73話 怪盗魔王、記憶の鍵を開く
「ディアナ、君はもう下がっていろ」
キースは漆黒のマントを翻して玉座から降りた。
ディアナは玉座の脇に下がり、アレイラは暗闇の中でハラハラしながら様子を見守っていた。
マリィの真剣なまなざしを、キースは鋭い目で射返す。
「改めて聞こう。君の目的は何だ?」
マリィは杖を握る手に力を込めて答えた。
「あなたを救うこと、そして戦争を止めることです」
「勇者というのはつくづく傲慢で、便利で、それ故に救い難い……」
キースは小さなため息をついた。
「俺がなんらかの窮地に陥っていて、それを救おうというのか。俺自身、自覚しない何かから。いかにも神官の言いそうなことだ。信仰は窮地を偽造する。やれ神に背を背けているだ、やれこのままでは地獄に落ちるだのと。魔王がそんな世迷い言に耳を貸すと本気で思うのか?」
「私は神の道を説きに来たのではありません」
マリィの言葉に、鋭いキースの目が、細められた。
「勇者、君は哀れだ。為政者にとって、勇者ほど都合の良い存在はいない。俺の首を取れば、この領土の膨大な鉱石が手に入り、魔王殺しの栄光は君の属する国にもたらされる。君を擁立した為政者は、その地位を盤石なものにする。聖女様なら尚更だ」
冷え切った謁見の間に、キースの足音が響く。
「そこに君の意志など存在しない。やがて価値が無いと見做されれば、容赦なく消される。本当に便利な存在だよ。君が信じるかどうかは知らないが、俺もかつては勇者パーティーの一員だったんだ」
キースは白い歯を見せて笑った。
それは――マリィの記憶を有していた頃の快活な笑顔とはほど遠く、苦いものだった。
「そして俺は王の意志で殺された。人間キースは死に、どういう理由かはわからないが……魔王としての俺が現われた」
マリィが魔王のマントを与え、そして死にかけたキースを癒やした。
そのことは、もちろんキースの記憶からは消え去っている。
「今の俺は、勇者パーティーにいた頃よりずっと自由だ。自分の考え通りにことを進めることができる。勇者というのは所詮操り人形なんだよ。俺は別に殺人が趣味というわけじゃない。馬鹿らしい勇者なんかやめて大人しく帰るといい。どこへとでも逃げて、ひとりの神官として、静かに暮らせ」
「そういうわけにはいきません……それに、私は誰のためでもない、私自身のためにここに来たんです」
暗い謁見の間、まるで別人になってしまったキース。
怖くないといえば嘘になる。
けれども、言わなくてはならないことだ。
そのために、自分は来たのだから。
マリィはよく通る声で、キースに言い放った。
「私は……あなたの友としてここに来ました! あなた自身を取り戻すために!」
キースは、眉間に深い皺を作った。
「俺に……魔王に友などいない」
キースはマリィに向けて手を広げた。
マントの赤い宝玉が輝く。
――【衝撃波】。
轟音が広い部屋に響き渡り、マリィのすぐ側を見えない波動が突き抜けた。
背後の壁がえぐれ、硬い破片を散らす。
「まだ世迷い言を吐き続けるなら、次は当てる」
マリィの頬に、汗が流れる。
「魔王に友がいないと言うのなら、私がなります……かつてのように!」
「かつて……? 友情とは、とどのつまり相互理解のことだろう。勇者ごときに俺の何が理解できる。そもそもお前は本当に友情を見たことがあるのか」
キースの手のひらは、変わらずマリィに向けられている。
いつでも殺せるということだ。
「人間の本質は、利用、裏切り、抑圧、憎悪……これらの醜い混合体だ。どこに友情が生まれる余地がある?」
「友情はあります……私たちに」
「俺は何も感じないが」
せせら笑うキースに向かって、マリィは一歩踏み出した。
「キースさん。どうして今あなたは、私と対話しているのですか?」
キースの笑みが消えた。
マリィの黒目がちの瞳が、キースを見据えた。
「私はひとりきりの勇者です。あなたは今すぐ私を殺すことができる。さっきだって、ディアナさんを止めなければ、私は死んでいました」
マリィは、さらに一歩を踏み出す。
大丈夫だ、目の前の人は私の話を聞いてくれている。
それならまだ活路はある。
そう信じて。
「私に自分の考えを説き、帰るよう説得し、今の攻撃も外してみせました。何故ですか?」
小さな足音が、いやに大きく響く。
ディアナもアレイラも、マリィの言葉に聞き入っていた。
「愛があるからです。相互理解を超えた慈しみが、キースさんの心に根付いているからです。そこではもはや、魔王も勇者も、盗賊も神官も関係ありません」
「世迷い言を吐くなと言ったはずだ」
「それでもあなたは私を殺さない」
とうとう、マリィはキースの目の前に来た。
鼻先に触れんばかりの距離に、開かれた手のひらがある。
キースがその気になれば、一瞬でマリィの顔は吹き飛ぶことだろう。
マリィは言った。
「もしあなたの心が冷たい氷に閉ざされてしまったのなら、私は何度でもそれを溶かしてみせます。それが私の愛です」
マリィの心の氷を溶かすために、キースがどれだけ骨を折り、胸を苛んだことか。
彼女には知る由もないことだ。
しかしマリィはキースに対して、同じ事をすると宣言した。
互いに知らないはずのこの繋がりは、キースの心にわずかな渦を巻き起こした。
キースの心に現われたのは、不安だ。
不安は苦しみに、苦しみは怒りに変わる。
「……俺はお前を殺さないと、そう言ったな。その通りにしてやろうじゃないか。君を生きて帰そう。だが」
キースは開いた手のひらを握りしめた。
「君には俺を“殺した”者たちと、同じ苦しみを味わってもらう。そのあとにまた、友情やら愛やらの話を聞かせてもらいたいものだ……口にできるものならな」
怪盗は、見えるものすべてを盗むことができる。
怪盗は、持てるすべてを人に与えることができる。
そういう職業だ。
キースはマリィのすべてを奪うべく、すぐそこにあるマリィののど元に指を当てた。
――マリィは動かない。
ただまっすぐな視線をキースに向けるだけだ。
必ずキースは元のキースに戻ると、心から信じ切っていた。
そのためなら何をされようと、もう恐れない。
キースがマリィからスキルとステータスを奪おうとしたその瞬間、ディアナとの戦闘で破けていた胸元が、はらりと開いた。
「………………!」
そこにあったのは、鎖骨から胸にかけての大きな傷痕だった。
ディアナとの戦闘で受けたものではない、ずっと古い傷痕だ。
「それは…………」
初めて、キースの表情に狼狽が生まれた。
マリィにはなんのことだかわからない。
キースはマリィの胸の傷痕を指でなぞった。
マリィは、きゅっと目をつぶる。
何かはわからない。
けれども今、確実にキースの中で何かが起こっている。
それだけははっきりしていた。
「それは、君の傷じゃない……」
キースの凍えきった心の空白に、何か熱いものが流れ込んでくる。
記憶の残滓が、茫漠とした暗闇を照らす。
「それは……俺の傷だ」
キースの胸の中で、記憶の鍵が開いた。
傷にまつわる思い出が、急流となってキースの胸になだれ込んできた。





