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第13話

 その日、富士の樹海にほど近い広大な演習地の中心は、この世のものとは思えないほどの静寂と、極限の緊張に支配されていた。

 一ヶ月という、あまりにも短い準備期間。その中で、日米両政府は文字通り国家の総力を挙げて、この瞬間のために備えてきた。

 第一次異世界調査団、コードネーム『チーム・フロンティア』。

 人類の新たな歴史の扉を開く、三十名の精鋭たち。彼らは、コンクリートで舗装された巨大な円形の広場の中心で、その「時」を固唾を飲んで待っていた。


 チームの総責任者である日本の外交官、小此木おこのぎは、何度も腕時計に目を落とした。彼の額には、秋の涼しい空気とは不釣り合いな脂汗が滲んでいる。隣に立つ米軍のデイヴィス大佐は、まるで石像のように微動だにしない。彼の背後に控える日米合同の特殊部隊員たちも、同様だった。彼らこそ、例の「力」を付与された人類初の超人兵士たち。その瞳には、恐怖も興奮も浮かんでいない。ただ、これから始まる任務を淡々と遂行しようという、鋼の意思だけが宿っていた。


 後方では、科学者チームが最終的な機材のチェックに追われていた。未知の植物、鉱物、大気、その全てを分析し、サンプルとして持ち帰るための最新鋭の観測機器。それらは、この日のために国家予算を度外視して開発された、ワンオフの特注品ばかりだ。

 そして、その科学者たちに交じって、場違いな私服姿の民間人アドバイザーたちの姿もあった。


「……信じられない。本当に、この日が来ちまった」

 ライトノベル作家の沢渡恭平は、もう何本目になるか分からない煙草を、震える指で口に咥えた。彼の隣で、なろう作家の月城るなは目をキラキラと輝かせ、まるで自作の小説の登場人物になったかのように、その場の空気を楽しんでいる。


「沢渡先生、緊張してます?」

「当たり前だろ! これから俺たちは、異世界に行くんだぞ!? 俺がここ数年、死ぬほど書いてきたあの陳腐な舞台にだ! 下手すりゃ、ドラゴンに食われて死ぬかもしれんのだぞ!」

「大丈夫ですよ。デイヴィス大佐たちが、守ってくれますって」

 月城は、こともなげに言って、屈強な兵士たちに憧れの眼差しを向けた。


 そんなそれぞれの思いが交錯する中、約束の時刻、午前九時きっかり。

 小此木が、息を呑んだ。

「……来たか」


 広場の中心、何もない空間に、小さな光の点が一つ生まれた。

 それは最初は、カメラのレンズフレアのような頼りない光だった。だが次の瞬間、その光は凄まじい速度で、しかし音もなく、その形を成していく。

 光が、美しい幾何学模様を描きながら集束し、絡み合い、一つの巨大な「扉」の形を構築していく。それは、どんな教会のステンドグラスよりも荘厳で、どんな芸術作品よりも神秘的な光景だった。

 やがて光が収まった時。

 そこには、高さ五メートル、幅三メートルはあろうかという、白銀に輝く壮麗な門が、音もなくそびえ立っていた。


『異世界への扉』。

 それは、暴力的な空間の裂け目などではなかった。

 むしろ、見る者を優しく誘うかのような、神々しいまでの美しさを湛えていた。


「……では、行きましょうか」

 小此木は、覚悟を決めた声で言った。

 彼は、日本の、そしてアメリカの、いや全人類の代表として、この一歩を踏み出すのだ。


「全隊、続け! 我々が、人類の新しい歴史を作る!」

 デイヴィス大佐が、力強く号令をかける。

 小此木を先頭に、デイヴィス大佐、そして科学者、作家、兵士たちが一列になって、その光り輝く扉へと足を踏み入れていく。


 扉をくぐる瞬間、誰もが奇妙な感覚に襲われた。

 一瞬の浮遊感。

 万華鏡のように、色とりどりの光が視界を駆け巡る。

 そして、全ての音が消える。

 数秒にも、数分にも感じられる不思議な時間の後。

 彼らの足は、確かな「地面」の感触を捉えた。


「…………ここが」


 誰かが、呟いた。

 目の前に広がっていたのは、彼らが今まで見たこともない雄大な、そしてどこまでも続くかのような深い森だった。

 空には、見たこともない淡い紫色の太陽と、それよりも少し小さなオレンジ色の太陽が、二つ並んで輝いている。空気はどこまでも澄み渡り、濃密な植物の匂いと、嗅いだことのない甘い花の香りが、肺を満たした。

 地球とは、明らかに異なる生態系。異なる物理法則。

 彼らは、確かに異世界『アステルガルド』へと到達したのだ。


 そして彼らの目の前。

 苔むした巨大な岩の上に、一人の少女が腰掛けていた。

 あのゴシック・ロリータ姿の、神の使者。

 まるでピクニックにでも来たかのように、楽しそうに足をぶらぶらさせながら、彼女は呆然と立ち尽くす調査団の面々を出迎えた。


「ようこそ、チーム・フロンティア。待ちくたびれたわよ」


 そのあまりにも軽い口調に、小此木は眩暈さえ覚えた。


「さて、長居は無用よ。早速、あなたたちに最初のギフトをあげるわ」

 少女はそう言うと、ぱちんと指を鳴らした。

 その瞬間、調査団のメンバー全員の頭の中に、直接膨大な情報が流れ込んできた。それは痛みではなく、むしろ、知らない言語の文法体系が一瞬で脳にインストールされるような、不思議な感覚だった。


「とりあえず、翻訳スキルをみんなに与えたわ。これで、この世界の住人とは普通に会話ができるはずよ。思考レベルで翻訳されるから、細かいニュアンスもたぶん大丈夫」


 その言葉を証明するかのように、周囲の森から聞こえてくる奇妙な鳥のさえずりが、意味のある「歌」として彼らの耳に届き始めた。


「さてと」と、少女は岩からぴょんと飛び降りた。「基本的な情報は、与えておくわね」

 彼女は、森の特定の方角を指さした。

「あの方向に一キロほど行けば、最初の街があるわ。城壁に囲まれた、そこそこ大きな街よ。あなたたちの最初の交渉相手としては、ちょうどいいんじゃないかしら」

 そして、彼女は天を仰いだ。

「ざっとこの惑星をスキャンしてみたけど、なかなか豊富な資源が眠っている、いいところみたいね。あなたたちが好きな金や銀も、たくさんあるわ。あと、この星の大気には、『アステル』とか呼ばれてる特殊なエネルギー粒子が満ちている。魔法もあるみたいよ、魔法が」


 その言葉に、月城るなと沢渡恭平が、ひときわ大きく息を呑んだ。

 魔法。

 彼らが空想の世界で描き続けてきたものが、今、現実のものとしてすぐそこにある。


「じゃあ、そういうわけだから」

 少女は、まるで全ての仕事が終わったとばかりに、パンパンとドレスについた埃を払う仕草をした。


「私はここに待機して、ベースキャンプを設営するわ。あなたたちがいつでも安全に帰ってこられる拠点を、作っておいてあげる。あとは、チーム・フロンティアで好きにやって頂戴。街に行って交渉するもよし。この森を調査するもよし。全て、あなたたちに任せるわ」


「えっ」と、小此木が思わず声を上げた。「あ、あなたは我々と一緒には…?」


「行くわけないじゃない」

 少女は、心底面倒くさそうに言った。

「私は、あなたたちみたいに泥の中を歩き回るのはごめんだわ。それに、私はこれから結構忙しくなるのよ」


「じゃあ、私は忙しいから、またね」


 そのあまりにも無責任な言葉を最後に、少女は調査団にくるりと背を向けた。

 その姿は、もう彼らのことなど一切意に介してはいなかった。


「えー……」


 後に残された、三十名の精鋭たち。

 神に見放されたというよりは、飼い主に「あとは好きに遊んでなさい」と広大なドッグランに放たれたペットのような心境だった。

 数秒の、呆然とした沈黙。

 それを破ったのは、デイヴィス大佐の現実的な声だった。


「……オコノギ殿。指示を」


「あ、ああ…」

 小此木は、はっと我に返ると、大きく咳払いをした。

 そうだ、自分はこのチームの責任者なのだ。神がいかに気まぐれであろうと、任務を遂行しなければならない。


「よろしい。ではこれより、我々は第一次接触計画を実行に移す。全隊、隊列を組め。これより、指定された座標にある街へと向かう」

 彼の声には、いつもの外交官としての冷静さが戻っていた。


「我々は武装しているが、あくまで遠方から来た『商人の一団』という形に偽装する。武器は最低限の自衛用として、決してこちらから威嚇するような行動は取るな。いいね?」


 兵士たちが、無言で頷く。彼らは最新鋭のアサルトライフルをマントの下に隠し、背中には、大きな交易品が入っているかのように偽装されたバックパックを背負った。


「科学者チームとアドバイザーチームは、我々が護衛する。道中、危険を感じたら、すぐに私の指示に従うこと」

 小此木は、沢渡たちの顔を見た。「そして、街に到着したら、まずは友好関係を築くことを最優先とする。我々が持ち込んだ『商品』の中から、彼らの興味を惹きそうなものを慎重に選別し、接触を図る」


「了解しました」


「よし。では、歩きになるが行こう。人類の、新しい一歩だ」

 小此木のその言葉を合図に、チーム・フロンティアは未知なる森へと、その第一歩を踏み出した。


 彼らの背中が、深い森の中へと消えていくのを見届けた後。

 一人その場に残ったゴスロリ姿の少女――橘栞の分身は、ふーっとわざとらしくため息をついた。


「さて、行ったわね」


 彼女は、両腕をぐーっと上に伸ばした。


「ベースキャンプを、設営するわよー」


 その、どこか気の抜けた独り言。

 次の瞬間、彼女の周囲で、世界がその姿を変え始めた。


「とりあえず、地面を平らにするわ」


 彼女がそう呟くと、彼女が立つ半径五百メートルほどの地面が、まるで意思を持ったかのように動き始めた。

 地面が、ごごごと地響きを立てて隆起し、沈降し、その凹凸を自ら修正していく。


「石も、邪魔ね。どけるわよ」


 森の中に点在していた巨大な岩石が、音もなく宙に浮き上がった。そして、まるで見えない巨人の手によって積み上げられるかのように、広場の隅に綺麗に、そして寸分の狂いもなく積み重ねられていく。

 数分後。

 そこには、フットボールスタディアム数個分はあろうかという、完璧な円形の、そして鏡のように平らな巨大なプラットフォームが完成していた。


 少女は、満足げにその光景を眺めた。

 これは、彼女が持つほんの力の序の口。

 これから彼女は、この場所に地球とこの世界を繋ぐ巨大な恒久基地を、たった一人で、そしておそらくは数時間のうちに建設するのだ。

 その神の如き土木作業の壮大なスケールを、今、森の中を緊張した面持ちで歩いているチーム・フロンティアのメンバーたちは、まだ知る由もなかった。

 彼らの、そして人類の、長く、そして奇妙な異世界との付き合いは、今、まさに始まったばかりだった。

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