61話 怪盗魔王、魔王城に帰還する
聖都からの報せを受け、コールデン共和国国境に、国中の聖騎士や武装した群衆が詰めかけていた。
コールデン共和国と魔王領を繋ぐのはセルバンテス橋、このたった1本の橋だけだ。
――聖女を奪われて、このままおめおめと魔王を帰すわけにはいかない。
広場での死闘を見ていない人間には、ただ“魔王が負傷している”という報せが頼りだった。
魔王も血を流す。
血を流すなら倒せないはずはない。
――魔王は無敵ではない!
この事実が、群衆たちを支えていた。
どんな犠牲を払ってでも、聖女を取り戻す。
宗教国家であるコールデン共和国では、当然民衆の信仰も篤かった。
この報せは、魔王領ふもとの駐屯所にも届いた。
「橋の向こう側に、わんさと詰めかけてるらしいです」
「……ということは、下手を打てば魔王がここを通るのか」
隊長はおとがいに指を当てた。
聖女がさらわれたのだ。
当然、食い止めないわけにはいかない。
「………………」
大神官や聖騎士が敵わなかった魔王を、自分たちでどうにかできるとは思えない。
しかし、任務は任務だ。
「全員外に出て待機しておけ」
隊長も槍を持って外に出た。
「今日は妙に冷えるな……」
北から吹く風は、氷を舐めたように冷たかった。
「………………」
隊長の胸に思い浮かぶのは、あの緑色の瞳をした謎の美女だ。
彼女は聖都に行くと言っていた。
聞くところによれば、魔王が暴れた聖都では、多数の被害が出たそうだ。
「……彼女は無事だろうか」
隊長はそう呟いて、槍を持つ指先を吐息で温めた。
一方、コールデン共和国側。
「伝令ーッ! 伝令ーッ!」
馬に乗った斥候が、たむろする聖騎士たちのもとに現われた。
こっそりとキースを追尾していた兵だ。
彼は声の届くかぎりに叫んだ。
「魔王はもういないッ! 我が国を出た後だッ!」
聖騎士たちと群衆に動揺が走る。
「どういうことだ!? 川を泳いで渡ったとでもいうのか!?」
コールデン共和国と魔王領を隔てるカーソン川は、広い急流だ。
魔王と言えどそう簡単に渡河できるとは思えない。
斥候が叫ぶ。
「違う……違うんだ……“橋”はもう1本あったッ!!」
「そんな馬鹿な……ッ!?」
セルバンテス橋から遙か北。
そこにはキースの【凍える息】によって固められた、白く光る氷の橋が架かっていた。
群衆たちが急いでそこに詰めかけたとき、橋は目の前で音を立てて崩れ落ちた。
………………。
…………。
……。
キースはマリィを抱きかかえ、とうとう魔王城に帰ってきた。
階段を昇り、エントランスに立つ。
そこには――。
黒いワンピースを着た召喚士ディアナ。
紫のぴったりしたドレスの黒魔導士アレイラ。
ボロボロの黒いコート姿の銃士ヴィクトル――。
三人は冷たい床に膝をつき、深くこうべを垂れていた。
口を開いたのは、四天王筆頭のディアナだ。
「魔王様、我々一同、ご帰還をお待ち申し上げておりました」
可憐な声が、エントランスに響いた。
「よく城を守っていてくれたな、ご苦労だった」
「ありがたきお言葉、感慨無量の至りにございます」
ディアナは顔を上げ、キースの姿を見た。
キースは頬に深い切り傷を負っている。
漆黒のマントは綻びひとつないが、中の服はボロボロだ。
ズボンとわき腹に、滲んだ血が固まっていた。
「魔王様、ひどいお怪我をなされているご様子! 一刻も早く治療を!」
「ありがたいが、先に頼みたいことがある。ギンロウ」
「はっ」
後ろに控えていたギンロウは、前に進み出た。
「帰ったばかりで悪いが【冷徹の冠】を北方に戻して欲しい。あまり時間がない」
「畏まりました、では早速、失礼を致します」
ギンロウはキースから【冷徹の冠】を受けとると、腕から車輪を生やし、床を削りながら魔王城を出て行った。
「アレイラ」
「はいっ!」
アレイラも顔を上げる。
「魔王様、すぐに【ヒール】しなきゃですよっ!」
「ああ、それも頼みたいが、お願いしたいのは彼女だ」
ディアナが気を利かせて、指を鳴らした。
ズズズズズ――と暗闇から車輪付きのベッドが現われる。
キースはそこにマリィを寝かせた。
「【冷徹の冠】を被らされていたんだ。外したが意識が戻らない。マリィを診てやってくれ」
「畏まりましたっ! でもその前に【ヒール】ですよ【ヒール】!」
大きな目玉が嵌め込まれたアレイラの杖から、緑色の柔らかい光が湧き出て、キースの身体を包んだ。
足から、わき腹から、頬から、痛みが消えてゆく。
「……ありがとう、ラクになったよ」
キースが自分の頬を擦ると、血の塊がこそげ落ちた。
「魔王様、傷痕が! なんで!?」
キースの頬には、斜めに傷痕が走っていた。
大神官の聖魔法が、それだけ魔王にとって致命的な攻撃だったということだ。
「やっぱり残っちまうか。まあいい、大したツラじゃない」
「そんな……誰が……許せないいいいいいっ!!」
アレイラは地団太を踏んだ。
キースは笑って答える。
「まあそう言うな。そいつは今頃、地獄で神に祈ってる」
「魔王様……」
ディアナは立ち上がった。
いつもは陶器のように白い頬に、朱が差している。
「魔王様がお怪我を負われたのは、臣下として誠に耐え難いことでございます……ですが」
指先をもじもじと突き合わせながら、紫色の瞳を上目遣いに向けた。
「お顔の傷は、ますますその……魅力的に……わたくしの目には映りますわ……」
「それはその……ありがとう、と言っていいのかな……まあそれはともかく、アレイラ。マリィの様子はどうだ?」
アレイラは珍しく眉根を寄せ、赤い瞳でマリィの顔を覗き込んでいた。
「かなり難しい症状です……ぱっと見じゃ何もわかりません。私の部屋で精査してもいいですか? 傷はつけないので!」
「ああ……そうしてくれ」
マリィはベッドの上で、人形のように横たわっている。
「………………」
なめらかな白い頬、赤い小さなくちびる、光を失った黒目がちの瞳。
本当にきれいだ。
キースは誓った。
――どんな手段を使ってでも、絶対にマリィの意識を取り戻す。
………………。
…………。
……。
『 魔王が聖都に出現!
大神官とその配下を殺害、聖女を誘拐する! 』
この驚くべき事件は、瞬く間に大陸を駆け巡った。
当初から反魔王を標榜しており、かつ直接の被害を受けたコールデン共和国は、国中が反魔王一色に染まった。
トリストラム王国、アシュトラン共和国の両国、魔王国との国交を結んでいるこの国の内部ですら、魔王排斥の世論は強まっていく。
――アシュトラン共和国中枢、エルドスターク城。
「魔王との国交反対」「人間を裏切るな」「聖女を取り戻せ」……。
塀の向こうに集まった群衆の声に、アルツファイト将軍は頭を悩ませていた。
「いつまでも連中を放っておくわけにはいきませんよ」
窓の外を覗きながら、副官が言った。
「我々は新政府です。民衆の支持を失えば、たやすくひっくり返る小舟です」
「ああ、おまけに軍事政権だ。政府が意地を通せば、各国が黙っていない。下手をすればアシュトランを征服した軍閥という扱いを受けかねない。そうなれば戦争の火種にすらなり得る」
アルツファイト将軍は禿げ上がった頭を、手のひらで撫で上げた。
副官はカーテンを閉じ、将軍に目を向ける。
「将軍、いま仰った“各国”には、魔王国は含まれていますか?」
「そこだよ。そこがいちばん難しいところだ……」
アシュトラン共和国は、再び窮地に立たされていた。
――トリストラム王国中枢、トリストラム城。
役に立たなくなった王に代わって、机で頭を抱えるのは副王ゴルドリューフ辺境伯だ。
「この状況で、なぜおとなしくしていてくれんのだ……なぜ聖女を……魔王の考えがわからん!」
トリストラム王国は魔王国と太い交易ラインを構築しており、もはやそこに依存していると言っても過言ではなかった。
各国の圧力はあれ、おいそれと縁の切れる相手ではない。
王は傍らのテーブルでプリンを食べながら、ゴルドリューフ辺境伯に言った。
「たぶん、魔王は聖女のことが好きなんじゃないかなと余は思うな。好きだからおうちに連れて帰ったんじゃないかなあ」
「そうでしょうね……ああ、そうでしょうとも!」
ゴルドリューフ辺境伯は白髪をかきむしる。
王はスプーンを立てて首を傾げた。
「ちょっとイライラしてる? そういうときは甘い物がいいと余は思うよ。ゴルドリューフの分もプリン頼んであげる」
「それはどうも!」
ゴルドリューフ辺境伯は、手櫛で乱れた髪を整えた。
「ともかくは問いただすことだ。意図を掴むことだ。でないと、動きようがない」
ゴルドリューフ辺境伯は、机に羊皮紙を広げ、ペンをインク壺に浸した。





