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未だ肌寒い早朝、並木道を通過して駅前へとやってきたナツメは、駅前広場の中央に立っている案内標識を見上げる。
そこには広場を表す丸があり、そこから東西南北に矢印が伸びていた。その脇に、『西地区第5通り 住宅街』だとか、『西地区第8通り その先西地区第2区画』なんて事が書いてあるソレを見て、ナツメは治安維持委員会支部の場所を確認した。
「……ぬぅ」
書いてない。表記されていない案内標識を穴が開くほど睨めて見るも、そこに書かれていないという事実は揺るぎはしなかった。
大きく肩を落として、ナツメは辺りを見回す。
まばらに散らばる人。その背景には、駅があったり、宿泊施設、商店があったり。
そんな中で、ナツメは建物と建物に挟まれる、一際小さい小屋のようなものを見つけて凝視。
「治……維持、員会?」
扉の上に掲げてある、木に彫ってある看板の文字を読み取るが、朽ち果てて居るようにボロボロ。何とか読み取れる文字を読み終えたナツメは、脳内補完によって導き出された小屋の名前に、酷く愛想を尽かしたように溜息を吐いた。
――――治安維持委員会、それはその地区、区画の治安を守る、または維持するために設けられた組織でそれは首都東京のみならず日本の全ての集落、村、町にまで広がっている。
この東京はそれが顕著に多く感じるが、他の街は、東京の1つの地区程度の多きさで、犯罪率も然程多くないので1件の支部で事足りる。
そんな治安維持委員会は、どの街でも、村でも、国が提供した利用できる公共施設の中でも最も大きく、それ故に信頼を置かせなければならないのだが……。
ナツメは嘆息する。
そうして、あまり信じたくは無いそのボロ小屋へと足を向けた。
複雑な心境を迎えたナツメは、やがて、間近で見るとその酷さが鮮明に見て取れるそれを見上げ、肩を落とす。
――――これは一体、何の冗談だ? 嘲笑してみるも、心の中ですらそれは乾いた笑いにしかならなかった。
そもそもこんなところに人が居るのか? 責任者が居る時間帯を考えて朝まで待ったのに、そもそも人が居なければ意味もないではないか。
わざわざ隣の区まで足を運ぶのか? いや――――そもそも、何故こんな有様なのか。
ナツメは次第にその心を好奇心で満たし始める。
最早この外観では、治安を維持する前に経済で破綻してしまいそうだ。だからこそ、この『西地区第3区画治安維持委員会支部』の責任者がどんなものなのか、拝んでみたくなったのだ。
そっと、扉に近づくために一歩踏み込み、二度ほど拳で軽く扉を叩く。
――――返事は無い。
留守なのか? いや、日が昇ってから少しばかり経った時間だ。人もまばらだが、増え始めている。
治安を維持する組織なのだからそれ以前に活動を始めなければならない――――だから、人が居て当たり前。居なくてはおかしいのだ。
国営だからこそ常識となっているソレが適応していない目の前の建物に、ナツメは首を傾げて再びノックする。
数分が経過する。様々な思惟で妄想を逞しくさせるのも限界になりつつある時間。
日差しが背中を暖めることから、焼き付けるモノへと移り変わっていくのを感じた。
胃腸の弱い人の如く移り変わるのが早い天気のナツメは、既にその好奇心の大半をどこかへと投げ捨ててしまっていた。
その人当たりの良いように開いていた目を細め、ナツメは怒りを露にして――――優しさなんてものを失くしてしまった拳は、その扉に勢いよく振り下ろされる、その瞬間。
「うっせーッ!」
平面であった扉が突如、烈しい音を立て、声を鳴らして、その姿を崩壊させ、ナツメを巻き込んでいく。
内側から強引に蹴破られた扉は木っ端微塵に。振り下ろした拳諸共ナツメを背後へと吹き飛ばしていったのだ。
驚きに身動きを封じられたナツメはそのまま、硬い地面に背中を叩きつける。降り注ぐ木片を眺めながら、続く言葉に耳を傾けた。
「朝っぱらから何の用事!? 喧嘩などと言ったくだらないモノであればいい加減――――……ん?」
男にしては高い声、それは女性のモノとして受け取ったほうが良いのだろうか――――ナツメは全てがどうでも良くなったように眼から力を抜いて、ゆっくりと立ち上がった。
身に、荷物に掛かる砂を軽く払い、前を見据える。
辺りには破壊された扉の残骸。視界に入る限りの人間は、それを一瞥して、また去っていく。
そして――――目の前に居るその扉を破壊した主は、やはり女性であった。
セミロングの、寝癖の付いた黒髪に、凛々しく吊り上った大きな瞳。左目に泣きぼくろがあり、小さく開かれた口は何かを見て唖然としているようなモノ。
身に纏うつなぎ服はやる気がなさそうに、胸の下辺りまで開かれている。首から提げた銀のネックレスが光沢を見せる中、ナツメは1つ息を吐いてから口を開いた。
「アンタが責任者?」
そう聞くと、女は「だったら?」なんて挑発的な返しをする。
ナツメは肩をすくめて、
「質問に質問で返すな。だったら? だったらそうだな、色々聞きたいが取り合えず職員をあと2人ほど連れて来い」
眉をしかめてその言葉を受ける女は、考える素振りも見せずに胸を張って答えた。
「ウチには居ないぞ、そんなのは」
「……あー、ここは治安維持委員会で合ってるよな?」
聞くと、女は真顔で頷いてみせる。
「おうともよ」
「それでアンタが責任者」
「おうともよ」
「それで、その責任者以外誰も居ないって?」
「おうともよ」
――――居ない? 一体どういうことだ? 全員首にした? 逃げた? そもそも初期段階では全てにそれなりの人数を配備されていたと聞く。最もかなり昔の話だが。
しかし、聞いたことも無いぞそんなことは。1人? 責任者だけ? しかもこんな大雑把な女が1人。仮に能力者だとしてもだ、効率はかなり悪いし……、俺が東京を離れてる間に何があったんだ?
更に深く、濃厚に思考するために能力を使ってしまいそうなほどの事態を一旦保留にして、ナツメは女に対して軽く手を上げた。
「あー、騒がして悪かった……です。他を当たるので大丈夫です。ありがとうございました」
笑顔でそう言って背を向け、歩き出すが――――背を向けたその瞬間、襟元をつかまれて行動は未然の内に終了した。
「んー? 用事があるのでしょう? 少しくらい話していってもいいんじゃない? 減るものでも無し」
「時間と脳細胞が減ります。如実に」
口調を変えて囁くがあっさり拒否され、女は舌打ちをして――――
「いいから話せって!」
ナツメは足裏を地面から離し、ふわりと、その身体は浮き上がった。その直後――――強い力に引っ張られる感覚がして……。
気がつくと、ナツメの身体は女によってそのボロ小屋の中へと放り投げられ、宙を飛んでいる最中にあった。
不幸だ――――。
ナツメは心の中で呟いて、その身体に烈しい痛みを与えながら、中の机や椅子を蹴散らしていった。