74話 怪盗魔王、すべてを取り戻す
花に彩られた、色彩豊かな、サロンのような一室。
しかしその部屋に灯りはない。
代わりに、壁一面に風景が映し出されていた。
魔王城、謁見の間。
キースが放った【衝撃波】が、ちょうど壁に穴を穿ったところだ。
テーブルには、バラの花びらを浮かべた紅茶。
それをひとくち飲んで、いばらの3姉妹の長女、バロン・アンリエットは微笑んだ。
「見て見て、あのキースちゃん。記憶を失ってまで救った女を、今殺そうとしてるわよ」
双子の妹、アンナとオリヴィエがクスクスと笑い合う。
「予想した物語が現実になる瞬間って、本当に甘いものよね。魔王キース・アルドベルグの悲しい悲しいお話……」
アンリエットは、ほうっと切ないため息をついて、壁に映し出される謁見の間を見つめた。
「でも大丈夫よキースちゃん。記憶はちゃんと返してあげる。あなたが愛しいあの子を手にかけた、その後でね」
「いじわるなお姉様」
「ほんと、いじわるなお姉様」
「あら、失礼なこと言わないでちょうだい」
赤いくちびるに指を当てて、アンリエットは言った。
「私はね、いい男が絶望する顔を見るのが大好きなだけ。取り返しのつかないことをしてしまった男の表情って……最高にセクシー♪」
灯りの消された部屋に、高笑いが響いた。
………………。
…………。
……。
魔王城謁見の間では、キースの凍えきった視線と、マリィの熱い視線が交差していた。
マリィののど元には、あらゆるものを盗むことができるキースの指先が触れている。
闘いというには、奇妙なほど近いふたりの距離――。
キースは少し屈んで、マリィの耳元に顔を近づけた。
「あなたの意志は……よくわかりました……」
――それが、最期だった。
「っ………………」
マリィの全身から、すべての力が失われた。
糸の切れたマリオネットのように――彼女の身体はバランスを崩した。
キースは無表情で、マリィを抱き留める。
マリィのまぶたは閉じられ、長い睫毛が重なっていた。
その身体は、もはや動く気配を見せない。
ボロボロに破れた聖衣の下は、古傷がひとつあるきりだ。
しかし、戦闘は終わった。
――マリィの闘いは、闘いというにはあまりに静かに幕を下ろした。
キースを救い、戦争を止めると宣言したそのくちびるは、薄く開かれたままだ。
その隙間からは、濡れた白い歯が覗いていた。
「………………」
静寂が謁見の間を支配する。
キースが破壊した壁から、ぱらりと破片が落ちた。
「魔王様……この女から、すべての力を奪われたので?」
ディアナの小さな声は、静かな部屋によく響く。
キースはマリィを抱き、冷たい視線をその白い顔に注いだ。
「一歩遅かったというところだ。彼女は自害のための毒を隠し持っていた」
キースはマリィを、そっと床に寝かせた。
「魔王にみすみす力を与えるつもりはなかったらしい」
細い指と指を組ませる。
背後にそびえる玉座は、まるで黒い墓碑のようだ。
キースはマリィの身体を整えると、立ち上がった。
「なかなかのステータスを持っていたからな、もったいないことをした」
キースは動かなくなったマリィを、冷たく見下ろした。
「聖職者というのはつくづく厄介だな。そしてこれで、俺たちも後には引けなくなったというわけだ」
魔王が大神官に続き、聖女までもを殺害したとなれば、もはや講和など望むべくもない。
自ら毒を飲んだとて、それは同じ事だ。
第一、聖女が自害したなどと、誰が信じるだろうか。
「聖都は殉教者の血で染まることになるだろう……」
ディアナは床に倒れ伏したマリィを、紫色の瞳でじっと眺めていた。
自分を追い詰めた相手が自ら命を絶ったというのは、胸が悪くなるほど後味が悪い。
アレイラは謁見の間の暗闇の中で、静かに杖を抱いている。
彼女の思い描いていた楽観的な未来は、跡形もなく砕け散った。
この闘いの勝利を喜ぶ者がひとりもいないことは、マリィにとって喜ぶべきことかどうか。
それは誰にもわからないことだ。
これで、すべてが終わった――。
――わけではない。
「もったいぶらずに出てきたらどうだ」
キースの言葉と重なるように、闇の濃い謁見の間に、さらに黒々とした雲が環を描き出した。
ときおり雲に雷光が走り、天井の高い部屋を照らす。
その中央から歩み出て来たのは――。
「あらあら、気づいてたのね♪」
いばらの3姉妹の長女を名乗る男、バロン・アンリエット。
そしてその妹である双子、アンナとオリヴィエだった。
ディアナとアレイラが身構える。
キースは冷たい視線で彼女たちを睥睨した。
3姉妹の拍手が、謁見の間にこだまする。
「素晴らしいわ……実に素晴らしいわ……! 悲劇ってのはこうでなくっちゃダメなのよ!」
「来賓を招いた覚えはないが」
キースの言葉に、アンリエットは美しい笑顔を返す。
「お茶の1杯も欲しいところだけれど……まあ、それよりもそれよりも」
腕を胸に当てて、アンリエットは優雅に頭を下げてみせた。
もちろんそれは恭順を示す姿勢ではなく、道化じみた軽薄な所作に過ぎない。
「今日はねえ、魔王様へとっておきの貢ぎ物をご用意しましたのよ」
アンリエットは赤いビロードのジャケットの懐から、一輪の野花を取り出した。
1枚1枚の花弁の色が違う、美しいが奇妙な花だ。
花は今摘み取られたばかりのような、甘く香り立つみずみずしさをもっていた。
「貢ぎ物というには貧相だな」
「そんなこと言っちゃだァめ。これはあなたにとって大切なものなんだから」
靴音高く、アンリエットはキースの前に進み出る。
「だから、今返してあげるわね♪」
ふっ、とアンリエットが記憶の花に吐息を吹きかけると、花は金色の鱗粉のようにさらりと溶け、キースの胸へと吸い込まれた。
「記憶の花が還ったわ。アンナ、オリヴィエ、ここからが見物よ……」
キースの目は、もはや何も映してはいなかった。
膨大な記憶の奔流に、一歩も動くことができない。
………………。
…………。
……。
先代魔王討伐後の宿屋での言葉。
キースにはゴミのようなアイテムしか回ってこなかった。
『お願いします。受け取ってください。あなたはこれを手にする以上の働きをしたはずです!』
――そうして、キースの手に魔王のマントが手渡された。
帝国を相手にした戦闘終結後の、ンボーン砦での言葉。
キースは人間を棄て、“魔王”という闇に取り込まれようとしていた。
『キースさんは魔王です。その魔王の中に、人間キースがいる。どちらかになりきる必要はないんですよ。そのままのキースさんを、みんなが慕っているんですから……』
――その言葉で、キースは人間を取り戻した。
………………。
…………。
……。
マリィにまつわるあらゆる記憶が、キースの胸の中で渦を巻いた。
キースは愕然とした表情を浮かべる。
「そんな……嘘だろう……? そんな馬鹿なことが……!」
いばらの3姉妹は、陰湿な笑みを浮かべてキースを眺めた。
キースが振り返ると、そこには変わらず、冷たい床に寝かされたマリィの姿がある。
記憶は戻った――しかし現実がそれに合わせてかたちを変えることはない。
「マリィ……俺は……」
固い床に膝をついて、動かなくなった身体をかき抱く。
力が失われた肉体は、あまりにも重い。
熱い涙が頬を伝って、マリィの胸元に落ちた。
「俺は……取り返しのつかないことをしてしまった……!!」
涙は次々と溢れてくる。
マリィの想い出がよみがえるのと、同じ速度で。
勇者パーティーで酷い扱いを受けたとき、いつもフォローしてくれたのはマリィだった。
魔王になってからでさえ、マリィはキースを救ってくれた。
――すべての記憶が、もはや動かなくなったマリィに重なった。
キースは涙も拭わず顔を上げ、ディアナとアレイラを見た。
「どうして……どうして何も言わなかった……!? マリィの記憶が奪われたことは、お前たちも知っていたはずだ……!!」
アレイラは杖をぎゅっと抱いたまま、キースに答える。
「魔王様、私何度も言いました……でも聞く耳持たないって感じで……」
「この子たちを責めちゃ酷よキースちゃん」
アンリエットは機嫌良さそうに、固い床を蹴ってターンした。
「その記憶に関わるあらゆる言葉を受けつけない……それが本当の意味で記憶を奪うということなのだから」
「そんな……そんなこと……そんなことあっていいはずがない……ッ!!」
マリィのまだ温かい身体を、キースは固く抱いた。
「ああ、マリィ……マリィ……マリィーーーーーーッ!!!」
キースの慟哭の残響に、アンナとオリヴィエのクスクス笑いが忍び込む。
アンリエットは、自分の両肩を抱いて高笑いした。
計算通り組み上げられた悲劇は、アンリエットに最高の愉悦をもたらす。
「私の計画通りに動いてくれるって信じてたわ! 私素直な男って好きよ!」
こんなに甘いものはない。
これほど満たされる瞬間はない。
――それが、いばらの3姉妹の本質だった。
「なんならその子、生き返らせてあげましょうかァー?」
アンリエットは長い舌を出して言った。
キースは弾かれたように振り向く。
「できるのか……本当に……そんなことが……!!」
「もちろん、それなりの対価は頂戴するわ。そうねぇ、今度は何を貰っちゃおうかしらァー?」
アンリエットは、切れ長の目を細める。
「世界の半分……なんてどぉーォ?」
キースは耐えきれなかった。
この魔女に――この策略に。
すべてを奪おうとする悪意に。
耐えきれず、
耐えきれずに、
とうとう――吹き出した。
「ぶふーーーっ!」
「ちょっとキースさん、笑わないでくださいよ!」
マリィもつられて笑い出す。
「だって、世界の半分とか言ってんだぜ? あの間抜けヅラ見て笑うなって、そこまで我慢強くないよ俺は!」
「それを言うなら、キースさんの演技もくさすぎです! もうっ」
キースとマリィは、並んですっくと立ち上がった。
ディアナとアレイラも目を丸くしている。
「なに? え? なんなのォ!? どういうことォ!?」
アンリエットは顔を青くして、つばを飛ばした。
オリヴィエとアンナはクスクス笑いをやめ、顔を見合わせている。
混乱しているアンリエットの肩を、キースはぽんと叩いた。
「まあ、そう焦るなよ。じっくり説明してやるから」
マリィと本気で対峙していたあのとき、彼女の胸元の傷を見た瞬間、キースの脳裏にある記憶がよみがえった。
勇者パーティーとして旅をしていたときのことだ。
………………。
…………。
……。
猛烈な嵐の中、仲間とはぐれたキースは、誰かと一緒にいた。
それが誰かというのが、どうしても思い出せない。
そして嵐の中心にいるのは――翼の生えた巨大な獅子、マンティコア。
ふたりで相手をするには、なかなかの強敵だ。
一緒にいた誰かは、キースを下がらせて長く【シールド】を張っていたが、とうとうMP切れを起こした。
そこに襲い来る鋭い爪。
キースはその誰かをかばって、胸元に大きな傷を受けた。
ふたりはそのまま嵐に吹き飛ばされ、崖から転落した。
そこで記憶は途切れている――。
………………。
…………。
……。
キースはマリィの傷を見たとき、自分の胸元に手を当てた。
そこにあるべき、古傷の感触がない。
嵐の中で、大切な誰かと共に戦った記憶が、キースの脳裏を去来する。
しかしそれが誰だったのかが、どうしても思い出せない。
記憶の一部分だけが、まるで靄のように曖昧だった。
だが、それでよかったのだ。
それこそが、記憶を奪われるその前に、キースが施した策略だった。
マリィの胸の古傷は“記憶が失われている”という事実をキースに示した。
記憶が失われた理由は、容易にいばらの3姉妹へと結びつく。
彼女たちが一部始終を監視しているのも、たやすく推測できる。
「確かにあんたが言うとおり、マリィの記憶にまつわる“言葉”を、俺は受けつけなかった。だが傷というのは、形をもった“記憶”であり、刻みつけられた“記録”だ」
キースの言葉を聞いて、アンリエットはマリィの胸元に目をやった。
「まさかアナタ……その古傷をッ!」
「ご名答。そういうことだ」
キースがマリィの記憶を奪われる前の夜、キースは自分の古傷を盗んでマリィに与えていたのだ。
それが自分の心の鍵となることを確信して。
アンリエットに負けないほど意地の悪い笑みを、キースは浮かべた。
「分の悪い賭けだったが、その甲斐あってってところだな。あんたは記憶と言葉に執着するあまり、見えて当然のものが見えてなかったんだ」
キースはマリィの胸元にそっと手を当てた。
マリィの頬に、ぽっと朱が差す。
「傷ひとつない肌に、悪いことをしたな。それは返してもらうよ。俺の大切な“想い出”だ」
キースの指が滑ると、マリィの古傷は跡形もなく消え失せた。
もと有るべき場所、キースの胸元へと移ったのだ。
共に旅をした時代の古傷――それがふたりの心を結びつけた。
お互いへの強い信頼がなければ、この策略はけして成功しなかったことだろう。
記憶を奪われていることがわかれば、後は即興だ。
息のぴったり合ったふたりの演技は、完璧にアンリエットの目を欺いた。
ぽかんと口を開けているアンリエットに、キースはニヤリと笑いかけた。
「そういうわけで“貢ぎ物”はありがたく頂戴した……! ふふふ、どうだ? 今のは魔王っぽかっただろ?」
「キースさんは立派な魔王ですよ」
マリィはころころと笑う。
「どういうことよ……なんなのよ……なんなのよコレェ!!」
「要するにだ。最初から何ひとつくれてやるつもりなんか無かったんだよ。こちとら怪盗魔王だ。奪いはするが、奪われることはけしてない」
「き、きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」
アンリエットのこめかみに、青筋が立つ。
キースは白い歯を見せて笑った。
「バロン・アンリエット。俺の計画通りに動いてくれると信じてたよ。俺も素直な魔女は嫌いじゃない」
アンリエットは衝撃のあまり、口の端に泡を溜めている。
色男の面影は、もはやすっかり失われていた。





