第一話:任命
初夏。
二回目の高校生の夏がやってきた。毎日が繰り返されているように感じる。ゴールデンウィークは、とうの昔に過ぎ去り、夏休みには、まだ遠い。今は、まさに中だるみしやすい時期だった。
梅雨というより、ゲリラ豪雨のイメージが強いこの季節に、俺はいつものように学校に通っていた。
教室の一角で、白いカッターシャツに制服のズボンを着た俺は、自席の机を抱えるようにして寝ているふりをしていた。
俺の名前は椿 良太。
この学校の制服は伝統を重視しており、男子は学ランの下にワイシャツ、女子はセーラー服を着ている。紺色を基調としたレガシーな制服は、この歴史ある高校の象徴であり、しばらくは変わることはないらしい。女子生徒たちは制服のデザインの可愛さで進学先を考えることもあるようだが、俺にとってはどうでもいいことだ。
そんな不毛なことを考えながら、授業の合間の休み時間を過ごしていた。教室の窓からは初夏の日差しが差し込んでいる。外の温度の状況に反して、教室にあるエアコンの風が清涼な空気を教室へ送り込んでいた。
エアコンの風は、幸いにも温度が寒さを感じ程度には設定されていない。そのため、睡眠導入としては最適な温度と湿度が実現していた。実際に、席で寝ている生徒も多い。もっといえば、俺もその一人に見えるだろう。他にやることもないし、寝ているふりをしているだけでも少しは精神力が回復するはずだ、たぶん。
俺は男子高校生である。身長は170センチに届かないくらいで、体重は最近測っていないが、おそらく60キロくらいだろう。顔については自己申告だが、そこそこだと思う。髪型は短髪で、生まれついたストレートの黒髪。校則で決まっているからこの髪型にしているだけで、特にこだわりはない。中肉中背の平均的な存在そのもの。実際のところ、自分の容姿についてあまり気にしたことがない。
俺は人付き合いが苦手だ。しかし、まったく友達がいないわけではない。授業の合間に話をする友達もいるし、必要な情報交換をすることもある。挨拶をすれば返ってくるし、放課後に一緒に帰ることもある。暇そうなときに声をかければ、少し不思議がりながらも付き合ってくれる友達だ。
……友達がいる、は嘘だ。
人間嫌いというわけではないが、人と付き合うことが億劫で面倒に感じるのだ。まぁ、そんなことはどうでもいい。俺は授業が開始を告げるチャイムが鳴るまで、このまま机に伏して寝たふりを継続するだけだ。
「そういえば、隣のクラスの話って知ってる?」
「えーっ。なになに?」
女子生徒同士が会話をしている声が耳に入った。寝たふりをしている俺の存在などどこ吹く風で、会話は続く。むしろ、俺は寝たふりをしているため、聞き耳を立てて周囲の環境には敏感になっている。
「最近来なくなった子いるらしいじゃん、その子。妊娠したらしいのよね。」
「うっそ。やばくない? それ。」
「やばいでしょ。で、産むんだってさ。」
「え、マジ? やばくね?」
「やばいっしょ。それでさ……。」
女子生徒たちの会話は続く。
俺は寝たふりをしているから、彼女たちの会話は聞こえていないことになっている。
……いや、別にこの高校で妊娠した生徒がいたって俺には関係がない話だ。
「……。」
俺は寝たふりをしたまま、思考をする。授業が始まるまであどどれくらいだろうか。
……少しくらい寝ていても大丈夫かな? そんなことを考えているうちに、俺の意識はまどろみの中に落ちていった……。
再び目を覚ましたとき、授業は既に始まっていた。
教室内には教師の声とチョークが黒板に走る音が響いている。俺は頭を上げ、ぼんやりと前を見た。目の前の黒板には数式が並び、数学の授業が進行中だと気づいた。
「椿、起きているか?」
教師の鋭い声が飛んできた。俺は慌てて背筋を伸ばし、教師に向かって頷いた。
教師は一瞬俺を見つめた後、再び黒板に向かって話し始めた。周囲の生徒が少しだけざわついた。
「じゃあ、ここで問題を解いてもらおう。椿、やってみろ。」
突然の指名に、俺は一瞬固まった。黒板に書かれた問題を見て、焦りが込み上げた。ゆっくりと立ち上がり、黒板に向かう。周りの視線が一斉に俺に集まるのを感じた。
「えーっと…。」
問題を解くための手順を思い出そうとするが、頭の中は真っ白だ。何とか手を動かして式を書き始めるが、自信がない。教師の視線が痛いほど感じられる中、何とか解答を書き終える。
教師は一瞬黙り、黒板に書かれた式を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「椿。座っていいぞ、だが、授業中に寝るな、分かったな?」
「はい、分かりました。すいません。」
俺は反射的に、それだけいうと席に戻った。
それからは、授業が終わるまでの時間が永遠に感じられた。
やっとのことでチャイムが鳴り、授業が終わった。
午前中、全ての授業が終わったのだ。これからは昼ご飯をどうするかという問題だ。
「はぁ。」
俺は、ため息をつきながら、自分の席から立ち上がった。
「椿くん。ちょっといいかしら?」
突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには同じクラスメートの米倉 沙織がいた。
「あ、ああ。」
俺は頷いた。彼女はこのクラスのクラス委員だ。成績優秀であり、優しく誰にも声を掛けてくる、真面目な性格だと俺は記憶していた。
……なにしろ、俺のようなクラスのはぐれ者にも彼女は、嫌な顔一つせずに声を掛けてくるのだ、優しい性格には違いない。
そんな彼女は、長い黒髪を腰まで伸ばしている。その整った顔立ちは、まるでモデルのように美しく見えた。
「椿くん。お昼ご飯が終わったあとに、少し時間はあるかしら?」
彼女は言った。
「え、ああ、大丈夫だけど。」
「よかった。じゃあ、お昼ご飯を食べ終わった後に話があるの。いい?」
「え、ああ。わかった……。」
俺は曖昧に返事をした。いったい何の用だろうか。特に思い当たる節はないのだが……
「じゃあ、食べ終わったら、生徒指導室で。先生の許可は取ってあるから、そこで待ってるわ。」
彼女はそういうと、彼女を待っているらしい女子生徒がいる場所へと戻っていった。俺はその後ろ姿を見送りながら、首を傾げた。
その奇妙な会話を終えた後、俺は教室を出て、食堂へ向かった。
食堂での昼食。トレイを取ってから、列に並びながら、今日の日替わり定食の内容を確認する。ソースかつ丼、味噌汁にサラダ。今日はまぁまぁ、当たりの日だ。ちなみに外れの日もあるが、俺は必ず日替わり定食を選ぶ。理由は、一番安いからだ。
列の順番が俺に回ってきた。
俺は、いつものように日替わり定食を注文する。しばらくして、トレイに置かれた日替わり定食を受け取る。俺はそれを手にして適当な席を探す。食堂は広いが、グループがあちらこちらでできているので、一人でいる俺には関係がなかった。俺は、いつも座っている隅のテーブルに座り、黙々と食べ始めた。
味噌汁の香りが鼻をくすぐり、豚カツのサクサクした食感が心地よい。日替わり定食は、期待通りの味だ。どこかで食べたことがある味が、俺の味覚にはとてもあっていた。
食事を続けながら、ふと窓の外を見ると、中庭にある木々の枝が風に揺れ、その音が微かに聞こえてくる。
教室の冷たい空気とは対照的に、外の世界は直射日光が強く、夏がもうすぐそこに感じられた。
食事を終えると、俺はトレイを片付けて生徒指導室へ向かった。
米倉沙織が何を話したいのか、気になりつつも少し緊張していた。
彼女とはクラスメートとして最低限の会話しかしたことがない。
そんな彼女が、これから言ってくることに対して、俺には、まったく心当たりがなかった。
生徒指導室に到着すると、米倉はすでに待っていた。
彼女は窓際の席に座り、何かを考え込むような表情をしていた。
俺が入ると、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「あ、椿くん。来てくれてありがとう。」
「いや、別に構わないけど……話ってなに?」
俺は尋ねた。すると彼女は俺に席に座るよう促した。俺は言われた通りに椅子に座ると、彼女は話し始めた。
「うん。じゃあ、単刀直入に言うけど。椿くんって、いつも一人でいるよね?」
「え? ああ、まぁ……。」
突然の言葉に俺は戸惑いながらも答える。
「どうして?」
「いや……別に理由なんてないけど……。」
俺は答えに窮する。確かに、俺はこの高校に入って以来、友達と呼べる存在はいない。しかしそれは俺自身が望んでいることであり、特に不満があるわけでもない。ただ単に一人でいたいだけなのだ。
「そっかぁ。」
彼女は少し残念そうな表情で呟いた。
「でも、私はクラス委員として、椿君がクラスにもっと打ち解けてくれたらいいな、って思っているの。」
彼女は話を続けた。
「それでね。椿くんが一人でいる理由を知りたいの。」
「理由って……。」
俺は口ごもった。そもそも、本当に深い理由などない。ただ単に一人が好きだというだけだ。米倉沙織は真剣な表情で俺を見つめる。その圧力に耐えかねた俺は、つい口を開きかけたが、結局何も言わずに口を閉じた。しかし、沈黙が続く中で彼女は再び口を開いた。
「ねえ、椿くん……どうしてなの?」
彼女の口調には、どこか必死さが感じられた。俺は少し逡巡した後、答えた。
「別に……特に理由はないよ。」
「そうなの? でもさ、もっとクラスのみんなと仲良くなりたいとは思わないの?」
「……思わないかな。」
俺は正直に答えることにした。ここで嘘をついたとしても仕方がないし、どうせいつかは分かることだからだ。
「なるほどね。分かったわ。」
米倉はそう言うと、少し考え込んだ後に再び口を開いた。
「ねえ、椿くん。今から私が言うことをよく聞いてほしいんだけど。」
「うん……?」
俺は首を傾げる。いったい何だろうと思っていると、彼女は言った。
「私ね……実は、前から椿くんのことが気になってたの。」
「……え?」
突然の告白に俺は動揺した。まさかそんなことを言われるとは思わなかった。しかし、同時に嫌な予感が頭をよぎった。もしかして、これは俗に言う『告白』というやつではないだろうか。俺は内心動揺しながら彼女の言葉の続きを待った。
「だから、椿くんのことをもっと知りたいの。」
彼女は真剣な眼差しで俺を見つめている。どうやら本気のようだ。どうしよう……どうしたらいいんだ? こういう時はどうすればいいのだろう? 経験のない俺には全く分からない。とりあえず返事をしなければいけないと思い、口を開くが言葉が出てこない。沈黙が流れる中、彼女が口を開いた。
「ねえ、椿くん……。」
「……な、なんだ?」
「私と一緒にクラス委員をやらない?」
「は、はい!?」
予想外の言葉に思わず変な声が出てしまった。一体どういうことなのだろうか? どうして俺がクラス委員をやらなくてはいけないのだ? 混乱する俺に構わず、彼女は話を続ける。
「私ね、椿くんの力になりたいの。」
「……ああ、えっと。」
一体どういうことだ? 意味が分からないぞ。困惑する俺に対し、彼女は話を続けた。
「大丈夫、クラス委員は簡単な仕事しかないし、私もサポートする。」
熱意の籠って視線で話を続ける。俺は複雑な気持ちだった。どうしてこうなったのかよく分からないが、断れる雰囲気ではない。
「うん。分かった。」
「じゃあ、これからよろしくね!」
彼女は満面の笑みを浮かべて言った。その笑顔はとても眩しくて、思わず見とれてしまった。
「じゃあ、さっそくなんだけど。」
それから彼女はクラス委員について詳しく話を始めた。その長い話をまとめると、先生から言われたことをやるだけだし、特に難しいことはなさそうだ。まぁ、やることすべてが優等生のそれであり、面倒くさいことは事実なのだが。
「じゃあ、椿くん。明日からよろしくね。」
彼女は笑顔で言った。そして、席を立って生徒指導室から出ていった。俺は、この部屋でまた一人になった。昼休みが終わるまで、あと十数分はある。なんとも面倒くさいことになったものだ、と思った。
俺は一人でため息をついた。そして、席を立つ。まぁ、米倉という美少女と一緒に仕事ができるのだから、それも悪くないのかもしれない。俺はそんなことを考えて、不本意な役職が割り当てられた自分を慰めた。