『役割配給制』
朝。
古びたアパートの郵便受けから、いつもの「ガサッ」という音が響く。
悠真は眠たげな目をこすりながらポストを開け、一枚の紙を取り出した。
そこにはシンプルに一言だけ書かれている。
> 「役割:息子」
深く考えず、その紙をポケットに入れる。
この世界では、毎朝ポストに届く紙が、その日一日の「役」を決めるのだ。
昨日は「友人」。
一昨日は「部下」。
人は与えられた役を演じ、その日を終える。
悠真もそうして生きてきた。
ある日は会社員としてオフィスに通い、
ある日は家族に囲まれて食卓につき、
またある日は見知らぬ誰かの弟として肩を並べる。
役は日ごとに変わるのに、誰もその矛盾を口にしない。
それが「当たり前」の世界だからだ。
けれど悠真は、ときどき奇妙な既視感に襲われた。
笑い声に胸が締めつけられる。
夕暮れの公園を歩くと、懐かしさに足が止まる。
夢の断片のような光景が、現実に差し込んでくるのだ。
ある朝、ポストに届いた紙にはこう書かれていた。
> 「役割:恋人」
駅前で待つと、彼女はいた。
「悠真!」と名前を呼んで駆け寄ってくる女性。
美咲。
その笑顔を見た瞬間、悠真の胸が大きく跳ねた。
手を握られると、言葉では説明できない温かさが広がっていく。
彼女と並んで歩き、映画を観て、他愛もない会話をする。
「役割」として与えられた時間のはずなのに、どうしようもなく心に沁みる。
――知っている。この温もりを。
けれど、どこで? いつ?
翌日は別の役を与えられた。
「上司」として部下を叱り、
「客」として店で料理を食べ、
「弟」として兄に甘えた。
けれど、どんな役を演じても、美咲の姿だけは鮮明に残り続けた。
ある朝、ポストに届いた封筒は、これまでとは違っていた。
厚い紙に力強い文字が記されている。
> 「役割:あなた自身」
悠真は立ちすくんだ。
「自分自身」とは何だ?
今まで演じてきたものは、全部他人だったのか?
町を歩いても、誰も彼に声をかけない。
世界が自分を見失ったように静まり返っている。
その瞬間、記憶が奔流のように押し寄せた。
割れるガラス。
車のクラクション。
叫ぶ声。
崩れる意識。
――病院。白い天井。
そして泣きじゃくる美咲の声。
「悠真……戻ってきて……!」
すべてが繋がった。
役割の世界は、意識の奥で失われた記憶を取り戻すための迷路だったのだ。
まぶしい光の中で、悠真はゆっくりと瞼を開けた。
病室の天井。規則的な機械音。点滴の重み。
隣には、美咲が座っていた。
目を真っ赤にして、それでも笑おうとする顔。
「……悠真……! 本当に……!」
言葉にならない声に応えながら、悠真はかすれた声で呟いた。
「……ただいま、美咲」
握られた手の温かさが、現実を確かに引き戻してくれた。
窓の外には夕陽が差し込み、長い夢を終えた二人を包んでいた。
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