第12話
その日、東京市ヶ谷の防衛省庁舎の一室に、およそ一堂に会するはずのない、異色のメンバーが集められていた。
部屋の片側に座るのは、日米両政府から選抜された、政治家、官僚、そして軍の関係者たちだ。日本の官房長官である九条や、アメリカの国家安全保障担当補佐官といった、世界のパワーバランスを裏で動かす実力者たちが、厳しい表情で席に着いている。彼らの放つ張り詰めた空気は、それだけで室内の温度を数度下げているかのようだった。
そして、その向かい側。長テーブルの反対側に座らされているのは、彼らとは全く人種の異なる、十数名の民間人たちだった。
高名な歴史学者、文化人類学者、地質学者といった、それぞれの分野の権威たち。そこまでは、まだ理解できる。
だが、その中に、明らかに場違いな数名が混じっていた。
一人は、沢渡恭平。四十代半ばの、少し疲れた表情をした男性。彼の職業は、ライトノベル作家だ。数々のヒット作を世に送り出してきた、業界のベテランである。
もう一人は、月城るな。こちらは、フリルのついた服を着た、まだ二十代と思しき若い女性。彼女は、日本最大のWeb小説投稿サイト「小説家になろう」で絶大な人気を誇る、いわゆる「なろう作家」だった。
他にも、数名のSF作家やゲームのシナリオライターといった、およそ国家の最高機密とは縁遠い人々が、困惑した表情で互いの顔を見合わせている。
「……何の集まりなんだ、これは」
沢渡が、隣に座った月城に小声で尋ねた。
「さあ…? でも、政府からの公式な召集ですし、この物々しい雰囲気…ただの企画会議じゃなさそうですよね」
月城は、期待と不安が入り混じった顔で、部屋の中を見回した。
彼らは皆、「国家安全保障に関する新規プロジェクトへの専門的知見の聴取」という、極めて曖昧な名目でここに呼び出された。事前に署名させられた、違反すれば一生を刑務所で過ごすことになるであろう厳重な秘密保持契約書だけが、この会議の異常さを物語っていた。
やがて、会議室の扉が閉められ、室内が完全な静寂に包まれる。
壇上に立ったのは、官房長官の九条だった。彼は、一切の感情を排した能面のような顔で、集められた専門家たちを見渡した。
「本日はご多忙の中、お集まりいただき感謝申し上げる。…単刀直入に、本題に入る」
九条は、そこで一度言葉を切った。そして、人類の歴史上、いかなる為政者も口にしたことのない、驚天動地の言葉を、淡々と告げた。
「我が国、及びアメリカ合衆国は、先日、我々が『KAMI』と呼称する人知を超えた高次元存在との間で、ある合意に至った。その合意に基づき、我々は共同で**『異世界』**への調査団を派遣することを決定した。本日、皆様にお集まりいただいたのは、その第一次調査団の計画策定にあたり、皆様の専門的な知見をお借りするためである」
「………………は?」
最初に間の抜けた声を発したのは、沢渡だった。
彼の反応は、専門家たちの偽らざる心境を代弁していた。
異世界? 調査団?
何を言っているんだ、この男は。
何人かの学者が失笑を漏らした。沢渡は、こめかみを押さえた。これは、政府が仕掛けた手の込んだドッキリか? あるいは、新しいアニメか何かの企画で、自分たちはその設定考証を依頼されたとでもいうのだろうか。
「……失礼ですが、官房長官」と、歴史学の老教授が呆れたように口を開いた。「我々は、そのようなSF小説のプロットを議論するために、ここに呼ばれたのでは…」
「我々は、至って真面目です」
九条は、その言葉を冷たく遮った。
彼の目が、据わっている。それは、冗談や比喩の類を一切許さない、絶対的な真剣さの光を宿していた。
九条は、部下に合図を送る。
会議室の照明が落とされ、巨大なスクリーンに一枚の写真が映し出された。
それは、数週間前に全世界に公開されたあの映像。
首相官邸の地下会議室に、ゴシック・ロリータ姿の少女が、何もない空間から出現したその瞬間のキャプチャー画像だった。
「我々が『KAMI』と呼ぶ存在の、これはほんの能力の一端です。この存在は、我々の目の前で物質を素粒子レベルで分解し、再構築してみせました。そして、我々の国家元首に、物理法則を無視した不可侵の能力を付与しました。そして今、この存在は、我々に『異世界への扉』を開くことを提案してきたのです」
九条は壇上から降り、専門家たちの目の前まで歩み寄った。
「馬鹿馬鹿しいと、お思いでしょう。当然です。我々も、数ヶ月前までなら、同じように笑い飛ばしていたでしょう。だが、これは我々が今、直面している紛れもない現実なのです。このプロジェクトは、国家の存亡を賭けた最重要機密事項。皆様には、これから、フィクションの知識も、歴史の知識も、科学の知識も、全てを総動員して、この人類初の『異世界進出』を成功に導くための知恵を出していただきたい」
そのあまりにも真に迫った、気迫に満ちた言葉に。
そして、スクリーンに映し出されたあまりにも非現実的な写真の、圧倒的な説得力の前に。
専門家たちの間に漂っていた嘲笑と懐疑の空気は、急速に驚愕と、そして畏怖へと変わっていった。
沢渡は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
嘘じゃない。この国のトップエリートたちは、本気でそんなSFのような話を信じている。いや、信じているのではない。彼らは、それを「経験」したのだ。
自分の書いてきた安っぽい空想の産物が、今、目の前で現実として立ち上がってこようとしていた。
「……まず、話をまとめましょう」
重苦しい沈黙を破ったのは、アメリカ側の国家安全保障担当補佐官だった。彼は、あくまでプラグマティックに議論を進めようとした。
「我々は、異世界に行きます。ですが、言葉はどうするんです? コミュニケーションが取れなければ、話にならない」
それは、文化人類学者が最初に提起しようとしていた、最も根源的な問題だった。
「その点については、問題ありません」
九条は、こともなげに答えた。
「『KAMI』より言質を得ています。調査団のメンバーには、異世界に滞在している間、自動翻訳のスキルが付与されると。思考レベルでの、完璧な意思疎通が可能になるそうです」
「……なんと」
専門家たちから、どよめきが起こる。
「意思疎通の問題は、クリア済みです」
「そうですか…」と、文化人類学者は呆然と頷いた。「では、次に問題となるのは、何が彼の地で『価値』を持つかです。我々は、友好的な関係を築き、最終的には、こちらの世界に有益な『資源』を持ち帰ることを目標としなければならない。そのためには、対価となる魅力的な交易品が必要です」
その言葉に、それまで黙って話を聞いていたなろう作家の月城るなが、おずおずと、しかし輝いた目で手を挙げた。
「あの…! それでしたら、いくつか定番のパターンがあります!」
彼女は、まるで自分の得意なゲームの攻略法を語るかのように、早口で話し始めた。
「もし、向こうの世界の文明レベルが、我々の歴史で言うところの中世から近世レベルだとしたら、香辛料や砂糖、そして塩といった調味料は、絶大な価値を持つはずです。特に、保存技術が未熟な世界では、塩は金と同等、あるいはそれ以上の価値で取引される可能性があります」
「なるほど。歴史的にも、胡椒は同じ重さの金と取引された時代があったな」
歴史学の老教授が、彼女の言葉に感心したように頷いた。
「あとは、甘味の類ですね!」と、月城はさらに熱を帯びて続ける。「精製された砂糖を使ったチョコレートやキャンディーといったお菓子は、おそらく王侯貴族でさえ口にしたことのない、麻薬的な魅力を持つはずです。最初の接触で、友好の証として贈るには最適だと思います」
「面白い。確かに、味覚に直接訴えるものは、文化の違いを超えやすい」と、アメリカ側の補佐官も興味深そうにメモを取った。
「スマホなどの電子機器は、どうだろうか?」と、軍の関係者から質問が飛ぶ。
「スマホは、持っていっても電気がある間は記録媒体として有効ですが、通信インフラ、つまり電波がなければただの箱です。おそらく、無意味でしょう」
沢渡が、冷静に答えた。「持っていくとしたら、あらかじめこちらの世界の様々な知識…科学技術、医学、農業、歴史といった情報を、オフラインで閲覧できるようにダウンロードしておく必要があります。一種の電子図書館としてですね。知識は、いつの時代も強力な武器になりますから」
「宝石や貴金属の類も、おそらく価値の基準として有効でしょうね」と、地質学者が付け加えた。
議論は、次第に熱を帯びていった。
最初は馬鹿馬鹿しいと半笑いを浮かべていた専門家たちが、一人、また一人と、その顔を真剣なものへと変え、この前代未聞の計画に、本気でその知恵を注ぎ込み始めていた。
彼らは、気づかぬうちに、日本政府とアメリカ政府の、その底知れない「本気」に飲み込まれていたのだ。
「そして、我々の最終的な目標は、利益を引き出すことです」と、九条が議論の中心に改めて釘を刺した。「そのために、我々は何をすべきか」
「それはもう、貿易しかないでしょう」と、沢渡が断言した。「我々が、『侵攻』という言葉に囚われる必要はありません。向こうが中世レベルの文明なら、先ほど月城先生が言われた通り、香辛料や塩、砂糖は金よりも高くなります。我々にとっては、スーパーで数百円で手に入るものが、向こうでは城が一つ買えるほどの価値を持つかもしれない。その『価値の勾配』を利用して、我々が欲しいものを手に入れるのです」
「その、いわゆる『テンプレ』が、現実の異世界でも通用するでしょうか?」
アメリカ側の軍人が、懐疑的な目を向けた。
「……こればっかりは、分かりません」
沢渡は、正直に答えた。「行ってみなければ、何も。だからこそ、持っていけるだけの『カード』は、全て持っていくべきなんです。考えうる、あらゆる可能性を想定して」
「なるほど…」
「あるいは、全く逆のパターンも考えられます」
今度は、地質学者が口を開いた。
「もし、彼の地にこちらの世界には存在しない新元素のようなものがあれば、話は早いのですが…そううまくはいかないでしょう。ですが、可能性として、向こうで何の価値もない石ころとして扱われているものが、実は、こちらの世界ではとんでもない価値を持つ、というパターンです」
「あー…」と、月城がポンと手を打った。「異世界ファンタジーで、よくあるやつですね! 向こうではただの綺麗な石だと思われているものが、実は膨大な魔力を秘めた『魔石』で、こちらの世界では次世代のエネルギー源になるとか!」
「魔力とまでは言いませんが」と、地質学者は苦笑した。「例えば、特定の同位体を異常なほど含有した鉱石であったり、未知の触媒作用を持つ粘土であったり。そういったものが存在する可能性は、十分に考えられます」
「まあ、それも考えた方が良いでしょうね」と、沢渡も頷いた。「いずれにせよ、最初の調査団の最重要任務は、戦闘でも交渉でもない。サンプル採取です。植物、鉱物、動物、大気、水。あらゆるものを、とにかく丁寧に、そして大量に採取して持ち帰る。それが、全ての始まりになります」
会議は、深夜まで続いた。
最初は荒唐無稽な与太話にしか聞こえなかった「異世界進出計画」は、専門家たちのそれぞれの知識と、そして作家たちの持つ豊かな想像力と膨大な「物語の類型」の知識によって、次第に現実的な輪郭を帯びていった。
会議が終わる頃には、第一次調査団が携行すべき「交渉用パッケージ」の詳細なリストが完成していた。
塩、砂糖、胡椒、チョコレート、ウイスキー。
火薬を使わない、高性能なエアガンとその設計図。
太陽光で充電できる頑丈なタブレット端末(内部にはウィキペディアの全データと、主要な科学、医学、農業の専門書、そして数千曲の音楽と数百本の映画が保存されている)。
そして、あらゆるサンプルを劣化させることなく持ち帰るための、特殊な採取キット。
会議を終え、庁舎の外に出た沢渡恭平は、東京の冷たい夜風に当たりながら、ふーっと長い煙草の煙を吐き出した。
頭が、まだ現実についていけていない。
数時間前まで、彼は自室で来月の新刊のプロットに頭を悩ませていたのだ。「また異世界転生ものですかぁ? 先生、もう読者も飽きてますよ」と、担当編集者に嫌味を言われながら。
その自分が、今、何をしていた?
国家の最高機密である「本物の」異世界への進出計画に、アドバイザーとしてその知識を提供していたのだ。
しかも、その議論のベースになったのは、彼自身が、そして月城るなのような若い作家たちが、ここ十数年、それこそ飽きられるほどに書き殴ってきた「物語のテンプレ」だった。
「……馬鹿馬鹿しい」
呟いたその言葉には、もはや嘲笑の色はなかった。
あるのは、自分の想像力を遥かに超えた巨大な現実に対する畏怖と、そしてほんの少しの興奮だった。
フィクションは、現実になった。
そして、その現実は、自分が書いてきたどの物語よりも、遥かに複雑で、危険で、そしてどうしようもなく面白そうだった。
沢渡は、もう一本煙草に火をつけると、東京の夜空を見上げた。
その空のずっと向こう側。次元の壁のさらに向こう側に、今、自分たちが語り合った未知なる世界が広がっている。
人類の、新しい大航愛時代が始まろうとしていた。
そして、その羅針盤を、自分たちのような物語を紡ぐことしか能のない人間たちが、握らされている。
それは、彼がこれまで書いてきたどの小説よりも、遥かに出来過ぎた物語の始まりのように思えた。