60話 怪盗魔王、大神官を倒す
聖魔法を放とうとした瞬間、大神官の右腕を灰色の手が掴んだ。
魔力の流れがせき止められ、手のひらから光が消える。
「……やっと、俺にもお味方ができたってところかな」
キースは崩れた大理石の中から、足の痛みに顔をしかめ、ゆっくりと立ち上がった。
灰色の手はすさまじい力で大神官の手首を握りしめている。
砕こうとせんばかりに――。
「んぐうううッ……なんだ……この腕は……ッ!?」
突然の痛みに耐えながら、大神官は灰色の腕を見た。
――その傍らには誰もいない。
「この腕は……」
かすれた呟きのその直後――大神官は悲鳴を上げた。
「この腕は、“私の腕”だぁあああああああああッ!!!」
灰色に変色した腕は、大神官の左腕だ。
キースが手刀で切り裂いた、あの左腕だった。
「貴様ッ! 何をしたッ!?」
キースは砕けた飾り柱に背を預けて答えた。
「さっきの一撃で、あんたの左腕を殺した……」
大神官を睨みながら、キースは言った。
「そして左腕が死ぬと同時に“体力”を与えた――するとどうなると思う?」
かつて、野戦病院で死にかけていた女に体力を与えようとしたとき、ディアナはそれを制した。
その理由は――。
「……あんたの左腕は屍人になったんだよ」
大神官の左腕は、生きた屍と化していた。
先ほど自らに施した【ヒール】には、傷をふさぐだけの効果しかない。
死んだものが【ヒール】でよみがえることは、けしてない。
「…………ぬううッ!!」
大神官は左腕を必死に振りほどこうとするが、手首に食い込んだ灰色の指はびくともしなかった。
「俺は屍人を操れる……つい最近得た力だ。対策は万全だとか言ってたが、さすがにこれは初耳じゃないかな」
フロストドラゴンから託されたスキル【屍人使役】。
屍人と化した左腕は、もはやキースの意のままだ。
「どんな気分だ? 自分の左腕に裏切られるってのは……」
「ぐ……うううう……あああああッ!!」
いちど放とうとした魔力の流れは止まらない。
最大魔力量を大きく超えた魔力は、屍人の腕によってせき止められ、大神官の身体の中で膨れ上がる。
大神官の右腕が、ボコン、ボコン、と膨らみ始めた。
聖衣の袖は破れ、腕にはヒビが入り、中から聖なる光が溢れ出す。
「魔力が……魔力があああああああッ!!」
マリィから供給される魔力は止まらない。
行き場を失った力の暴走は、右腕だけにとどまらなかった。
「あがッ! がッ! あああッ!!」
肩はボールのように丸みを帯び、右胸がメキメキと音を立てながら膨らんでいく。
「リ……【リジェネレーション】……【リジェネレーション】……ッ!!」
屍人と化した左腕をよみがえらせようと、大神官は無我夢中で【リジェネレーション】を発動しようとする。
しかし魔力の流れは当の左腕によってせき止められてる。
【リジェネレーション】の魔力は大神官の体内で膨らみ、ますますその暴走を助長した。
「しまった……助け……助けてくれ……ッ!!」
「いやだね。悪いが俺は神様じゃない」
聖衣が弾け飛び、魔力の暴走はついに首まで及び、大神官の顔は真っ赤に腫れ上がった。
灰色の左腕は、とうとう大神官の右手首をグシャリと握りつぶす。
「ひぎゃああああああああああああッ!!!」
「そろそろお祈りの時間じゃないのか?」
むきだしの胸元が裂け、聖魔法の光が漏れる。
大神官の首は、まるで胴のように膨れ上がっていた。
「か……神……か………………ッ!!」
パァン
最期の祈りもままならず――大神官の身体は、聖魔法の光を放ちながら弾け飛んだ。
残った2本の足が、ぱたりと石畳に倒れて煙を上げた。
マリィを利用し、自分の権能を超えた力を振るおうとしたその傲慢――。
それが大神官の運命を決めた。
「魔王様」
気づけば、ギンロウが隣りに立っている。
「こちらも片がつきました。お怪我の方は……」
「あのオッサンに比べりゃマシだよ」
キースは石畳に転がっている、大神官の足を指さした。
「それよりマリィだ」
傷ついた足を引きずりながら、マリィが座っている輿へと近づいた。
豪奢な装飾がなされ、レースのかかった白い輿の中で、マリィは静かに座っている。
目の前で行われた戦闘――凄惨な出来事など、何ひとつ知らないというふうに。
光のない目は、何も映してはいなかった。
美しい人形のように、ただそこにあるだけだ。
「………………」
その頭の上で、陽の光を受けて輝く【冷徹の冠】――。
キースはマリィの頭から、そっとそれを外した。
――マリィの瞳に光は戻らない。
「やっぱり、そう簡単にはいってくれないか……」
キースはため息をつき、傷ついた足に力を入れて、マリィを抱きかかえた。
「………………」
広場にいた群衆たちは、もうひとりも残ってはいない。
聖都の中心である広場は、敷き詰められた石畳が砕かれ、聖騎士たちの死体が散乱している。
破壊された噴水から漏れる水が、聖騎士たちの血と混じり合っていた。
「…………行こう」
「はっ」
マリィを抱えたキースは、ギンロウを連れて広場から立ち去ろうとした――そのとき。
「ま……待ちなさい……!!」
目の前に、ローズが立っていた。
真っ青な顔で、足をガクガク震えさせながら、両手を広げている。
少女は、聖騎士と大神官を殺し、マリィをさらおうとしている魔王に、たったひとりで立ち向かっているのだ。
誰もいない広場で、聖騎士たちの死体が転がっているその場所で。
それに、どれだけの勇気が必要なことか。
「………………」
キースは、涙をためたローズの目を見て言った。
「……騙してすまなかった。ウィジカという女性は、遠いところで亡くなった」
それを聞いて、ローズはくちびるを震わせた。
「簡単ではあるが、埋葬した。もちろん、それが君へのつぐないになるとは思っていない」
「マリィをどうするつもりなの……?」
キースは光を失ったマリィの目を見下ろした。
「責任はすべて俺にある。俺がなんとかしなきゃならない」
マリィの目から、再びローズに視線を戻す。
「君にひとつだけ、約束できることがある」
ローズの目を見たまま、キースは言った。
「何があっても、俺はマリィの味方だ……」
「………………」
ローズは青ざめた顔で、黙って道を開けた。
キースはマリィを抱え、ギンロウを連れて、大通りをまっすぐ歩いていく。
誰もが建物に避難し、じっと身をひそめていた。
静かな大通りに、風が吹き抜け、落ち葉が小さく舞う。
背後で、ローズが泣き出す声が聞こえたが、キースは振り向かなかった。
キースの靴音と、ギンロウの金属質な足音が、雨戸の閉め切られた壁に反響した。





