68話 マリィ、目を覚ます
マリィは、ぼんやりと光る霧の中にいた。
ここが屋内なのか、外なのかもわからない。
「ここは…………」
少し、歩いてみる。
足音がいやに高く響いた。
しばらく進むと、霧の奥に何か黒いものが渦を巻いているのが見えた。
――そこに、人影。
足首まで届く長いマントに、頭には2本のツノ。
見間違うはずもない相手だ。
「キースさん……っ!」
マリィは思わず走り寄ろうとする。
しかし――いくら走ってもキースには近づけない。
まるで氷の上を走っているようだ。
走りながら、マリィはキースに向かって手を伸ばす。
「キースさんっ!」
2度、名を叫んだとき、キースはゆっくりとこちらを振り返った。
顔には深い影が差していて、表情はうかがえない。
だが口元が動いたのが、確かに見えた。
「………………」
何かを言おうとしたその瞬間――黒い渦がキースを呑み込む。
もうすぐで辿り着けそうだったマリィの手は、空を切った。
………………。
…………。
……。
「………………ん」
マリィは目を開いた。
カーテンの隙間から差す日差しが、眩しい。
「ここ……は……」
ゆっくりと起き上がる。
コールデン共和国、聖都にある修道院の、マリィの自室だ。
どうして自分がここにいるのか、どうも記憶が曖昧だ。
大神官に呼ばれて、何かの話をして――それから、ぽつぽつとおぼろげな記憶が混じり合っている。
(長い夢を見ていたのかしら……いくつもの夢が折り重なった、曖昧な……)
ふと傍らに目をやると、ローズがイスに座り、ベッドに顔を伏せて眠っていた。
「なんでこんなところで……」
マリィが肩を揺すると、ローズは弾かれたように顔を上げる。
ふたりの目が合うと、その瞳がぱあっと輝いた。
「マリィ!」
ローズはマリィにひしっと抱きついた。
マリィは何が起こっているのかわからない。
自分はただ、眠っていただけのはずだ。
「どうしたのローズ、どうして私のベッドで……」
「良かった……もう目を覚まさないのかと思った……!」
ローズはマリィの首筋に頬をこすりつける。
「一体何があったの?」
マリィが尋ねると、ローズはマリィから身体を離した。
「何ってマリィ、あなた、魔王にさらわれてたんじゃない!」
「………………!」
頭の底に沈殿しているおぼろげな記憶が、ローズの言葉で不意によみがえった。
キースの胸に抱かれていた、あの瞬間。
――あれはさらわれたのではない、助けられたのだ。
「………………」
何も言おうとしないマリィを、ローズは訝しんだ。
「何も覚えてないの? 大神官様が魔王に殺されたことは!?」
「それは…………」
キースと大神官の死闘――。
それも確かにマリィは、見ていた。
マリィは見えない何かに囚われていて、手を出すことができなかった。
そしてそのとき正義は――間違いなくキースの方にあった。
たとえ相手がローズであっても、とても口にできることではないが。
しかし自分を助けたあと、キースがどうなったのか。
それが心配で仕方がない。
「魔王は……今どうなってるの!? 何をしているの!?」
「そんなこと、私にわかるわけないじゃない!!」
ローズが大声を上げたとき、ドアがノックされた。
「修道院長です、聖女様」
「どうぞ……お入りになってください」
マリィが返事をすると、修道院長は部屋に入り、深く腰を折った。
「皆、心より心配しておりました。本当に……よくぞご無事で戻られました……」
マリィはローズの肩から手を離して、お辞儀を返した。
(本当に……長い時間が経っていたのね……)
現在の状況を尋ねると、修道院長は肩を落として答えた。
「聖女様を取り戻すために、多くの人たちが立ち上がり、魔王領へと向かい……誰ひとりとして戻りませんでした。今は国境の川岸に魔王軍がひしめいているという話です。その付近の住民たちは、みな聖都へと避難して来ています」
修道院長の目には、深い憂いが表われていた。
「街は大変な騒ぎですよ。魔王を倒せ、魔王を倒せと……」
マリィは修道院長の話を聞きながらうつむいた。
おぼろげに折り重なった夢のひとつを思い出す。
霧の中、闇へと消えてゆくキース。
ただの夢とは思えない、奇妙な実感があった。
何かの暗示だろうか――。
「………………」
思い出した夢がもうひとつ。
マリィは、見知らぬ天井を見ている。
傍に立っているのはキースだ。
ランプの灯りに照らされたキースの顔は、慈しみに満ちていた。
自分の願望が見せた夢なのだろうか。
夢のキースの姿と、今ふたりから耳にした血なまぐさい話は、ちぐはぐで噛み合わない。
マリィは顔を上げた。
「では、どうして私は今ここにいるのでしょう? 魔王にさらわれたのでしょう?」
マリィは、野心に狂った大神官の手から、キースに救われた。
しかしそんなことを口にしたところで、誰が信じるとも思えなかった。
「それは……とても不思議なお話です」
修道院長は、年相応に弛んだ瞼を細めて、カーテンの光を見た。
「私が庭を歩いていたときのことです。突然、目の前に真っ暗な……」
そう言いながら、修道院長は手で大きな円を描いた。
「……こんな、穴のようなものが開きました。そこから見たこともないような美しい方が、聖女様を抱いて現われたのです。それであなたは、今ここに」
突拍子もない話だが、信じる他はない。
「しばらく休んでいた方がいいわよ、マリィ」
ローズはマリィの肩を撫でた。
「街が大変なことになってるから、モディリアーニ修道会の方々が、マリィに演説させようとしてるの。魔王の元から逃げ帰ったばかりで、できることじゃないわ」
「ローズ!」
修道院長が声を上げた。
「なんでそんなことを今伝えるの! あなたの言ったとおり、聖女様に必要なのは静養です!」
マリィは、おずおずと答える。
「でも、やはりじっとしておくわけには……」
「聖女様がしっかり身体を休ませるまで、私の目が黒いうちは外に出したりしませんからね!」
声を荒げる修道院長の言葉には、深い優しさが感じられた。
確かに――記憶も曖昧なこんな状態で、人前に出るべきではないのかもしれない。
マリィは、修道院長に頷いて見せる。
修道院長は、ほっとした顔で言った。
「まずは身を清めましょう。お湯が沸かしてあります。それから食堂で食事をなさると良いでしょう。お昼を過ぎたばかりですけれど、特別に用意させましょう」
「お気遣い、痛み入ります」
マリィは起き上がって、着替えを取ると、浴室に行った。
服を脱いで、湯涌に浸けた布で身体を拭う。
長い時間が経ったと聞かされていたが、あまり汚れてはいなかった。
無表情なメイドたちが、自分の身体を洗い清めていたことを、ぼんやりと思い出す。
本当に、大切にされていたのだ。
「………………」
すっかり身体がきれいになると、マリィは清潔な下着を身につけ、修道服を着た。
汚れ物はカゴに入れておくと、ローズが洗ってくれることになっている。
マリィは長い廊下を進み、いろんなことを考えながら食堂へ向かった。
(大神官様から私を助けたことで、キースさんがこの国を敵に回してしまったのなら……それをどうにかしないといけないのは私だわ)
庭を眺めながら、マリィは思った。
(いちど、キースさんと会って話ができたら……)
マリィは配膳台にぽつんと置かれている自分の食事を手に取って、誰もいないはずの食堂に入った。
「………………!」
胸元の大きく開いた、紫色の扇情的なドレス。
修道院にこれほど似つかわしくない服装はないだろう。
しかし彼女は、その姿でイスに座り、パンをかじっていた。
マリィと目が合うと、彼女はほっぺたを膨らまして、もぐもぐ噛んでいたパンを飲み込んだ。
「んぐっ、おはよ! 目が覚めたみたいね!」
「………………!」
魔王麾下四天王がひとり、アレイラクォリエータ。
目の前にいるのは、まぎれもなく彼女に他ならない。
マリィは、かつて野戦病院で出会った銀髪紫眼の少女のことを思い出す。
倒したはずのディアナが生きていたなら、彼女もまた生きていてもおかしくはない。
しかしどうしてこんなところにいるのか。
マリィが目を丸くしていると、アレイラは自分の隣のイスをぽんぽんと叩いた。
「まあ、とりあえず食べなよ! いろいろ話すこともあるしね!」
かつて命のやり取りをした相手が、今こんなふうに平然と話しかけてくる。
とてもちぐはぐで、変な感じだ。
「……ええ、わかりました」
マリィは大人しく、アレイラの言われたとおりイスに座った。
アレイラは輝くような笑顔を、マリィに向けた。
「スープちょっと分けてよ! パンだけじゃ喉がつまりそう!」
マリィは戸惑いつつも、こくりと頷いた。





