67話 怪盗魔王、いばらの3姉妹と取引する
「ひと晩だけ猶予をあげる。じっくり考えてきてね」
いばらの3姉妹の家からの去り際、バロン・アンリエットはウィンクを投げた。
「あなたが心から満足できる答えを……」
「………………」
そして今、キース、ディアナ、アレイラの3人は、宿屋にいる。
マリィが横たわるベッドの傍に集まっていた。
「記憶を操作するというのは、非常に高度な魔法だと聞きますわ」
ディアナはおとがいに人さし指を当てた。
「施術に当たっては、あの魔女にすべてを委ねることになります。マリィ・コンラッドに限らず、すべての記憶を奪うチャンスを与えることになりますわ」
そう言ってキースを見上げる。
紫色の瞳には、深い憂慮があった。
「それは無いんじゃないかと思います」
しかし、そこでアレイラが口を挟んだ。
「いばらの3姉妹は、特にバロン・アンリエットが“そう”と判断したなら、けしてそれ以上を求めようとしません。というのも……」
アレイラは赤い瞳をつま先に落とす。
禍々しい杖を、ぎゅっと抱いた。
「バロン・アンリエットが欲しがるのは、自分にすがってくる相手の不幸です。確実に不幸を辿る“線”を見極める力があるんです。マリィちゃんの記憶を奪うってことが、確実に魔王様の不幸に繋がることを見抜いているから、それ以上を求める必要がないんです」
アレイラは杖を抱いたまま、キースの目を見た。
「ただ、約束したことは果たす。これは確実なことです。私も……かつていばらの3姉妹を頼ったことがありました」
キースも予想はしていたことだった。
いばらの3姉妹を目の前にしたときの、アレイラの怯えようといったら、ただ事ではなかった。
アレイラは、胸に抱いていた杖をキースに見せた。
巨大な目が嵌め込まれた杖だ。
「私の目が、いちど羽を失ったことがあるんです。それを取り戻すために……その対価が」
アレイラの燃えるような瞳がうるんだ。
「帽子だったんですよ! 私たちの装備は、生まれるのと同時に現われるものです。いわば身体の一部なんです。それをわかっていて、バロン・アンリエットは私の帽子を要求したんですよ……でも目の羽には変えられませんでした。あの帽子はきっと、今もあの家にあるんだと思います……」
自分の頭に触れながら、アレイラは言った。
「ときどき、帽子のことを思い出して寂しくなります。取り戻そうとしたこともありました……でも手痛い反撃に遭って、せっかく取り戻した目の羽をまた失いそうになって、諦めました……」
本人の言うように、アレイラの帽子は体の一部だったのだろう。
黒い髪を手ぐしで梳くその姿は、哀れを誘うものだった。
いばらの3姉妹が、確実に約束を守ることはわかった。
与えることも――奪うことも。
「………………」
キースは、ベッドに横たわるマリィを見下ろした。
まるで精巧な人形のようなマリィ。
改めて、きれいだと思う。
その顔も、身体つきも――そして今は凍りついているその精神も。
初めて勇者パーティーを組んだあの頃。
マリィは最初から優しい少女だったが、キースにそれを感じ取る余裕はなかった。
ゾットがマリィを狙っていた、というのもその原因のほんの一部ではある。
でもそれ以上に、キースは仲間との接触をできる限り避けていた。
キースは盗賊だった。
人に好かれるはずのない職業だ。
事実、ゲルムたちからは酷い扱いを受けた。
キースは折れなかった。
すべては家族のため、アルドベルグ盗賊団のためだ。
自ら心を凍りつかせて、ただやるべき事のみを淡々とこなした。
そんなキースにとって、マリィの優しさは、あまりにも温かすぎた。
心の氷が溶けてしまうことを考えると、キースは恐ろしかった。
親切が怖かった。
笑顔が怖かった。
だから、ときにその優しさを拒絶したことすらあった。
(でも、マリィはずっとマリィだった……)
マリィはキースを見放さなかった。
つらいときには必ず支えてくれたし、ゲルムたちから守ろうともしてくれた。
長い旅の中で、確かに絆とも呼べるものが生まれていたとも思う。
そして今――キースが生きているのはマリィのおかげだ。
マリィがいなければ、キースは雨の中、路地裏でひとり死んでいた。
今、怪盗魔王として四天王を、そして魔王領の徒を率いているのも、すべてマリィの助けあってのことなのだ。
魔王の闇に取り込まれようとしたときに、人間キース・アルドベルグを救い出してくれたのもマリィだった。
何度も――何度も助けられたのだ。
これまで受けた恩は、とても返しきれるものではない。
「………………」
キースは、何も映さないマリィの瞳を見つめた。
自分を犠牲にしてでも人を救おうとする気高い精神、魔王となったキースにも注がれる無償の愛。
それが今、この世の果てのように凍てついている。
「彼女を救うために、俺は彼女を失うのか……」
キースは、ふとこぼれ出た自分の呟きにハッとした。
マリィを失うということ。
それがどれだけ、自分にとって大きな事か。
ただの旅の仲間ではなかった。
ただの恩人でもなかった。
「そうか俺は……マリィのことが……」
それ以上は、とても口にできなかった。
言葉にするには、あまりにもその感情は大きすぎる。
その感情が、そのすべてが失われるのだ。
キースは急に怖くなった。
――マリィがこのままだと、どうなるのだろう。
キースの心中に、暗い感情が囁きかける。
マリィは、魔王城の一室で、いつまでも眠り続けるだろう。
キースはときどき、その顔を見に部屋に訪れる。
マリィは静かに眠っている。
それを眺めるのだ――今までの想い出を大切に抱きつつ。
「………………!」
そのときキースは、自分の拳が固く握りしめられていることに気がついた。
手のひらから血が流れそうなほどに。
(俺は……俺は何を考えている……!?)
マリィは美しい。
美しい顔、美しい身体。
しかし――マリィをマリィたらしめているのは、いま凍りつかせているその心なのだ。
キースは自分の恐ろしい考えに、くちびるを噛んだ。
(情けない……俺はこんなに情けない男だったのか……)
マリィの想い出を失うのが怖い。
でもそれは、マリィ自身が失われることと、比べられるものではないのだ。
(マリィのことを考えろ……マリィを想う俺ではなく、マリィのことを考えるんだ)
「魔王様……」
アレイラはおずおずと、一歩前に出た。
「失われたものは戻りませんけれど……きっとマリィちゃんは魔王様に感謝します……そしたらきっと……」
その言葉を、遮ったのはディアナだった
ディアナは、ベッドの上のマリィをキースの隣で眺めている。
「アレイラクォリエータ。これは魔王様とマリィ・コンラッドの問題よ……わたくしたちが口を出すことではないわ」
「でも……」
「あなたの大切な帽子のことを、わたくしがどうこう言うとあなたはどう思うかしら」
四天王の装備は身体の一部。
キースの中のマリィの想い出も、今や手放すことのできない身体の一部と化している。
(マリィの想い出を失った俺は、俺でいられるのか……いや、ダメだ。また自分のことを考えている……)
マリィの瞳に、キースの姿は映らない。
(マリィのために、マリィの幸福のために、俺はできることをやろう)
キースはきびすを返して、マリィの部屋を出て行った。
ディアナとアレイラが、それに続いた――。
つらい夜だった。
キースは、失われるマリィの想い出に、心から浸った。
今夜だけ、今夜だけに許されたことだ。
しかし想い出は想い出だ。
けして触れることのできない形を持たないもの。
想い出を深く感じようとすればするほど、それは遠くなっていくようだった。
(“ひと晩だけ猶予をあげる”か……本当に趣味の悪い魔女だ)
翌日、キースたちは再びいばらの3姉妹の家に向かった。
紅色に塗られた壁が、今日はひどく不吉なものに思われた。
昨日と同じようにオリヴィエとアンナに部屋の奥へと通される。
アンリエットは、先にティータイムを始めていた。
「ようこそ。決心はついたかしら? 寝不足って顔だけれど」
アンリエットは紅茶をひとくち飲んで、長い睫毛に縁取られた目を、妖しげに細める。
オリヴィエとアンナは、相変わらずクスクスと笑い合っている。
「決心がついたから来たんだ」
キースの目には、敢然とした決意があった。
「マリィの心を溶かしてくれ。俺は、マリィの想い出をお前に渡そう」
「その表情、大好きよ。私の大切な“想い出”になりそう」
アンリエットは口元を押さえて笑った。





