第115話
その日、日本列島を揺るがした衝撃は、政治家の一言でも神の気まぐれでもなく、たった一枚のスクリーンショットから始まった。
日曜日の夜。
明日からの学校や仕事に備え、多くの国民がスマートフォンを眺めて憂鬱な時間を過ごしていたその時、SNS「X」のタイムラインに、一つの投稿が爆弾のように投下された。
投稿者は『タケル@F級攻略中』という、ありふれたハンドルの高校生アカウント。
だが、添付された画像はありふれていなかった。
それは、銀行アプリの入出金明細のスクリーンショットだった。
『◯月◯日 振込 ニホンタンサクシャギルド +1,052,000円』
そして添えられた短いテキスト。
『父さんに借金して装備買ってダンジョン潜ってちょうど10日目。
借金完済。
残りは全部俺の金。
……高校生だけど10日で100万稼いだわ』
その投稿は、瞬く間に拡散された。
1万リポスト、5万リポスト、10万リポスト。
数字は加速度的に跳ね上がり、コメント欄は羨望と疑い、そして焦燥の嵐となった。
『マジかよ高校生が10日で100万!?』
『俺の手取り半年分なんだが……』
『嘘乙。そんな上手い話あるわけない』
『いやこれマジだぞ。俺もギルドでこいつ見たことある。制服でゴブリン狩ってた』
その夜、日本中の高校生のスマートフォンが通知音で震え続けた。
それは、古い時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる、革命のファンファーレだった。
***
翌朝。
テレビのワイドショーは、この話題一色に染まっていた。
『――検証! 高校生探索者、驚異の稼ぎ! 10日で100万円は本当に可能なのか!?』
スタジオでは、フリップを持った解説者が興奮気味に説明している。
「結論から言えば可能です!
現在、F級魔石の買い取り価格は1個1万円で安定しています。
タケル君の投稿を分析すると、彼は放課後と土日をフルに使ってダンジョンに潜っていたようです。
一日平均10個の魔石を持ち帰れば日給10万円、10日で100万円。
装備への初期投資さえクリアできれば、これは計算上、十分に達成可能な数字なのです!」
コメンテーターの教育評論家が、眉をひそめて口を挟む。
「しかしですね、学生の本分は勉強でしょう?
金稼ぎに現を抜かして学業がおろそかになっては本末転倒です。
それに、危険なダンジョンに未成年が出入りするなど……」
その正論を、司会者が遮った。
「ですが先生、ご覧ください。今、視聴者から寄せられているコメントを」
画面下部に流れるテロップ。
『勉強していい大学入って手取り20万の会社に入る意味ある?』
『10日で100万稼げるならそれが正義だろ』
『リスク取って挑戦した彼が偉い。大人は口出しするな』
「……価値観が音を立てて崩れています」
司会者が神妙な顔で言った。
「彼らは見ているのです。偏差値という古い物差しではなく、『魔石』という新しい物差しで測られる世界を」
***
渦中の人物、タケルはその日学校には行かなかった。
行く必要を感じなかったからだ。
彼は自宅の居間で父親と向かい合っていた。
半月前、「バカなことを言うな」と怒鳴りつけた父親は、今、息子の差し出した100万円の札束を前に言葉を失っていた。
「……父さん。約束通り、装備代の150万、利子つけて返すよ」
タケルは淡々と言った。
その顔つきは、半月前の頼りない少年のものではなかった。
死線(といってもF級だが)をくぐり抜け、自らの力で獲物を狩り、換金するというサイクルを繰り返した者の、自信に満ちた顔だった。
「……タケル。お前これからどうするつもりだ」
父親が震える声で尋ねた。
「大学は……受験は……」
「行かないよ」
タケルは即答した。
「大学に行って四年遊んで、奨学金という借金背負って社会に出る。
そんなルート、もう古すぎる。
俺は探索者になる。
来週からは、もっと深い階層に潜るつもりだ。月読ギルドの講習も受けてきた。
父さんの年収、来月には超えると思う」
その、あまりにも残酷で、そしてあまりにも頼もしい息子の言葉。
父親は札束を見つめたまま、何も言い返すことができなかった。
昭和、平成、令和と続いてきた「普通の幸せ」のレールが、息子の目の前でプツリと途切れ、その先には見たこともない黄金の野が広がっている。
それを止める権利も、論理も、父親にはなかった。
***
タケルの成功は特異点ではなかった。
それは、ダムの決壊を告げる最初の一滴だった。
全国の高校で、異変が起きていた。
「おい聞いたか? 3組のサトウ、昨日ドロップした短剣、50万で売れたらしいぞ」
「マジかよ! あいつ昨日早退したと思ったら……」
「ねえ、私も行こうかな。制服のまま行けば、月読ギルドの人が優しくしてくれるって噂だよ」
教室の空気は浮ついていた。
教師が黒板に書く数式など、誰も見ていない。
生徒たちの手の下、机の中には、教科書の代わりに『ダンジョン攻略本』や『魔石相場表』が広げられている。
「先生! 早退します! ……家の用事で!」
「先生! 風邪気味なので帰ります!」
放課後のチャイムを待たずして、教室は空席だらけになる。
彼らが向かう先は、塾でも部活でもない。
渋谷、大阪・梅田、名古屋・栄。
ゲートのある街だ。
夕方のニュース番組が、その異様な光景を映し出した。
渋谷のギルド支部前。
そこには、制服姿のまま、あるいはジャージ姿の高校生たちが長蛇の列を作っていた。
彼らの背中には通学カバンではなく、保存食が詰まった登山用リュック。
手には、参考書ではなく剣や杖。
「……ご覧ください。ここは学校の校庭ではありません。ダンジョンの入り口です」
リポーターが困惑した声で伝える。
「彼らは『学生探索者』と呼ばれています。
放課後、あるいは学校を休んでまで、彼らはここに集まっています。
目的は一つ。お金と強さです」
カメラが一人の女子高生にズームする。
彼女はカメラに向かってピースサインをし、手にした魔石を見せつけた。
「今日だけで3万ゲット〜!
これで欲しかったブランドのバッグ買うの!
パパ活? バカじゃないの? 今はダン活(ダンジョン活動)でしょ!」
新しい時代の、新しい価値観。
汗をかいてモンスターを殴って金を稼ぐ。
それは、ある意味で極めて健全で、そして極めて原始的な営みだった。
***
その「高校生探索者ブーム」を、強力に後押しする存在がいた。
『月読ギルド』である。
ギルドマスター、月島蓮は、この流れを予見していたかのように迅速に動いた。
彼はギルド本部に『学生支援課』を設置。
「学生証」を提示すれば装備のレンタル料を半額にし、ベテラン探索者による引率を無料で提供するというキャンペーンを打ち出したのだ。
「若者よ、教室に留まるな。世界を見ろ」
月島は動画配信で熱く語りかけた。
「君たちの可能性は偏差値では測れない。
剣を振るう才能、魔法を操る才能、仲間を指揮する才能。
それらは全て、ダンジョンの中でこそ開花する。
月読ギルドは、君たちの『放課後の冒険』を全力でサポートする!」
このメッセージは、大人たちへの反発心を持つ若者の心に、強烈に刺さった。
月読ギルドのエンブレムが入ったマントを羽織ることは、今の高校生にとって、どんなブランド服よりもクールなステータスとなった。
***
そして、この狂騒を冷めた目で、しかし油断なく監視している者たちがいた。
首相公邸地下執務室。
「……『高校生探索者』か。流行語大賞は決まりだな」
麻生ダンジョン大臣は、モニターに映る制服姿の集団を見ながら、苦い茶をすすった。
「どうしますか大臣」
文科省から出向してきた官僚が、青ざめた顔で尋ねる。
「全国の校長会から悲鳴が上がっています。
『学級崩壊どころではない、学校崩壊だ』と。
直ちに未成年のダンジョン入りを禁止すべきだとの声が……」
「却下だ」
麻生は即答した。
「今更止められるか。彼らは味を占めた猛獣だ。
檻に閉じ込めようとすれば、檻ごと破壊して暴れ出すぞ。
それに……」
麻生は手元のタブレットに表示された、財務省からの極秘データを指さした。
『若年層による消費動向レポート』。
そこには、信じがたい数字が並んでいた。
「見ろ。この一ヶ月で、10代の消費支出が前年比で800%増加している。
彼らは稼いだ金を貯金などしない。
スマホゲーム、ファッション、そして飲食。
湯水のように使い、地域経済を潤している。
彼らこそが、今この国の停滞した経済を回す最強のエンジンなのだよ」
麻生はニヤリと笑った。
「それに、彼らが納める『消費税』だけでも馬鹿にならん。
所得税は取れなくても、使ってくれれば国庫は潤う。
……未成年の労働? 結構なことじゃないか。
彼らは、自分の力で生きる術を学んでいるのだ。これ以上の教育があるか?」
隣にいた九条が、静かに補足する。
「それに、安全面でも今のところ大きな事故は起きていません。
月読ギルドが上手く囲い込んで教育してくれているおかげです。
政府としては静観……いえ、『若者の挑戦を温かく見守る』というスタンスで良いかと」
「うむ。そういうことだ」
麻生は頷いた。
「ただし、釘だけは刺しておけ。
『学生の本分は〜』とかいう建前だけの通達を、教育委員会に出しておけ。
責任逃れのアリバイ作りは必要だからな」
大人の事情と、子供の欲望。
それが奇妙に噛み合い、日本は「一億総探索者時代」へと突き進んでいた。
***
だが、その熱狂の裏で、変化は確実に起きていた。
学校という場所の意味が、変わりつつあった。
都内のとある進学校。
昼休みの屋上。
かつては英単語帳を開いていた生徒たちが、今は違うものを広げていた。
ダンジョンの地図と、魔石のリストだ。
「なあ、昨日のニュース見たか? タケルって人、レベル5になったらしいぜ」
「マジかよ……。レベル5って、もう銃弾も弾くレベルだろ?」
「俺らも負けてらんねえな。今度の期末テスト赤点でもいいから、週末はダンジョン合宿しようぜ」
彼らの会話に、悲壮感はない。
あるのは、自分たちの手で未来を掴み取ろうとする、眩しいほどのバイタリティだ。
かつてのエリートコース――良い大学に入り、官僚や大企業に入る道。
それは今、色あせて見えた。
安定? 終身雇用? そんなものは、この激動の時代には何の保証にもならない。
信じられるのは、自分のレベル(強さ)と、アイテムボックスの中身(資産)だけ。
新しいエリートの定義が生まれようとしていた。
勉強ができる奴ではない。
ダンジョンで生き残れる奴。
魔石を多く持ち帰れる奴。
そして、仲間を守れる奴。
それが、この『ダンジョン・エイジ』における新しい「優秀さ」の基準だった。
「――時代が変わるな」
校舎の窓からその様子を眺めていた老教師が、ぽつりと呟いた。
彼の手には、誰も解こうとしない数学のプリントが握られている。
寂しさはあった。
だがそれ以上に、生徒たちの背中がいつになく頼もしく見えるのも事実だった。
「行ってこい、若者たちよ。
教科書に載っていない答えを、その手で探してこい」
チャイムが鳴る。
だが、席に着く生徒は半分もいない。
残りの半分は、既に渋谷の地下深く、仄暗い迷宮の中で剣を振るい、魔法を放ち、それぞれの青春を燃やしているのだ。
高校生たちの大探索者時代。
それは、この国が長い眠りから覚め、野生を取り戻すための通過儀礼なのかもしれなかった。
そして、その熱狂の渦中にいる彼らは、まだ知らない。
F級ダンジョンの奥底で、あるいはもっと深い場所で。
彼らのその若い力を、じっと見つめている「何か」がいることを。
KAMIが用意した次のステージは、もはや「稼げる遊び場」では済まないことを。
だが、今はまだ彼らは夢を見ていた。
無限の富と、英雄への階段が、どこまでも続いているという夢を。




