第四話:反転
放課後になると俺は、すぐに帰る準備をした。今日はもう何も用事はなかった。俺が立ち上がると、米倉が話しかけてきた。
「椿くん、一緒に帰らない?」
米倉の声に俺は一瞬驚いた。彼女はこんなに優しく人に接しているのだろうか?
これだと確かに勘違いする生徒も出てくるな、と俺は思った。
「いや。……今日は友達と帰る予定になっていて。」
俺は、そう言った。適当な文句で断ることにする。
ただ、俺がそう言い終わったとき、彼女は何か可笑しかったのか、笑い出した。
「椿君。それは嘘ね?」
米倉はそう言った。そういわれて、俺も気が付いた。俺と一緒に下校する友達なんていないことが周囲にも、とっくに知られていることに。
「どうしても、ダメかな?クラス委員として一緒に帰りたいんだけど?」
米倉は、俺に向かってそういった。
「嘘をついたのは、すまなかった。つい、いつもの癖で。」
「あはは、椿君は、いつもそうやって一人でいるんだね。」
ニコリと天使のように微笑んでいる米倉はそう言って、俺の手を取った。
「でも、大丈夫だよ、椿君。」
ゆっくりとそう言った彼女の真っすぐな眼差しが、じっと俺を見る。
時間が止まったような、そんな錯覚すら覚えた。
「私がいるからね。」
「え?」
俺は思わず聞き返した。どういう意味で言っているのだろうか? そんなことを俺が考えていると、彼女は俺の手を握ったまま歩き出した。
そして、そのまま教室の外へと連れ出されてしまった。俺は彼女に引っ張られるままについていくしかなかった。
「ちょっと、米倉さん!?」
俺は彼女の行動に驚きを隠せないが、彼女はお構いなしだ。そのまま廊下を進み、階段を下りていく。その間もずっと手は握られたままだった。
俺は、そのまま米倉に先導されて校門を出た。
「椿君、とりあえず付き合って。すぐに終わるから。」
米倉は、そういって、俺の家の方向とは逆方向を歩き出した。
俺はなんて答えていいのか分からないので、無言で、そのままついていくことにした。
住宅街を彼女と歩く。
「俺の家は反対方向なんだがな。」
「そう。でも、これから行くところは近くだから、大丈夫。」
彼女は真剣な表情でそういってから、話を続けた。
「椿君の家には、この方向じゃないんだね。」
「ああ。」
「じゃあ、このまま私の家に行こう。」
「え?」
俺は、一瞬思考が止まった。それはどういう意味だろうか?
「私ね、この高校に通うために実家を出てるの。………実は私、一人暮らしなの。」
彼女は、俺の手を引っ張りながらもこちらを見てそう言った。彼女が一人暮らしであることは初耳だ。もちろんそんな話は聞いたことがないので当然だが。でも、それが今なんの関係があるのだろうか? そんな俺の疑問をよそに米倉は話を続けた。
「え?……ええ!?」
俺は思わず大きな声を出してしまった。彼女はそんな俺を見て、くすりと笑った。そして、そのまま俺の手を引いて歩き出した。彼女の手は温かく、柔らかい手だった。
「ちょっと、米倉さん!」
俺は慌てて彼女に声をかけるが、彼女は何も答えなかった。ただ黙って前を向いて歩いているだけだ。俺は仕方なく彼女について行くことにした。
5分も掛からないくらいの時間。
彼女に先導されて歩いていると、あるマンションの前で彼女の足は止まった。
「ここが私の家。」
「ここが、米倉さんが住んでるマンション!?」
俺は思わず聞き返してしまう。彼女は黙って頷いた。
マンションは、広い敷地があって駐車場になっていた。
とても、高校生が一人暮らしをするような物件ではない。
「ついてきて。」
彼女はそういうと、俺の手を引いてマンションの敷地へと入っていく。俺は彼女にされるがままだった。
広いエントランスが見える。その前にあるオートロックのドアに立った。
「私の部屋番号は、1503よ。」
彼女はそう言って、笑った。そして、オートロックを持っていたカードキーで開ける。
「えっと、米倉さん。どうしてここまで?」
「ふふっ。そうね。どうしてかしら?」
試すように、俺に話しかける彼女は、妖精のように美しい。
大理石やシャンデリアなどで飾り付けられたエントランスの奥にあるエレベーターに乗り込んで、15階まで上がった。
エレベーターから廊下へ降りると、白一色の奇麗な内装が見えた。
彼女は歩き出して、部屋まで案内を始める。
「どうぞ。」
彼女はそういうと、カードキーを使って部屋のドアを開けた。
「いや、いいのか?ホントに?」
「いいのよ、椿君。」
米倉はにっこりとほほ笑んだ。
この笑みの裏には、さっさと家へ上がれといっているように感じた。
俺は恐る恐る中に入ることにした。彼女の部屋は、マンションの部屋とは思えないほど広かった。
真っ白な壁にはシミ一つなく、清潔感が漂っていた。
フローリングの床も掃除が行き届いているようで、部屋の隅には大きな鏡があり、天井まで届くような本棚が置いてあった。机の上にはパソコンが置かれている。
「椿君、そこに座って。」
俺は彼女に言われたとおりにリビングにあった椅子に腰かけた。彼女はリビングから移動した。ダイニングキッチンにいる彼女が見える。
冷蔵庫から何かを取り出して、コップを二つ用意している。
「お茶しかないけど、いい?」
彼女はそう言ってから、二つのグラスにお茶を注いでいく。
「ああ。」
俺はそう答えたが、内心緊張していた。まさか米倉の家にお邪魔するとは思わなかったからだ。
「はい。」
彼女は俺にグラスを渡してくれた。俺はそれを受け取ると一口飲んだ。冷たい麦茶の味が口の中に広がった。そして、そのまま彼女はテーブルを挟んで俺と向かい合うように座った。
「ありがとう、米倉さん。」
俺は彼女に礼を言った。米倉は首を横に振った後、口を開いた。
「ううん。こちらこそありがとうね。」
そういうと彼女は微笑んだ。彼女の笑みはとても美しく見えた。俺は思わず見惚れてしまうほどだったが、これまで教室で見てきた笑顔とは違って、どこか空虚なものを感じた。
米倉は俺の様子を見て察したのだろう、クスクスと笑う声が聞こえた気がした。
沈黙が続く中で、先に口を開いたのは米倉だった。
「ねぇ椿君?」
「なんだ?」
「どうして私が一人暮らしをしているか分かる?」
米倉は唐突にそう聞いてきた。俺は少し考えた後、正直に答えた。
「分からない。」
俺の答えに彼女は満足そうに頷いた。そして、そのまま続けた。
「私はね、両親と仲が悪いの。……だから一人暮らしをしているのよ。」
米倉はそういうと、自分のグラスに入ったお茶を飲み干した。そして、また注ぐと一口飲んだ。彼女の白い喉が動く様子が見える。
「私には、姉がいるのよ。その姉はね、大学生なんだけど。私とは違ってけた違いに出来がいいの。」
米倉はそう言ってから、俺を見た。その目は真剣で、何かを訴えかけているように見えた。
「私は出来損ないなの。だけど、私は頑張ったわ。」
米倉の口調は、少し強いものに変わっていった。俺は黙って聞いていた。
「でも、私はダメだったわ。出来ることは、こんな片田舎の高校で優等生の真似事をすることくらい。でも、姉は。」
米倉は、そこまでいうと、目線を落とした。そして悲しそうに話を続ける。
「海外の名門大学へ特待生として留学している。……そして、最近、彼女はまた、何か画期的な研究論文を発表したらしいわ。」
米倉はそこまで言うと、大きくため息をついた。そして、悲しそうな目で俺を見た。
「私はね、椿君。」
彼女はそこで一旦言葉を切った。俺は何も言わずに彼女の話を聞いていた。
「天才の家系に生まれているの。両親は、高名な学者と芸術家で、親族には政治家や実業者、そして、音楽家や画家が名を連ねているの。そんな中で平凡な私は、特に成果を見出していない。特にそうね。私は、両親とは話が合わない。彼らの知性に私はついていけない。」
彼女はそこまで言うと、自嘲気味に笑った。彼女の言葉の端々には、怒りのようなものが感じられた。俺は黙って聞いていた。
「私は、日本語しか話せないし、音楽や芸術は理解できない。数学や論理的な能力、そして、身体能力でさえ、何一つ平凡な人間。まるで大学生の集団にいる幼稚園児のような存在。それが私。だから私は、周囲からもはや期待されていないし。こんなところに一人暮らしをしているのよ。」
米倉はそういうと、立ち上がった。そして、俺の隣に座ると腕を握ってきた。少し痛いくらいの力だったで、彼女なりの気持ちが込められている気がした。
「椿君、私と一緒に住まない?」
「え?それはどういう意味だ?」
突然の申し出に驚いたが、冷静に聞き返すことにした。
俺は、彼女の自暴自棄になっている心を刺激しないようにと、考えながら答えたつもりだった。しかし、彼女はそんな俺の様子を気にせずに続ける。
「私はね、もう疲れちゃったの。だから、椿君に滅茶苦茶にされたいの」
米倉はそういうと、俺に抱き着いてきた。俺は突然のことに驚いたが、彼女は、俺が抵抗しないようにということなのか、異様に強い力で抱き着いていた。
「ねぇ?いいでしょう?」
米倉は俺の耳元で囁くように言った後、俺の耳を舐め始めた。
普段との様子が異なる彼女に恐怖を感じている俺は、その感触に思わず身震いしてしまった。
「ちょ!ちょっとやめてくれ!」
俺は慌てて彼女を引きはがそうとする。
「きゃっ!」
彼女を押しのけた反動で、米倉は後ろに倒れこんでしまった。
彼女は背中をさすりながら起き上がった。そして、俺のほうに向き直ると悲しそうな目で見つめてくる。
「ねぇ椿君?どうして?」
俺は何も言えなかった。ただ黙って彼女を見つめることしかできなかった。
「私には魅力がない?」
米倉はそう言ってから俯いた。彼女の肩は少し震えていたように見えたが気のせいだろうか?
「俺は、今の状態の君と一緒に居たいとは思わない。」
俺は、自分でも驚くくらいに冷たい声でそう言った。
結局、米倉沙織は、誰でもいいのだろう。
米倉自身の承認欲求を満たせるなら、誰でもいいのだ。
俺はそう考えた。米倉は俺の言葉を聞くと、顔を上げた。その目には涙が溜まっていた。そして彼女は言った。
「じゃあ……私を殺してよ。」
米倉は涙を溜めた目をこちらに向けて、そう言った。
そう言っている米倉の声は震えており、彼女の不安定な感情が現れていた。
少なくとも、彼女の目を見ると冗談ではないことが分かった。
米倉沙織は心の底からいっていた。完全に自暴自棄になっている彼女はそのまま話を続ける。
「女としての魅力すらない、私を殺して。」
米倉は、そういうと座っている俺に近づいてきた。そして、俺の手を自分の胸に押し当てた。彼女の胸はとても柔らかくて温かかった。
「ねぇ椿君?あなたならできるわよね?」
彼女はもう一度言った後、俺の手を放した。俺は何も答えることができなかったが、彼女はそのまま話を続けた。
「私はもう疲れたの。何もかも嫌になったのよ。」
彼女は、疲れたような表情でそう言った。
そしてその後、さっと表情を変えた彼女は、まるで人形のような無表情になった。
無表情の彼女は、座っている俺を見下すように、立ち上がっている彼女はじっと見ていた。
俺はそんな彼女に何も言うことが出来なかった。
彼女と俺の間で永遠ともいえる無言の時間が過ぎる。
「……そう、ダメなのね。」
彼女は、ぽつりとそういった。そして俺から視線を外した。
「ねぇ椿君?」
「なんだ?」
「私が、あなたをクラス委員にした本当の理由を理解できる?」
米倉はそういうと、俺の隣の椅子に座った。
そして、上目遣いで俺を見た後、微笑んだ。その笑顔はとても美しく、思わずドキッとしてしまった。
それがたとえ、彼女の計算によって作られた仕草だったとしても、だ。
「いや、分からない。」
俺は素直に答えた。彼女は少し考えた後、口を開いた。
「私はね、あなたみたいな世の中に居ても居なくてもいい、無価値でゴミのような人間。そんな、どうでもいい人間と私が同じだと思ったからよ。」
米倉は、座った椅子から前を向いた状態で、淡々と話を続けた。
「あなたは、私と同じで無価値な人間。」
米倉はそういうと、隣の椅子に座る俺のほうへとその美しい顔を向きなおした。
「椿君、あなたには何もない。だから、私があなたを殺してあげる。そうすれば、あなたは救われるでしょう?」
彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔はとても美しく見えたが同時に恐ろしくもあった。俺は何も言えなかった。ただ黙っていることしかできなかったのだ。
「じゃあね、さようなら。」
彼女はそう言うと、俺の首に手をかける。俺は咄嵯に抵抗しようとしたが遅かった。彼女の手が俺の首を絞めていくのを感じた。
「ぐっ。」
息ができない。苦しい。頭がぼんやりとしてくる。俺は必死で抵抗したが、体に力が入らない。
「椿くん?私はね?あなたみたいな人間が大っ嫌いなの。生きている価値がないと思っているわ。」
そういうと、彼女は俺の首を絞める力を強めた。苦しく、まったく息ができなかった。首が折れるくらいの痛みがあった。
薄れゆく意識の中で、米倉が俺を見下ろしながら微笑んでいた。その笑みはとても冷たく感じられた。まるで俺のことをゴミを見るような目だった。
俺の体は、あるのかどうかすら感じられない。俺の意識はそのまま暗転した。