第10話
ホワイトハウスのオーバルオフィスに、あのゴスロリ姿の少女が顕現してから、数週間が経過した。
その間、アメリカ合衆国という国家は、外見上は何一つ変わらなかった。しかし、その内部、国家安全保障の中枢では、歴史上のいかなる革命にも匹敵する地殻変動が起きていた。
ネバダ州の乾燥した大地。その地下深くに存在する、地図にはない軍事研究施設「サイト・オメガ」。
そこでは、アメリカ軍が誇る最も精鋭な特殊部隊員の中から、さらに選抜された十二名の兵士たちが、極秘の「次世代能力向上プログラム」に参加していた。
彼らは皆、歴戦の勇士だった。その肉体は人間の限界まで鍛え上げられ、その精神は、あらゆる極限状況を乗り越えてきた鋼の如きものだった。
彼らは、このプログラムを一種の新型薬物か、あるいは遺伝子治療の臨床試験だろうと考えていた。担当の軍医から、「効果を最大化するためのただのビタミン剤だ」と説明された一本の注射を打たれるまでは。
その「覚醒」は、訓練開始から三日後のことだった。
体力測定を行っていた一人の兵士が、自身のパンチで、百キロ以上の重量がある強化サンドバッグを、鎖ごと天井から引きちぎったのだ。
彼は、信じられないという顔で自らの拳を見つめていた。その場にいた誰もが、言葉を失った。
それは、始まりに過ぎなかった。
ある兵士は、完全武装のまま百メートルを九秒台で駆け抜けた。
またある兵士は、四十キロの装備を背負いながら、垂直な壁を、僅かな突起を頼りに、まるでヤモリのように駆け上がってみせた。
彼らの身体能力は、例外なく、人間の限界を遥かに超越した、オリンピックの金メダリスト級の領域へと覚醒していた。
プログラムの最終日、模擬戦闘訓練が行われた。
覚醒した兵士一名に対し、相手は彼らの同僚である通常の特殊部隊員二十四名。広大な市街地を模した訓練施設での、実弾さながらの演習だった。
結果は、惨憺たるものだった。
覚醒した兵士は、二十四名の精鋭を、わずか十五分で全員「戦闘不能」にした。
彼は、銃弾を見てから避けた。常人には見えないほどの速度で影から影へと移動し、背後から音もなく敵を無力化した。監視モニターでその様子を見ていた国防総省の将軍たちは、その人間離れした戦闘能力に、もはや笑うしかなかった。
報告書には、こう記された。
「対象兵士一名の戦闘能力は、一個小隊に匹敵、あるいは凌駕する。特に、特殊部隊員との比較において、その能力値は、筋力、速度、反射神経全てにおいて、およそ『二倍』の数値を記録した」
数値上は、たったの二倍。その数字だけを見れば、驚くほどおとなしいものに思えるかもしれない。
だが、その実態は、恐ろしいほどに一方的なものだった。訓練に参加した通常兵士の一人は、後にこう語っている。
「我々は、人間と戦っているのではなかった。まるで、映画に出てくるプレデターか何かと戦っているようだった。我々が彼を認識した時には、もう全てが終わっているのだ」
同じ頃、バージニア州ラングレー、CIA本部。
その一角に新たに設立された極秘の分析ユニット「カサンドラ」では、別の奇跡が静かに起きていた。
彼らの任務は、日本の「KAMI」から、直接彼らの部署のサーバーに送りつけられてくる、謎のデータストリームを解読すること。
そのデータは、常人には全く意味をなさない、暗号の羅列にしか見えなかった。いくつかの数字、中東の特定の都市名、そして「肥料」、「白いバン」といった、脈絡のない単語。
最初は、誰もが半信半疑だった。簡単なテストも、いくつか行われた。日本の総理が言っていた通り、KAMIは、未来に発売される雑誌の表紙の画像や、翌日の株価の終値といった、答え合わせの容易な「情報」を時折送ってきた。それらが百パーセントの確率で的中したことで、ユニットの分析官たちは、この情報源が本物であることを確信せざるを得なかった。
そして、最初の「本番」が訪れる。
送られてきたのは、「イエメン、サナア、旧市場」、「午前十一時」、「硝酸アンモニウム」、「バン」という、断片的なキーワード。
ユニットは、それらの情報から大規模な車両爆弾テロの可能性を導き出し、最高レベルの警戒情報を発令した。現地に展開していたデルタフォースのチームが、緊急出動する。
そして彼らは、指定された時刻の数分前、旧市場の入り口に停車していた一台の不審な白いバンの中から、大量の爆薬を発見、解体することに成功したのだ。もし爆発していれば、数百人の一般市民が犠牲になっていた未曾有の大惨事を、彼らは未然に防いだ。
同様の成功事例は、国内でも報告された。
「ニューヨーク、地下鉄、ロッカー」、「ボツリヌス菌」という情報から、生物テロを計画していたカルト教団のメンバーを事前に察知し、逮捕。
「カリフォルニア、高速道路、橋脚の亀裂」という情報から、大規模な崩落事故につながる可能性のあった、インフラの致命的な欠陥を発見。
CIAとDIAは、この「限定的未来予知」の力によって、まるで神の視点を得たかのように、国内外のあらゆる危機を次々と摘み取っていった。
ホワイトハウス、シチュエーションルーム。
トンプソン大統領と彼の側近たちは、それらの報告書を前に、もはや隠すことのできない興奮と、勝利の昂揚に包まれていた。
「……信じられん。これは、まさに神の力だ…」
国防長官が、感嘆の声を漏らす。スクリーンには、サイト・オメガで撮影された、超人兵士の驚異的な戦闘映像が映し出されていた。
「未来予知の方も完璧です、大統領」と、CIA長官が満足げに報告する。「カサンドラ・ユニットは、この一ヶ月で、大小合わせて十七件のテロや大事故を未然に防ぎました。人的被害も、経済的損失もゼロです。これは、我が国の諜報史上、最大の成果と言えるでしょう」
その場にいた誰もが、笑みを浮かべていた。
彼らは、ついに手に入れたのだ。絶対的な力を。
兵士は傷つかず、国民は脅かされない。あらゆる脅威は、事前に察知し、排除できる。これこそが、アメリカが長年夢見てきた、完璧な安全保障。完全なる平和。
狂喜乱舞。
まさに、その言葉がふさわしい光景だった。
「……諸君。少し、頭を冷やしたまえ」
その祝賀ムードに冷水を浴びせたのは、トンプソン大統領その人だった。
彼は腕を組み、厳しい表情で、浮かれている閣僚たちを見渡した。
「落ち着こう。確かに、我々は信じがたい力を手に入れた。だが、忘れてはならない。我々の身に起きているこの奇跡は、そっくりそのまま日本の身にも起きているのだ。そして、彼らの方が、我々よりも一ヶ月先に進んでいる」
トンプソンの言葉に、部屋の空気が急速に冷却されていく。
「我々は、遅れていたスタートラインに、ようやく追いついただけだ。本当の競争は、ここから始まる。そして、その競争相手は、もはや我々が知るどの国家でもない」
そうだと、誰もが思い出した。
彼らは、力を手に入れた。だが、その力の源は、未だ謎に包まれたままだ。
気まぐれで、底が知れず、そして人類の価値観が一切通用しない、あのゴスロリ姿の「神」。
「……我々が今、最優先で考えるべきは一つだ」
トンプソンは、テーブルを指で強く叩いた。
「この力が、これ以上他国に拡散しないようにすること。特に、中国とロシア。あの二国が、我々と同じ力を手にしたら、世界はどうなる?」
その問いに、誰も答えることはできなかった。
超人兵士を擁する、中国軍。
未来予知能力を持つ、ロシアの諜報機関。
それは、これまで人類が経験したどの冷戦よりも、遥かに危険で、不安定な悪夢の世界の始まりを意味していた。
「……何か手はないのか」と、トンプソンが国家安全保障担当補佐官に問う。「我々がKAMIの力を独占する方法は。対価に何を支払えば、あの少女は、我々とだけの独占契約を結んでくれる?」
補佐官は、しばらく難しい顔で沈黙していたが、やがて静かに首を横に振った。
「……お言葉ですが、大統領。おそらく、それは不可能でしょう」
「不可能だと? 理由を言え」
「相手は、我々が『神』と呼ぶしかない存在です。その行動原理は、我々の理解を超えている。しかし、これまでの行動から、一つだけ推測できることがあります。彼女の目的は、特定の国家に肩入れすることではなく、ただ効率よく『対価』を集めること。その一点に尽きるように思えるのです」
補佐官は続けた。
「彼女にとって、我々も、日本も、そして中国やロシアでさえも、等しくただの『顧客』でしかないのかもしれません。より良い条件を提示する顧客に、商品を売る。ビジネスとして考えれば、ごく自然なことです。我々が力の独占を要求することは、巨大なグローバル企業のCEOに、『明日から我が国以外に製品を売るな』と要求するようなものです。おそらく、一笑に付されるだけでしょう」
そのあまりにも的確で、そして絶望的な分析に、シチュエーションルームは再び重い沈黙に包まれた。
そうか、とトンプソンは思った。
我々は、神の力を手に入れたのではない。ただ、神の新しい「客」になっただけなのだ。
そして、その店には、いつ新しい客が訪れてもおかしくはない。
「……うむ。だよなぁ…」
トンプソンは、天を仰いだ。
「だが、この力が世界中に広まったらどうなる? 中国が、ロシアが、間違いなくその力を使って、既存の世界秩序を力ずくで覆しにくるぞ。台湾へ、ウクライナへ、彼らは必ず侵攻する。その時、それを止められるのは誰だ? 日本は、論外だ。我々アメリカだけが、その責務を負っている…」
それは、世界の警察を自認してきた、覇権国家の苦悩の独白だった。
力を手に入れたが故に、さらに重い責任を背負わされてしまった。
「…悩ましいな」
トンプソンは、深く、深くため息をついた。
彼らは、悪魔との取引によって、確かに楽園への扉を開いた。
だが、その扉のすぐ向こう側には、これまでとは比較にならないほど複雑で、危険な新しい地獄が、口を開けて待っていたのだ。
これから始まるのは、核兵器でも、経済力でもない。
「神の寵愛」を奪い合う、新たな時代の、新たな冷戦。
そして、その審判の座には、日本のどこかの部屋で、ただ自らの探究心を満たすことだけを考えている一人の女が、退屈そうに座っている。
その事実に、トンプソンは今、気づき始めていた。
このゲームのルールを作るのは、自分たちではないのだと。