ニートとレトロホテルの謎
猛暑とはいえ、エアコンをつけることには抵抗があった。恐ろしく生産性のない俺はせめて環境に配慮すべきと思うからだ。
運よくうちは窓を開くとかなり風が通る。かき氷も食べたし冷たいシャワーも浴びた。それと扇風機でどうにか夏を乗り越えられそうだ。
だがその清貧は弟が帰ってくるとすぐに破られた。クーラーは政府推奨温度を大幅に下回った。
もちろん不満はない。毎日働いている人の当然の権利だと思う。ちゃっかり便乗して涼しさを味わう。
彼はソーメンをゆでて遅めの昼食をとっていたが、食べ終わると「メシをおごるから支度してくれ」と言ってきた。
「なぜ? 今食べたばかりだろ」
たりなかったのか。夕飯にしちゃ早すぎるから隣県にでも行くのだろうか。おごってくれるのなら乗ってもいいが。
弟はうちから50分くらい離れた海水浴場の名をあげた。地元民にはなじみの場所だ。
「そこのホテルだ」
彼の仕事は探偵だ。今やっているのは不倫調査でよその県の業者からの委託だそうだ。なかなかくせ者のカップルで、海外旅行に行くと見せかけて地味な観光地のわが県に旅行に来た。
「予約したホテルもあちらの業者が突き止めていて、楽な仕事だと思ったのだが」
そこはフェイクで彼らは別のホテルに向かった。
「不倫向きの場所じゃないので用心してたんだが案の定だ」
と言うことでそこの予約はムダになった。もうキャンセルもきかないので、いつでも暇な俺にただで譲ってくれるそうだ。
「地味とは言えリゾート地に男一人って浮くだろう」
断ろうと思ったが弟は否定した。
「サーファーだらけなので目立たない。夏休み前だからファミリー層もそれほど多くないし」
それでも迷っていたら「あの辺でコスパ一番と言われるホテルだ。メシもうまい」と推された。
「こじゃれ系?」
「逆。わりと昭和だ。だがそこがいい。屋上には海を見渡せる露天もある」
温泉と美味しいご飯。心が揺れる。それに冷房もつけっぱなしでいいし。
「…………何かたくらみは?」
今までだいぶ巻き込まれて、面白くもない素人推理をさせられた。いくらタダでもそれはいやだ。
「ない」
彼はきっぱりと否定した。
「俺はターゲットと同じホテルに泊まる。これは日頃の礼だ」
嘘は感じない。素直に受けることにした。
「行く。暑いし」
「だよな」
弟は少し口元を緩めた。
※ ※ ※
来てみたら確かに昭和だった。入り口の隅に、家族が見ていたなんかのドラマにあった銭湯のカウンターみたいなフロントがある。そこでチェックインしたら渡されたキーが大正でも明治でもなくまさしく昭和な感じで、なんか紫色に透き通った重いプラスティックの四角い物体に鉄の鎖で鍵がついている。この近辺には子どもの頃から来ているが、その時泊まるホテルはその当時でもカードキーだった。
だからと言って困るわけではない。ホテル近くにはバーとかあるが、出かけるときはこの鍵はフロントで預かってくれる。もちろん行かないが。
受付と逆側の靴箱に靴を入れスリッパを履いてロビーを眺める。古風な雰囲気の籐製のテーブルと椅子がいくつかある。あふれんばかりの昭和感。ロビーの向こうは海だが、防砂林代わりの棕櫚が植わっているのでほとんど見えない。けれどこちら側にもガラス戸があり、海への出入りはカンタンだ。しかも『ご自由にお使いください』とビーチサンダルが用意してある。
ロビーの端には”プロ野球コーナー”がある。ここはメジャーな球団のキャンプ地だから、かつての名選手のバットとかボールとかユニフォームや写真が飾ってある。全く興味はないがビールの自販機がそこにあることだけは頭に入れた。
コーナーの向かいにあるエレベーターに行こうとすると、それが開いて子どもが二人飛び出してきた。ぶつからないように距離をとって待つ。すぐに両親らしい人たちが降りてきたが、子どもたちはそこから離れない。
「おばあちゃん、楽しかった!」
「おばあちゃんはまだいるの? いいなあ」
幼稚園と小学一年生ぐらいか。二人は最後に出てきた老婦人にとびつく。地味な装いのその人は優しく笑いかけた。
「めいあちゃんとたくとくんはピアノがあるでしょう。またね」
「あの、うちの方にいらしてくだされば」
子どものお母さんらしい人が口をはさんだが、婦人は首を横に振る。
「二人とも可愛くて仕方がないけど、私はちょっと羽を伸ばすわ。また今度ね」
「じゃあ母さん、元気で。帰りほんと大丈夫か」
「ええ、もちろん。あなたたちもお元気で。いろいろありがとう」
それから婦人は大人しく待っている俺に気づいて場所を避けてくれた。移動してなかったエレベーターはすぐに開いた。
予約された部屋は五階で東側一面が窓だった。高さもあるのに海が間近だ。それもそのはず、歩いても三分で館内の移動距離の方が長い。県内最大の海水浴場に隣接しているからにはもちろんここは長い歴史がある。つまりわりと古い。
だが改修を重ねているので特に文句はない。お洒落じゃない代わりに部屋は広いし冷房は効いている。意外なことにWi-Fiもある。タブレットを持ってくればよかった。携帯はとっくに解約しているので利用は出来ない。
壁は薄いオリーブ色だ。テレビやクローゼット、金庫などが壁際にある。中央には大きなちゃぶ台というか座卓というか低いテーブルがあり、急須や湯呑みなどの茶道具や緑茶のティーバックや雲の形の薄いせんべいなんかがある。
茶でも入れるかと思ってポットを探すと、部屋の端にうちのおばあちゃんのように”魔法びん”と呼びたくなるような白地に花柄のやつを見つけた。
コンセントは外れている。差し込む前にフタを開けてみると空だった。水を入れようと持ち上げると、本体にくっついていたコードがポロリと外れた。壊したかと真っ青になったが、そうではなくマグネット式だった。
いったんおろして水を探す。たたみの向こうの、あの室内縁側みたいな謎スペースの隅に古風な白い冷蔵庫があったが、中は空だった。自分で買ってきて入れる形式らしい。
せっかく無料で来てるんだから、余分な金を使うのはいやだ。ビールぐらいは買ってもいいが、お茶用の水って売ってるのかわからないし。
しばらく考えた後、ポットを持って玄関付近のもう一つのドアを開けた。
想像通りそこはユニットバス、洗面台、トイレが並んでいる。狭い空間だが古びてはいず、すべて真っ白で清潔だ。窓はない。
洗面台で水を汲む。なんか微妙な背徳感があったが、ハブラシとコップがあるのでここはハミガキを想定したスペースだ。ということはこのコップに水を入れてうがいをするわけだし、飲まないにしても口に入れるからには飲用可能な水だと思う。つまり沸かして茶にしても問題ないはずだ。
汲んでから部屋に戻って湯を沸かし始めた。その間は暇なので窓の外の海を眺めた。
青い空の下に白い波が打ち寄せる。空を映した海はきらめいて揺れる。
サーファーの数を五十まで数えた俺は急に飽きた。百はいると思う。まとめると”たくさん”だ。
海開きを迎えたばかりとはいえ、こんないい位置に俺なんかがいるのは申し訳ない。だが一般的な海水客はもう少したってからが本番だろう。それでもビキニのお姉ちゃんはいるだろうから、今俺が退屈しのぎにそこへ行ったら胸のあたりをガン見するに違いない。そうすると連れの男にぶん殴られる可能性がある。
その上俺は見知らぬカップルを呪詛することにためらいを覚えるほどの人格者であるから、人が減るまで近づかない方がいい。
茶を飲みながらどうするか考えた。せっかく持ってきた本もマンガもなぜか読む気にならない。少し考えて屋上の露天風呂に行くことにした。
エレベーターで上がってかなり小さめの脱衣所で服を脱ぎ、部屋の鍵をロッカーに入れる。代わりにロッカーの鍵のついた伸縮性のわっかを手首にはめた。それから扉を開くと青空と海へ招待された。
一面の空。そして海。出て来た建物の部分があるから360度じゃないんだが、それでも全方位と言いたくなるほどの青だ。絶海の孤島に一人いる気分になる。運のいいことに二つある露天風呂には誰もいなかった。
建物側にあるカランで雑に体を洗い、すぐに湯につかる。風が顔を撫でていく。気持ちがいい。
遠くの船を眺め、すぐ近くを飛ぶかもめを眺める。親子連れらしい人たちが現れるまでそこにいたが、充分に堪能した。
機嫌よく部屋に帰る。露天と較べると、建物の中は薄暗く感じるがいやな感じはない。途中買ってきたビールを1本のみ、今度は近くの有名神社に参拝に行くことにした。
奇岩に囲まれた小さな島にあるその神社は、海水浴場より向こうにある。15分ぐらいかかるはずだ。なるべく人の顔を見ないようにして歩いたが、サーファー率が高いので女性より男性の方がずっと多いようだ。
海の上の橋を渡る。わりに低いのに、部屋や露天からと違って自然の脅威が間近に迫ってけっこう怖い。万が一のことを考えて、自前の靴で来たことを自分でほめたほどだ。だが渡りきると鳥居や岩の方に気がいってすぐにおちつく。
以前も来たことはあるが、神社は竜宮城みたいな雰囲気のとこだ。亜熱帯植物がわんさか生えてるのでけっこうトロピカルで、フラッペとかラムネも売っている。
恋愛関係に強い神社なので、あつかましいとは思ったが素敵な女性にめぐり合えますようにと祈ってみた。
陽はだいぶ落ちて夕暮れが迫っている。どうするか一瞬考えたが、せっかくなので島を一周することにした。子どもの時来た時は裏までは行かなかった。
周囲は1.5キロだと聞いたことがある。大してかからないと思ったが、貝殻の混じった砂は歩きにくい。その上どこまでも遠く続く水平線や、波状に隆起している珍しい岩の連なりに気を取られて思ったより時間がかかってしまった。ここの神社は日の出から日没までが営業時間だそうだから、そろそろ危うい。実際、先を行くカップルがいなくなってからは人に逢わなかった。
スピードを上げる前にもう一度海を眺めた。それから視線を戻そうとして、岩のあたりに黒い影を見つけた。よく見ると服装が黒っぽいだけで人間だ。岩間に心細そうに立って海を見ている。
少し気になった。年配の女性のようだが、このままそこにいると暗くなってしまう。俺は5分ほど悩み、意を決して彼女に近づいた。
「サンダルを流されたのですか」
片足だけビーチサンダルを履いている。その人はびくっと震えてこちらに振り向いたが、顔に見覚えがあった。
「あの、あ、あやしい者じゃないです」
どもってしまって実にあやしい。老婦人は警戒心をあらわに黙っている。俺はびびりながらも言葉を連ねた。
「あの、同じホテルの宿泊者です。しばらく前にエレベーターの所にいた」
思い出してくれたのか、少し表情が緩んだ。
「ええ。年甲斐もなくこんな所まで下りてしまって」
この後どうするべきなのだろうか。俺の靴を履きませんかと勧めるべきか。いや俺が女性だったら見知らぬ男の靴なんか履きたくないと思う。それにサイズが違うとかえって危ない。岩の上で転んだら流血沙汰だ。
「申し訳ないけどホテルにサンダルを取りに行っていただけないかしら」
なるほどそれはいいと一瞬思ったが、俺の口はそれより早く否定した。
「いえ。もう日が暮れます。このままここにいてはいけません」
「あら、でも」
「おぶさってください」
俺はかがんで背中を向けた。あたりまえだが婦人は躊躇した。そりゃそうだよな。ホテルが同じってだけの見知らぬ男に唐突におぶされって言われてもいやだよな。
「すごく迷惑だと思いますが、お願いします」
こんな孝行心を死んだうちのおばあちゃんに向けたかった。両親にも持つべきだった。だが三人は事故で急死してしまって戻らない。だからせめてこの人を安全に連れ帰りたい。その思いが滲んだわけでもなかろうが、老婦人は承諾してくれた。
俺は彼女を背負って島を出て、橋を渡った。
暗くなってきたので海水浴場のテーブル席は空いていた。俺はいったん彼女を下ろし、ダッシュでサンダルを取ってきた。
「ありがとうございます。助かりました」
婦人は礼儀正しく頭を下げた。俺も頭を下げ、なんかもごもごとそれに応えた。
夕食は大部屋だった。いつもだったらちょっといやなんだが、このホテルのスタッフはどの人もすごく親切で感じいいし、テーブルに仕切りがあるのでそれほど気にならない。折り紙の花までもらった。
言われていたとおり食事は美味しかった。品数も多いし量も十二分だ。出された料理は実に明快だ。ホテルや旅館で和食系の食事だと、大抵なんかよくわからん海草を寒天で固めたものに酢味噌がかかったものとか謎のふわふわした白いものに葉っぱが乗ったやつとか、けしてまずくはないが普段は食べないオードブルが出る。そういうものが一切なく、これは刺身だ、とか、これは天ぷらだ、とか牛肉のしゃぶしゃぶだとかわかりやすかった。
満足して大部屋を出ると呼び止められた。さっきの老婦人だ。慌てておんぶを無理強いしたことを謝ると、とんでもないと手を振られた。
「お礼にぜひご馳走させていただきたかったのですけれど、時間帯が違っていて」
「気にしないでください。それにお腹いっぱいになってしまって」
「あら、若い方でもそうなのね」
それでも彼女はにこにこしながら「せめてビールだけでも」と言うので、ロビーでご馳走になることにした。
物をくれる年配の女性には免疫がある。みかんとか飴とかもらったことがある。だからその延長線で気軽に来てしまったが、籐椅子に座って急に不安になった。今までなんかくれた人は一方的にしゃべる人が多かったが、この上品な感じのご婦人はきっとそうではない。だとすれば何を話せばいいんだ。
いくらなんでも『”ぼっち・ざ・ろっく”と”異世界おじさん”と”吸血鬼すぐ死ぬ”ではどれにより癒されますか』と尋ねるわけにはいかんだろう。やっぱり現代でも通用し、なおかつ誰もが知っている古典かなんかの方がいいか。
とするとジョジョかガンダムか。いやしかし、高齢女性にジョジョはきついか。とするとガンダムだが例の最終回はやっぱり辛いだろうしもしかすると最近の作品は見ていないかもしれない。じゃあファーストか。あれどのくらい昔に出来たものだっけ。この人が成人して以降だったら、どんな名作でも知らないかもしれない。
俺は心底焦った。え、じゃあどうする。年配の女性って何を見るんだ。うちのおばあちゃんの好きだったライダーものはダメだろうか。いや普通はいかんだろう。やっぱり女性主人公の実写ドラマか。『”ウェンズデー”はご覧になりましたか?』 しかしネトフリに入ってるとは限らないか。
生ビールを断った俺のために、老婦人は缶ビールをいくつか買ってきてくれた。彼女にも勧めるといったん断りかけたが、急に「ええ。いただきますわ」と高らかに宣言して缶を開けた。ちょっとためらっていたが、ぐいと傾けた。
「……缶から直接飲むの初めてかも」
たぶんこんな得体の知れない男と飲むのも初めてだと思う。俺は微笑み、自分も缶を口に当てた。
「あの、お一人でいらっしゃったの」
「はい。ほんとは弟が来るはずだったのですが、急に来れなくなったので代わりに」
「もしかして、サーフィンの下見の邪魔をしてしまったのではないかしら」
首を横に振る。
「いえ、サーフィンはしません。暇なので歩いてただけです」
彼女はほっとした様子でもう一口ビールを飲んだ。
「お邪魔をしてしまったと後から気になってしまって」
「全然。時間がつぶせてよかったですよ」
「それでも。こんな、なんの価値もないおばあさんのために」
びっくりして否定した。
「とんでもない! 可愛いお孫さんたちがよく懐いてるじゃないですか。たまたま居合わせましたが、あなたが出てくるの待ってましたよ」
彼女は何か儚げな表情でうつむいた。嬉しそうでもあり、寂しそうにも見えた。俺は更にかぶせた。
「お孫さんたちのご両親もあなたを大事にしているように見えましたよ」
老婦人は顔を上げ「私はどちらの親に見えました?」と謎の問いかけをした。
「え、旦那さんの方だと思いましたが」
「そう。そうは見えるのね」
違ったのだろうか。不安そうに見つめると彼女は意外なことを語った。
「私ね、あの人の継母なの」
反応するのも失礼なので耐えた。しかし人間関係に疎い俺にとってそれは、毒りんごを勧める人しか思いつかない。でもそんな悪いおばあさんじゃなさそうなこの人は寂しげに話を続けた。
「本当のお母様はあの人が小学一年生のときに亡くなって小学五年生の時に私が来たの」
「反発されたのですか」
彼女は頭を横に振った。
「いいえ。昔から賢くてしっかりとした子だったのよ。初めて二人きりになった時もまずは歓迎してくれたわ」
賢い昔の小学生は礼儀正しく言った。「うちに来てくれてありがとうございます。父と二人では食事や掃除も行き届かなかったのですが、おかげで改善されました」
「だけど」と彼は続けた。「あなたはいい人だと思うし、周囲に不安感を与えないためにも親として扱います。それでも自分にとって母は実の母だけです」
少年は更に弟も妹も必要ないと要望を告げた。衝撃を受けた彼女に「ひどいことを言ってごめんなさい。でも、両親の子供は僕だけでいたいんです」とはっきりと言った。
俺の人間関係はエンタメの世界にあるので正直と惑った。しかしこの人はたぶん誰かに、人生に関わりのない誰かに吐き出したかっただけなのだろうから大人しく聞き続けた。
「それでも関係が悪かったわけじゃないの。修学旅行に行った時も他の時も、ちゃんと私にもお土産を買ってきてくれたし、親戚の人が辛くあたろうとした時もかばってくれたわ」
薄紙を挟んだような親子関係。彼女の夫は双方に温かく接していたが、今年の二月に亡くなった。
「だからもう、無理に私に近寄らなくていいのよ。なのに今回も私の誕生日のために旅行を計画してくれたの。本当はもっと豪華な旅を企画してくれたのだけど、かえって気が重いからってこちらに変えてもらったの」
「いい選択ですね。屋上露天風呂よかったですよ」
「ええ。来てすぐ孫とお嫁さんと行ったわ。息子たちは部屋の露天に入ったけれど」
部屋は二つでどちらにも露天があるそうだ。
「いっしょに行かれるということは、お嫁さんとも上手くいってるんですよね」
「しっかりとしたいい方なの。あの方も小学生の時にお母さまを亡くしているせいか、息子ともよくわかりあって支えあっているわ」
お嫁さんの父親はこちらと違って再婚せず、彼女が就職をした後に亡くなったらしい。
「じゃあお孫さんにとってもの凄く貴重品じゃないですか。一人しかいないんですよ」
うっかり品物呼ばわりしてしまったが彼女は怒りもせず、「ええ。本当のおばあちゃんだったらね。いっそちゃんと話してしまえたら気が楽になるかもしれないけれど、まだ小さいからそういうわけにもいかないの」と言って、またビールを口に運んだ。
人は他者の悩みをなかなか理解できない。血はつながってなくとも関係性の悪くない親子関係は、血はつながっているが関係性の悪い親子よりもいい気がするが、それは俺の考えだ。だけどなんとか共有点を見つけたくて「お孫さんは本当にあなたのことが大好きだと思いますよ。幼稚園生ですか」と話を飛ばした。
「上のたくとくんは小学二年生。めいあちゃんは幼稚園の年長さん」
お兄ちゃんの方は思ったより少し上だった。俺は名前の漢字を尋ねた。ビールを飲んでいた老婦人は「拓人。自分の人生を自分で指揮し、切り開いていく子になるようにと息子が決めたの。めいあの方は……当ててみてくれる?」とようやく微笑んだ。俺はほんの少し考えた。
「五月愛?」
「凄いわ! どうしてわかったの?」
「以前ネットで心愛とかいてここあと呼ぶ名を見かけたので、その応用です」
「それでも凄いわ」
少しアルコールが回っているのか、しきりに感心してくれる。
「この名前はお嫁さんがつけたの。そうね。その時のことにまだ感謝してくれているから私に親切なのかしら」
息子さん夫婦は最初の子が男の子だったら彼が名をつけ、女の子だったら彼女がつけると決めていたそうだ。第二子はどちらであってもつけなかった方が名づけるとも決めていたとか。
ところが第二子の時にもめた。彼らはこの県の北部に住んでいて、老婦人は(当時は夫と)県庁所在地に住んでいる。うちの県は広いのでけっこう離れているのに、珍しく義理の息子はアポもとらずにいきなりやってきた。たまたま夫は留守だった。
「こんなキラキラネームは許容できないと言っていたの。ホルモンのバランスが崩れて通常の判断が出来ないのだと」
お嫁さんはいつもはしっかりとした人で、常識的なふるまいを外したことはなかったそうだ。
「でもね、彼女も小学生の時にお母さまを亡くしているのよ。きっとそれからずっとしっかりしていることを求められて全力でそう振舞っていたけれど、彼女の中の小さな女の子はどこかに潜んでいたのでしょうし、それに何より素敵な名じゃない。五月に生まれてみんなに愛され、みんなを愛するなんてすばらしいわ」
「響きもきれいですしね」
「でしょう。そのことも力説したわ」
聞いているうちに息子は落ち着いてきたのか、素直に受け入れて帰ったそうだ。名前はそのまま通った。
「よかったじゃないですか」
「そう。彼女のためというより私にとって嬉しいことだわ。ほんのちょっとでも役に立てたのなら」
謙虚で優しい人なんだと思う。でもそれが自虐に向かってしまっている気がする。
「だからいい印象がちょっとでもあるうちに離れたいわ」
老婦人は今後の加齢による雑事に、彼らの手を煩わせたくないと語った。立派な心がけだとは思う。でもなんか、最初に見かけた凄く寂しげな印象がまた戻ってきたように感じた。
「お孫さんはピアノを習ってるのですか」
またも話題をかっ飛ばす。婦人は柔らかい表情でうなずいた。
「そうなの。お嫁さんの希望で、最初は五月愛ちゃんだけが習い始めたの。そうしたら急に拓人くんがやりたがって、二人ともやることになったの。でも彼の方が年上だから追い越してしまって、すると五月愛ちゃんもむきになって」
そのせいであの年頃にしてはけっこう上手いらしい。楽しそうに教えてくれる。
「だから手先も器用で、昨日も……」
と言うなりまた表情が曇った。俺は黙って待っていた。彼女は気を取り直したように続けた。
「私の部屋でサプライズの誕生会をしてくれたのだけど、可愛い折り紙をたくさん作ってくれていたの。おばあちゃん誕生日おめでとうって書かれたボードも作ってくれていて」
なんだ。悪いことかと思ったら、めちゃくちゃ幸せそうな情景じゃないか。
「息子たちからのプレゼントもあって、素敵な時をすごしたわ。今日みんなが帰った後にフロントに確認に行くまで」
「なんの確認ですか」
「鍵をいつ頃貸したのかと尋ねたの。そうしたら」
『お貸ししておりません』ホテルの人にそう言われたそうだ。本人に許可を得られない場合、親族であっても部屋の鍵のスペアを渡すことはないらしい。
「じゃあどうやって開けたの。私の鍵は貸していないのよ。なのにいつの間にか私の部屋を開けて入っている。いえ、息子たちが入ったことが嫌なわけではないの。だけど今まで礼儀を守ってくれてた人たちがなぜ急にとか、それよりも何よりもどうやって入ったのか、すごく気になってしまって……」
「あの、誕生会はいつ開かれたのですか」
「16時過ぎかしら。ここの通常より早く14時にチェックインさせてもらったので、部屋に入って少したってからお嫁さんと五月愛ちゃんが露天に誘いに来たのよ。すぐ用意してお風呂にいって、40分ぐらいかしらそこにいて、いったん自分の部屋に戻ったわ。その時はまだ人が入った気配はなかったと思うわ。でもわりとすぐに拓人くんから電話があって、こっちの部屋に来てほしいって言われたの。何かしらと思ったけれど、行ってみたら特に何かというわけでもなく息子がお茶をいれてくれたわ」
「お嫁さんではなく」
「そう。でもこれは珍しくもないわ。お嫁さんは料理上手だけどお茶はあの子の方が上手いとかでいつもいれてくれるの」
お茶を飲んでのんびり話をしていた時、義理の息子さんは席を立ったそうだ。お孫さんとお嫁さんは動いていない。しばらくしてから彼も帰ってきて、老婦人が部屋に帰ろうとしたら全員がついてきた。で、彼女が部屋の鍵を開けると、リビング(でいいのか)の方にたくさんの折り紙とボードが飾ってあってプレゼントも置かれていたとか。
「お孫さんは海には行かなかったのですか」
いかん、つい気になって本題と離れたことを聞いてしまった。
「私の誕生会が終わってから行ったわ。両親と拓人くんもその時に」
「神社には?」
「今日、朝食前にお参りしたって話してたわ」
この人の誕生日がメインの目的なのは確かだな。
「最初にお風呂に言ったときに鍵はどうしましたか」
「ロッカーに入れておいたわ」
「その時お嫁さんが借りて行った可能性は?」
「ううん、無理よ。ロッカーの鍵は手首にかけていたし、私の方が少し先におフロから上がったから」
ちょっと考える。
「お孫さんのどちらかが借りていくチャンスは?」
「あったかもしれないけれど、どんなに立派な目的があっても子どもに盗みをさせる人たちではないと断言できるわ」
納得する。
「じゃあ息子さんたちの部屋に来た時、どこに座りましたか」
「低いテーブルの端よ。奥より入り口に近いほうが好きなの。息子と反対側に」
「お嫁さんは?」
「その間の位置だけど、息子より私に近かったわ。直角な感じで左側にいたわ」
「この時借りたのでは」
少し考えて老婦人は首を横に振った。
「無理だわ。私鍵はいつも右に置くの。この時も座椅子の右横のたたみに置いていたから、お嫁さんが取ろうとしたら不自然に体を傾けなければ取れないわ。そんなことはなかったし」
「じゃあ息子さんは?」
「テーブルは小さくはないから、下にもぐるか私の近くまで歩いてこなければ無理よ」
「一度部屋を出たのでしょう。その時は?」
「あの時はお嫁さんの後ろを通って私の左横を行ったわ。しかも結構離れていたから絶対に取れない」
ふむ。
「その時鍵はずっとありましたか」
「おしゃべりや孫に気を取られて見ていないの。でも部屋に帰る時には確かにあったわ」
俺が考え込んでいるうちに老婦人はビールの残りを空けた。更に考えていると、老婦人はいつの間にかうとうとしている。たぶん飲みすぎだ。
「部屋に送りましょう。鍵はありますか」
彼女はうなずき、籐椅子の右においてある鍵を持ち上げた。うちの部屋のと同じような鍵だ。違いは透明プラスティックの色だけだ。そのまま立ち上がりかけた彼女が鍵を落としたので拾い、軽く支えつつそれに書かれた番号の部屋まで連れて行った。
入り口で帰ろうとしたが返した鍵を鍵穴に差し込むのを失敗しているのを見て、代わりに開けてベッドまで連れて行った。話に出たボードと折り紙はベッドサイドにまとめて置いてあった。
部屋は俺の部屋よりも広く、しきりがあって座布団ののった座椅子もある。座卓もうちの部屋のより上質で、少し広く見える。だが同じものもあって、テレビも同じだし急須や湯のみや魔法びん的ポットも同じだった。部屋付きの露天も気になるが、あまりじろじろ見るのも失礼なのでそのまま部屋を出た。
おいしい朝食をとって満足しつつ大部屋を出ると、思ったとおりに彼女がいた。赤面している。
「何度もご迷惑をかけてしまってすみません」
「いえ全然。それより謎が解けましたよ。もう一度ロビーに行きませんか」
婦人は驚いてうなずいた。
======読者への挑戦状====
条件はすべて提示されています。謎解きがお好きな方は考えてみてください。
=============
「謎自体はカンタンなんですよ。状況からいって、部屋を飾りつけたのは息子さんですね」
フロ後には何もなく、息子夫婦の部屋に行った後戻るまでに席を立ったのは彼だけだ。
「でもあの子は私の鍵に近寄りもしなかったのよ」
彼女は困ったように否定した。俺は黙って自分の鍵を彼女に渡した。
「失礼ですが、昨夜確認させていただきました。ほぼ同じようなものですね」
「ええ。色は違うけれど」
「部屋も一瞬だけ見せてもらいました。息子さんはお嫁さんと同じで、やんちゃな男の子をどこかに残していたんです」
がんばって出来るだけやさしく微笑んでみる。いや、ちょっと引かれた気がする。
「どういうことでしょう」
「たぶん最初はフロの後に息子さんたちの部屋で誕生会の予定だったのでしょうね。だが息子さんはこのホテルに入ってあることに気づいてしまった。そして長年付き合いのあるあなたの行動パターンを把握していた」
「?」
「入り口近くの席を好み、鍵は自分の右下に置く癖がある。だから彼はあなたの反対の位置に座ってお茶を入れた。だから疑われもしなかったけれどそこは絶好の場所だった。彼は気づかれないようにポットのコードをテーブルの下に投げ、そのマグネットで鍵の鉄の鎖を捕らえて引き寄せたんです」
老婦人は目を見張った。
「そしてその鍵とたぶんトイレ辺りに隠していたお孫さんの創作物を持ってあなたの部屋に行った。飾りつけて帰ると、またコードに鍵をつけてあなたの横に戻した」
「そんなに簡単に戻せるの?」
「コードの磁力はわりと弱いんです。俺も自分の部屋に入った時ポロリと落ちて慌てました。そっと戻してからコードを何度か振れば自然と落ちると思いますよ」
彼女は俺と鍵を交互に見つめた。
「それとなぜ急にそんなことをしたのかと尋ねましたね。俺は人間関係にむちゃくちゃ疎いので思いっきり外しているかもしれませんが、思いついたことを話していいですか」
「お願いします」
頭を下げられたので慌てて上げてもらった。
「息子さんは子ども、特に下のお嬢さんができてから後悔しているんだと思います。ほんのちょっと聞いただけでも兄妹だったからこそ増えた選択肢や影響が明らかだ。けんかをしたり大変なこともあるでしょうけれど、親にとっては二人ともすごく大事な宝物なんじゃないでしょうか。そしてそれは、かつて自分がそうなる可能性もあったことだ。なのに自分でそれを拒否し、更にあなたが実の子どもを持つ機会を奪った。言葉に出して言えなくてもずっとそんな気持ちを抱えていたのではないでしょうか」
「…………」
「子どものころは仕方なかったんだと思います。あなたのことも深くは知らないし、実の子が生まれたら人格が変わるものなのかもと怖かったのでしょう。だけど彼はもう、あなたをよく知っている。ちょっとした癖や人柄も全部知っている。もう彼は人前でだけ母として扱おうなんて思ってない。だけどあなたと彼の間には礼儀の形をした薄い壁がある。だから彼はあえてその壁を破ろうとしたのじゃないでしょうか」
老婦人はふいに涙ぐんだ。でも瞳を潤ませたまま微笑んだ。
「……その通りだと思うわ。思い当たることもあるの」
「それはよかった」
「人間関係に疎いなんて嘘なんじゃなくて?」
思いっきり否定する。
「死ぬほど疎いです。たまたま当たってたらラッキーだっただけです」
「そう。でもあなたってやっぱり凄い方ね」
ありがたいができれば年頃の女性に言ってもらいたかった。
「でも、私も彼もなかなか素直になれないわ。どうすればいいのかしら」
「カンタンですよ。帰ってから電話をかければいいんです。誕生日の礼を言って、それから『鍵のトリックわかっちゃったわ!』と高らかに宣言すればいいんです」
彼女は真夏の太陽にも負けないほどの晴れやかな笑顔を見せてくれた。
※ ※ ※
「……ってわけだ」
黙っておこうと思ってたのに、結局弟に話した。自慢したいわけではない。ほんとに合ってるのか急に不安になって吐き出したくなった。そしてそんな時話せる相手はこいつ一人しかいない。
「正解だと思う」
そう言われてほっとした。途端に気が大きくなる。
「じゃあこの善行に免じて、神社のお願いかなえてもらえないかなあ」
弟は憐れむような目で俺を見た。
「それは無理だな」
「なぜだよ!」
むくれて弟にくってかかると、彼はなだめるように片手を振った。
「もう、かなってるじゃないか」
俺は一瞬考え、口から泡を飛ばした。
「そりゃあ素敵な女性だけどさあ!!!」