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水の流れる音がして、西篠はいつの間にか眠りへと落ちていた意識を取り戻し、まだ眠気の残る頭を起すために上半身を起してその場に座り直した。
音のするほうへと顔を向けると、どうやらナツメが顔を洗っているらしいと判断がつき、西篠は未だ眠い眼を擦りながらベッドから降りて立ち上がり、大きく伸びをする。
「ふあ~……っと」
久しく使用していなかったベッドは、睡眠を快適に促し、昨日の疲れも吹き飛んだように消えうせていた。
「あぁ、起きたか。おはよう」
顔の水気を純白の布のタオルでふき取りながらナツメが声をかけると、西篠は驚いたように少しばかり肩を弾ませてから、振り返って笑顔で返した。
「おはようございます」
「今日は件の上守卿の所へ行く。道案内を頼むぞ」
「はい、後ろ髪引かれる思いですが、頑張ります」
「それは多分使いどころが違うと思う」
かくして2人は宿を後にし、街へと出る。
早朝、というわけでは無いらしく、日差しは割と高い位置にあった。人通りも申し分なく多く、西篠はナツメの後を歩きながらも周りを見回した。
改めて辺りを見てみると、夕闇の中では見えなかった多くのものが鮮明に見えていた。
広場の中央にはやや大きめの噴水が一定の時間を置いて水を噴出し、所々に緑生い茂る樹木が聳えている。
比較的自然の多いそこは、視覚的にも穏やかな気分にされられるものであった。
西篠は駅へと向かう中で大きく息を吸って、透き通る酸素を肺に溜める。そうしていると、やがて大きな看板の掲げ、同じく大きく口を開ける駅があった。
外見は西洋城。大きな観音開きの扉は常に開放され、利用客は絶えず出入りしている。
「『北区第4駅』ですか……、というか、どこもかしもこも名称に捻りが無いようながするのですが」
「西暦での名称は既に廃れてるし、新しく考えようにもこの国のトップが『面倒だ』の一言で決めたんだから仕方の無いことだ。でも覚えやすいからいいだろ?」
「まぁ、そうですね……」
イマイチ釈然としない答えになんとなく頷きながら、ナツメに続いてその後を行く。
中に入ると、豪華絢爛な内装の数々。
先ほどの宿とは比べ物にならないほどのシャンデリアに、煌びやかな内壁。まるで異世界へと飛び込んできたかと錯覚するほどの、ある種異様な光景。
何故駅にコレほどまで装飾が必要なのか? 西篠が問うと、ナツメは「さぁ?」と首をかしげた。
「平和な証ってやつじゃないか? あと、こんな建物も作れますっていう技術の証明とか」
「あぁ、なるほど」
そう頷いて、西篠は早くもその心の落ち着かない空間を抜け――――
「あ、丁度電車が来てる。さ、行っちまわない内に早く乗り込もう」
細長い胴体に、複数ある入り口の中から比較的乗車率の少ない車両に乗り込むと、直後、甲高い警笛の音がして、ぷしゅうと、ドアは張り詰めた空気を抜くような音を立ててから閉まり始めた。
そうして、慣性によって大きく揺れる身体を身近なポールを掴んでその場に留まり――――やがて、電車は運行を開始した。
「電車は、恥ずかしながら利用するのは初めてですが……無償サービスなんですか?」
揺れに慣れ、自由に行動が出来るようになってから横長の座席の中に余裕のある所を見つけて、2人は腰を落とした。
「あぁ、『今のところ』はな。金的余裕はあるし、大きなエネルギーを使う機関は全て国が管理してるから無駄は無い。だけど、いつか余裕がなくなったときに資金源として有料になるかもしれないな。鞭の前に飴を与えてる、みたいな感じだ」
正面のガラスの向こうに映し出される映り行く景色を眺めながら、西篠は再び聞いた。
「あの、なんで圧倒的に高いリスクを負ってまでも――――」
「痛ってェな婆ァッ!」
西篠の声に被さる大声が、車両の中の空気を瞬く内に不穏なモノへと変えていく。
驚き、肩をビクリと大きく弾ませながら恐る恐る声の元へと顔を向けると――――数人の青年達が、1人の白髪で杖をつくいかにも老婆といった風の年寄りを囲み、声を荒げていた。
「おい婆ァてめぇがぶつかったせいで俺の友達が怪我しちまったじゃねェかッ! どうしてくれる!」
「え……す、すみま」
「謝ってすむ問題じゃねェだろ!? いいから金を――――」
と、典型的な因縁をつける青年たちはガタイが良く、辺りに居る誰もがそれを見てみぬフリをしていた。
老婆は困ったように俯き、また青年らを見上げ、罵倒を浴びせられ、を繰り返している内に、青年達の1人が痺れを切らしたようで、
「ああもういい! そのバッグを寄越してみろ!」
肩から掛けるバッグに手を掛け、乱暴に剥ぎ取る。その乱暴さに老婆はバランスを崩し、思わずその場に転び、悲鳴を上げた。
バッグを手に取り、中身を確認しながら愚痴を零す青年の足元で――――倒れた老婆の頭から流れ出る血は、次第に床を濡らしていく。
「……な、ナツメ……さ、ん」
恐怖で怯えるのか、西篠は足をガクガクと震わせ、歯をガチガチと鳴らし、それでも握った拳は決して解かずに――――必死に、ナツメに助けを求めていた。
「強盗、婦女暴行、殺人未遂……ったく阿呆共が」
先ほどまで嬉々と説明していた風貌を想像できないほどにその表情は変わり、無表情。だが、その瞳を見た瞬間、西篠はその身体を硬直させた。
ナツメは流れるように右脇の外套下から自動拳銃を抜き、発砲。
耳をつんざく銃声が車両内に響き、バッグを手にする1人の青年は叫びながら、打たれた足を抱えるようにその場に倒れる。
「数多の罪を重ねる愚か者共が、天命によって俺が裁きを下してやる」
「なっ……っ!?」
突然の事態が飲み込めず、言葉に詰まる青年らにナツメは構わず引き金を引いた。
1人の男は腕に紅い花を散らせ、また1人は白いランニングの腹部分を紅く染め上げていく。そうして一方的な暴虐で終わるかと思われたが、
「ざッけんな!」
最後に残った1人は腰から銃を抜き、その行動の途中で引き金を引く。銃口から火花が散り、弾き出された銃弾はナツメの右斜め後方の窓ガラスを打ち破る。
そうしている間に――――根性のある青年ら諸君はそれぞれ倒れた体勢のまま、それぞれが拳銃を手にし始めた。
「……ったく、真剣に面倒な事をさせんなよ――――」
そう呟くナツメの髪が、フワリと逆立ち始めた、その瞬間、
「無駄な抵抗はやめなさい」
いつの間にか、それはナツメが気がつく間もないほどの速さで、唯一立っている青年の後頭部に銃口を突きつける姿が、そう言葉を発した。
「て……てめェ……」
青年の顔が引き攣る。震える声を必死に抑えている事が丸分かりな言葉を聴いて、床に倒れる青年達は静かに拳銃を顔の横に置いた。
「そう、素直でよろしいわね」
「よろしくねーよ。どうなってんだここいらの治安は」
静かに銃を収める青年らにそれぞれ手錠を掛け始める一人の少女を見て、ナツメは思わず口を出した。
「どうなってる、と言われてもねぇ……常にここに張っている訳でもないし。こう言う人種は付き物だから。今回の彼らはそれが顕著なだけよ……。お婆さんの容態は?」
そう聞かれてから、ナツメは思い出したように少し離れた位置に倒れる老婆へと駆け寄りその身体を抱き起こす。が―――――
「……おいおい、冗談はやめてくれよ……」
そうに俯き、首を振るナツメを見て、少女の顔は一気に青ざめる。その背に冷たいものが走るのを感じて、一歩、また一歩と知りたくもない事実へと無意識の内のその足を進めていた。
「……っ!」
眼を瞑り、老婆の顔を覗いた状態で眼を一気に開くと――――そこには、ニカっと笑顔の老婆が少女を見ていた。
「え、あ、ああの、お婆さん?」
「なんだい?」
少女が声を掛けると、笑顔のまま穏やかに返事をする。ほっと胸をなでおろし、少女は再び言葉を紡いだ。
「大丈夫ですか?」
「うんにゃ、ガラスで指を少し切ったかいのぅ」
「ガラス?」
聞いてから、その『血溜まり』へと視線を向けると、その中にキラキラと輝くガラス片が見え――――その血を指で触れ、臭いを確認する。
「……トマトジュースですか」
「最近は乱暴な若者が多いからの、知恵袋の発揮じゃよ」
かっかっかと愉快に笑う老婆を見て、少女は思わず大きく息を吐いた。
そんな姿の少女を見て、ナツメはくつくつと笑いをこらえ、
「いや、でも素直に荷物を渡してればそもそも倒れることは無かったんじゃ?」
「あのバッグの中には、死んだ爺さんの形見が入っていての。少なからず金目の物だから、何があっても渡せないんじゃのう」
ナツメの腕の中の老婆は、ナツメの補助でようやく立ち上がり、杖を受け取ると、ヨロヨロと不安定な足取りで『血まみれ』の姿を動かし、落ちているバッグを拾い上げた。
その中からハンカチを取り出してから、再びナツメの下へとやってきて、
「立派な洋服を汚してすまないねぇ」と、トマトジュースで汚れた腕を拭き始めた。
「あぁ、構わないで大丈夫ですから。安物ですし。それより、お婆さんの方を早く拭かないと風邪を引いて、ホントに冗談じゃなくなりますって」
そういうと、「ホントに」とニカニカと笑ってから、
「本当にありがとう」
と頭を下げてから、数分もすれば開くであろう扉の位置まで歩み寄り、こちらを向いて、再び深く頭を下げた。
気がつくと車両内には関係者以外誰も居らず、ゴタゴタの中で幾度か停車し、人が減っていったのだと理解する。恐らく、それ以外にも車両を移動したりもしたのだろうが……。
やがて床を掃除し終え、全員に手錠をつけた後、それぞれを無理矢理立ち上がらせた少女は、ナツメに手を差し出した。
「私は北第5区治安維持委員会の『荒波水城』。今回は協力、感謝します」
ナツメはその手を握り返しながら、少女の目を見据える。
「俺は中央……、いや。一般人だ。ナツメと言う」
「ナツメ? それだけ?」
「夏目鳴爪……だから、ナツメ」
そう聞いて、荒波は口元に手をやってから、「ふふ」と笑う。
「あ、いえ、ごめんなさい。でも珍しい名前だ、から……」
荒波は言いながら、何かを思い出すように笑顔を消していき、その眼差しは真剣なモノへと変わる。
ナツメは手をそっと離し、
「それじゃ御達者で」
そう言葉を残し、荒波に背を向けて西篠の下へと戻っていった。
そうすると、間も無く、電車は停車。大きく揺れた後、先ほどの老婆はマイペースに降りていく中で、荒波の脳裏に電撃が突き抜ける。
「な、ナツメッ!? あ、あの――――あぁ、もうっ!」
『西地区第1区駅~西地区第……』
停車している最中、そう告げるアナウンスに焦りを感じながら、どうすべきか、の判断に悩む荒波は無理矢理青年らとともに電車を降りることで、現在の仕事を優先した。
そうして、開いた扉はぷしゅうと、音を立ててしまり、耳に残る加速音を立てながら、電車は荒波の眼前を過ぎていった。
「…………」
荒波は惜しそうに電車の尻を眺めてから、やがてその姿が完全に消えた頃に、仕事を再開した。