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 今僕は、電車に乗っている。ドームの出口にいた、肩にギターを提げて頭に小さな白旗をさした男から受け取った紙の表に書いてある場所に向かうためだ。紙の表には、僕がよく行く場所の名前が記載されてあった。


「場所:喫茶ブライアン  愛河線恋之宮駅下車スグ」


 吊革を掴んで立ちながら、先ほどまでのことを思い出すため、僕は目を閉じた。

(十億円、十億円だぞ。信じられない、未だに興奮がおさまらない。こんなところで十億円が手に入るチャンスに巡り合えるなんて。十億円あったら、働かなくてもいいじゃないか。兄貴のように、入りたくもない会社に入って、上司になれないお世辞を言って、偉そうな客にぺこぺこ頭をさげて、深夜までサービス残業をして、挙げ句の果てに体や心を壊したりしなくて済むんだ。あの舞台の女が本当に十億円贈与すると言った後の会場の空気は、凄かった。凄いという言葉以外に上手い表現が見当たらない。なんと言ったらいいんだ、あの雰囲気は。そうだな、殺気だ。会場内に、殺気が充満し出したんだ。男共の体からなにやら異様な湯気のようなものが立ち上っているかのごとく、会場内の空気が殺気に変質していったんだ。ドームから出るために並んだ時も、凄かった。みんな、さっと並んだもんな。女が、では、私から見て右手にある、この舞台に上がるための階段に、みんな、一列に並んでくださーい、って言って、みんな、すぐだ。俺も急いで列に加わって、自分の番を、今か今かと、半分ぼうっとした感覚で待ち続けた。そして紙をもらって場所を確認すると、すぐに駅に向かってそれから電車に乗り込んだんだ。電車代なんて十億円に比べればはした金だ、喜んで自分で出すさ。それにしても、場所が、俺がよく行く喫茶店だったことは、幸運だったな。迷うことなく到着できるぞ)

僕を乗せた電車は快調に走っていた。恋之宮駅まであと一駅だった。

(しかも、この、紙の裏に書いてある、ゲットしてくるもの)

僕は、ポケットから先ほどもらった紙を取り出し、その裏側を確認した。紙の裏には、こう書いてあった。


ゲットしてくるもの:喫茶ブライアンの客で、右胸に赤い薔薇をさした女一人


(こんなの、簡単だ。なにせ俺は、女を十人も股にかけている、もてもてクンなんだから。ぐふぐふ)

電車が駅に到着した。降車側のドアが開き、僕は、ぐふぐふと笑い出しそうになるのを必死で堪えながら、電車を降りた。


 喫茶ブライアンに着き、僕は入り口のドアを開けた。ドアに付けてある鈴が、いつものように、カランという音を鳴らした。

(右胸に赤い薔薇をさした女は、いるかな)

店の奥にいた男性店員が鈴の音を聞きつけ、「いらっしゃいませ」という挨拶とともにこちらに来て、僕を店の一番奥にある、窓際の席に案内した。店員に案内されるまま、僕は椅子に腰を下ろし、その店員にレモンティーを注文した。頬杖をつきながら、それとなく、すでに来ていた客を見渡してみたが、右胸に赤い薔薇をさした女はいなかった。

(おかしいな、いないぞ。どうすればいいんだ)

腕時計を見た。

(まだ、開始から一時間も経っていない。制限時間らしき記載は紙にもなかったし、舞台の女も、何時までに帰って来て下さいといった類のことは言ってなかった)

レモンティーと水とおしぼりが運ばれて来た。僕は、運んできた店員に目礼すると、レモンティーを一口飲んだ。

(時間はまだありそうだ。待つとしよう)


十分経過した。まだ来ない。窓の外を眺めながらレモンティーを飲んでいた。


二十分経過した。まだ来ない。飲んでいたレモンティーが半分になった。


三十分経過した。まだ来ない。レモンティーを飲み干してしまったので、もう一杯注文した。


四十分経過した。まだ来ない。さらにもう一杯注文する羽目になったらどうしようと思い、運ばれて来たレモンティーはこれ以上飲まないことにした。少しいらついてきた。


五十分経過した。まだ来ない。かなりいらついてきた。入り口のドアがカランと鳴り、誰かが入って来た。老婆だった。右胸に赤い薔薇はさしていなかった。がっかりした。がっかりしてその分、余計にいらつきが増した。レモンティーを飲みたくなったが我慢した。


六十分経過した。まだ来ない。目の前にあるレモンティーを飲みたいのに飲めないというもどかしさと、一体いつまで待っていればいいんだという不安とで、怒りが芽生えてきた。しかし、怒っても意味がない、と自分で自分に言い聞かせ、気分を落ち着かせた。


七十分経過した。もう、もどかしさと不安といらつきとが、限界に達しつつあった。

(くそ、いらいらする。こんなところでぼけっとしてたら、誰かに先を越されて、十億円を逃してしまう。この喫茶店には右胸に赤い薔薇をさした女はいない、これはきっと、手違いだ。こうなったら、どこかで赤い薔薇を買って、俺の女を一人呼び出して、そいつの右胸に買った薔薇をさし、一緒に東狂ドームに戻るしか方法は……)

喫茶店を出ようかどうか悩んでいると、入り口の方から、店員のいらっしゃいませ、という声が聞こえてきた。

(誰かが入ってきた)

入り口の方を見ると、いたのは、服装から察するに女の客だった。なにやら、胸に赤いものが見える。

(あれは!)

女の胸にあったものは、赤い薔薇だった。しっかりと、右胸にささっている。

(右胸に赤い薔薇をさした女、だ、間違いない!)

思わず、歓喜の声をあげそうになった。待ちに待った女が、やっと、現れたのだった。

(もう少しで、すれ違いを起こしたかもしれないところだった。待っていてよかった)

女は、きょろきょろと、非常に落ち着きがなかった。不自然極まりない挙動だった。まるで、何か重大な犯罪を犯してしまったために人目を避けようとしている人間のように見えた。怪しい女だと思いつつ、顔を見てみた。それは、知っている人間の顔だった。

(ト、ト、トロ子じゃないか!)

驚愕の声をあげそうになった。

(ト、トロ子が、なぜ)

思いがけない展開に、あっけにとられてトロ子の顔を直視していると、ふっと、トロ子がこちらを見た。目が合った。トロ子は、まるで見てはいけないものでも見てしまったかのように、目を逸らした。

(え、今、確かに目が合ったよな。あいつ、なんだか素っ気無いぞ)

トロ子は店員に案内されてこちら側に向かって歩いて来たが、その視線は、明らかに僕を避けているような感じだった。

(ま、まずい、どうやら、トロ子は俺を避けている。理由は解らないが、とにかく避けている。このまま避けられ続けたら、右胸に赤い薔薇をさした女の客をゲットできない。ゲットして、共に東狂ドームに帰ることができない。決勝に進むための抽選に参加できない。そして、)

トロ子は、僕の二つ前の窓際の席に、僕と同じ方向を向いて座った。

(十億円が、もらえない!)

トロ子の背中を見ながら、十億円の札束を想像し、僕の心臓の鼓動は速まっていた。トロ子は、彼女を案内した店員に、オレンジジュースを注文した。

(なんとかして、トロ子と共に東狂ドームに帰らないと)

僕は、意を決して立ち上がった。そして、トロ子の隣に行った。

「やあ、トロ子君、奇遇だね」

僕は、かなり思い切って彼女に声をかけた。避けられていると解っていながら女に声をかけることほど辛いことはないなと思った。

 彼女は、無反応だった。

(あ、あれ。無視なのか?)

しかし、これで引き下がるわけにはいかなかった。十億円がかかっている。

「ト、トロ子く」

「せんぱぁい、こんなところでなにしてるんですかぁ?」

いつもの、間延びしたトロ子の声が返ってきた。

「え、あ、いや、ちょ、ちょっとね。お茶してるところさ」

「そうなんですかぁ。私も、お茶してるところなんですぅ。奇遇ですねぇ」

(な、なんだ、いつもと変わらない感じだぞ。最初の俺の掛け声に反応しなかったのは、単に聞こえてなかっただけなのかな)

「あ、ああ。本当に、奇遇だね」

「そういえば、私たちって、付き合いだしてから会うの、初めてですねぇ」

「そうだね」

「なんだか、恥ずかしいわぁ。きゃあ!」

「ははは、僕もなんだか恥ずかしいよ」

(いたって普通のトロ子だ。いつもと変わらない。さっき、避けられてると感じたのは、俺の勘違いだったんだろう)

避けられているわけではないと判明し、ほっとした。十億円が、一気に僕に近づいてきた気がした。

(訳を話して、一緒について来させよう。こいつは頭が軽いから、難なくついて来るさ。うそをつくまでもない)

「実は、トロ子君、今、人を探していてね。右胸に赤い薔薇をさした女でこの喫茶店の客なんだ。その人と一緒に、東狂ドームに、行かなきゃならないことになっているんだよ。ちょっとしたイベントがあるんだ。君の右胸にあるものを見ると、どうも君が、右胸に赤い薔薇をさした女の客らしいね。一緒に来てくれないか」

十億円もらえるかもしれないという事実は、あえて言わなかった。たかがトロ子になど、優勝賞金は、びた一文くれてやるつもりはない。

「私の右胸ですかぁ、ああ、これはぁ、私の母が副業で通販の花屋さんをやっててぇ、新しい品種の薔薇を今度売り出すんですぅ。それで、ここに来る前に母から頼まれて右胸にその薔薇をさしたんですぅ。右胸につけたらどんな風に見えるのか見てみたいっていわれてぇ、仕方なくなんですよぉ、仕方なくぅ。そしたら、これが、結構かわいくてぇ。私、右胸に赤い薔薇をさすのを気に入っちゃってぇ。それで、今日一日中、こんな風に赤い薔薇を右胸につけたまんまにすることにしたんですよぉ。いいでしょぉ、かわいいでしょぉ」

トロ子は、きゃっきゃとはしゃぎながら、そう言った。

「ああ、すごくかわいいね」

僕は、微塵も思っていないことを、さらっと口にした。

「やったぁ、先輩にほめられたぁ」

「ははは」

(なにが、ほめられたぁ、だ。こっちは、東狂ドームに一緒に来てくれって言ってるだけなのに、いつのまにか、お前のその無駄に大きく膨らんだ胸元についている薔薇の話になってるじゃないか。薔薇の話なんて、どうでもいいんだよ。これだから、ばかくず女は……)

仕方ないので、もう一度、端的に言うことにした。

「まあ、とにかく、東狂ドームでイベントがあるから、僕と一緒に来て欲しいんだ」

「ええ、東狂ドームで、ですかぁ。すごぉい、いきまぁす!」

トロ子は、元気に返事をした。

「でぇとだぁ、でぇとだぁ!」

飛び跳ねながら、トロ子はそう言った。

「ははは、そういうことになるね」

僕は、満面の笑みを浮かべてそう言った。

 その笑みは、言うまでもなく、十億円に対して向けられた笑みだった。

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