46話 エラーダ、ヴィクトルとの距離に悩む
エラーダ・コレット。
魔王を暗殺しようとして失敗、飢餓状態に追い込まれて母国に送り返された。
クーデター成功の交換条件として拉致され、再び魔王城へと送り込まれた女。
彼女は今、かつての生活からは考えられなかったような豪華な寝室が与えられ、魔王城を自由に歩くことが許されていた。
魔王が何をしたいのか、さっぱりわからない。
自分を殺そうとした暗殺者を、まるで身内に迎え入れるように遇することにどんな意味があるのだろう。
――そしてそれ以上にわからない男がこいつだ。
エラーダは自分の後ろを振り返って、常に影のようについてくる男を見やった。
魔王麾下四天王、銃士ヴィクトル。
その輝きのない黒い瞳からは、なんの表情も読み取れない。
「………………」
ヴィクトルは、いつでもどこでもついてくる。
少し外の風に当たりに行くときも、アルドベルグ盗賊団の砦を訪れるときも。
眠るときに至っては、エラーダのベッドの傍らで片膝を抱えている始末だ。
目を覚ましたとき、じっと顔を見つめられていたことがあって、そのときは思わず飛び起きてひたいとひたいをぶつけた。
「なぜ頭突きをした?」
ヴィクトルは痛がる様子も見せずに、そう尋ねてくる。
朝いちばんに、鼻筋の通った端正な顔でじっと見つめられるのは、正直心臓に悪い。
「驚いたからだよっ! じっと顔を見るのはよせっ!」
何よりも、熱くなった顔を見られるのはいちばん――なんというか、困る。
朝夜の身支度と、トイレの時間だけは、さすがにドアの外に立っているよう交渉した。
しかしそこでずっと待っているわけだから、非常に気になる。
気にならないわけがない。
当然、食事、紅茶の時間はもちろん隣の席に座る。
いま魔王城にディアナがいないので、執事のジョセフもゴーレムのメイドたちもいない。
外でテーブルを召喚することもできないので、最近のお茶の時間はもっぱら砦で開かれる。
出された紅茶は、盗賊団が大鍋で牛乳から煮出したワイルドなものだった。
ピリッと香辛料が効いたチャイだ。
まるでお菓子のように甘いそれを飲みながら、エラーダは言った。
「いったい、いつまで私につきまとうつもりだ」
「俺にはお前をトムラうと誓ったからな……いつ死ぬ予定だ……」
予定を立てて死ぬ人間は、そうそういない。
「さあな。明日かもしれんし、何十年も先かもしれん……」
エラーダはため息まじりに答えた。
魔王城という場所がどれだけ危険な場所なのか、最近は正直わからなくなっている。
魔王も歓迎すると言ってくれたし、ヴィクトルがつきまとってくる以外に困っていることもない。
しかしここは魔族の巣窟――何が起こってもおかしくはない。
「わかった……」
ヴィクトルはそう答えて、熱いチャイをマグカップからグイッと飲む。
のど仏が動くのに、不思議と見入ってしまう。
「どうした……?」
「なんでもないっ」
エラーダはプイッと横を向いた。
「………………」
ヴィクトルとは、正直いろいろとあった。
この男に抱く感情は、とても複雑だ。
しかしそれとは別にして、ここまでつきまとわれるのは、正直迷惑な話だ。
「本当に死ぬまで私の周りにいるつもりか?」
「俺は嘘はつかない……」
困る。とても困る。
魔王か四天王筆頭のディアナがいれば――かなり怖いが相談できたかもしれない。
しかし、ふたりとも今は北方に出かけていて魔王城にはいない。
あと、相談できる相手がいるとすれば――。
「ようご両人! 相変わらずべったりだな! アルドベルグ盗賊団に代々伝わる、特製チャイの味はどうだ!?」
話かけてきたのは、親分だった。
「甘いものは美味い……」
ヴィクトルはぼそりと答える。
「美味しいぞ。大味だが、そこがいい」
エラーダは、素直な感想を言った。
「そりゃ良かった。このあとンボーンの身体を洗ってやるんだが、手伝ってくれるか?」
「もちろんだ、引き受けよう」
そこでハッと気づく。
(そうだ、いい相談相手がいるじゃないか……)
エラーダは親分の顔を見上げる。
「どうした姉ちゃん、いやにじいっと見つめてくるじゃねえか。いかんぞ、あんたにゃヴィクトルってもんが……」
「そのヴィクトルのことで相談がある」
「ほう、本人を目の前にして相談か。いいだろう」
親分は丸太を立てたイスに、どっかりと座った。
「ヴィクトルと喧嘩でもしたのか。こいつはいつも何考えてるかわからんからなあ、そういうこともあるだろう」
「そういうことじゃない。こいつにずっとつきまとわれて、迷惑してるんだ」
「お前は俺が迷惑なのか……」
ヴィクトルは、その真っ黒な瞳でまっすぐエラーダを見つめる。
「だからそうやってじっと見るのはやめろ! ずっと言ってるだろう!」
「そうか……」
それだけ答えて、ヴィクトルはまたマグカップに口をつけた。
相変わらず、何を考えているのかわからない。
「つきまとわれて迷惑してる……か」
親分は遠くを見つめるような目をして呟いた。
そうして、ぽんと膝を叩く。
「よし、こういう話をするときには必要なもんがある。おいリュカ! ブランデーが残ってただろう、あれを持ってきてくれ! あと、俺のチャイをもう1杯だ」
「はーい!」
小さなリュカは、鍋からマグカップにチャイを注いで、ブランデーの瓶と一緒に持ってきた。
「どうしたの? エラーダお姉ちゃん。恋バナ? 恋バナ?」
リュカは興味津々といった様子で、エラーダの袖を引っ張った。
「お前にゃまだ早い、向こうへ行ってろ」
親分はリュカの襟を引っ張ると、ペガトンたちのいる方へ行かせた。
「なんだー、やらしい話してんのかー!?」
ペガトンの野次が飛んでくる。
口笛を吹く男もいた。
「うるせえ! おめえみてえなのは参加資格がねえ繊細な話をするんだよ!」
「熊みたいなオヤジが繊細ときたもんだ! ンボーンにセーターでも編ませる方がまだ見栄えがするってもんだぜ!」
「黙ってねえとケツ蹴り上げるぞ!」
「へいへい」
ペガトンは放り出されたリュカの頭をぽんぽん叩きながら、イスに座らせた。
親分はそれを眺めてため息をつく。
「気にすんなよ姉ちゃん。ああいう連中は、男と女を見ると、はやし立てないと気が済まねえんだ」
そう言ってテーブルに向き直ると、親分はチャイの入った自分のマグカップにブランデーを注いだ。
「こういう話はこういうお供が必要なんだ、軽い香りづけってやつさ。ヴィクトルと姉ちゃんもどうだ」
「俺はアルコールは摂らない……」
「私も、遠慮しておこう」
「なんでぇ、お堅えなあ」
親分はブランデー入りのチャイをひとくち飲んで呟いた。
「つきまとわれて、迷惑してる……か。俺も昔、女にそう言われたことがある。おっと誤解すんなよ、本当につきまとってたんじゃねえ。俺たちゃ、本気でつき合ってたんだ。本気でつき合ってる相手に、そう言われた……」
親分はまたチャイを飲むと、減った分だけブランデーを足した。
「相手はお嬢さんだったんだよ。俺たちの砦近くの別荘に来てたんだ。潮の匂いのする良い場所だった。俺たちが出会ったのは砂浜だった。俺は魚を釣ってたのさ。彼女は言った。何をしていらっしゃるのって。魚釣りも知らねえお嬢さんだったってわけだ……だから俺はいろいろと教えてやった。いわゆる、ワイルドなことをいろいろとな……」
ちょっと話がおかしな方向に向かっていることに、エラーダは気がついた。
しかし親分はちょっと止まりそうにない。
「俺も若かったし、金持ちの女ってのは悪い男に惚れるって相場が決まってる。俺たちがどうなるかなんてのは、朽ちた古舟にへばりついてるフナムシでもわかったろうさ。でもその古舟が、俺たちの待ち合わせ場所だったってわけだ……」
またチャイをグイグイと飲むと、そこにブランデーを注ぐ。
もはや香りづけとは呼べない。
「あんなに楽しい時期はなかった。彼女が俺といて幸せを感じてるってのが、胸に染み通ってくるんだ。もっと、もっと俺のことを知りたいってな。俺も彼女のことが知りたかった。でもな、そんな幸せは砂浜に描いた絵みたいなもんだ。やがてそれをさらう波がやってくる。その波が、俺たちの場合は……彼女の許嫁のお貴族様だったのさ」
「あの……私はヴィクトルをどうしようか相談を……」
「だからその相談を受けてるんじゃねえか。まあ、聞け……損はしねえさ」
親分はまたドボドボと注いだブランデーをグイッと傾ける。
「お貴族様は言った。そりゃあもう古舟にへばりついてるフナムシでも見るような目をしてな。こんな男と何をしてるってな。そこで彼女は答えたんだ……つきまとわれて困ってるんですってな……」
親分は、壁の向こうに海を見るような目をして言った。
「おっと、勘違いすんなよ。彼女は世界一いい女だった。これは今でも変わらねえ。その彼女が言ったんだ。目は赤くうるんでた。なぜそんなことを言ったか? そりゃよ、貴族様が盗みに敏感だからさ。俺は盗賊だ、それをよく知ってる。彼女はお嬢さんだ、やっぱりそれをよく知ってた。いいか?」
ブランデーも話も止まらない。
いつの間にか、空の瓶が並んでいた。
「俺が一方的につきまとってるだけなら、俺は何も盗んでない。でもふたりが想い合っていたら? それは俺が彼女の心を盗んだってことになる。プライドの高いお貴族様は、そんなこと許せねえんだ。彼女はよく知ってた。知ってたからそう言ったんだ。皮肉なことだが、ふたりの心がいちばん通い合ったのはその瞬間かもしれねえ。最初で最後のな。それきり彼女とは会ってない……今頃は素敵なお貴族夫人になってることだろうさ……いいか?」
すっかりできあがった親分は、エラーダの肩を叩いて言った。
「こういうのが、恋ってぇのさ。大きな恋ほど苦いもんだ。だからな、恋ってのはなるべく小さく、小さく育ててやるのがいい。子ウサギみてえにな……小さな恋だってニセモノってわけじゃねえさ……」
「あの……私はヴィクトルにつきまとわれていて……」
「つきまとわれてか……沁みる言葉だなあ! その言葉を聞くと潮の匂いを思い出す。俺たちは古舟を待ち合わせ場所にして……」
結局エラーダは、親分の古い恋の話をまるまる3回分聞くハメになった。
「なあエラーダ……」
とうとう親分が寝てしまうと、ヴィクトルは言った。
「親分が言っている恋とはなんだ……それが俺たちに関係あるのか?」
そう言って、また黒い瞳でまっすぐにエラーダの目を見つめてくる。
とても――とても居心地がよくない。
エラーダは目を逸らして答えた。
「それは……お前には、一生わからないことだっ」
エラーダはそう言って、自分のチャイにブランデーを注いだ。
少し飲むと、もう耳が赤くなった。





