85話 ローズ、魔王城に誘拐される
コールデン共和国。
大聖堂の近くに建てられた修道院は、徐々に日々の営みを取り戻しつつあった。
聖女が連れ去られ、挙げ句の果てに魔王と結婚するとなったのだから、シスターたちの当時のショックといったらなかった。
しかしその後再び聖女はコールデンに戻り、パレードの中心から手を振ってみせた。
それによって彼女たちの混乱はある程度和らぎ、またみなが抱いていた魔王への敵意も治まりつつあった。
しかし、中にはそれに納得できない者もいる。
聖女――マリィの友達、シスター・ローズもそのひとりだった。
マリィの世話係というお役目を失った彼女は、また以前のように掃除や洗濯に精を出している。
ときどき修道院を抜け出して、街で買い食いをしてみたり。
小さな公園であつあつの串揚げを食べながら、ふと思い出すのは友達のこと。
(今、マリィは何をしているのかしら……)
物心つく前から修道院にいるローズは、街の外のことすら知らないのだ。
魔王国のことなど、想像もつかなかった。
どんな場所なのか、そこでマリィはどんな扱いを受けているのか――。
そんなふうにとりとめもないことを考えながら、ローズはソースのついた口もとをハンカチで拭って、修道院に帰った。
部屋に戻ると、さっと修道服に着替えて洗濯物の取り込みに出て行く。
今日は良い天気だったから、シーツもさぞかしパリッと乾いていることだろう。
ローズは中庭に出るためにサンダルを履く。
変わらない日常。
それが突然――文字通り足もとから崩れ落ちた。
サンダルを履いて庭に出ようとした瞬間、ローズが足もとに見たのは、真っ黒な大穴だ。
ローズは修道服のスカートをはためかせて、どれだけ深いとも知れぬ大穴に落ちていった。
(何これ? めまい? 私、体調がおかしくなったのかしら?)
落ちて、落ちて、落ちて――。
(違うわ、頭はちゃんと働いているわ。今日の日付も言える……)
自分の手のひらを見つめて、それから、足もと。
その遠くに、灰色の地面が見えてきた。
遠く、あまりに遠くに。
(あの地面にぶつかったら死んじゃう!)
そう思った瞬間、ローズはふわりと身体を持ち上げる力を感じた。
ふわり、ふわりと、灰色の地面に向かって降りていく。
円い地面が次第に大きくなっていく――。
そうしてとうとう真っ黒な穴から抜け出したその瞬間、身体を持ち上げる力がふっと消えた。
ローズは灰色の床に思いきり尻もちをついた。
「いったぁ……」
お尻をさすりながら辺りを見渡すと、そこは闇色に塗り込められた、天井の高い部屋だった。
それもひどく広い。
まず目に入ったのは巨大な門扉で、ローズは壁や天井を眺めながらゆっくりと後ろを向いた。
そこにいたのは――。
「マリィ……!!」
「お久しぶりね、ローズ」
マリィはパレードで見たときのような、黒いドレスを着ていた。
ぺたんと床に座り込んでいるローズの手を引いて、立ち上がらせる。
「ここはいったい……」
「信じられないかもしれないが」
男の声が響き渡った。
思わず見上げると、玉座からローズを見下ろす影があった。
頭の両側についた凶悪なツノに、漆黒のマント――。
見間違えるはずがない。
「魔王……!!」
「そう、そしてここは俺の城だ。できればもう少しエレガントに招待したかったんだが……アレイラ、もうちょっと良い方法はなかったのか?」
黒い帽子を被り、扇情的なドレスを着た女は、玉座に向かって笑いかけた。
「人間相手ならこんなもんかなと思いまして!」
「次からはもうちょっと考えような」
「了解ですっ!」
「と、まあ、そういうわけだ」
魔王はローズを見下ろした。
「こんな形になってしまったが……俺たちは君を歓迎する」
そんなことを言われて、素直にはいと言えるわけがない。
ローズは思わずマリィの腕にしがみついた。
「マリィ……酷い目に遭ってない?」
そう尋ねると、マリィはかつて公園で串揚げを食べたときみたいな穏やかな顔で、こくりと頷いた。
「ええ、大丈夫よ。私も、もちろんあなたもね」
そう言われたからといって、魔王相手に心を許せるほどローズは柔軟ではない。
幼い頃から人間の敵だと、怖ろしい悪だと聞かされて育ってきた、あの魔王と対峙しているのだ。
マリィにしがみつく腕に力が入る。
反対に、足からは、地面に力が吸い取られていくような心地がする。
真っ黒な穴から見つめていた床は灰色だったが、いまシャンデリアに照らされている床は、魔王の凶悪さを象徴するように黒かった。
友達であるマリィを、奪い去ったのは魔王だ。
しかし直接睨みつける度胸は、さすがにない。
だからローズは、その黒い床をじっと見つめていた。
「そう固くならないでくれ」
魔王はそう言ったが、身体の震えは止まらない。
ローズは精一杯勇気を出して、言葉を振り絞った。
「殺す気……なの……?」
「………………」
おそるおそる玉座を見上げると、魔王は何かをじっと考え込んでいる様子だった。
そして不意に表情を凶悪なものに変えると、口の端をつり上げてローズを見下ろした。
「だとしたらどうする? お前に何ができる?」
「…………!」
ローズは思わずまた床に目を伏せた。
何かの儀式か、見せしめか。
本当に、殺されようとしているのか――。
そこで声を上げたのはマリィだった。
「キースさん! ローズは私の友達で……」
床を睨んで震えているローズには、魔王がしっと口もとに人さし指を当てたのが見えなかった。
だからマリィが言葉を途切れさせたのも、魔王の怖ろしい威圧感のためだと思い込んだ。
(マリィは、こんな恐ろしいところで生きてるんだ……)
ローズは死ぬのも怖かったけれど、友達が哀れでならなかった。
魔王の色に染められた黒いドレスの奥から、体温が伝わってくるのが悲しい。
「君にできることをひとつ教えてやろう」
魔王の声は、大広間に響き渡る。
「それは、質問に答えること。それだけだ。そのために君を呼んだ。俺が出向くと大騒ぎになるからな」
ローズは震えながらも、足を踏ん張って頷いた。
「………………」
一方キースは、魔王に反感を抱きつつも、恐怖に心を支配されていないローズの様子をみて、内心ホッとしていた。
あまりに怖がらせて何も言えないようでは駄目だし、ヘコヘコと耳当たりの良いことばかり話されても困る。
現に、トリストラム王国やコールデン共和国の使者たちの言葉は、おべっかばかりで信用に値しない。
真実を語らせるのに必要なのは、まっすぐな敵意と、それに呑まれない強い心だ。
ローズは間違いなくそのふたつを備えていると、キースは感じた。
可哀想だが、良いあんばいだ。
そうしてキースは、再び悪の首領という顔をしてみせる。
「コールデンでの俺の評判はどんなものか、聞かせてもらいたいな。聞きたいのは正直な意見だ。気分を害したからといって、首を刎ねるようなことはしない」
ローズは思わずマリィの顔を見つめる。
マリィはこくりと頷いた。
「………………」
ローズは思い切って、玉座の上に視線を向けた。
ここで逆らえば、酷い目に遭うのは自分だけでは済まないかもしれない。
大事な友達が、傷つけられるかもしれない。
心だけでも、魔王に立ち向かうことだ。
そして、本当のことを話そう。
ご機嫌取りなんて、絶対にしない。
ローズはそう決意した。
「あなたとマリィとの結婚を、認めない人もいるわ……教会の保守派や貴族たち」
「マリィの演説は無駄だったということか」
「……いえ、そんなことは、なくて」
ローズは言葉を句切った。
魔王に向ける敵意と、マリィへの気持ちが、奇妙にねじれるのを感じる。
それでも、言うべきことは言わなければいけない。
「マリィの演説には意味があったわ。マリィの言葉があったからこそ、みんなの心は保守派から離れていった。大神官様がその中心だったということもあるから……」
その大神官を殺したのは魔王だ。
自分もマリィの言葉は信じたいし、でも魔王に対する不信は消えない。
ローズの心は、コールデン共和国そのものとも言えた。
「なるほど。俺の命を狙うとなると、その保守派とやらだな。そんな噂はないか?」
「……聞かないわ」
ユーシャの件は、やはりおおっぴらなものではないらしい。
キースは次の質問をぶつけてみた。
「では俺に対して友好的な人間は、今どうなっている?」
「それは……」
ローズは修道院を行き交う噂を、頭の中で整理する。
「保守派が力を失って、目立ち始めたのはリュミエール司教が中心の革新派よ。リュミエール司教はお金に詳しい方で、金庫番なんて呼ばれてる。だから商人に人気があるの」
コールデン共和国は、教会の聖都を擁するという性質上、巡礼者から外貨を獲得するための商人が多い。
リュミエール司教という男には、一般市民からの強力な後ろ盾があるということだ。
「お金が大事ってはっきり言う人だから、リュミエール司教を嫌ってる人もいる。でもやっぱり逆らえないの。献金はどうしたって必要なのはみんなわかってるから」
つまり、リュミエール司教は徹底した実利主義者だ。
しかし“金が人を救う”というのは、聖職者が口にするにはあまりにも露骨すぎる。
反発する者がいるのは当然のことだろう。
「でもいちばんリュミエール司教を嫌ってるのは、お金を持ってる貴族なの。これはよくわからないけれど」
「ふむ……」
キースはおとがいに指を当てた。
コールデン共和国に住む金持ちの貴族であれば、当然教会への献金は莫大な額になるだろう。
それで貴族が手に入れるのは、信心深い篤志家であるという人物評、そして発言力だ。
ところが。
これをリュミエール司教の掲げる実利主義者に当て嵌めてしまうと、問題が発生するに違いない。
リュミエール司教の実利主義者において、おそらくどんな金も、道具に過ぎない。
貴族たちは金という道具を教会に捧げ、社会的信頼を獲得するという構図が、あまりにも露骨になってしまうのだ。
貴族たちにとって本当に必要なのは、きれいごとをきれいなままに発言する指導者だ。
そうして献金が神聖なものになればなるほど、貴族たちの名声は高まる。
おそらくリュミエール司教は、あまりにも率直すぎるということだろう。
キースはここまで考えた。
金庫番というあだ名。
そしてこの率直さから見える、ひとつの可能性――。
「その男は、魔王国との交易を望んでいるんじゃないか?」
「……そんな噂は、あるわ」
たぶん、良い噂としては流れていないのだろう。
ローズの言葉からは、そんな雰囲気が伺えた。
魔王国領は、殆どの人間にとっては未踏の地だ。
しかし莫大な希少鉱石が眠っていることは知れ渡っている。
だから聖堂教会は、勇者を送り込むのだ。
(それを平和裏にやってのけたのがトリストラム王国ってところだから、金庫番としちゃあ業を煮やすってわけだ)
つまりは親魔王派。
キースの待ち望んでいた勢力だ。
(リュミエール司教……会ってみるのも悪くなさそうだな。それもできる限り内密に)
魔王との接触によって、リュミエール司教の名声が落ちてしまえば元も子もない。
コールデン共和国と魔王国との微妙な関係は、ローズの震え声と同じように不安定だ。
「いろいろと聞かせてくれてありがとう、ローズ」
「……どういたしまして」
ローズは不安げな顔で、マリィを見た。
自分のしたことは、本当に正しかったのか。
魔王に国の情報を漏らした売国奴ではなかろうか。
これが巡り巡って、コールデン共和国がまた混乱の渦に巻き込まれるようなことになったら――。
しかしそんな心配は無用というように、マリィは優しく頷いた。
魔王は信用できないが、マリィは――この場においてマリィひとりだけは信じられる。
大切な、友達なのだから。
「ローズ」
突然の魔王の言葉にローズは震えたが、その声にはどこか優しい響きがあった。
ついさっきまではなかったものだ。
ローズは再び、おそるおそる玉座の上を見上げる。
魔王は、柔らかい笑顔を浮かべていた。
「試すようなことをして悪かった」
そう言ってローズを見下ろす目に、さきほどの威圧感はなかった。
魔王はマリィに目配せをし、マリィは軽く頷く。
そこには深い信頼さえ見受けられた。
「君の敵愾心を利用させてもらった。何もかも、正直に話せるようにしたつもりだ。怖がらせてしまったな」
「怖がってなんかいないわ」
ローズは震えそうになる足を、親指に力を入れて踏ん張った。
魔王の笑顔が、深くなった。
「それなら良かった、ローズ。実はひとつ、頼みたいことがある」
目の前のこの男は、自分に何をさせようというのだろう。
ローズは続く言葉を待って、からつばを呑んだ。
執筆担当マライヤ・ムー、無事退院、復活しました!
マリィの友達ローズを交えて、物語は新たな展開を迎えます!
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