた数名の兵士と科学者を指さした。
「待機組は、あとはよろしくー。この基地の基本的な防衛と、周辺の定点観測をお願いね」
有無を言わさぬ、決定だった。
彼女の言葉は、この場所では絶対のルールなのだ。
少女が、再び指を鳴らす。
すると、彼らが数時間前にくぐってきたあの光り輝く『扉』が、基地の中央に再びその姿を現した。扉の向こうには、見慣れた富士の裾野の青い空が広がっている。
「さあ、帰りなさい。解析が終わって、次の計画が決まったら、またいつでもここに来ればいいわ」
小此木たちは、その言葉に促されるように、再び扉の中へと足を踏み入れた。
異世界での滞在時間、わずか半日。
だが、その半日で彼らが持ち帰ったものは、人類の歴史を永遠に変えてしまうほどの可能性の「種」だった。
日本の富士山麓、地下深く。
そこに、この日のために極秘裏に建設された、巨大な研究施設があった。
異世界から帰還したチーム・フロンティアの主力部隊は、休息もそこそこに、その施設へと直行した。
彼らが持ち帰った、未知のサンプルを解析するために。
研究施設内は、まるで戦場のような熱気と興奮に包まれていた。
白衣を着た日米両国のトップクラスの科学者たちが、防護服に身を包み、未知のサンプルを食い入るように見つめている。
「……信じられない。この植物の細胞構造…地球上のどの分類にも、当てはまらないぞ!」
植物学者が、電子顕微微鏡の映像を呆然と見ながら叫んだ。
「細胞壁が、自己修復している…? まるで生きているかのように、損傷を自ら治癒していく! これが、『月光草』の鎮痛効果の正体か!」
「こっちもだ!」と、化学分析班のリーダーが叫び返す。「怪我治癒ポーションの成分分析結果が出た! だが、意味が分からない! 我々の知る、いかなる有機化合物とも構造式が一致しない! だが、間違いなく驚異的な細胞再生促進効果を持っている! このポーションは、この薬草の未知の効能を、魔法という我々の理解を超えたプロセスで、何百倍にも圧縮しているとしか考えられない!」
「この成分を、人工的に再現できないかしら…?」
若い女性の研究員が、夢見るような声で呟いた。もし、それが可能になれば、人類はあらゆる怪我を瞬時に治癒する、本当の「魔法の薬」を手に入れることになる。
そして、その日最大の発見は、地質学分析チームからもたらされた。
彼らが分析していたのは、調査団が帰り道に何気なく拾ってきた、ただの何の変哲もない石ころだった。
「……おい」
チームリーダーである初老の物理学者が、分析結果のデータが映し出されたモニターを、震える指で指さした。
「おい、おいおい…! この元素…なんだ、これは!? 周期表のどこにも、存在しないぞ!!」
質量分析計が、未知のスペクトルを示していた。
それは、人類がこれまで発見したことのない、全く新しい未知の安定元素が存在する、動かぬ証拠だった。
「すごいぞ…! この元素は、常温で極めて安定したエネルギー状態を保ち続けている! これは、使える! 次世代のバッテリーどころじゃない! エネルギー革命が、起きるぞ!!」
物理学者は、子供のように目を輝かせた。
「もっとだ! もっと、この石が、この資料が必要だ! この元素が、どれだけあの世界に埋蔵されているのか、調べなければ!」
彼は、興奮のあまり解析室を飛び出すと、小此木たちが報告会議を行っている作戦本部室の扉を、勢いよく開け放った。
「小此木さん! 次回の探索には、俺も同行するぞ!」
その、普段は冷静沈着な老学者の、あまりにも気迫に満ちたその一言。
それが、この異世界というパンドラの箱が、人類にとってどれほど魅力的で、そしてどれほど危険な「宝」であるかを、雄弁に物語っていた。
科学者たちの純粋な探究心は、今、国家の軍事的な、経済的な野心と結びつこうとしていた。
その先に、どんな未来が待っているのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。