第116話
夕食の時間は、この数ヶ月でその様相を大きく変えていた。
タケルの家の食卓。そこはかつて、父親の仕事の愚痴やテレビのニュースに対する他愛のない感想が飛び交う、ごく平凡な昭和的、あるいは平成的な団欒の場だった。だが「ダンジョン・エイジ」の到来は、この小さな食卓の風景さえも一変させていた。
テーブルの中央に鎮座しているのは、これまでは誕生日やボーナス日にしかお目にかかれなかったような、霜降りの国産黒毛和牛を使ったすき焼きである。湯気と共に立ち上る甘辛い割り下の香りが、蛍光灯に照らされた居間を包み込んでいる。
だが、その贅沢な食事以上に変わったのは、家族の会話の中身、そして親子間の力関係の微妙な変化だった。
父親はビール(発泡酒ではなく本物のビールだ)を一口飲み、少しだけ緊張した面持ちで向かいに座る高校生の息子に問いかけた。
「……タケル。最近のダンジョン探索はどうだ? 順調か?」
箸を動かしながら、タケルは屈託のない笑顔で答える。
「うん、順調だよ父さん。今日は放課後の三時間だけだったけど、F級の深層エリアまで行ってきた。ゴブリンの群れもだいぶ湧きパターンが読めてきたし、魔石のドロップ率も悪くなかったよ」
専門用語が混じる息子の言葉に、父親は少しだけ眩しそうな目を向ける。半年間必死に勉強して、良い大学に入り、安定した企業に就職することこそが正解だと信じて生きてきた自分。その価値観が目の前の息子によって、軽々としかし鮮やかに飛び越えられていく感覚。
「そうか、それは何よりだ。……怪我はないか?」
「ないよ。この前買った『F級・鉄の胸当て』が優秀でさ。一回バックアタック食らったけど、無傷だった」
「そうか……」
父親は安堵の息をつくと、少し躊躇いながら、しかし親として聞かねばならないことを口にした。
「……それで、その貯金はしてるのか? お前が稼いでいる額が尋常じゃないことは知っているが、あぶく銭というのは身につかないものだぞ」
タケルは牛肉を卵に絡めながら、こともなげに言った。
「してるよ。ちゃんと専用の口座に分けてある。それに家にもお金入れてるよ」
その言葉に、台所から追加の野菜を持ってきた母親が、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ? タケル、本当なの?」
「うん。昨日の夜、母さんの口座に振り込んでおいたよ。確認してみて」
母親は慌ててエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、銀行アプリを起動した。画面を見た瞬間、彼女の目が点になる。
「……じゅうごまん……?」
彼女は震える声で数字を読み上げた。
「タケル、これ……お父さんのお小遣いの三倍以上じゃない!」
「まあ、今月の稼ぎが良かったからさ。食費とか光熱費の足しにしてよ。いつも美味しいご飯作ってくれてるし」
高校生の息子が、サラリーマンの月収に匹敵する金額の一部を家計の足しにとポンと渡す。その現実に父親はビールを喉に詰まらせそうになった。プライドがないわけではない。だがそれ以上に、この世界の激変ぶりに対する呆れと、そして息子の成長への驚きが勝っていた。
だが母親の反応は違った。彼女はスマホをテーブルに置くと、真剣な顔で息子に向き直った。
「タケル! あんたねえ!」
「え、なに? 少なかった?」
「違うわよ! 逆よ! お金稼げるからって家に金入れるくらいなら、自分の装備を買いなさい!」
彼女の声には、母親としての切実な響きがあった。
「ニュースで見たわよ。装備の善し悪しが生死を分けるんでしょう? 少しでも良い鎧、少しでも良い盾、それを買うために使いなさい。家のお金なんて心配しなくていいの。お父さんもお母さんも、まだ働けるんだから」
父親も深く頷いた。
「母さんの言う通りだ、タケル。俺たちのことはいい。それよりも装備をケチって万が一のことがあったら……俺たちは一生後悔する。金で命が買える世界になったのなら、迷わず命を買え」
二人の真剣な眼差しに、タケルは少し照れくさそうに頭をかいた。
「……ゴブリンごときで死なないよ。俺もう、レベルも上がってるし」
「油断大敵だ!」と父親が語気を強める。「プロ野球選手だって、道具の手入れを怠れば怪我をするんだぞ」
「分かってるって」
タケルは苦笑しながら両手を広げてみせた。
「大丈夫だってば。装備だけじゃないんだよ、強さって。ダンジョンには『ステータス』っていう概念があってさ、自分の能力値が見えるんだ」
「ステータス?」
父親が身を乗り出す。ゲーム用語には疎い彼だが、この新しい世界のルールを知ろうとする意欲は旺盛だった。
「うん。自分の視界にウィンドウが出てくるんだよ。そこに『筋力(STR)』『俊敏(AGI)』『知性(INT)』『幸運(LUK)』っていう数値が並んでてね。レベルアップするとポイントが貰えて、それを好きな能力に割り振れるんだ」
タケルは、まるで最新のガジェットの機能を説明するかのように、熱っぽく語り始めた。
「俺は前衛職だから、主に『筋力』にステータスを振ってるんだ。そうするとね、ただ力が強くなるだけじゃなくて、身体の頑丈さというか、基礎体力そのものが増えるんだよ」
「体力が……増える?」
「そう。一日中ダンジョンに潜って、剣を振り回してても全然息が切れないんだ。重い鎧を着てても、Tシャツ一枚みたいに軽く感じる。今の俺なら、フルマラソン走った直後に100メートルダッシュできる自信があるよ。まさに『疲れ知らず』って感じ」
その言葉を聞いた瞬間、父親の箸がピタリと止まった。
彼の目には、羨望という言葉では生温い、切実な渇望の色が浮かんでいた。
「ほー……。それは……凄いな……」
父親は無意識のうちに、自分の肩や腰をさすった。長年のデスクワークと通勤ラッシュ、そして加齢による慢性的な疲労。休日にどれだけ寝ても取れない鉛のような重み。
「肉体労働だと……いや、我々のようなサラリーマンにとっても、喉から手が出るほど欲しい能力だ。俺ももう歳だし、体力も昔より落ちたしな……。階段を登るだけで息が切れる。その『疲れ知らず』の肉体が手に入るなら、全財産をはたいても惜しくはないかもしれん」
父親のしみじみとした呟きに、タケルはニカっと笑った。
「そうだよ父さん! だから最近は、サラリーマンの人もぽつぽつ増えてきたんだよ」
「サラリーマンが? ダンジョンにか?」
「うん。夕方の5時過ぎぐらいからかな。スーツ姿に簡易的な胸当てだけつけた探索者が、渋谷のゲート前に増えてくるんだ。みんな仕事帰りに一汗かきに来てるんだよ」
タケルはダンジョン内で見かけた「企業戦士」たちの姿を描写した。
「最初は小遣い稼ぎかと思ったけど、それだけじゃないみたい。みんな口を揃えて言うんだ。『ここで筋力伸ばして体力つけないと明日のプレゼン乗り切れない』とか、『最近腰痛が酷いからレベル上げて治しに来た』とかさ」
「……なるほど」
父親は深く感心したように頷いた。
「ジムに通う感覚で、ダンジョンで生命力そのものを底上げするわけか。……理に適っているな。サプリメントを飲むより、よっぽど根本的な解決になる」
「それにね」とタケルは続けた。
「ステータスは筋力だけじゃないんだ。例えば『俊敏』を伸ばすと、反射神経が良くなって、相手の動きがスローモーションみたいにくっきり分かるようになる。通勤ラッシュの人混みを避けるのも上手くなるかもね」
「ほう、動体視力か」
「あと父さんが一番気になりそうなのが、『知性』だよ。これを伸ばすと、頭の回転が速くなったり、記憶力が上がったり、新しい発想がポンポン浮かぶようになるらしいんだ」
「知性……!」
父親の目がさらに大きく見開かれた。記憶力の低下、新しい技術への適応の遅れ、会議での咄嗟の判断力。中高年のビジネスマンが抱える悩みの全てを解決する魔法の言葉。
「俺は戦士系だから体感してないけど、魔法使いタイプの探索者が言ってた。『計算式が映像で見えるようになった』とか『分厚い本の内容を一回読んだだけで全部暗記できた』とか」
タケルはすき焼きの豆腐を頬張りながら言った。
「月島さんが言ってたよ。『これからは経営者や頭脳労働者が、金のためじゃなく自らの脳のスペックを拡張するために、知性を伸ばしにダンジョンへ潜る時代が来る』って」
「月島さん……?」
母親が聞き慣れない名前に首を傾げた。
「誰なの、その人は? タケルがよく口にするけど」
「ああ、月読ギルドのギルドマスターだよ。月島蓮さん」
タケルの声に、尊敬の色が混じる。
「貯金もしろ、家に金も入れろって言ったのも、全部月島さんに言われたからなんだ。『力を持つ者ほど足元を固めろ。家族を大事にしない奴はダンジョンでも仲間を守れない』って」
「……立派な方だな」
父親が感心したように言った。
「今の若いYouTuberみたいな派手なだけの連中とは違うようだ」
「うん。元々は凄腕の経営者だったらしいよ? IT企業の社長とかやってたけど、ダンジョンの時代が来ると察知して、会社を売却して仕事を辞めたんだって。今のギルドの幹部も、当時の元部下たちがそのまま付いてきて、一緒に立ち上げたとか言ってたよ」
「経営者が全てを捨ててダンジョンへ……」
父親はその決断の重さと先見の明に舌を巻いた。
「なるほど、だから組織運営がしっかりしているのか。ただの荒くれ者の集まりではないのだな」
「そうそう。だから月読ギルドの講習会は、戦闘訓練だけじゃなくて、税金講座とか資産運用セミナーとかもあるんだよ」
「資産運用?」
母親が目を丸くした。
「ダンジョンのギルドで?」
「うん。月島さんがよく言うんだ。『探索者は宵越しの金を持たないなんて古い考えだ。稼いだ金は死に金にするな。次の装備に投資するか、あるいは資産に変えて守れ』って」
タケルは少し照れくさそうに言った。
「だから俺、貯金して……フェラーリ買おうかなって一瞬思ったんだけど」
「フェラーリ!?」
父親がビールを吹き出しそうになった。
「なんでまたフェラーリなんだ? お前、免許も持ってないだろう」
「いや駐車場はウチ空きあるから置けるけど……」と母親が、妙に現実的な反応をする。
「いやー、なんとなく? 金持ちの象徴って感じじゃん? でも月島さんに相談したら笑われてさ。『車は維持費がかかるだけの負債だ。買うなら価値の落ちないものを買え』って」
「そりゃそうだろう」と父親が苦笑する。
「で、高級時計は資産になるからお得らしいよって教えてもらったんだけど……。ロレックスとかパテック・フィリップとか。買った値段より高く売れることもあるんだって」
「投資としての時計か。確かに最近はそういう現物資産が人気らしいな」
「でもさー」
タケルは興味なさそうに肩をすくめた。
「俺、時計とか興味ねぇし。スマホで時間見れるじゃん。腕に重いのつけると、剣振るのに邪魔だし」
彼はふと、父親の腕にある長年使い古した国産の腕時計に目を留めた。ベルトは擦り切れ、ガラスには無数の細かい傷が入っている。家族のために何十年も働き続けてきた父親の時間の証。
「……そうだ。親父は高級時計欲しい?」
タケルは唐突に言った。
「俺が買ってあげるよ。ロレックスでも何でも。退職祝いの前倒しってことでさ」
その言葉に、食卓が一瞬静まり返った。
高校生の息子が父親に、数百万円の時計を買うと提案している。数ヶ月前なら冗談で済まされた会話が、今は圧倒的な「現実味」を持って響いていた。
父親は自分の腕時計をそっと撫でた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや、いいよ。気持ちだけで十分だ」
「え、遠慮しなくていいのに。今の俺なら一週間も潜れば……」
「金の問題じゃないんだ」
父親は穏やかに微笑んだ。
「高級時計は今の俺には分不相応だし、職場に着けていっても浮くだけだ。それにこの時計には愛着もある」
彼はビールを飲み干し、少しだけ遠くを見るような目をした。
「それより……もしお前がその稼ぎを使ってくれるなら、モノよりも家族で旅行のほうが良いかな」
「旅行?」
タケルと母親が同時に声を上げた。
「ああ。最近ずっと忙しくて、どこにも連れて行ってやれなかったからな。お前がダンジョンで頑張っている間に、俺たちも少しは息抜きがしたい」
父親は少し照れくさそうに続けた。
「美味しいものを食べて、温泉に浸かって、ゆっくり話がしたい。そういう時間の方が、時計よりもずっと価値がある気がするんだ」
その言葉に、タケルの顔がぱあっと輝いた。
「良いなそれ! 俺も行きたい! 京都とか北海道とか!」
「あら、いいわねえ」と母親も乗り気だ。
「北海道でカニとか食べたいわ。京都の紅葉も見てみたいし」
「行こうよ! 今度の日曜とかどう?」
タケルが身を乗り出す。
「ゲートがあるからすぐだし!」
「ゲートか……」
父親が感慨深げに呟いた。
「本当に便利な世の中になったもんだ。父さんの職場でも、最近はゲートでの旅行ブームなんだよ。金曜の仕事終わりに東京のゲートをくぐって博多でモツ鍋を食べて一泊。土曜は札幌でラーメン食べて、日曜の夜に帰ってくる。そんな滅茶苦茶なスケジュールを毎週のようにこなしてる同僚もいるらしいぞ」
「へえ、すごいね! 日本全国制覇とかできそう」
「ああ、実際に『ゲート全駅制覇スタンプラリー』なんてのをやってる人もいるらしい。移動時間がゼロになるってことは、日本がご近所になるってことだからな」
食卓の空気が一気に華やいだ。
ダンジョンの危険やお金の生々しい話から離れ、純粋な「楽しみ」としての未来の話題。
「じゃあ決めようか」
タケルがスマホを取り出し、ゲートの運行情報をチェックし始めた。
「来週の週末、父さんの休みが取れたら、まずは北海道に行こう。美味しい寿司屋、俺が予約しとくよ。もちろん全部、俺の奢りで!」
「太っ腹ねえ、我が家の探索者様は」
母親が笑いながら、タケルの皿に肉を追加した。
「じゃあお母さんは、ガイドブック買ってくるわね」
「俺は……そうだな。体力をつけておかんとな」
父親が自分の腹をさすった。
「北海道で歩き回って、お前に置いていかれないようにしないと」
笑い声が居間に響く。
窓の外にはネオンきらめく東京の夜景が広がっている。その光のどこかには、今もダンジョンで命を削って戦う人々がいる。政治家たちが頭を抱え、世界が激動している。
だが今この瞬間、この食卓にあるのは、確かに「幸福」と呼ばれるものだった。
かつてのようなささやかな幸せではない。強大な力と富と、そしてテクノロジーによってアップデートされた新しい時代の、少しだけ豪華で、そして力強い家族の団欒。
「……よし、明日も頑張って稼ぐぞ」
タケルは最後の肉を口に放り込みながら、心の中で誓った。
フェラーリのためでも、時計のためでもない。
この笑顔を守るために。そして、家族と共に新しい世界を見るために。
剣を振るう理由が、彼の中で明確な形を持った夜だった。
そして父親もまた、息子の逞しくなった背中を見ながら、密かに決意していた。
(……次の週末、こっそり初心者向けのステータスアップ講習会に行ってみるか。息子の足手まといにはなりたくないからな……)
ダンジョン・エイジの日常は、こうしてそれぞれの家庭の中で、静かにしかし確実に根を下ろし始めていた。




