プロローグ
貞享2年 江戸
月が、雲の隙間から部屋に光を差し込む。床から、男が上身を起こした。
「吉保…」
「ここに」
呼ばれた男はすぐそばに控えていた。主が目を覚まし、呼ばれることを予期していたかのようだ。
「奴の行方はつかめたか?」
「申し訳ございません、未だ、その影すらも…」
主の問いに、吉保は深々と頭を下げた。
「しかし、殿に呪を放った夜叉は必ずや…」
「闇廻りの者達には苦労をかけるな」
返す声はかすれていた。突如咳き込み、苦しそうに顔を歪める。
「口惜しい…。あの化け犬め…」
「殿、どうかお気を安らかに。直に月が隠れます」
懐抱し床に寝かせると、すぐに重い雲が月をおおった。部屋が暗闇に包まれる。
深い夜、月が出ている時にのみ、彼は意識を正常に取り戻す。それ以外は苦痛と朦朧とした意識で別人に成り果てた。これが彼にかけられた呪のもたらしたものだ。
「綱吉様…」
意識を失った主を前に、吉保は復讐の拳を握りしめた。
冬空の下、町人達が輪を作るように人だかりができている。喧騒とその視線の中心には女が一人倒れていた。
朱に染まった着物は肉ごと肩口から切り裂かれ、その命がすでに失われているのは明らかだった。
周囲を黒い羽織の同心達が、現場を検証している。指揮をとっているのは北町奉行所与力、氷室十蔵である。
同心とは、奉行所勤めの町の治安を維持する役人であり、与力はその同心達を統括する任にあたる。
女の遺体の前に、二人の青年が足を止めた。一人は同心羽織をまとっていた。先に来ていた同人達と比べると少し若いように思える。線は細いが引き締まった体つきをしていた。
「遅かったな、颯磨」
氷室が二人に気付き、声をかけた。
「申し訳ありません、豺の奴がなかなか捕まらなくて」
颯磨と呼ばれた同心は頭を下げる。
「僕のせいにするのはずるいな、静弥」
共にやって来た青年、犲が口を尖らせた。狐目の、痩身小柄な青年だ。こちらは着流しの、町人のような出で立ちだ。言いながらも、さして気を悪くする様子もなく微笑んでいる。
「お前が蕎麦なんぞすすってたからだろうが」
「昼時に飛び込んできておいて、それは酷いな。氷室さんもそう思わない?」
静弥が慌てて豺の肩を小突く。
「氷室様に失礼だろう」
氷室は慣れた様子で二人のやり取りに嘆息する。
「まったく、お前らは。いいから話を進めるぜ。仏の名は雪。昨夜の事だ。目撃者はない。傷は深く、太いが鋭い。刀じゃこうはいかねぇ。まるで獣にでも引き裂かれたようだ。おそらく即死だろう」
淡々と進めるが、その声には静かな怒気がはらんでいる。
「あまり心を入れすぎると辛くなるよ」
豺が雪の前でしゃがみこむ。血の気の無い雪の顔に、そっと手を触れた。
豺の手に、不可視の霊気が集約される。
それから傷口を沿うように手を振るう。何かを読み取るように、先程までとは違う真剣な眼差しだ。
「うん、大体わかった」
「もうよいのか?」
「『探り』なんて、感覚的なものだからね。時間をかければいいってものじゃないんだ」
氷室への豺の物言いに、静弥は顔をしかめる。
「見た感じ、たぶん雪さんを殺すことが目的だったようだね」
「雪に殺される理由があったと?」
「そこまではわからないかな。見えたのは死に際の一瞬。真っ直ぐに雪さんを狙って向かってきた。喰おうともせずにそのまま立ち去ったよ」
豺が細い瞳を静かに開く。
「でも、爪痕の妖気は覚えたよ。影しか見えなかったけど、この特有の黒い殺意は鬼の類いだろうね」
「下手人がわかったのか?」
「焦らないでよ。言ったでしょ?感覚的なものだって。実際に会えば見わけがつくって程度だよ」
氷室は十手を擦り、静弥を見つめた。
「後の事はこちらで進めておく。お前たちは下手人を探せ。なにか解れば使いを出す」
「承知しました」
行く前に、静弥は雪に視線を移す。そして、仇は必ず打つと静かに誓った。
二人が立ち去った後、現場検証をしていた一人の同心が氷室に声をかけた。
「あまり見ない者達ですね。臨時か隠密廻りの者ですか?」
町方同心には、町の警備を主とする定廻り、通常は他の役職に就いている臨時廻り、定廻り同心の補佐にあたる隠密廻りという、総じて三廻りの役職があった。
見慣れない二人が氷室と親しくしているのを見て、様子を伺いにきたのだろう。
「まあ、そんなところだ。それより、やはりこいつは夜叉絡みのようだ。各自、一層の警戒を忘れるな。見廻りはそうだな…、三人以上で当たってくれ」
「夜叉…その話は今の二人が?」
同心が、人だかりの向こうを見やる。そして、ふと思い当たった言葉を口にする。
「もしや、あれが夜叉狩り…。四番目の闇廻り…」
氷室は否定も肯定もせずに、十手の柄を擦った。