第2話
『ついにあの子を殺したのですね、〝勇者〟よ』
真っ白な空間に虹色に光り輝く水晶が浮かんでいる。初めて見たときには混乱したけれど何十回、何百回と死んでこの空間のことも、水晶のような形をした目の前の〝神〟のことも呑み込めている。
上半身を起こした私が呆然としているのはこの空間や神のことを呑み込めていないからではない。この状況を呑み込めていないからではない。
「確かにあの女は殺した。でも……」
女が事切れた後、自分自身も事切れようかという瞬間に知った事実を呑み込めていないからだ。
勇者たるゆえんは千年を生きたバケモノだから。何度死んでも魔王を殺すまで生き返る能力を神に与えられているから。
でも、神から与えられた能力はそれだけではない。
あらゆる人間の居場所を把握することができる。それがもう一つの神から与えられた能力。
元は人間だった魔王を見つけるためでもあるし、魔王が次に襲う可能性の高い人口の多い場所、魔王から隠れている人々を見つけて守るための能力でもあった。
でも、今は絶望的な事実を突き付けるだけの能力だ。
なぜなら――。
「みんな、死んでしまった。誰も生き残っていない。私以外、みんな……」
魔王を追い詰めるためにここ十数年ほどは魔王がいる場所だけを感知するように能力の照準を絞っていた。それが十数年振りに全世界、あらゆる人間を感知するように能力を解放したらどうだ。
たった一人を残して世界には誰もいなくなっていた。そのたった一人も私だった。事切れる寸前の私。
「本当に……本当に誰もいなくなってしまったのか。私は誰一人として救うことができなかったのか」
『あなたの能力は今も正常に機能しています。疑うのでしたら納得が行くまで世界の様子をのぞき見てください。〝勇者〟が〝魔王〟を殺した後の世界の様子を』
真っ白な空間に呆然と座り込み私の頭上で水晶のような形をした神が言う。顔をあげると白い空間は一瞬で無数の蝶が舞い飛ぶ草原に変わった。
人の気配はない。
まばたきを一つ。
草原はどこまでも続く砂漠に変わる。強い体によって叩きつけられる砂粒に耐えるようにヘビやトカゲ、小型のネコ科動物が姿勢を低くして砂の海を這っていく。
人の気配はない。
まばたきを一つ。
砂漠は木々が生い茂る森に変わる。木の実を食んでいた草食動物たちが何かの気配を察知して駆け出す。木の影から飛び出してきたのは大型の肉食獣だ。頭上では枝から枝に小動物が飛びまわり、鳥がさえずっている。
人の気配はない。
まばたきを一つ。まばたきを一つ。まばたきを一つ。
時間は無限にある。だから、神が言う通り、納得がいくまで世界のすみずみまでのぞき見てまわった。世界中、人の姿を探してまわった。
そうやって千年の間、白い空間に映し出される勇者が魔王を殺した後の世界を見てまわった後――。
「本当に……誰もいないんだな。誰一人、救えなかったんだな」
私はようやくその事実を認めた。
「私が魔王を倒したかったのはみんなを守りたかったからだ」
最初は両親を殺された恨みから魔王を追っていた。でも、その気持ちはすぐに変わった。魔王に怯える人々や魔王のせいで悲しい思いをする人々を見て助けたい、守りたいと思ったのだ。だから、千年にもおよぶ長く過酷な旅も続けてきた。
それなのに――。
「誰もいなくなってしまってはみんなを守れたとは言えない。魔王を倒して平和を取り戻したなんて到底、言えない。……言えないじゃないか」
唇を噛んでうつむく私の頭上で水晶のような形をした神が明滅する。
『それでは、やり直しますか?』
「……やり、直す?」
思いもよらない言葉にオウム返しにする。
『はい。これまではあなたが死んだ時、死んだ場所にあなたを生き返らせてきました。ですが、今回はあなたが生まれた時、生まれた場所にあなたを生き返らせます』
そして、魔王を倒すための千年をやり直して、今度こそ――。
「やり直す。……もう一度、あの千年をやり直させてくれ!」
身を乗り出す私を見下ろして神は落ち着けとでも言うようにゆっくりと明滅した。
『わかりました。準備はよろしいですか。すぐにでもやり直しますか』
「ああ、すぐにでも……!」
そう言いかけて、不意に真っ白な空間に転がる深紅の宝石が目に飛び込んできた。〝魔王〟と呼ばれたあの女に押し付けられた、女の千年の記憶を閉じ込めた宝石。神のもとに来てからこの千年間、ずっと道端の石ころのように気にも留めなかった。
「……いや、まだだ」
その宝石を私はじっと見つめた。
「私には魔王を倒すために費やした一度目の千年の記憶がある。さらに魔王の千年の記憶があれば……」
次は千年とかからずに魔王を倒すことができるかもしれない。
人の一生は短い。
千年を生きるバケモノである私とあの女はさておき、普通の人間は五十年と経たずに死んでいく。魔王に怯えて暮らさなければならない時間なんて短い方がいい。魔王が倒された後の平和な時間が長く長く続く方がずっといい。
「神よ、この魔王の記憶を見ることはできるか」
『可能です。人は眠っている間に記憶を整理します。生まれた時、生まれた場所からやり直すあなたが眠っている間に魔王の千年の記憶をあなたの深層意識に送りましょう。一日八時間ほど眠るのならばあなたが十才になる頃にはすべての記憶を送り終えることができるでしょう』
水晶のような形の神はゆっくりと明滅しながら言った。
『ただし、深層意識に送った魔王の記憶を表層意識にあげられるようになるのは――魔王の記憶を見られるようになるのはすべての記憶をあなたの深層意識に送り終えたあとになります』
***
目が覚めて飛び起きようとした瞬間――。
「タリア、いつまで寝てやがんだ!」
ガシャン! と大きな音がした。
反射的に顔をかばった腕に痛みが走る。恐る恐る腕を下ろして状況を確認する。泥酔した父が私が寝ている真横の壁にカラの酒瓶を叩き付けたのだ。敷き布団代わりの湿気た藁のすき間に粉々に砕けたガラスが入り込んでいる。
「とっとと酒を買ってこい! この役立たずのなまけもんが!」
藁のすき間でキラキラ光るガラス片をぼんやりと眺めていると脇腹を蹴飛ばされた。蹴られた場所を腕で押さえて咳き込む。
いつまで寝ているんだと言うけれどまだ明け方だ。外は薄暗い。そもそも台所の後片付けやら何やらと家のことをしていて横になったのもほんの少し前のこと。ようやくうとうとし始めたところだったというのに。
「何回、言わせんだ! とっとと行ってこいって言ってんだろ! 酒を手に入れるまで帰ってくんな!」
そう言って一応、血縁関係的には〝父〟であるロクデナシは私の脇腹をまた蹴り飛ばし、焦げ茶色の艶のない髪をつかんでスラム街のすみに建つボロ小屋から小汚い通りに放り出した。バタン! と乱暴にドアを閉める男を私は冷ややかに見つめた。
ドアが閉まる寸前に見えた一応、〝母〟である女は今日も酔いつぶれてテーブルに突っ伏している。起きていたとしても娘を助けようとしないどころか男といっしょになって罵声や暴力を浴びせかけるだけなのだけれど。
ボロ小屋の前の薄汚い石畳に座り込んだまま呼吸を整える。肉のついていない貧相な体を蹴り飛ばされ、石畳に叩きつけられ、痛みが引いて立ち上がれるようになるまでにはそこそこ時間がかかった。
酒を買ってこいと言うけれどこんな朝早くから開いてる店なんてない。そもそも酒を買う金もない。でも、酒を持って帰らなければ男に殴られる。物乞いをしてでも盗んででも酒を手に入れてこい、酒が手に入るまで帰ってくるなと怒鳴って家から閉め出すのだ。
一度目の千年の私なら力なくうなだれて大通りに向かうところだ。今回の千年の、昨日までの私なら小馬鹿にしたように鼻で笑ってため息をつき、やっぱり大通りに向かう。
昨夜、パーティがあっただろう貴族や商人の屋敷の目星をつけておいて厨房に忍び込み、ゴミをあさり、飲み残しの酒をかき集める。その後は通りに立って物乞いや盗みをする。店主や使用人に見つかればどこかに消えろと追い払われ、蹴り飛ばされ、投げ飛ばされる。
そうやって酒を手に入れてボロ小屋に帰るのだ。
でも、今日は違う。
大きく息を吸い込んで――。
「……!」
ボロボロの、今にも壊れそうな靴で思い切り石畳を蹴ると街の外へ――王都へと続く道へ駆け出した。
教会の鐘が一つ鳴る。ぐるりと囲む城壁の門が開き、どこかとの戦争を終えて帰ってきた兵士たちが街の中に入ってきたのだ。
水晶のような形をした神は十才になる頃には魔王の千年の記憶を見られるようになるだろうと言っていた。でも、私はすでに十二才になる。睡眠時間が短かったせいだろう。想定よりも時間がかかってしまった。おかげで昼も夜もなく走らないと間に合わない。
いや、ろくに食べていない、殴られて蹴られて傷だらけの子供の体では昼も夜もなく走っても間に合うかどうか。
今日、この街に入ってきた兵士たちは次に王都へと向かう。彼らが王都に入り、教会の鐘が一つ鳴るまでがリミットだ。
それまでに王都にたどり着いて彼女を見つけなければ――。
「あの女は……魔王になる」




