第九話:阻止
「椿さん。起きてください。」
桜木の声がした。俺は、その声に反応して目を覚ます。そして、体を起こして時計を見た。
「おはようございます。」
桜木は、無表情でそう言った。彼女はすでに着替えているようで、パジャマからセーラー服に変わっていた。
「おはよう。」
俺も挨拶を返したが、しかし眠いものは眠いのだ!最近は気疲れなのか、いくら寝ても眠い気がする。
「椿さん。朝食の準備ができています。私はもう準備を済ませました、椿さん次第でいつでも登校が可能です。」
淡々とした様子で桜木は語る。
ただ、その無表情な中でも今の彼女は、どこか楽しんでいるように俺は感じた。
「ああ、分かった。じゃあ食べようか。」
俺はそういうとベッドから出たのだった。朝食はご飯に味噌汁、目玉焼きと卵焼きだ。それから冷凍食品のハンバーグが並んでいる。あとはサラダといったメニューだった。そしてどれも美味しかったのだが、朝から豪勢なことだ。
というより、冷蔵庫の中は空だったような気がする。この食材はどこから出てきたのか?俺は、それ以上考えることをやめて、目玉焼きを突くことに専念した。結局、俺は朝からその量の朝食を食べきることが出来ず。しかし、捨てるのはもったいないと、桜木は、自分の弁当箱に詰め込んでいた。
「出発しましょう、椿さん。」
顔を洗った俺に、桜木はそういった。
「よし、いこう。」
俺はそう言って、玄関を出た。俺と桜木は、住宅地を歩いていた。その時間はギリギリといったところ。もし、あと5分くらい遅れることがあれば、確実に遅刻するような時間だ。しかし、桜木も俺もそれに動じることはない。桜木は、動揺をするようなタイプではないし、俺もこの時刻だと遅刻をしないことを知っているのだ。
「椿さんは、いつもこの時間帯に登校しているのですか?」
「そうだな。まあ、大体同じ時間に学校に着くようにしているな」
俺はそう答えた。夏服のセーラー服を着た桜木は、俺の先導をして歩いている。彼女の歩幅は小さいので、なんだか小走りをしているようにも見えた。ただ、まったく息を切らしているようにも見えない。
「なるほど。」
そんな桜木はそう答えた。しばらく歩いていれば、高校が見えてきた。俺は下駄箱で上履きに履き替えてから、自分たちの教室へと向かったのだった。
「おはよう!椿君!桜木さん!」
教室に入るとすぐに、米倉が俺や桜木へ話しかけてきた。彼女は、今日も変わらず、俺にご熱心のようだ。
「ああ、おはよう。米倉さん。」
俺が挨拶を返すと彼女は嬉しそうに笑った。桜木は無視しているようだ。おいおい、これはいいのか?俺はそう思った。
「おい、沙織。こんな根暗にまで、そんな律儀に挨拶しなくてもいいだろ。」
「結衣?挨拶は、大事なのよ。ちゃんとしないと。」
「まあ、そうなんだが。もっとこう適当な感じで。じゃないと勘違いされるだろ?」
米倉と話しているのは早川だ。そんなやり取りを聞きながら、俺は自分の席に着いた。今日も無事に過ごせますように、俺は祈った。そして、昨日の話したように早川と米倉が動いてくれればいいな、と思いながら、自分の席に頭を伏したのだった。
俺が机に頭を伏している間にも、順調に時間は経過していく。授業を受ける。休み時間になる。それを繰り返していく。いつもの日々だ。やがて、昼休みになった。俺は、机らから頭を上げた。頭は十分に働いていない。しばらくぼーっと、そこにいた。そして、桜木と昼飯を食べるために教室から移動するか、と考え始めていた矢先だった。
「おい、椿。」
俺は、自分の席で声を掛けられた。声の元をたどると、早川がいた。
「ちょっと面貸せや。」
早川は、睨みを利かせながらそう言ったのだった。
「あっああ、あ、おおい!」
俺は意味不明なことしか言えなかった。
「うるさい。着いてこい!」
早川に一喝されて、俺は、腕ごと掴まれて連行されていった。その様子を桜木は、遠くから見ているだけだった。早川に連れてこられたのは、校庭の隅。その一画にある部室棟だ。プレハブで作られた簡易的な建物が部室棟だ。その一部屋。女子陸上部とプレートがある部屋へ、俺は引っ張るように連れてこられた。早川は、女子陸上部なのかと、俺は場違いなことを考えた。
早川は、プレハブ小屋にある、アルミ製の扉を開く。中に誰かがいる。長い髪を持った女子。米倉だ。早川に俺を部室の中へ投げ込むように、押し込んだ。そして、扉を閉めた。内鍵を閉めた音が後ろからする。
目の前には、米倉が俺を見ていた。
「椿君。ああ、ごめんなさいね。」
「いいんだ。こんなやつ、適当で。」
米倉が乱暴な扱いに対して、俺に謝ってきたようだ。しかし、横から早川が口を挟む。
「えっと。」
俺は、それだけ言った。これは桜木が何かをした結果なのか?じっと考える。
「椿君。ここに来てもらったのは、ちょっと聞きたいことがあったからで。」
米倉は、煮えたぎらない態度で話を続けようとした。
「沙織。本題を言ったほうがいいと思う。」
「そうね。」
そんな二人のやり取りを俺は、ただ見ているだけだ。
「椿君。あなた、桜木さんと付き合っているって本当なの?」
「ああ、そうだ。付き合っている。」
俺は、淡々とそう答えた。
「そう、なら別れてくれる?」
これまでのお願いという調子ではなく、どこか氷のような冷たさが感じる声で米倉はそういった。隣にいた、早川も疑問に思ったように米倉を見始めた。
「椿君は、桜木さんなんかより、私と付き合ったほうが、いいわ。」
米倉は続けてそういった。そんな米倉を驚いたように早川が見ている。
「えっと、どういうことだ?」
俺は訳も分からず質問した。
「だって、椿君は桜木さんと付き合っているんでしょう?だから、まずは二人が分かれないと、椿君が、私の彼氏にならないじゃない?」
その話を聞いているのか聞いていないのか、隣で黙って聞いていた早川が口を挟む。
「沙織!さっき、言っていた話と違うじゃないか。」
早川が動揺を隠せないように話を続けた。
「それにこんな根暗のどこがいいんだ。」
「結衣、黙って。」
どこか恐ろしさを感じるような米倉は、早川を黙らせたようだ。そして俺に向き直った。
「椿君、私と付き合いましょう。そうすれば桜木さんとは別れてくれるでしょう?」
そんな提案をされた。俺は、少し考えることにしたが、答えは決まっていた。
「いや、断るよ。」
そう答えたのだった。
「どうして?」
米倉は俺に聞いてくる。しかし、俺の答えは変わらないのだ。
「君と付き合うつもりはない。俺は桜木と別れる気はないよ。」
実のところ、桜木とは恋人かどうか怪しいのだが。俺はそういった。
「そんな!どうして?」
彼女は必至の形相でそういった。それはあの殺された日に見せた顔に近い。そして、米倉は俯いた。その普段からは予想もできない、不安定で神経質そうな米倉の様子に、早川は驚愕しているようで、動揺し何も言えないようだ。
「桜木なんかより、ずっと私は奇麗でしょう?」
ふっと、俺のほうを向いて米倉は、そういうと、俺の手を自分の胸に押し当てた。彼女の胸はとても柔らかくて暖かいのだが、この状況ではそんな感触を楽しんでいる余裕はなかったのだ。
「ねえ、椿君。私を選ぶわよね?」
彼女の顔には有無を言わせないような迫力があった。そんな米倉に気圧されて、俺は言葉を失いかけた。
「……いや、俺は桜木を裏切れない。」
俺は、かろうじてそう言った。
「そう、分かった。なら、仕方ないわ。」
米倉はそういうと、さっと、自分の鞄から金属製の何かを取り出した。
……牛刀型の包丁だ。
「おい!沙織!何をするつもりだ!」
早川はそう言って、包丁を奪い取ろうとしたが、その前に、米倉は包丁を自分の首へ押し当てた。
周辺の空気が止まった。
「桜木さんにはもう関わらないで!そして私を選んで!」
彼女は俺にそう詰め寄ったのだ。
「いや、それは出来ない。」
俺はそう言った。彼女の心の内を知っている自分は、たとえどうであっても彼女とは付き合いたくない。
それが本心だった。
「そう。じゃあ、椿君……。」
自らを人質に取りながら、米倉は言葉を続ける。早川は隙を見て取り押さえようとしているようだが、今のところは隙が無い。
「桜木さんと別れないなら、私は死ぬ。そして、椿君も殺す。」
米倉は、話を続けた。
「沙織。そんなことをしても何もならない。馬鹿な真似はやめたほうがいい。」
早川は、説得しようとしているようで、ゆっくりと落ち着いたように話していた。
「何もならないですって?いいえ、間違えている。あなたたちには価値がないの、初めから。」
どこか、遠くを見ながら米倉は話し始めた。
「沙織?何を言っているんだ?」
早川は、米倉に問いかけた。彼女は話す。
「私はね、無価値な人間なの。そうね。私には、姉がいるのよ。その姉はね、大学生なんだけど。私とは違ってけた違いに出来がいいの……」
それから、あの時、俺が殺される前に、話した内容を米倉は話し始めた。彼女の劣等感や屈折し鬱積した感情が、彼女の口から語られた。
「……私はね。そんな無価値な人間が嫌いなの。でも、一番嫌いなのは、そんな無価値な私。……そして、無価値なことを知らずにのうのうと生きている、椿のような人間が大嫌い。そんな人間に彼女がいるなんて許せない!」
米倉はそういい終わると、包丁を手に一直線に俺へと向かってきた。
「やめろ!」
早川がそう言って、米倉に飛び交ったが、もう遅い。彼女は何か訓練を受けているようで、的確に俺の急所である腹部と狙っている。刃が刺さるかと思った瞬間だった。米倉の動きが止まった。
「えっ?」
俺が呟く。止まっているのは米倉だけではない。飛び掛かって止めようしている早川が奇妙なポーズで止まっている。音がしない空間。何もかもが停止していた。そして、いつの間にか、俺の後ろに桜木が立っていた。
「桜木か。」
俺は、その現象が何であるかを直感的に理解した。桜木は俺の前に出た。そして、時間が止まっている空間で、桜木は、米倉の包丁を持っている手を無理やり広げて、包丁を取り上げる。桜木は、米倉が持っていた包丁を手にしていた。
「椿さん。これで、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。」
俺がそういうと、音が復活した。
「沙織!」
早川は、米倉を取り押さえた。
「そんな……どうして……。」
早川に床に押し付けられるように抑えられた米倉がそう呻くように呟いていた。しかし、俺が周囲を見ると、桜木はいなくなっていた。その後、脱力している米倉は、早川に連れられてどこかに行った。俺はとりあえず、助かったことに安堵した。
「椿さん、戻りましょう。」
ふと、隣から声がする。桜木がいた。いつの間にか、俺の横にいた桜木は、先ほどの包丁を手にしていた。俺は桜木に言われたように、部室を出て校舎へと向かった。