72話 マリィ、ディアナと闘う
キースに何もかもを忘れ去られて、それでもマリィは毅然として立っている。
それがディアナには憎らしくて仕方がない。
(どこから湧いて出てくるのかしら……あの自信は……)
マリィの瞳には、魔王領に侵入してきた狂信者たちとは違う、理性を研ぎ澄ました上での確信、とでも呼ぶべきものがある。
それをまっすぐキースに向けて「あなたを救いに来ました」と言ってのけたのだ。
ディアナは王座に腰かけたキースを見上げる。
「………………」
いかにも魔王然とした、どんな命令でも冷淡に下せる、鋭い目。
ひやりと心地よいオーラ。
かつてのキースにはなかったものだ。
ディアナは、どんな時代のキースにも不満を持ったことはない。
キースの優しさによって、魔力の源に還されず生き長らえていることもよくわかっている。
しかし今、冷酷なオーラを放つキースに仕えることは、ディアナに深い安心感を与えていた。
この目の前の女――マリィを取り戻すために、キースが命がけの闘いをしたことをディアナは知っている。
今のキースは、もうけしてそんなことはしない。
――その安心感にも、ひとつ傷がある。
その傷というのは、このマリィ・コンラッドという神官のために、キースが変わってしまったということだ。
かつての魔王らしからぬ優しさは、この女によって形づくられていた。
それが――どうしても許せない。
冷酷なキースに仕えることの安心感と、かつての優しいキースへのささやかな愛慕。
それが目の前の女によって左右されているという、おぞましい事実。
(魔王様がいばらの3姉妹に記憶を捧げてまで救い出した女……さすがに殺すわけにはいかない……)
ディアナがすっと手を挙げると、召喚した10頭のオオカミたちが、円を描くようにマリィを取り囲む。
(しかしこの女は“勇者”と名乗ってここに来た……私には魔王様をお守りする義務がある……!!)
腕を振り下ろすと、オオカミたちは一斉にマリィに襲いかかった。
「………………!」
マリィは杖を振り【シールド】を形成する。
電撃を受けたように弾かれたオオカミたちは、床に爪を立てて姿勢を整える。
続けて襲いかかっても同じことだ。
それは命令を下さずとも、オオカミたちにもわかっている。
「やはり一筋縄ではいきませんわね」
「私は話をしに来たんです!」
マリィの清らかな瞳が、憎らしくて仕方がない。
ディアナはそれを、表情に出さないように努めた。
自分はあくまで、四天王としての義務を果たすために戦っているのだ。
「あなたの都合など関係なくてよ……」
ディアナは再び腕を振るった。
【凶化】――。
紫色の閃光が弧を描いてオオカミたちに降り注ぐ。
光を受けたオオカミたちの肉体が、ゴキゴキと音を立てながら変形する。
背中から頭にかけて鋭いツノが現われ、牙は禍々しく巨大化し、2メートルほどだった身体は倍に膨れ上がった。
暗い謁見の間で、10対の赤い眼が煌々と輝く。
ディアナが命令を下すと、凶化されたオオカミたちは、再びマリィに襲いかかった。
【シールド】を展開するマリィ――しかし。
バリィッ
オオカミの巨大な牙が、淡く光を放つシールドに穴を穿った。
「………………っ!」
マリィがすばやくバックステップで距離を取った瞬間【シールド】は粉々に砕け散る。
後衛で働いていたとはいえ、長い旅の中でマリィも相応の体術は身につけていた。
「防御に特化した神官の【シールド】が役に立たないとなれば、勝負は決まったようなものですわね……」
ディアナには【職業知識】のスキルがある。
どの職業に、どのような利点があるのかは、完全に把握していた。
「素直に降参すれば、それなりの部屋くらいはあてがいますわよ。もちろん出ることは許しませんし、魔王様との接触も許しませんけれど」
「キースさんと話ができないのなら、来た意味がありません」
圧倒的に不利な状況で、マリィの瞳の輝きは失せない。
(何から何まで……気に食わない……!)
後退したマリィにオオカミたちが一斉に襲いかかる。
マリィは何重にも【シールド】を張り巡らして突進の勢いを弱めようとするが、それも一瞬で打ち砕かれる。
杖先に魔力を集中させて、マリィは一頭目のオオカミの鼻面を突いた。
火花が散ってオオカミが仰け反る。
しかしその合間を縫って、別のオオカミが鋭い爪でマリィの脇腹を抉った。
「ぐうッ……!!」
聖衣が破れ、血が滲み、したたり落ちる。
しかしヒールをかける、いとまがない。
襲いかかるオオカミたちを聖化した杖でいなしながら、マリィは一瞬のタイミングを探す。
3頭、4頭、5頭ののど元を突いたとき、連携の取れた攻撃にわずかな隙が生まれた。
マリィはその瞬間を見逃さない。
振るっていた杖を床に突き立てた。
「【ホーリーブラスト】!」
杖先を中心に、目が焼けるほどの眩しい光が謁見の間を照らした。
ついで弾ける爆風が、オオカミたちを吹き飛ばす。
本来なら、闇の属性を持つ召喚獣にとって、神官の攻撃魔法は、即座に戦闘不能に陥るほどの脅威だ。
しかしディアナの召喚獣は、それを補ってあまりある実力を備えている。
グルルルルル――。
ディアナの【ヒール】によって、オオカミたちの焼け爛れた皮膚は、煙を上げながら修復されていく。
マリィも、自分の脇腹に【ヒール】を施した。
「もう、やめにしましょう……こんな闘いに意味はありません」
「そうだよディアナ! どっちが勝ってもいいことないよ!」
マリィの言葉にアレイラが同調するが、ディアナは紫色の瞳に暗い光を湛えたまま、静かに言い放った。
「無意味かどうかは私が……いいえ、魔王様がお決めになることですわ」
「………………」
キースは黙したままだ。
ただ冷たい目で、ふたりの闘いを眺めていた。
ディアナはそれを、肯定と受け取る。
「では……これでどうかしら……」
ディアナは紫色の雲の中から、更に10頭のオオカミを召喚した。
それらに即座に【凶化】をかける。
倍になったオオカミたちが、マリィを取り囲んだ。
「………………!」
オオカミの攻撃が始まる前に、マリィは幾重にも幾重にも、【シールド】を張り巡らせた。
キースから分け与えられた、膨大な最大魔力量あればこそできる技だ。
薄い光が徐々に重なり、次第に激しい光となって謁見の間を照らす。
「この期に及んで持久戦をするつもりですの? 愚かなッ!」
20頭のオオカミが、一斉に【シールドに】襲いかかった。
むさぼり食うようにバリバリと薄い光を剥ぎ取っていく。
光の破片が飛び散り、床に跳ねて消える。
「いつまでそこに籠もっていられるかしら……」
オオカミの噛みつき、ひっかき――【シールド】は徐々にその形を失っていく。
そしてとうとう最後の1枚が、鋭い牙によって破られた。
「な…………!!」
ディアナが驚愕の声を上げる。
――【シールド】の中心に、マリィはいなかった。
「【ホーリーサイズ】!」
マリィの声が響いたのは、【シールド】に群がるオオカミたちから、遠く離れた闇の中だった。
【シールド】の中心には、必ず守護すべき対象が存在するはず――その盲点を、マリィは突いた。
更に幾重にも張った【シールド】の輝きは、闇をより深くする。
その中に身を潜めるのは、容易いことだ。
そこで脅威となり得るのはオオカミたちの鋭い嗅覚――。
しかし謁見の間には、床に飛び散ったマリィ自身の血の臭いが充満している。
オオカミたちの鼻は、その臭いのためにうまく働かない。
――マリィは有り余る最大魔力量と自身の傷によって、3重の罠を張ったのだ。
【ホーリーサイズ】は、杖に巨大な刃を発生させる。
マリィの存在に気づいたオオカミは、慌ててマリィへと襲いかかるが、先ほどのような連携は取れない。
輝く刃を振るうマリィは、次々とオオカミを屠っていった。
そして辿り着く――オオカミたちを操るディアナの元へと。
マリィはディアナの首に、光の刃をかざした。
聖化された刃による攻撃は、ディアナの強力な再生能力を失わせる。
主人の危険を悟ったオオカミたちは、即座に足を止めた。
「もう……降参してください……」
「………………っ!!」
ディアナにとって、決して負けられる闘いではない。
この目の前の女を倒せるなら――命など惜しくはない。
ディアナは自身の首を落とされることを覚悟して、マリィの背後のオオカミたちを呼び寄せた。
自身の死と召喚獣の消滅にはタイムラグがあることをディアナは知っている。
たとえ自分が死んでも、残ったオオカミたちはマリィを食らい尽くすことだろう。
――しかしここで、絶対者の命令が下った。
「……ディアナ、もういい」
キースは王座から、ふたりを見下ろして言った。
「召喚獣たちを収めろ」
「しかし……!!」
「命令は、聞こえたはずだ」
キースの声はあくまで、温度を変えない。
しかし、ディアナにとって2度の命令は1度の反発を意味する。
――従わないわけにはいかない。
ディアナはくちびるを噛んだ。
「…………畏まりましたわ」
ディアナが指を鳴らすと、オオカミたちは煙のようにかき消えた。
アレイラは部屋の隅で、密かに胸をなで下ろした。
先ほどまでの戦闘が、まるで嘘のように静まりかえった謁見の間を、キースは睥睨した。
「なるほどな。見る限り最大魔力量は俺と同程度……やはり危険な相手だな。勇者というのは」
キースの言葉は氷のように響く。
「………………」
しかしマリィはキースがディアナに命令を下したことに、わずかな可能性を見出していた。
今の状況では、ディアナを犠牲にすれば自分を亡き者にできたはずだ。
しかし「降参してください」というマリィの言葉を聞いて、キースはディアナの召喚獣を還させた。
部下を犠牲にして勇者を倒そうという算段は、キースにはないということだ。
(ほんのわずかなものかもしれない。けれども、キースさんにはまだ優しさが残っている……)
マリィは真っ直ぐな瞳で、キースの凍りついた目を見つめた。





