第105話
S-DAY。
渋谷のゲートが自衛隊によって初めて踏破されたあの日を、メディアが『D-DAY』と呼んだのに対し、今日この日は国民にその門戸が初めて開かれるという意味を込め、『S-DAY』と呼ばれていた。
その日の夜八時。日本は静止した。
全国の家庭で、オフィスの残業組のデスクで、居酒屋の片隅のテレビで、そして大学の寮の薄暗い部屋で。一億二千万の国民が、まるで世紀のワールドカップ決勝戦のPK戦を見守るかのように、あるいは自らの運命が記された大学入試の合格発表を待つかのように、一つの画面に釘付けになっていた。
画面は黒。
その中央に、この日のために麻生ダンジョン大臣の指揮下で、財務省とデジタル庁の威信をかけて構築された『第一回・公式ドロップ品オークション』特設サイトの、無機質なカウントダウンだけが冷たく時を刻んでいた。
【第一回オークション開始まで: 00:01:14 】
この日のために日本政府は、前代未聞のシステムを導入した。
参加資格は日本国民であること。
認証方法は、マイナンバーカードによる厳格な個人認証。
そしてそのルール。
あまりにも資本主義的で、そしてあまりにも社会主義的な、奇妙なルール。
――全品入札上限価格は一律10万円。
――入札価格が上限に達した時点で、その商品への入札は「抽選参加申し込み」へと切り替わる。
――入札締め切り後、10万円の入札者の中から、厳正なる抽選によって当選者が決定される。
それは、麻生太郎という老獪な政治家が、この国の国民性を完璧に読み切った上で設計した、究極の「ガス抜き」であり、同時に「集金」システムだった。
価格が高騰しすぎれば、富の独占だとして暴動が起きる。
かといって無償で配れば、国家の財源は一瞬で破綻する。
ならば答えは一つ。「10万円」という、誰もが「少し無理をすれば手が届くかもしれない」絶妙な価格を設定し、その上で決して手に入らないという現実を「運が悪かった」という個人の自己責任へと転嫁させる。
それは「宝くじ」という名の、最も穏健で、そして最も残酷な大衆コントロール術だった。
「……ふん。馬鹿どもが。集まっておるわ」
霞が関、新設された『ダンジョン庁』の地下危機管理センター。
『戦場』と名付けられたその部屋で、麻生太郎は壁一面を埋め尽くす巨大なモニターを、満足げな表情で見つめていた。
モニターには、オークションサイトへのリアルタイムのアクセス数が表示されている。
【同時接続者数:75,431,229】
「……大臣。国民の実に六割以上が、今この瞬間サイトにアクセスしております」
隣に控える、財務省から引き抜いた腹心の部下が、興奮を隠せない声で報告した。
「マイナンバーカードの認証サーバー、パンク寸前です。デジタル庁が悲鳴を上げております」
「構うものか」
麻生は、ふんと鼻を鳴らした。「役人というものは限界まで働かせてこそ意味がある。それより売上予測はどうだ」
「はい。本日の出品総数は、自衛隊の諸君が血反吐を吐きながら確保した、一万人分の初期装備セット。すなわち武器・防具・装飾品合わせて約九万点。その全てが最低でも10万円で落札されると仮定した場合……」
その部下は、ごくりと喉を鳴らした。
「……最低でも90億円の歳入が、今夜一晩で確定いたします」
「うむ」
麻生は深く頷いた。あの日九条に突きつけられた三兆円の請求書。その返済の第一歩として、これ以上ない滑り出しだった。
その頃、首相公邸の執務室。
沢村と九条の四つの身体もまた、その歴史的瞬間を、それぞれの執務の片手間に見守っていた。
「……始まったな、九条君」
沢村の本体が、疲弊しきった声で言った。
「ええ。始まりましたな、総理」
九条の本体が淡々と応じた。
「我々は今、この国に新しい『格差』を生み出す瞬間に立ち会っているのかもしれんな。
装備を手に入れられた一万人と、手に入れられなかった一億二千万の国民という」
「ですが総理」
と九条は続けた。「その格差は、生まれや血筋ではなく『運』によって決まる。国民は不平等には怒りますが、不運には意外と寛容なものです。麻生大臣の狙いはそこでしょう。政治的には、これ以上ない正解かと」
「……分かっているさ。だが、どうにも後味が悪い」
沢村は、自らが愛する国民たちが、これから剥き出しの欲望の渦に飲み込まれていく光景を、ただ憂鬱な目で見つめていた。
そして、その瞬間は訪れた。
【第一回オークション開始まで: 00:00:03 】
【 00:00:02 】
【 00:00:01 】
【 00:00:00 】
【――オークションを開始いたします】
全国の七千万台を超える端末の画面が、一斉に切り替わった。
『ロット番号001:F級・片手剣』
『在庫:1,000本』
『開始価格:1円』
『入札受付時間:5分間』
都内某所、安アパートの一室。
大学四年生のケンタは、この日のために用意した、なけなしの貯金10万円を握りしめ、震える指でマウスのクリックボタンに指をかけていた。
「……来たッ!」
画面が切り替わると同時に、彼は入札画面に飛び、10万円の金額を打ち込もうとした。
だが、その必要はなかった。
彼が「100,000」と打ち込むよりも早く、入札価格を示す数字が、人間の目には追えない速度で、一瞬でその上限へと張り付いていた。
開始0.01秒後。
【現在の価格:100,000円(上限価格に到達しました)】
「はっ……!?」
ケンタは呆然とした。
だがすぐに、画面の表示が切り替わる。
【上限価格に到達したため、これより『抽選参加申し込み』に切り替えます】
【抽選参加申し込み締め切りまで: 04:59 】
「……そ、そうか! 入札合戦じゃない! 抽選だ!」
彼は慌てて、赤く点灯する『抽選参加』のボタンを、祈るような思いでクリックした。
『マイナンバーカードによる認証を行います……認証完了。』
『ロット番号001:F級・片手剣の抽選リストに、あなたを登録しました』
「……やった。やったぞ……!」
彼は、まだ何も当たっていないというのに、まるで第一関門を突破したかのような、奇妙な高揚感を覚えていた。
ダンジョン庁ウォールーム。
「大臣! ロット001、受付開始からわずか30秒で、抽選参加申し込み者数200万人を突破しました!」
「うむ。在庫1000本に対して200万……倍率二千倍か。上々の滑り出しだな」
麻生は冷徹に分析した。「国民の熱狂は、我々の想定通りだ」
そして運命の5分間が経過した。
日本中の画面が、一斉に切り替わる。
【――抽選中――】
ケンタは息を止めた。
心臓の音が、うるさいほどに耳元で響く。
頼む、頼む、頼む……!
数秒の、永遠にも感じられる静寂。
そして、結果が表示された。
【――残念ながら落選しました――】
「…………ああ……」
ケンタの口から、乾いた声が漏れた。
全身の力が抜けていく。
だが彼が絶望に打ちひしがれる間もなく、画面は無慈悲に、次の戦いの始まりを告げていた。
『ロット番号002:F級・革の鎧』
『在庫:1,000着』
『開始価格:1円』
『入札受付時間:5分間』
「……次だ! 次!」
ケンタは、麻生が設計したこの地獄のルーレットの盤上へと、再びその身を投じた。
その頃、日本中のあらゆる場所で、同じ光景が繰り広げられていた。
郊外の一軒家では、高校生のタケルが、父親から借りた100万円を元手に、次々と抽選ボタンを押していた。
「クソッ! また外れだ!」「次! ブーツ! 来い!」「あああ、まただ!」
彼の隣で父親が、「タケル、落ち着け、まだ始まったばかりだ……」と、自分自身に言い聞かせるように、震える声で言った。
その瞬間、日本のX(旧Twitter)は、人類の感情の坩堝と化した。
トレンドの第一位から第十位までが、オークション関連のワードで完全に埋め尽くされた。
『#ダンジョンオークション』
『#落選しました』
『#当選報告』
『#10万円』
『#麻生ふざけんな』
『#物欲センサー』
「片手剣落選……。俺の冒険は始まる前に終わった」
「また落選。また落選。また落選。もうバットでいいかな……」
「これ本当に当たってる奴いるのか? 政府のサクラだろ」
その絶望的なツイートの奔流の中に、突如として、祝福された者たちの歓喜の叫びが投下された。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
「当たった!!!!!!!!!!!」
「『F級・革の鎧』当選したああああああああああああああ!」
「マイナンバー認証の画面キャプチャ上げる! これで見ろ! 俺は選ばれたんだ!」
「嫁よありがとう! お前のマイナンバーカードで応募した分が当たった! 愛してる!」
「よし会社辞める!」
当選者一万人。
落選者数千万人。
その、あまりにも残酷な格差。
日本は一夜にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
当たった者は人生の勝者として、その幸運を全世界に自慢し。
外れた者は、その幸運を、血の涙を流しながら呪った。
だが、その怒りの矛先は、決して政府や麻生大臣には向かわなかった。
彼らが呪うのは、自らの「運」であり、「確率」であり、そして「物欲センサー」という目に見えない曖昧な何かだった。
彼らは怒り、嘆き、そして次の抽選ボタンを押した。
麻生の狙い通り、国民の不満は完全に「宝くじの不公平さ」へとすり替えられていた。
官邸の執務室。
九条の分身が、そのXのトレンド分析データを、沢村に報告していた。
「総理。国民の不満は、ほぼ全てシステムそのものの『確率』に向けられております。『価格』や『政府の不作為』に対する批判はごく少数。麻生大臣の目論見は、完璧に成功したと判断されます」
「……そうか」
沢村は、その報告に安堵すべきなのか、絶望すべきなのか、もはや分からなかった。
「国民は怒ってはいるが、暴動にはならないか。……まあ、それも仕方がないですね。我々は、この国を前に進めねばならんのだからな」
オークションは夜通し続いた。
九万点のアイテムが、一つまた一つと10万円で落札されていく。
その過程で、一万人の「勝者」と、数千万人の「敗者」が生み出されていった。
朝方。
全てのオークションが終了した時。
ダンジョン庁のウォールームのモニターには、一つの眩い数字が輝いていた。
【オークション総売上(第一回): 90億円 】
「……大臣。素晴らしい数字です」
腹心の部下が、震える声で言った。
「ええ。これで、あの三兆円の第一歩は踏み出せました。残り四回のオークションで五万人分は確保できるでしょう。一度軌道に乗ればドロップ品も増え、後続の探索者は比較的安価で参入できるようになる。……実際、武器一つで挑む人がどれくらい出るかは分かりませんがね」
麻生は玉露を一口すすった。「うーん」
麻生は、窓の外の白み始めた東京の空を見上げた。
その空の下では今、オークションに敗れた数千万人の若者たちが、地元のスポーツ用品店やホームセンターへと走り出していることだろう。金属バットやバールを、その手に握りしめるために。
「……どれくらいの人々が、バット片手に、あの漆黒の渦に挑むことになるのやら」
彼はどこか楽しそうに、そしてどこまでも冷徹に呟いた。
「まあそれもまた自己責任。我々が知ったことではないですかな」
神の不在のまま。
人間たちは、自らの欲望と運と、そして自己責任を羅針盤として、
新しい、そしてあまりにも過酷な大航海時代へと、
その第一歩を踏み出したのだった。




