鬼、語りて
黒穿との戦いから二日が経った。静屋は実家で、遅めの朝食をとっていた。
卵と酢を混ぜ、油と塩を合わせる。もったりしたクリーム状になったものに、生野菜を付けてかじる。
味噌汁と米をかき込み、茶をすすった。
「やあ静弥、調子はどうかな?」
顔を出した豺が顔をしかめる。
「うわ、また変な食べ方して…」
豺が嫌悪しているのは静弥の作ったマヨネーズだ。
この時代に極端に不便を感じることはないが、元の時代の生活を忘れたわけではない。うろ覚えで作れる料理や道具は懐かしんで、こうして時々作っている。
静弥の兄には好評だったマヨネーズだが、豺には不評らしい。
「いいだろ別に。それよりちょうどいい時に来た。出掛けるから少し付き合ってくれよ」
「もう出歩く気?平気なの?」
「いや、身体中痛えし左腕も満足に上がらない」
「じゃあダメだよ」
「頼むよ。寝てても、どうにも夢見が悪くて仕方ねえんだ」
豺はあきれ顔で頬をかいた。
「…仕方ないな。で、どこに行く気?」
「人形町の棟割り長屋だ。雪さんがそこに住んでたんだ。まだ小さい娘がそこにいるらしい」
静弥は立ち上がり、痛みに顔をしかめる。
「すぐ支度するから、外で待っててくれ」
言い残し、静弥は食器を片付けに部屋を出ていった。
「話を訊くというより、娘さんの様子を見に行きたいってとこかな?」
「まあそんなところだ」
今日の静弥は同心羽織をまとっていない。療養中ということもあるが、ここ数日は役人達が慌ただしく長屋にも出入りしていたはずだ。長屋の住人や、雪の娘への配慮だ。身の証しは十手が示してくれるだろう。
「ところで、氷室さんとは?」
「昨日、見舞いに来てくれたよ」
「僕の所にも昨日顔を出しにきたよ。今日辺り、静弥の様子を見てきてくれって」
二人は顔を見合わせた。
「お見通しってことか」
「というより、手のひらの上ってとこだね。出歩く名目も、お目付け役もお膳立てされたってわけだ」
雪の娘の話を持ち出す。静弥としては気になる件だ。必ず食い付く。豺を付き添いにしておけば、無理もしないだろう。療養中の静弥が
出歩く口実になる。
という氷室の思惑だ。
「ところで黒穿の腕はどうした?」
「うちの炉に放り込んであるよ」
流石にそれは予想していなかったのだろう。静弥は、豺の思いきった行動に身を震わせた。
「それにしても腕を取り戻しに来るなんて、俺は渡辺綱かよ」
「それを言うなら僕の刀が鬼斬丸でしょ」
渡辺綱とは平安時代の武士である。茨木童子という鬼の腕を切り落とした逸話を持つ人物だ。
八丁堀から人形町へ抜け、裏路地に向かうと、雪の長屋はすぐに見つかった。
洗濯をしていた町娘に、静弥は声をかける。
雪の事を訊ねると、娘の顔があからさまに警戒の色を強くした。静弥は懐から十手を取り出し、怪しいものではないと弁明する。
「雪さんのことなら、もう何べんもお答えしたと思いますよ。とても良い人で、私もお世話になっていましたから」
「今日は娘さんに会いに来たんだ。その、どうしてるかなって」
「良い子ですよ、鞘ちゃんも。今は私達で、代わる代わるで預かってますけど、ずっとというわけにはね…」
決して薄情な物言いではなかった。子供一人養っていくのにも先立つものが必要だ。鞘のことを心配しているのは娘の表情から見てとれた。
静弥は言葉につまる。
「それで、お鞘ちゃんはどこかな?」
豺が辺りを見渡しながら間に入った。
「…今日は千春さんの所で預かってるはずだから、その先を曲がったら見える井戸の近くにいると思うけど」
「そ、ありがとう」
豺は静弥の袖を引っ張り、歩き出した。
「なんでも解決できるわけじゃないよ、静弥」
豺は声を落とし、静弥に耳打ちする。
「わかってるよ」
静弥は悔しそうに呟くことしかできない。
その時だった。二人同時に立ち止まる。
「これは、どうしたものかね?」
二人が感じたものは何者かの強烈な敵意。いや、殺意だった。
「こっちに来い。か、それ以上行くな。か?」
「後者に一票かな。ここは大人しく退散しておく?」
「いや、放っておけるもんじゃないだろう」
「でもその身体じゃ…」
「無茶はしねえよ。逃げる算段くらいはつけるさ」
殺意の主はすぐ脇の小路の先にいる。二人は方向を変え、脇路に入っていった。
「人払いがかかってるね。随分と強引な術法だけど」
「そうなのか?」
「普通は気付かなくさせるものなんだけど、これは近付くのを避けさせる感じかな」
「なるほどな」
小路を抜けると小さな空き地に出た。
そこで男が二人を待っていた。三十路半ばの浪人だ。
「すまなかった。こういったやり方しかできなくてな」
そう言って、男は頭を下げる。先程までの敵意はすでに消え失せていた。
「あんた、何者だ?」
静弥は距離を取ったまま問いかける。不用意に近付くのは危険だと感じていた。男の放った殺気の質。それを操る技量は尋常ではない。
「蒼牙…だね?」
豺が前に出た。
「ここまで夜気を抑えられるものなんだね。流石に気がつかなかったよ」
静弥はぎょっとして豺と蒼牙を交互に見やる。
「おい、犲。ホントにこいつが?」
刀に手を掛け、静弥は鯉口を切った。
「静弥」
豺はその抦に掌を当てて刀を押さえる。
「止めるな。こいつは夜叉だ」
怒気を込め、静弥は蒼牙を睨み付けた。
闇廻りとしての使命。というよりも、夜叉に対する憎しみが静弥の中で膨れ上がる。感情の高ぶりに霊気が揺らいだ。
痛みで身体が軋む。だが今はそれもどうでもいい。
「…静弥!」
豺の激昂に、転がっていた桶が弾け、爆砕した。
「無茶はしない約束だよ?これ以上は僕も本気でおこるよ」
静弥は目線を反らし、刀から手を離した。
「…悪い」
「自己紹介がまだだったね。僕は豺。こっちは颯磨静弥。君は蒼牙で良かったんだよね?」
蒼牙は頷く。
「出てきたってことは、話を聞かせてくれるってことかな?」
「その約束だからな」
「約束?」
思わず聞き返し、豺は先日の事を思い出す。
『話を聞かせてくれると助かるんだけど』
『そうだな』
蒼牙は確かにそう答えていた。
豺はその場しのぎのものだと思っていたが、蒼牙はそうではなかったようだ。本当に静弥の治療を優先させるために、一時的に撤退することを選んだのだろう。
「律儀だねぇ」
豺は煙管を取り出し、火をつけた。
「身体はなんともないのか?」
「おかげさんでな」
静弥はぶっきらぼうに答え、そっぽを向いた。
蒼牙は驚いたように静弥の全身を眺める。
「利かん坊は放っておいて、話を進めようか」
静弥は言い返そうとするが、自分に非がある自覚があったのだろう。大人しく、転がっていた材木の上に腰を下ろした。
「まず、黒穿とはどういう関係?味方ではなさそうだったけど」
「奴は俺の兄だ。里を出た俺を追って来た」
「あまり良い関係ではなさそうだね。もしかして雪さんとも関係ある?」
蒼牙の表情が曇った。食いしばった口元から、牙のような犬歯が覗く。
「雪は俺の妻だ」
静弥は驚きのあまりに立ち上がろうとする。が、無理な動きに耐えきれず膝をつく。
「痛っ。妻ってあれか!?嫁か?嫁さんだよな?」
「落ち着きなよ。まあ、僕も驚いてるけど。じゃあ、もしかして鞘ちゃんは君の?」
「俺と雪の子だ」
「マ!…ジかよ…」
静弥は大口を開けて呆然とする。
「お前に鞘に会わせると、夜気を気取られるだろう。事情を知らず、鞘に接してほしくなかったのだ」
豺は頬をかいて苦笑いを返した。
「言っておくが、全ての夜叉が人間と敵対しているわけではない。少なくとも俺の里では人間とも上手く付き合っていたんだ。だが、雪に子ができたことは、流石に里でも容認できることではなかった」
「それで、江戸まで出てきたってことなんだね。黒穿は里からの刺客ってこと?」
蒼牙は首を横に振った。
「祝福はされなかったが、そんな無駄なことはしないさ」
「だったらお前の弟はなんだ?ありゃあ、狂気の塊じゃねえか」
「黒穿は鬼神返りに犯されている。他の鬼とは質が違う」
「鬼神返り?」
「真祖の血を、色濃く継いだ者の中でも稀にしか現れない鬼だ」
それは、現在の生物としての鬼とは一線を画する。文字通り鬼神、神話に存在した鬼の力に目覚めた者の事を指して言った。
「僕は、鬼の兄弟なんて会ったことないけど、君達は夜気までそっくりだ。そして、君の夜気の深さはその鬼神に引けを取っているとは思えない。二人とも同じ血を引いてるんだよね?」
「俺も同じ意見だ。夜気のことは良くわからんが、まともにやれば黒穿よりあんたの方が上なんじゃないか?何を隠してる」
蒼牙はため息混じりに口を開く。
「隠していた訳ではないのだが。そうだ、俺も鬼神返りだ」
「兄弟そろって?」
「ああ。一族の中でも初めての事だった。余程、俺達の血が真祖の力と相性が良かったのだろう。だが…」
「犯されてるって言ったね。それが君との違いかな?」
蒼牙の夜気がわずかに強まる。思い出したくない過去を引き出しているかのようだ。
「黒穿は鬼神の夜気に侵食された。本来は、余計な殺生を好まぬ穏やかな奴だったのだがな」
「力に振り回されて人格が変わったってことか?」
静弥が十手の柄を撫でる。
「…少し違うな。力は扱えている。黒穿の意思もそのままだ。ただ、思考が狂わされている。鬼神の意識に引きずられているようにな」
その言葉に、静弥と豺の顔付きが変わった。
「それ、もう少し具体的に聞きたいね」
「お前たち、いったい何が知りたいんだ…」
「頼む」
静弥が頭を下げた。真剣な眼差しに、蒼牙は言葉を飲み込んだ。
「元より、黒穿は俺と雪の事には反対していた。根本は変わってはいない。しかし、何か別の意志が黒穿に影響を与えているように感じた。俺を追って里を飛び出したのも、雪を狙ったのも、狂ってはいるが黒穿の意思があるのは間違いない。同じ鬼神返りとして、何度も対峙した俺が言うんだ。間違いない」
「それは、あんたもそうなる可能性があるのか?」
「ない…だろうな。俺にも鬼神返りの影響がないわけではない。今までになかった破壊衝動が芽生えることもある。だがそれだけだ。認識した上で自制できている」
豺は悩むように首を捻る。
「うーん…どうだろう?似てるとも言えないかな」
鬼神返りによる人格の変貌。闇廻り同心が組織された理由の一つ。いや、真の目的への糸口がそこにあるのかもしれない。
幕府側用人、柳沢吉保より直々に組織された闇廻り同心。その任は夜叉の討伐が主とされているが、その根幹は将軍、徳川綱吉に呪を放った夜叉の探索およびその呪の解呪にあった。
訝しげな蒼牙に、豺は微笑んだ。
「ちょっとしたお役目でね。その話、後でもっと詳しく聞かせてくれないかな?理由はその時に話すから。話がそれたけど、今は黒穿の方をなんとかしないとね」
静弥はうつむいたまま動かない。思い詰めたように蒼牙の話をただ聞いていた。
「静弥?大丈夫?やっぱり調子悪いの?」
「あぁ、大丈夫だ。いや、少し疲れたか…」
静弥はフラりと立ち上がる。随分と顔色が悪い。
「少し、頭を整理させてくれ。悪いな」
静弥は言い残すと、頭を押さえて歩きだした。
その背中に、犲の声は届いていなかった。