鬼、来たりて
颯磨琥太郎はごく一般的な大学生だった。
アルバイトをしながらの独り暮らし。友人は多くはないが、親しいと言える相手が数人はいる。
最近のニュースと言えば、猫を飼い始めたことだろう。そんな彼に不幸が訪れたのは本当に突然のことだった。
大学の講義の帰り道、鉄骨が頭上に落下した。工事現場の事故だった。
かくして、颯磨琥太郎の生涯は幕を下ろした。
…はずだった。
気がつくと屋敷の縁側で月を眺めていた。月が白い。夜闇も随分と紫色が濃い。そんな夜だった。
「俺は…」
死んだはずでは?あの一瞬では何があったかもわからなかったが、今は自分の身になにが起きたかは理解していた。
ここはどこだ?
考えると同時に答えが浮かぶ。知らない屋敷ではない。生まれ育った住み慣れた屋敷だ。
裸足のまま庭に下りる。池を覗き込むと、浴衣を着た見知らぬ顔が映っていた。
「颯磨、静弥」
誰でもない。自分の名前だ。
…いや、俺の名前は琥太郎だ。
霧がかかったような記憶。なんとなく聞いたことのあるような状況だと苦笑する。夢でなければ、これは転生というものではないか?
屋敷を振り返る。小さな剣術道場だ。ここで育った記憶もある。しかし琥太郎としての記憶もはっきりしている。
静弥としての記憶、琥太郎としての記憶。混濁というより、統合だ。動揺が少ないのはそのせいだろう。
残してきた猫は大丈夫だろうか?きっと両親が保護してくれるとは思うが。
「ん、颯磨?」
性が同じなのを偶然で片付けるのは安直だ。
「…俺はご先祖様か?」
今宵も月が白い。いつ夜空を見上げても、前の時代とは根本的な色が違うように感じる。
この時代にきて三年が経った。静弥としての年齢は17になる。これだけ目が覚めなければ、流石に夢ではないだろう。
三年間の変化としては、苦手だった魚が好物になったことと、元の静弥が血の気の多い性格だった影響か、気が短くなった。自制はできているが、静弥の影響を受けているようだ。この三年間で、統合はより強くなったように思える。
颯磨家との関係については、過去に道場をやっていたというのも聞いたことがない。静弥との繋がりは不明なままだ。
「…静弥、聞いてる?」
豺の呼び掛けに静弥は我に返った。
「あぁ、悪い。そうだな」
棒にぶら下げた提灯を手に、犲はわざとらしくため息をついた。
「で、夜回りなわけ?」
提灯の柄に結ばれた赤い布紐がくるくると揺れる。提灯は揺れていないのに、器用なものだと静弥は感心する。
「寒いね」
「だな。親父の奴は今頃、温くして寝てやがるんだ」
静弥が父から跡目を継いで同心になったのは二年程前のことだ。ある日突然、一言「後は任す」の、それだけだった。以降、氷室の指導もあり、静弥は同心の任を継ぐこととなった。
「それでどうして僕が夜回りに引き回されてるんだろうねぇ」
豺の悪態もいつものことだ。大して気にはしていないものほど静弥をからかう材料にする。静弥とは歳一つ上の幼なじみだ。普段は町外れに店を構え、鍛治屋を営んでいる。静弥の刀も豺が打ったものだ。
幼い頃から高い霊力に恵まれ、闇廻りとなった静弥にこうして手を貸している。
「そんなことより、氷室様に対してもう少しなんとかならんのか。与力だぜ与力」
「氷室さんが良いって言ってるんだから良いじゃないか。まあ、静弥にとっては兄弟子みたいなとこもあるし、仕方ないね。次はもう少し気を使うことにするかな」
豺はいたずらに笑う。
氷室は静弥の家の道場で剣を師事しており、幼い静弥も目をかけて可愛がってもらっていた。
「違えよ。…氷室様のことは尊敬してる。でも、あの方を怒らすのだけは本当に止めておけ」
何かを思い出しているのか、静弥は瞳を閉じて身を震わせた。
「そこまで言われると一度見てみたいな。静弥が怒られてるところ」
「なんで俺なんだよ」
うめくように呟き、静弥は十手の束を撫でる。
「その癖も氷室さんにそっくりだよ」
無意識の仕草を指摘され、静弥は照れ隠しに話題を変える。
「そんなことより、まだ何も感じないのか?」
「そうだね。なんとなくだけど、気づいてくれた気がするよ。もしかしたら、そのうち向こうからやってくるかもね」
拳を打ち鳴らし、静弥は好戦的に口元を歪めた。
「それなら話が早いが。しかし便利なもんだな。『探り』ってやつは」
『探り』とは、物や人の思念を読み取り、過去、あるいは対象の位置や考えを読み取る力である。昼間、雪に行使した『探り』により、豺は雪を襲った鬼の夜気をすでに把握している。動きがあればその動向もつかめるということだ。
「霊気を扱うコツをつかめば、誰でもできることだよ」
「俺にはそんな大層な霊気なんざないからわかんねぇんだよ」
「霊気のない人間なんていないよ。静弥のは極端に微弱なだけだよ」
「痛いこというなよな…」
「事実を言っただけだよ。それに、霊気がなかったら颯磨の剣は扱えないでしょ?」
小伝馬町に差し掛かかった頃だった。
不意に、犲が立ち止まった。意識を暗闇に向けて睨み付ける。
「静弥…来るよ」
「ああ」
少し遅れて、静弥も警戒を高める。刀の柄に手を添え、前方に疾走する。
闇夜が揺らめいた。黒い殺意が眼前に迫る。静弥は刀を抜いてそれを受け止めた。
現れたのは黒い鬼だった。頭に生えた二本の角は歪な黒曜石を思わせた。
それは人在らざる異形の存在。古来より伝承となり、厄災として確かに存在する者達。人々は畏怖の念を持って彼等をこう呼んだ。
…夜叉と。
拮抗は一瞬だった。獣のごとき爪が、刀を力任せに振り払った。静弥の身体が浮かび、後方へと弾き飛ばされた。
「危ねえ危ねえ。やっぱり力じゃ勝てそうもねえな」
言いながらも静弥は危なげなく着地し、鬼を見据えた。衝撃を逃がすように、自ら後ろに跳んでいたようだ。そうでなければ今頃は、刀ごと爪の餌食になっていただろう。
黒い着流しをまとった鬼が、退屈そうに首を鳴らした。
「殺したはずの女の匂いがすると思えば、なんだてめえ等」
「ああ、これのことかな?」
豺が提灯に結びつけた布紐を摘まむ。昼間のうちに、氷室に手配を頼んでおいた雪の髪止めだ。
「これでわざわざ出てきたってことは、本当に雪さんを狙ってたってことで良いのかな?」
「まあ、そういうことだ。ぶっ殺した女が生きてるとしちゃあ、面白くねぇだろう?せっかく釣られてやったんだ、退屈しのぎくらいにはなってくれるんだろうなぁ?」
鬼は静弥を睨み付け、挑発的に笑う。
「せっかくおしゃべりに付き合ってやってんだ。今のうちにかかってこいよ、弱っちい人間が」
「誘ってるのが見え見えなんだよ化け物」
静弥が前に出るのが先だった。横薙ぎの剣が鬼の胸元をとらえる。が、浅い…いや、剣閃は確かだった。金属を擦り合わせたような音が響く。鬼の肉体の強度が刀を弾いたのだ。
考える間も無く、鬼が左腕を振り下ろした。
振り抜いた刀を袈裟斬りに返し、鬼の腕を受け流す。攻防は一瞬だった。
「なんだそれくらいはできるのか。おもしれえ」
胸元にうっすらと付いた傷を擦り、鬼は拳を握った。
「冗談じゃねぇ。こっちは面白くもなんともねえわ」
再度距離を取り、静弥は呼吸を整える。
「そう嫌ってくれるなよ。俺の名は黒穿だ。名乗りな、人間」
「…颯磨…静弥だ」
霊気が身体を巡り、刀にまで不可視の力が通されていく。颯磨の剣は霊気を操り、剣となし、技とする。
本来、剣術等、琥太郎には持ち得なかったものだが、静弥の剣の才、その能力と研鑽は琥太郎自らが経験したものとして記憶されている。
左足を前に足を開き、腰を深く落とす。重心は後ろ足に置き、柄を絞るように構え、切っ先を黒穿へと向ける。
静弥は動かない。存在が消えたかのような静寂の中、今度は黒穿が先に地を蹴った。その爪が黒い疾風をまとい静弥に迫る。
その寸前、黒穿は不自然にのけ反り跳躍した。
上空で黒穿は静弥を睨み付け、腕を振り上げた。
頭上からの一撃に静弥はさらに身を沈め、前に倒れ込むように爪をかわした。重心の移動と共に身を捻る。捻りが回転へと転じ、生じた力が肩から腕へと伝わる。
視線が上空の黒穿を捕らえた。
刹那、打ち出された片手突きが、真上にいる黒穿の胸を貫いた。
「なんて身体の性能だ。やっといてなんだが、ホント大概のことはできるな。パルクールかよ」
静弥は我ながら呆れたように呟いた。
吹き飛ばされた黒穿がゆっくりと立ち上がる。刺さったままの刀を強引に引き抜き、足元に叩きつけた。
「てめえ、なんだ今のは」
「颯磨流刺突…そうだな、旋火槍とでも名付けようか」
「名付けるだと?」
「颯磨の剣に型はねえ。今のが初お目見えだ」
黒穿は首筋に手を置いた。漆黒の血が押し当てた手の間からこぼれ落ちる。
「こっちのは?」
「…刺突技、餓炎」
間合いに入った者を、餓えた炎の如く神速で貫く迎撃の型。先の攻防で初めの一手、黒穿が感覚だけでかわしたのが餓炎の一撃だった。
もっとも、かわしきることはできなかったようだが、それほど深傷でもないようだ。
「迎撃の餓炎、撃墜の旋火槍ってところだな」
静弥は満足げに呟いた。
黒穿は血のついた拳を振り上げ狂喜した。自らの血をすすり、咆哮をあげる。
「おもしれえ!いいな。いいね、いいね、いいねぇ!いいぜお前」
黒穿のまとう夜気が一層深くなった。
「イカれた野郎だ」
静弥は脇差しを抜いて嘆息した。
二人の殺意が交差する。まさにその時だった。豺が叫んだ。
「静弥!なにか来る!」
月を背に、影が跳躍していた。
「もう一匹…だと?」
静弥と黒穿の間に舞い降りたのは、新たな黒い鬼だった。