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怒っているのか、嘆いているのか。喜んでいるのか、楽しんでいるのか――――感情の一片も見せない背中を、青年は見つめていた。
荷物以外は全て外套の下に隠され、何も解らない。
これから自分がどこで何をされるのか、街についてもまだ命は残っているのか――――
そう、解らないことばかり考えていると、ふと、まだ名すら伝えていないことに気が付いた。
ただ、不安定な砂を踏む音以外は、静寂が支配する一帯。
『敵』の気配もなく、今はまだ平和だ。なら今、命の恩人に、名乗らなければならないだろう。
「あ、あの……」
青年の弱々しい声が、静けさのなかで響く。
地面を踏みしめる音に負けないような声は、果たして男の耳に届き――――それでも男は立ち止まらずに、素っ気なく
「なんだ?」
と、先ほど聞いた声よりもわりと高いトーンでの返事。
相手を思いやってのことか、その声にはどことなく優しさがこもっていた。
青年はその声に、ほっと胸を撫で下ろしてから、言葉を続ける。
「あの、輝……です。西篠輝。俺の名前」
「あぁ、そう」
興味も無さそうに簡単に答えた男は、面倒臭そうに大きなため息を吐いた。
「俺のことは適当に呼んでくれて構わない」
ヒカルは、男には解らないだろうとわかっていても小さく頷き
「先程はありがとうございました……師匠」
「却下」
「主様」
「…………」
男は立ち止まり、再びため息を吐いてから、西篠に振り返った。
「俺はナツメ。これ以外名乗ったことないし、呼ばれたこともないから、そう呼べばいい」
――――ナツメ。これは彼の本名であり、姓であり名である。
夏目鳴爪。これがフルネーム。本人はそれを伝えるのすら物臭がり、『ナツメ』で済ませているのだ。
「それじゃ、改めて……先程はありがとうございました。ナツメさん」
西篠は、命を助けられた代わりに今後の人生の全てをナツメに預けていると、それを理解していても、それでもただ純粋に今の生が在る事に感謝していた。
否、ただ頭が足りない故かもしれない。自身の危険を毛ほど感じていないからこそなのかもしれない。
ナツメはそんな西篠の姿を一瞥してから、返事もせずに再び背を向けた。
視線の先に、先程よりも大きく見える街の後ろ姿。
日本、首都東京。大昔に分けられた区は今でもしっかりと残されていて、そこからやや増え26区。
住民は千万人を軽く超え、さらに政治や流通の中心でもあり、その街の賑わいは他街の比ではない。
それほど大きな街をさらに砂漠と遮るように立てられている巨大な鉄壁。
街に砂が侵入することを防ぐ役割を持つそれは、どの街でも見られるもので、それはさらにもう一つの役割を備えている。
それは門の代わり。入り口を四方に作り、それぞれに門守を配備させ、中に入るには検問を受けなければならない。
秩序を守るために、危険物を所持しているか否かを確認するためなのだ。
大きな荷物や大量の品物をラクダに引かせる商人は、さらに免許やら許可証が必要になるのだが――――
基本的に稼働されているのは正門のみ。残りの三方の門は緊急時以外は普通、閉鎖されている。
故に、この場から徒歩で三十分程で到着できる街に、入るためにまた一時間を掛けて正面に回らなければならない。
運良く車を転がしている商人と出くわすこともないので、歩くしかないのだ。
ナツメは照り注ぐ日差しが丁度一番高い位置にあることを確認してから、その根を張りかける足を上げ、前へと踏み出させた。