第11話
アメリカ合衆国が、「神の力」の甘美な果実を味わい、その狂喜と新たな恐怖との間で揺れ動いていた、ある日のこと。
日本の首相官邸、そしてワシントンのホワイトハウス。
全く異なる時間、全く異なる場所に、それは同時に、そして何の前触れもなく、再び顕現した。
東京、深夜。官邸の主である沢村総理は、官房長官の九条と共に、アメリカとの今後の交渉方針について密談を交わしていた。
ワシントン、昼下がり。オーバルオフィスでは、トンプソン大統領が、国家安全保障会議の主要メンバーと、この新たな力をいかにして中国やロシアに対する抑止力として活用していくか、その戦略を練っていた。
二つの世界の運命を左右する会議。
その、まさに中央に。
あのゴシック・ロリータ姿の少女が、すぅっと音もなく姿を現した。
「――ッ!?」
日米両国のトップエリートたちは、同時に凍りついた。
警護官たちが銃に手をかけるよりも、早く。
「久しぶり」と、その場違いに平坦な声が、東京とワシントンの両方で、全く同じタイミングで響き渡った。
少女は、まるで自分の部屋にでもいるかのようにくつろいだ様子で、それぞれの部屋を見渡した。そして、まるでビデオ会議でもしているかのように、二つの国のリーダーたちに同時に語りかけた。
「さて、今日はあなたたちに、次のプロジェクトについて発表があって来たのよ」
『次のプロジェクト…?』
沢村とトンプソンの声が、それぞれの部屋で困惑のうちに重なった。
少女は、満足げに頷いた。
「ええ。あなたたちのおかげで、私の研究はかなり進んだわ。感謝してる。でも、もうこの星でチマチマとゴミ拾いをしているフェーズは終わり。もっと大きなステージに進む時が来たの」
少女は、一度言葉を切ると、まるで退屈な授業を行う教師のように、説明を始めた。
「まず、現状認識の共有からね。今の私の戦力は、そうね…かるく地球征服ができる程度と、言った所でしょう。この太陽系という極めて限定された箱庭の中に限れば、ほぼ全能と言ってもいいわ」
その言葉はあまりにも傲慢で、しかし、その場にいる誰もが、それが紛れもない事実であることを理解していた。
「ただし、それはあくまで太陽系に限った話なのよ。宇宙は広いわ。そして、私が目指しているのは、そんなちっぽけな領域の支配者なんかじゃない」
少女は、東京とワシントンの両方で、同時に、その場にいる全員の顔を、一人一人見回した。
「というか、あなたたち人間から見れば、私の力は神様か何かのように見えるかもしれないけど、私自身からすれば、まだまだひよっこなの。ようやく歩き始めた赤ん坊みたいなもの。その程度の力なのよ。分かった?」
その問いに、答えられる者はいなかった。
彼らが喉から手が出るほど欲し、そしてその存在に震え上がっている力が、当人にとっては「その程度」でしかないという、絶望的なまでの格の違い。それを、改めて突きつけられただけだった。
「私が目指すのは、『全能』よ」
少女の声が、少しだけ熱を帯びた。
「この宇宙の森羅万象、過去と未来、因果律の全てをこの手に掌握する、完全なる全能。それを私は、目指しているの」
しかし、その熱はすぐに冷めたものへと変わった。
「ただし、その目標は、この地球という惑星を、その全ての原子の一粒に至るまで丸ごと対価として投げ出したとしても、まるで全く足元にも及ばないくらい、遠い場所にあるの。その計算は、もう済んでるわ」
絶句。
地球丸ごと一つ。その価値をもってしても、届かない。
その言葉が意味する途方もないスケールに、日米のリーダーたちは、もはや思考することさえ放棄しかけていた。
「なので」
少女は、そこで楽しそうに、にっこりと微笑んだ。
それは、面白いゲームのルールを友人に説明する子供のような、無邪気で、それゆえにどこまでも残酷な笑みだった。
「我々は、新たなプロジェクトに移行します。私が提案するのは――異世界への侵攻よ」
『……いせかいへのしんこう…?』
沢村とトンプソンが、まるでオウムのように、その信じがたい単語を繰り返した。
「ええ。ワクワクするでしょ?」
少女は、楽しそうに小さな手を広げた。
「異世界への侵攻よ。あなたたちが大好きなフロンティア。未知なる世界。新しい冒険の始まり」
その言葉は、あまりにも甘美で、あまりにも危険な響きを持っていた。
異世界。
フィクションの世界だけの、概念のはずだった。
だが、この存在が口にする以上、それは紛れもない「現実」として存在するのだろう。
「とは言っても、いきなり軍隊を送ってドンパチやるような、野蛮な軍事侵攻をするわけじゃないわ。もっとスマートに、そして効率的にやりましょう」
少女は、ビジネスプランを説明する有能なコンサルタントのように、その計画の概要を語り始めた。
「例えば、こう考えるのよ。異世界との『貿易』だと」
少女は、指を一本立てた。
「その世界にはその世界の文明があって、人々が暮らしている。彼らが欲しがっている物を、こちらの世界から輸出してあげるの。食料でも、医薬品でも、あるいはあなたたちが使っているスマートフォンみたいな便利な道具でもいいわ」
そして、と彼女は二本目の指を立てた。
「その対価として、我々は彼らの世界の『資源』を頂戴する。彼らの世界で潤沢に採れる金銀財宝でもいい。あるいは、こちらの世界には存在しない未知の鉱石やエネルギー資源でもいい。物々交換でも、通貨を介した取引でも、何でも構わないわ」
それは、かつて大航海時代に、ヨーロッパの国々が新大陸に対して行ったことと、本質的には何も変わらなかった。
圧倒的な技術格差を利用した、一方的な搾取。
しかし、その舞台は、もはや地球という小さな星の上ではなかった。
「どう? 悪くない話でしょう?」
少女は、満足げに両国のリーダーたちを見渡した。
「このプロジェクトで得られた利益の、五パーセントを私が貰うわ」
そのあまりにも控えめな数字に、誰もが耳を疑った。
だが、少女は当然よね、とばかりに続けた。
「私の力で異世界への『扉』を開き、その安全な航路を維持するんだから。そのシステム利用料として、たったの五パーセント。破格の条件だと思うけど?」
確かに、破格だった。
残りの九十五パーセントは、日本とアメリカが山分けできるのだ。
その利益は、おそらく、人類が有史以来築き上げてきた全ての富を、遥かに凌駕するだろう。
「どうかしら? アメリカ政府、日本政府。あなたたちは、この新しい『ゲーム』に乗る?」
その問いは、問いかけの形をしていたが、事実上の命令だった。
断るという選択肢は、おそらく存在しない。
もしここで断れば、この少女はきっと、別の「代理人」を探すだけだろう。中国か、ロシアか、あるいはどこかのテロ組織か。
そして、日本とアメリカは、歴史の舞台から静かに引きずり降ろされることになる。
沢村とトンプソンは、互いの顔を見ることはできなかった。
だが、彼らはこの瞬間、目に見えない固い握手を交わしていた。
乗るしかない。この狂った神が提示した、あまりにも魅力的で、あまりにも危険な新しいゲームに。
「……我々は」と、最初に口を開いたのはトンプソンだった。彼の声は、興奮と、そして未知への恐怖で、わずかに震えていた。「その提案を、前向きに検討したい」
「結構よ」
少女は満足げに頷いた。「それでこそ、世界のリーダーだわ」
そして彼女は、まるで子供たちに新しいおもちゃの遊び方を教えるかのように、目を輝かせた。
「最初の『扉』は、そうね…一ヶ月後にでも開いてあげましょう。場所は、日本の富士山の麓あたりがいいかしら。広くて、誰もいないし」
彼女は、楽しそうに計画を練り始める。
「あなたたちは、それまでに最初の調査団を組織しておくことね。科学者、兵士、言語学者、交渉人。最高のチームを用意しなさい。ああ、でも、あまり物々しい装備で行くと、怖がられちゃうかもしれないわね。その辺のさじ加減は、あなたたちに任せるわ」
その口調は、まるで海外旅行の計画を立てているかのようだった。
だが、その旅行の目的地は、人類がまだ一度も足を踏み入れたことのない、全くの異世界。
その先に、何が待っているのか。
楽園か、地獄か。
あるいは、その両方か。
「じゃあ、そういうことでよろしくね」
少女は、満足げにそう言うと、来た時と同じように、ふっとその場から姿を消した。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、顔を見合わせるしかない二つの大国のトップエリートたち。
彼らは今、人類の代表として、未知なる次元への最初の扉を開くことを、決定してしまったのだ。
その先に待つのが、輝かしい未来なのか、それとも取り返しのつかない破滅なのか。
それを知る者は、誰もいない。
ただ一人、この壮大なゲームのゲームマスターである、日本のどこかにいる一人の在宅ワーカーを除いては。
彼女のスキルウィンドウでは、今、新たに『異世界への扉』という項目がアンロックされ、その起動の時を静かに待っていた。
人類の新しい時代が、今、始まろうとしていた。