第102話
その日を境に、日本という国家は一つの巨大な「ゲーム」の事前攻略サイトへと変貌した。
麻生ダンジョン大臣による、あの歴史的な記者会見。
『ダンジョン・エイジ』の、あまりにも詳細で、そしてあまりにもゲーム的な「仕様書」の公開。
それは、この国の一億二千万の国民の心に、この数ヶ月間くすぶり続けていた熱狂の火種へと、高純度のガソリンを注ぎ込む行為に等しかった。
レベルアップ、パッシブスキル・ツリー、魂のソケット、そしてスキルジェム。
ドロップ品でしかモンスターは倒せない。
その、あまりにも刺激的で、そしてあまりにも分かりやすいルール。
人々は、もはや政府の発表を遠い世界の政治ショーとして傍観してはいなかった。
彼らは気づいてしまったのだ。
これは、自分たち全員が参加資格を持つ、人類史上最大の、そして報酬が得られる、究極の新作ゲームなのだと。
***
東京・早稲田のキャンパス。
昼休みの学生食堂は、その喧騒の中心地となっていた。
巨大なモニターには、渋谷での自衛隊の先行調査の映像が、繰り返し、繰り返し再生されている。
以前は「怖い」「凄い」といった曖昧な感想を抱いていた学生たちも、今やその視線は、獲物を値踏みするプロゲーマーのそれへと変わっていた。
「おい見たかよ今の! あそこのAR表示!」
経済学部の三年生・健太が、カツカレーを口に運ぶのも忘れ、興奮した声で叫んだ。
「片手剣、レアリティ『コモン』だ! ってことはだ、『アンコモン』も『レア』も絶対あるってことだろ!?」
「当たり前だろ」
隣の法学部の友人が、冷静な顔でスマートフォンをタップしながら応じた。
「問題は、そのドロップ率と、魔法特性の数だ。麻生大臣は『攻撃速度上昇』とか『火炎ダメージ追加』が確認されたって言ってた。これ、完全にハクスラじゃねえか」
「だよな! ヤバい! 胸が熱すぎる……!」
彼らのテーブルの議論は、もはや就職活動や昨日の合コンの話ではなかった。
どの武器でダンジョンに挑むか。
その人生を左右するかもしれない「初期ビルド」の選択についてだった。
「俺はやっぱり両手剣だな!」
体育会系の上腕二頭筋を誇示するように、健太が言った。
「ロマンだろ、やっぱり。一撃必殺! パッシブツリーも絶対『両手武器ダメージアップ』とかあるって!」
「馬鹿かお前。初見のダンジョンで両手剣ノーガードは、自殺行為だろ」
法学部が鼻で笑う。
「常識的に考えろ。初期装備で一番安定するのは、麻生大臣が『推奨』してた片手剣と盾だ。防御を固めて敵の動きを見極める。生存率こそが、最初の数週間を生き残るための唯一の正義だ」
「えー、でもでも!」
テーブルの紅一点、文学部の少女が目を輝かせて割り込んできた。
「私、ワンド(魔法の杖)使ってみたい! 魔法使いとか最高じゃない!? 後ろから安全にファイアボールとか撃てたら、絶対カッコいい!」
「弓も良いよな」
アーチェリーサークルの男が、静かに、しかし熱っぽく語った。
「渋谷の映像でも、自衛隊は銃が効かないと分かった瞬間、すぐに近接戦闘に切り替えてた。つまり、遠距離攻撃の手段が極端に限られてる可能性が高い。弓は間違いなく最強の武器種の一つになる。俺のこの数年間の修練が、ついに報われる時が来た……!」
「いや、待て」
それまで黙っていた一人の学生が、静かに、しかしその瞳に狂気にも似た光を宿して呟いた。
大学剣道部の主将だった。
「……おかしいと思わないか。あのドロップ品のリストに、『刀(Katana)』がなかったことを」
「え? ああ、そういえば……」
「政府が意図的に隠しているのか。それとも、まだ発見されていないのか。だが、もし、もしだぞ。この日本という国のダンジョンで、『刀』がS級の超レアアイテムとしてドロップするとしたら……」
彼は、自らの竹刀袋を、まるで愛おしい恋人でも撫でるかのように、そっと指でなぞった。
「俺は、この剣道に捧げた青春の全てを、その一本に賭ける……!」
若者たちの、あまりにも中二病的で、しかしそれゆえに何よりも純粋な熱狂が、日本中のキャンパスを、教室を、そして子供部屋を席巻していた。
彼らにとってダンジョンとは、もはや「脅威」ではない。
退屈な日常と、先行きの見えない未来を一撃で粉砕してくれる、最高の、そして唯一の希望そのものだった。
***
その熱狂を、メディアが黙って見過ごすはずもなかった。
民放各局はこぞってゴールデンタイムに、
『緊急生特番! ダンジョン・エイジ完全攻略マニュアル』
といった扇情的な番組を編成した。
スタジオには、元自衛隊の軍事アナリスト、ゲーム攻略サイトのカリスマ編集長、そしてなぜか経済評論家までが一堂に会し、真剣な顔で「最強のビルド」について議論を戦わせている。
「――ですから、私が申し上げたいのは安全マージンです!」
軍事アナリストが熱っぽく語る。
「先行調査の映像を0.1秒単位で解析しましたが、ゴブリンとはいえ、その攻撃力は侮れない。素人がまともに食らえば、骨折は免れないでしょう。
そこで政府が推奨する『全部位装備』。これは絶対に守るべき鉄則です。特に、遠距離職が良いのではと私は考えます。弓、あるいはワンド。敵に触れさせず、一方的に攻撃できる。これこそが、初心者が生き残るための最も賢明な戦術です」
「いや、甘いですね」
ゲーム編集長が、その分析を鼻で笑った。
「あなたはダンジョンを分かっていない。ハクスラの基本は、敵を倒す『速度』です。安全マージンにこだわって、ちまちま遠くから攻撃していて、一体時給いくら稼げるというのですか?
我々の試算では、F級ダンジョンの一日の平均収入は十万円。これは、あくまで『効率的に』周回した場合の数字です。
つまり最も稼げるのは、防御を捨て、攻撃力に特化し、敵の群れを『一撃』で殲滅できる、両手斧や両手メイスを持った近接物理職ですよ!」
「しかし、それはリスクが高すぎる!」
「リスクを取らなければリターンはない! これはビジネスなんです!」
そのあまりにも非現実的で、しかしどこまでも真剣な議論。
その横で、経済評論家がソロバンを弾きながら、冷静に解説を加えた。
「皆様。問題はそこだけではありません。その『初期装備』をどうやって手に入れるかです。
麻生大臣は気前よく『一品十万円前後』と仰ってくださいました。
ですが皆様、冷静になってください。
兜、鎧、手足、ベルト、指輪二個、首輪、そして武器……。
最低でも九つの部位があります。
つまり、ダンジョンに挑むための最低限の『参加費用』として、約百万円が必要になるということです」
百万円。
その、あまりにも生々しい現実的な数字。
スタジオが、そしてお茶の間が、一瞬静まり返った。
「もちろん」
評論家は続ける。
「ダンジョンで真剣に稼ぐなら、一日十万円として十日間頑張れば元は取れる。素晴らしい投資です。
ですが問題は、その『最初の百万円』をどうやって工面するのか。
特に、この熱狂の最大の担い手である学生や若者たちが」
「とはいえ」
彼は結論付けた。
「この熱狂です。一ヶ月後の、あの『第一回・公式ドロップ品オークション』。
そこで提示される十万円という価格は、あくまで『政府の希望小売価格』に過ぎません。
蓋を開けてみれば、世界中の投機マネーも流入し、需要と供給のバランスが崩壊。
最初の武器一本が百万円、いや一千万円で取引されるという、地獄のような高値がつく可能性も十分にあります。
賢明な消費者の皆様は、最初の熱狂には乗らず、装備の流通量が増え、価格が安定するであろう第二次、第三次のオークションを待つのも、一つの賢い選択かもしれませんな」
その、あまりにも現実的で、そして冷徹な分析。
それは、日本中の家庭に、新しい、そして最も切実な火種をばら撒いた。
***
「――だから! お願いなんだよ、父さん!」
とある郊外の平凡な一軒家。
高校二年生のタケルという名の少年が、居間のちゃぶ台の前で、人生で初めての真剣な土下座をしていた。
その視線の先には、仕事から帰ってきたばかりの、疲れ切った表情の父親が座っている。
「百万円! いや、安全マージンを見て百五十万円! それだけ俺に投資してくれ!」
その、あまりにも突拍子もない息子の懇願。
父親は、深いため息をついた。
「……タケル。お前、自分が何を言っているのか分かっているのか。百五十万円だぞ。
お前の大学の入学金のために、父さんと母さんがどれだけ切り詰めて貯めてきた金だと……」
「大学なんて行ってる場合じゃないんだよ!」
タケルは顔を上げた。その目には、本気の光が宿っていた。
「今行かなきゃダメなんだ! 乗り遅れるんだ!
先行者利益! 父さんもビジネスマンなら分かるだろ!?
最初のあのオークションで最速で装備を揃えて、誰よりも早くダンジョンに潜る!
そこで稼いだ金でもっと強い装備を買って、もっと上の階層を目指す!
そうすれば一日十万どころじゃない! 月に一千万、いや億だって……!」
「馬鹿なことを言うな!」
父親が怒鳴った。
「お前は、麻生大臣のあの最後の言葉を聞いていなかったのか!? 『自己責任』だと!
もしお前が、その百五十万円の装備ごとダンジョンでモンスターに殺されたらどうするんだ!?
我々には一円も戻ってこないんだぞ!」
「死なないよ!」
「なぜそう言い切れる!」
「だってレベルアップしたらHPが――」
「ゲームじゃないんだ、これは!」
親子の、決して交わることのない価値観の断絶。
それが今、日本中の何百万という家庭で、同時に繰り広げられていた。
親を説得して、なけなしの貯金を、あるいは教育ローンを引き出そうとする子供たち。
その、あまりにも危険な熱狂に頭を抱える親たち。
銀行の窓口には「探索者準備ローン」に関する問い合わせが殺到し、
剣道場やアーチェリー教室は、これまでの百年分の入門希望者が、たった一日で押しかけ、パンク状態に陥っていた。
日本は、狂っていた。
誰もが半年後に約束された、その輝かしい『ダンジョン』という名の宝くじの一等を夢見て。
その、あまりにも危険な社会的熱狂の、その頂点で。
一人の、神のスキルを持たないダンジョン大臣だけが、眠らない執務室で、
この狂ってしまった国民たちの、その欲望の奔流を、
どうやって国家の破綻という最悪の結末へと導かないようにするか。
その、あまりにも重い、たった一つの答えを、血の滲むような思いで探し続けていた。




