番外編 断章5話
ペンシルベニア州西部。
かつて「鉄の都」と呼ばれたピッツバーグは、今や錆と血と、そして異形の怪物たちが支配する、死の迷宮と化していた。
空を覆うのは工場の排煙ではなく、淀んだ灰色の雲。
三つの川が合流するこの要衝は、橋が落ち、ビルが崩れ、かつての繁栄の面影は瓦礫の下に埋もれている。
その廃墟の街を貫くインターステート・ハイウェイを、異様な車列が西へと疾走していた。
先頭を行くのは、装甲を強化されたハンヴィー。
続いて、荷台に巨大な重機関銃を据え付けたテクニカル(武装トラック)。
そして、その中心には、この世界には存在するはずのない新品同然の輝きを放つ、主力戦車M1エイブラムスが、キャタピラ音を響かせて進んでいた。
車体には、白文字で『NOAH'S ARK(ノアの方舟)』のエンブレム。
フィラデルフィアの要塞都市から派遣された、ミラー率いる「回収・救済遠征部隊」である。
「――ボス。目標地点まであと5キロ。偵察ドローンからの映像が入りました」
助手席に座る副官が、タブレット(KAMI製でバッテリー切れ知らずだ)をミラーに差し出す。
ミラーはサングラスを外し、画面を覗き込んだ。
映像は、ピッツバーグ郊外にある巨大な製鉄所跡地を上空から捉えていた。
広大な敷地。
高いフェンスとバリケードで囲まれた一角に、生存者たちの反応がある。
煙突からは細い煙が上がっており、人が生きている証拠だ。
だが、その周囲を取り囲む「影」の数が、尋常ではなかった。
「……おいおい、こりゃ酷いな」
ミラーは渋い顔をした。
「包囲されているな。それも、ただのゾンビじゃない」
画面に映るのは、通常のゾンビよりも二回りは巨大な、肥大化した筋肉を持つ怪物たち。
ミュータントだ。
皮膚は爬虫類のように硬化し、中には廃材の鉄板やコンクリート片を体表に取り込み、天然の鎧を纏っている個体もいる。
それらが数百体、製鉄所のゲートに群がり、その怪力でバリケードをこじ開けようとしていた。
「現地の生存者からのSOS信号、途切れました。弾薬が尽きたか、あるいは……」
「まだ全滅はしていない。煙が見える」
ミラーは無線機を掴んだ。
「全車、戦闘態勢! これより『ピッツバーグ製鉄所救出作戦』を開始する!
相手はミュータントだ。通常のゾンビとは違うぞ。
KAMI様が直々にエンチャント(強化)してくださった『魔法弾薬』を惜しむな!
奴らに、文明の力を見せてやれ!」
『了解!』
『ヒャッハー! 試し撃ちの時間だぜ!』
無線から、部下たちの好戦的な声が返ってくる。
かつては怯えて逃げ回るだけだった彼らが、今や圧倒的な火力を背に、狩人の顔をしている。
「行くぞ! 突撃ッ!!」
製鉄所跡地、中央管理棟。
そこは、地獄の釜の底だった。
「くそっ! 西側のバリケードが破られそうだ! 誰か鉄骨を持ってこい!」
「弾がない! もう一発も残ってねえぞ!」
「あいつら、なんで死なねえんだよ! 頭に当てても弾きやがる!」
コミュニティのリーダー、ギャレットは、血と油にまみれた顔で絶叫していた。
彼ら「鉄の民」と呼ばれる生存者集団は、この製鉄所の堅牢な設備を利用し、独自の武器を鍛造して5年間を生き抜いてきた、タフな連中だ。
だが、その彼らでさえ、今回の襲撃は絶望的だった。
集まってきたミュータントの数が多すぎる上に、硬すぎる。
手製の銃やクロスボウでは、奴らの硬化した皮膚を貫けない。
ガガンッ! ガガガッ!
工場のシャッターが、外からの衝撃でひしゃげる。
隙間から、巨大な緑色の腕がねじ込まれ、鋼鉄の扉を紙くずのように引き裂いていく。
「グオオオオオオッ!!」
裂け目から覗く、充血した巨大な眼球。
変異体『ジャガーノート』だ。
「……ここまでか」
ギャレットは、手にした最後の火炎瓶を握りしめた。
後ろには、女子供を含む二百人の仲間がいる。彼らを逃がす道はない。
「野郎ども! 最期まで足掻くぞ! 道連れにしてやる!」
「おおおっ!!」
男たちが鉄パイプやハンマーを構え、玉砕覚悟の突撃をしようとした、その時だった。
ドォォォォォン!!
耳をつんざく爆音と共に、工場の外壁の一部が吹き飛んだ。
いや、吹き飛んだのは壁ではない。
壁に群がっていたミュータントの群れが、まとめて吹き飛ばされたのだ。
「な、なんだ!?」
粉塵の向こうから聞こえてきたのは、怪物の咆哮ではない。
もっと無機質で、もっと凶悪な、機械の回転音だった。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥン!!!
それは、電気モーターが高速回転し、一分間に数千発の弾丸を吐き出す、死の旋律。
ミニガン(M134ガトリングガン)の掃射音だ。
「――目標確認! 射線上の敵性体を排除する!」
工場の外周道路に、砂煙を上げてテクニカル部隊が突入してくる。
荷台に据えられたガトリングガンが、火を吹く。
だが、そのマズルフラッシュは通常の色ではない。
赤く、青く、あるいは紫色に明滅する、魔力を帯びた閃光。
KAMI謹製『対変異体特攻・爆裂徹甲弾』。
物理的な貫通力に加え、着弾と同時に小規模な爆発を引き起こす魔法効果が付与された、対ミュータント専用弾薬だ。
「ギャアアッ!?」
これまで彼らの銃弾を豆鉄砲のように弾き返していたミュータントたちが、次々と挽肉に変えられていく。
硬化した皮膚など意味をなさない。
魔法の弾丸は装甲を豆腐のように貫き、内部で炸裂し、怪物の巨体を内側から破裂させる。
「ヒャハハハ! 見ろよこの威力! 最高だぜKAMI様!」
機銃手たちが狂喜の声を上げながら、トリガーを引き続ける。
曳光弾の雨が、製鉄所前広場を、死のダンスフロアへと変えていく。
そして、とどめとばかりに、地響きと共に「主役」が現れた。
ズドドォン!!
戦車砲が火を吹く。
製鉄所の正門を塞いでいた巨大なジャガーノートの上半身が、一撃で消し飛んだ。
「……戦車……だと……?」
ギャレットは、開いた口が塞がらなかった。
圧倒的だった。
彼らが数日かけても倒せなかった怪物の群れが、わずか数分で、文字通り「掃除」されていく。
それは戦闘ではなかった。一方的な駆除作業だった。
銃声が止み、硝煙の匂いが風に流される頃。
製鉄所の広場は、ミュータントの死骸の山となっていた。
その中心に、ミラーの車列が威風堂々と停車する。
武装した兵士たちが車両から降り立ち、素早い動きで周囲を警戒する。
その装備は、ギャレットたちが映画の中でしか見たことのない、完全な軍用装備だった。
清潔な迷彩服、最新のアサルトライフル、そして何より、彼らの顔色が良い。
飢えを知らない者の顔だ。
「……生存者の代表はいるか!」
拡声器を持った兵士が呼びかける。
ギャレットは、震える足で瓦礫の陰から歩み出た。
警戒心がないわけではない。
だが、相手がその気になれば、自分たちなど瞬きする間に皆殺しにできることは明白だった。
「……俺だ。ここのリーダー、ギャレットだ」
彼は両手を上げて、敵意がないことを示した。
「助けてくれたことには感謝する。だが、あんたたちは何者だ? 軍の生き残りか?」
ハンヴィーのドアが開き、ミラーが降り立った。
彼はサングラスを外し、ギャレットの目をまっすぐに見据えた。
「俺はミラー。かつては合衆国陸軍の大佐だったが、今は『ノアズ・アーク』の警備責任者だ」
ミラーは右手を差し出した。
「我々はフィラデルフィアから来た。生存者を救助し、交易路を開拓するために」
「フィラデルフィアだと? そんな遠くから……」
ギャレットは、差し出された手を握り返した。
ミラーの手は力強く、そして温かかった。
「状況は見ての通りだ。酷い有様だったな」
ミラーは周囲の惨状を見回した。
「怪我人は?」
「多数だ。食料も、水も、薬も……全てが尽きている」
「なら、話は早い」
ミラーは部下たちに合図を送った。
「救援物資を展開しろ! 医療班は前へ! 重傷者から順に手当てをしろ!」
トラックの荷台が開かれる。
そこから運び出されたものを見て、製鉄所の生存者たちは息を呑んだ。
積み上げられた段ボール箱。透明なポリタンク。
箱が開けられると、中から現れたのは、真空パックされたパン、ハム、チーズ、そして新鮮な果物。
ポリタンクには、クリスタルのように澄んだ水がなみなみと入っている。
「……水だ。透き通ってる……」
「パンだ! 柔らかいパンだぞ!」
「リンゴがある! 本物のリンゴだ!」
子供たちが歓声を上げて駆け寄る。
大人たちも、涙を流しながらその場に崩れ落ちる。
それは、彼らが5年間、夢にまで見た「文明」そのものだった。
「……これを、我々に?」
ギャレットの声が震えた。
「ああ。とりあえずの救援物資だ。代金はいらん、まずは腹を満たせ」
ミラーは、ペットボトルの水をギャレットに手渡した。
「冷えてるぞ。冷蔵庫から出したばかりだ」
「冷蔵庫……」
ギャレットは、その冷たいボトルを頬に当て、現実であることを確かめた。
キャップを開け、一気に飲み干す。
五臓六腑に染み渡る、清潔な水の味。
泥の味もしない、鉄の味もしない。
ただ純粋な、命の水。
「……あんたたちは、天国から来たのか?」
「似たようなもんだ」
ミラーは苦笑した。
「『神』がいる場所から来たんだよ」
その日から数日間、ミラーの部隊は製鉄所に駐留した。
目的は、周辺地域の完全な掃討と、生存者たちとの信頼関係の構築だ。
昼間は、ミラーの兵士たちが戦車と重火器を駆使して、製鉄所の地下や周辺の森に巣食うミュータントを、片っ端から狩り尽くした。
夜になれば、広場で焚き火を囲み、兵士と生存者たちが交流を持った。
「おいおい、マジかよ。フィラデルフィアじゃ、風呂に入れるって?」
「ああ。しかも毎日だ。シャンプーも使い放題だぞ」
「嘘だろ……。俺なんて、最後に体を洗ったのがいつか思い出せねえよ」
兵士たちが語る『ノアズ・アーク』の暮らしぶりは、生存者たちにとってお伽話のように聞こえた。
安全な城壁、無限の食料、電気、そして娯楽。
だが、彼らが持っている装備や、配給される物資の質を見れば、それが嘘ではないことは明らかだった。
「……で、その楽園に入る条件は何なんだ?」
ある夜、ギャレットがミラーに尋ねた。
「タダでこんな生活ができるわけがない。あんたたちは、何を求めてここまで来た?」
「取引さ」
ミラーは、焚き火に薪をくべながら答えた。
「我々のボス……KAMIという名の不思議な少女なんだがね。彼女は、あるものを集めている」
「あるもの?」
「貴金属だ。金、銀、プラチナ、宝石。
この世界じゃ何の役にも立たない、ただの光る石ころだ」
ミラーは、自分の腕につけた『アーク・ブレス』を見せた。
「このブレスが通貨代わりになる。
貴金属をコロニーに持ち込めば、その重量と純度に応じてポイントがチャージされる。
そのポイントで、食料も、水も、薬も、そして……」
彼は自分の持っている魔法で強化されたライフルを叩いた。
「こういう強力な武器や弾薬も、好きなだけ買えるんだ」
「……金と引き換えに、物資を?」
ギャレットは呆気にとられた。
「俺たちは、鉄くずを溶かしてナイフを作るために、命がけで資材を集めてきた。
だが、金塊なんて、重いだけで腹の足しにもならんから、見つけても捨てていたぞ」
「それが、これからは宝になる」
ミラーはニヤリと笑った。
「あんたたちのこの製鉄所。ここには、旧時代の工業用貴金属や、あるいは周辺都市から集められた宝飾品が山ほどあるんじゃないか?」
「……ああ。あるにはある。
かつての銀行の金庫をこじ開けて、中の書類を燃料にするために持ってきたが、金塊は邪魔だから倉庫の隅に放り込んである」
「それだ」
ミラーは指を差した。
「そのゴミの山が、あんたたちを救うチケットになる。
我々と手を組まないか、ギャレット。
あんたたちは、この地域で貴金属を回収し、我々に提供する。
我々は定期的にキャラバンを送り、それと引き換えに物資と弾薬、そして『安全』を提供する」
「……同盟、か」
ギャレットは、炎を見つめた。
「俺たちはここを離れる気はない。ここは俺たちの城だ。
だが、食料と弾薬の不安がなくなるなら……これほどありがたい話はない」
「それに」
ミラーは付け加えた。
「ここにある製鉄設備。これもKAMIは欲しがっている。
壊れた設備も、彼女の力なら直せるかもしれない。
そうすれば、ここは再び『鉄の都』として蘇る。
あんたたちは、ただの難民ではなく、生産拠点の主として、新しい世界の復興の一翼を担うことになるんだ」
復興。
その言葉の響きに、ギャレットの胸が熱くなった。
ただ生き延びるだけの日々ではない。未来を作る日々が、始まるかもしれない。
「……分かった」
ギャレットは、ミラーの手を固く握った。
「乗ろう、その話。
ピッツバーグ製鉄所コミュニティは、『ノアズ・アーク』との提携に同意する。
倉庫の金塊も、全部持っていってくれ。代わりに、たっぷり弾薬とビールを頼むぜ」
「交渉成立だ」
翌日。
製鉄所の倉庫から運び出されたのは、埃を被った金塊の山と、工業用プラチナのインゴット、そして無造作に袋詰めされたダイヤモンドの原石だった。
その総額は、旧時代の価値で言えば数億ドルにもなるだろう。
だが今の彼らにとっては、それよりもトラックから降ろされるコンテナの中身――新鮮な野菜、冷凍肉、医薬品、そして真新しい発電機――の方が、遥かに輝いて見えた。
「すげえ……。本当に交換してくれた……」
「これで冬を越せるぞ!」
「ママ! 見て、チョコレートだよ!」
歓喜に沸く人々を見ながら、ミラーは無線機を取り出した。
「こちらミラー。KAMI、聞こえるか?」
『ええ、聞こえてるわよ。映像も見てるわ』
ノイズ混じりの向こうから、少女の退屈そうな声が響く。
『随分と大量じゃない。これなら本体も喜ぶわね。
で? 製鉄所の方はどうなの?』
「設備はボロボロだが、基礎は生きている。
あんたの『修復スキル』と、エネルギーを使えば、稼働は可能だそうだ。
ここの連中は職人だ。道具さえあれば、戦車の装甲板だって作れると言っている」
『なるほどね。じゃあ、そこを第二の拠点にしましょうか』
KAMIの声が弾んだ。
『フィラデルフィアとピッツバーグ。この二つを繋げば、ペンシルベニア州は制圧したも同然ね。
ねえミラー、そこになんか線路とか残ってない?』
「線路? ……ああ、貨物用の鉄道跡ならあるが、とうに廃線だぞ」
『直すわよ』
KAMIはあっさりと言った。
『トラックでの輸送じゃ限界があるわ。
鉄道を復旧させて、物資と貴金属を大量輸送するの。
魔列車を走らせましょう。
ゾンビを轢き殺しながら走る装甲列車。素敵じゃない?』
「……魔列車、か」
ミラーは、呆れを通り越して感心した。
この神の辞書に「不可能」という文字はないらしい。
「了解だ。線路の確認をさせる」
「それと」
KAMIは続けた。
「その調子で、もっと西へ。もっと南へ。
噂を広めて、拠点を増やして、ネットワークを作るのよ。
アメリカ全土を、私の物流網で覆い尽くすまで、休ませないからね?」
「イエッ・マム。
地獄の果てまで付き合うと約束したからな」
ミラーは空を見上げた。
鉛色の雲の隙間から、一筋の陽光が差し込み、錆びついた製鉄所の煙突を照らしていた。
かつて死の象徴だったその場所は今、再生の狼煙を上げようとしていた。
「野郎ども! 出発の準備だ!」
ミラーは部下たちに号令をかけた。
「次の街が俺たちを待っている!
この国中のゴミ(お宝)を回収しに行くぞ!」
エンジンが唸りを上げ、車列が再び動き出す。
その背後には、手を振って見送るピッツバーグの人々の姿があった。
彼らの手には、希望という名の武器と食料が握られている。
人類の反撃は、点から線へ、そして面へと広がりつつあった。
その中心には、常に一人の気まぐれな女神と、その対価としての黄金があった。




