鬼、去りて
現れた二匹目の鬼は、静弥に背を向けて黒穿に対峙する。
煤けた袴姿の鬼だ。白磁のような一本の角を生やしている。角の違いがなければ、ほぼ区別がつかないだろう。
「またテメエか。せっかくのお楽しみを邪魔するんじゃねえよ、蒼牙」
蒼牙と呼ばれた鬼は応えない。
「これはなんとも、立て込んできたね」
豺がため息と共に呟いた。
黒穿のまとう夜気がゆらいだ。次の瞬間、蒼牙は黒穿の前に飛び出した。
「お呼びじゃ…」
同時に静弥も動いていた。二匹の死角から、黒穿との距離を詰める。
黒穿がニヤリと笑う。楽しそうに牙をきしませた。爪にまとわりついた血が、夜気を吸って結晶化していく。
「ねえんだよ!」
黒穿が腕を振り払った。四散した血塊が刃となって、静弥の肩口をかすめた。重い衝撃が静弥の身体を弾き飛ばす。
「痛ってえ!かすっただけだぞ…」
静弥は地を転がりながら、体勢を整える。
顔を上げ、瞳に映ったのは膝を付き、血を吐き出す蒼牙だった。無数の血刃が蒼牙の身体を串刺しにしていた。
「くだらねえ」
黒穿が吐き捨てた。そして容赦なく蒼牙を蹴り飛ばし、塀に叩きつけた。
傷を負いながらも、蒼牙は立ち上がろうとする。身体中を貫かれてもなお、致命傷とまではならないようだ。
しかし…。
「動かない方がいいね」
声をかけたのは豺だ。気づけば蒼牙の横で、壁にもたれている。手には、青白く光る呪符があった。
「火種を撒いておいた。わかるよね?」
蒼牙の周囲には、無数の微粒な赤い光が舞っていた。
豺は煙管を取り出し、目の前にかざした。すると勝手に火が着き、煙をたたせた。
「なまじ霊気が強いとね、いろいろあるんだよ」
「…符術師か」
「まあ見ていなよ」
煙の向こうで、黒穿の爪を静弥が脇差しで凪払った。反動を使って黒穿と距離を取る。
追い迫る黒穿に向けて、静弥は脇差しを投擲した。
意表をつかれた黒穿は大きく体制を崩した。静弥はその隙を見逃さない。十手を抜き放ち跳躍する。
黒穿は爪を振り上げ迎え撃つが、静弥は十手をひねり、鉤で爪を絡め取った。引き寄せられた黒穿の身体に、着地と同時に肘を押し当てる。
衝撃が黒穿の身体を貫いた。寸頸と呼ばれる零距離からの衝撃技だ。その威力に、黒穿の身体が後退った。
「どうして静弥が夜叉狩り同心なんて任されてると思う?」
豺の問いに、蒼牙は顔を上げる。もとより答えなど求めていないというように、犲は続けた。
「…強いからさ。最近は妙な技に凝ってるみたいだけど、実際大したものだよ。まぁ、ボクの刀を簡単に手離したのは気に入らないけど…」
視線の先で、静弥が足元に落ちていた刀を拾い上げた。
「ちゃんと取り戻したから良しとしようか」
静弥は刀を鞘に納めた。
「いい加減、疲れた。肩は痛えし、てめえは斬っても簡単に治っていきやがる」
柄に手を当て、静弥は黒穿との距離を測る。
「颯磨流居合い、名前は考え中だ」
黒穿は夜気を深め、集中した。
互いが間合いに入る。
居合いとは、鞘から刃を抜き放つ抜刀の型である。必然的にその動作は横薙ぎに限られる。ならば、黒穿にはどれほど速くとも見切る、あるいは耐える自信があった。
…しかし。
鞘から刃が走る寸前、静弥は鞘を捻る。刹那、下から上へ斬撃が閃いた。
夜気を切り裂き、その一撃は黒穿の左腕を切断した。
「こいつもかわしやがるかよ!」
左腕を犠牲にしながらも、黒穿はその一撃をしのいだ。本来ならば、身体を両断するほどのものだった。
「流石に、これはやってくれたなぁ!」
左腕を失いながらも、黒穿は無理やり足を振り抜いた。一瞬の硬直の中、静弥はその蹴りをまともにくらい、吹き飛ばされた。
よろけながらも、黒穿は笑う。窮地に立たされることすら楽しんでいるようだ。腕からは赤黒い血が大量に吹き出している。流石に切断された物は簡単には修復しないようだ。
静弥は刀を杖にして立ち上がった。黒穿がまともな体勢であれば、立ち上がることはできなかっただろう。しかし、その身体は満身創痍だ。ふらつく足取りで静弥は後ろに下がった。
逃げるかのような行動に黒穿は舌打ちするが、すぐにそれは間違いだったと気づく。
立ち止まった静弥の足下には切り飛ばした黒穿の腕が転がっていた。
静弥はそれを踏みつけ、切っ先を黒穿に向けた。静弥の心は折れていない。
「…ここで終わりにするのはもったいねえな」
黒穿はあっさりと背を向けた。そして首だけで振り返る。
「腕は預けておいてやる。取りにいくから、それまでにその傷治しておけや」
力強い跳躍で、黒穿は塀向こうの屋根の上に跳んだ。
「…死んでくれるなよ」
「待ち、やがれ…」
痛みと出血に意識が霞む。まだ終わっていない。遠退く意識に抗おうとするが、耐えきれず静弥は倒れこんだ。
「取り敢えず幕切れだね。いや、第二幕へ続くってところかな。君はどうする?このまま話を聞かせてくれると助かるんだけど。あの鬼とも知り合いみたいだし」
蒼牙は倒れた静弥を見つめ、拳を握りしめた。その夜気がわずかに揺らいだ。
「…そうだな。だが今は早く医者に見せてやることだ」
「そんなことはわかって……!」
蒼牙が突如、腕を振り払った。周囲に舞う火種が反応し、一斉に燃え上がる。蒼牙は爆炎に包まれ、豺は視界を奪われた。
咄嗟に後退り、犲は指印を組んだ。
「静まりな」
印を一払いすると、炎は初めから無かったもののようにかき消された。
消えた炎の中に、蒼牙の姿はない。
「まさかあれを目眩ましに使うなんて」
豺は嘆息し、静弥の元に向かった。
「派手にやられたね。今、長谷部先生の所に連れて行ってあげるから」
刀を拾い上げ、静弥を背負おうとすると、転がっている黒穿の腕が目に入った。
豺は少し考えると、腕に刀を突き刺した。刺されたとたん、腕は踠くように動き出すが、豺は気にしない。
「これで良し」
豺は静弥を背負い、腕の刺さった刀を引きずりながら歩きだした。
闇の中でもがいていた。上も下もわからない中、なにかに腕を掴まれ無理やり引きずり出された。助かったと認識するが、その腕を掴んでいたのは漆黒の鬼だった。
「うわっ!」
思わず声に出して、静弥は飛び起きた。
「ここは…長谷部先生のとこか」
「良かった。意識はしっかりしてるみたいですね」
そう言って、静弥の手を取ったのは長谷部診察所の一人娘、仄だった。
薄暗い部屋の中、瞳の安堵の呼吸が耳に届く。
「俺はどれくらい寝てたんですか?」
「丸一日ってとこだね」
答えたのは豺だ。
静弥は気恥ずかしさから、慌てて握られた手を引き抜いた。仄はその様子を見て、くすくすと笑う。
「お前もいたのか」
「随分だね。ここまで運んだの誰だと思ってるの?」
「…あれからどうなった?」
腕をゆっくりと回し、状態を確かめる。痛みはあるが、処置がしっかりしてあるせいか、思ったほどの不自由はない。
「黒穿は逃げたよ…、見逃してもらったっていうのが正しいのかな?」
静弥はバツが悪そうに視線を反らした。
「それと蒼牙にも逃げられた。油断したつもりはなかったんだけど、僕の見通しが甘かった。ごめん」
「そうか」
ふと思いだし、静弥は顔を上げた。
「あいつの腕は?」
「そこにあるじゃない」
豺の視線を追うと、静弥の枕元に、黒い腕が無造作に転がっていた。ぎょっとして、静弥は仄の目を気にするが、仄は特に気にする様子もなく微笑んでいる。
普段から町医者である父の助手をしている仄には、ある程度の耐性が付いているのだろう。
「預けるって言ってたからね。静弥が万全になるまでは奇襲とかの心配はないと思うよ」
「だからってお前、こんな適当に…」
「今のうちに壊したりとかできないんですか?遠くに埋めて捨ててくるとか」
「さらりと怖いこと言うね」
豺は黒穿の腕をコンコンと爪先で突っつく。
「しばらくは時々動いたりしてたんだけどね。今じゃこの有り様なんだ。硬すぎて、傷付けるのも難しいかな。仮に破壊できたとしても、その時は黒穿の方に新しい腕がまた生えてくるんじゃないかな」
「腕が生える…。すごい再生力ですね」
「と、言うわけだけど。どうする?」
豺の問いかけに、静弥は考えを巡らせる。
「今できることはねえな。黒穿の野郎も、現状じゃ無茶はしねえだろう。蒼牙とかいう鬼は気になるが、あいつは…」
豺は頷いた。
「そうだね。氷室さんにも事の次第は伝えてある。まともに動けるようになるまで大人しくしてろだってさ」
静弥は頭をかいて苦笑する。
「まったく、あの方は。じゃあ、俺はもう少し寝かせてもらうわ」
言うなり、静弥は布団に倒れ込み、寝息をたて始めた。悪夢によって一時的に目を覚ましたものの、疲労が限界をむかえていたのだろう。
「じゃあ、静弥の事はお願いしてもいいかな?」
豺は黒穿の腕を掴み、腰を上げた。
「あぁ、少しくらいなら好きにしていいと思うよ」
仄は顔を赤くして顔を背ける。
「仄に妙なこと吹き込んだら、五臓を切り抜いてやるからな」
豺はビクリとして振り返った。後ろにいたのは仄の父、紫暮だった。
「嫌だなぁ、ほんの冗談だよ」
「仄もいつまでも呆けてる気だ。いい加減、もう休め」
紫暮に促され、仄は名残惜しそうに蒼牙と共に部屋を出て行った。
夜の気配が深まる部屋の中で、豺は静弥の寝顔を眺め、呟いた。
「黒穿は強いよ。さて、どう転ぶかね…」