42話 マリィ、貧しい少年を癒やす
大神官はお供を連れて、さる大貴族の屋敷へと訪れていた。
「本当に夫と息子の病を払ってくださいますの!? どんな医者も見放した病を!」
「もちろんでございます……」
大神官は老いた色の白い顔に、笑顔を見せた。
貴族の侍医が苦い顔をする。
「見放してなどおりませんよ夫人。私もできるだけのことは……」
「できるだけのことをやったって、治らないのなら意味はないでしょう!」
当主の妻である中年の女は侍医を一喝すると、床に膝をつき大神官にすがった。
「大神官様、あなたならきっと……」
「あなた方自身に、教会に身を捧ぐ信仰心があれば、神は必ずそれに応えてくださります」
「献金なら……献金ならいくらでもお納め致しますわ……ですから……!」
「良い心がけです」
大神官とそのお供は、息子の部屋に案内された。
侍医もそれについてくるが、もはやその場にいない者として扱われている。
青年はベッドの上で半ば意識を失い、額に脂汗を滲ませて苦しんでいた。
「ぐうっ……ぐううっ……」
病だけは、貧富の差なく訪れると言われる。
彼もその毒牙にかかった大貴族のひとりだ。
「もう心配は要りませんよ」
大神官はそう言って、その場にいる者すべてに祈りを捧げるよう命じた。
女は即座に膝をつき、指を組む。
侍医も、仕方なくそれに従った。
「では、神のご加護を……【リジェネレーション】」
目が潰れんばかりの緑色の光が、大神官の杖からほとばしった。
光はうねりながら、ベッドの上の青年へと吸い込まれていく。
暖かい風が吹き、カーテンをはためかせ――やがて光が、やんだ。
「大神官様……今のが……」
老女はおそるおそる目を開いた。
「そう、【ヒール】を超えた【ヒール】……神の奇跡、【リジェネレーション】です」
「……はっ!」
青年は、ベッドから跳ね起きた。
青白かった顔には、健康的な赤みが差している。
「僕は今まで何を……それに、あんなに酷い痛みが……!」
「ああ、ルシウス!!」
母は息子を抱きしめた。
「念のため……検査を……」
侍医が申し出て、ひと通り青年の身体を調べた。
「どういうわけだ……腫瘍が消えている……!?」
「神の奇跡です」
大神官は笑って答えた。
「ではご当主様の治癒はまた後日……」
お供がそう言いかけると、大神官はそれを遮った。
「それには及ばん。では次は旦那様のベッドへご案内下さい」
お供はそれを聞いて、小声で大神官に囁きかけた。
「【リジェネレーション】は1日1度が限度のはずでは?」
大神官は、さきほど夫人に向けたものとは、別の種類の笑みを浮かべた。
「まあ見ていなさい」
当主の部屋でも同じ事が行なわれた。
今まではあり得なかった、1日2度目の【リジェネレーション】――。
お供は祈りを捧げながらも、呆然とそれを見守っていた。
「ありがとうございます大神官様! 聖女様のお噂を聞くまで、聖堂へ赴かなかった自分を恥じる気持ちですわ……」
「信仰に遅いということはありません。大切なのは失われた時間を取り戻すために、心から身を捧ぐことです」
「もちろんです……もちろんでございますわ……!」
夫人は、莫大な額の献金を約束した。
大神官は夫人に笑顔を返し、大貴族の邸宅をあとにした。
馬車に乗り込むと、大神官は馭者に告げた。
「次はハーグリーヴズ家に向かいますよ。あそこにも重病人がひとりいる」
「まさかまた【リジェネレーション】を……!?」
お供が口を挟む。
1日3度も【リジェネレーション】が行なわれるなど、聞いたこともない。
「君は細かいことを気にしすぎるきらいがあるようだ。いいですか」
大神官はお供の肩を軽く叩いて言った。
「奇跡は聖女の専売特許ではありません」
………………。
…………。
……。
その頃マリィは、取り巻きに囲まれて街を歩いていた。
あちらこちらから聖女を称える歓声が聞こえてくる。
その声に応えて、マリィは何度も手を振った。
「聖女さまぁーっ!!」
「………………」
こうして街から街を――主に高級住宅地を廻るのが、最近のマリィの仕事のひとつになっている。
聖女の名声が高まれば高まるだけ、聖堂への礼拝者も増える。
ひとりでも多くの衆生を救うために、必要なことだと大神官は言っていた。
(マリオネットのように、ただ歩いて、手を振るだけ。こんなことで本当に良いのかしら?)
マリィは皆に笑顔を向けながら、それでも心の中は晴れなかった。
こんなふうにマリィが街を巡るようになってから、礼拝者が増えたのだという。
(神の教えを知るためでなく、聖女見たさに聖堂を訪れるなんて……それじゃ見世物小屋と同じだわ)
最近は、自分の意志で何かをやったという記憶が無い。
野戦病院でも婦長の命令に従って行動したけれど、あれはマリィの自主性と命令とがきれいに重なっていた。
魔術看護師たちは、人を救いたいという想いでひとつになっていたのだ。
大聖堂にはいろんな人間の思惑が渦巻いている。
それに従って行動するとき、マリィはいつも自分の居場所がわからなくなるのだった。
「………………」
高級住宅地どうしを結ぶ道には、貧しい地区もあった。
取り巻きたちは、マリィを促して足早に通り過ぎようとする。
聖女を称える声が高級住宅地と変わらないのはもちろんだ。
「………………!」
マリィは汚い路地の地べたに、ふたりの子供がうずくまっているのを見つけた。
「どうしたの!?」
慌てて取り巻きが制止しようとしたが、マリィはそれをくぐり抜けた。
「お兄ちゃんが、こんな大きな野犬に足を噛まれたの!」
妹らしい少女は、涙を流しながら両手をいっぱいに広げた。
「見せてごらんなさい」
兄のふくらはぎには、痛々しい犬の歯形から血が垂れ落ちている。
このままでは化膿して死に至る危険もあると、マリィは判断した。
「……【ヒール】」
柔らかな緑色の光が、マリィの杖から発せられた。
光は少年の足を覆い、その傷を癒やす。
「傷が消えてる! お兄ちゃん、もうなんともない!?」
「うん、もう痛くない! 聖女様、ありがとう!」
「傷が酷くなる前に出会えて良かったわ」
マリィは久しぶりに、心から微笑んだ。
「聖女様!」
取り巻きたちは、急いでマリィを兄妹から引き離そうとする。
「聖女様、いたずらに聖女の奇跡をばらまくのは、民の信仰心の低下に繋がります! それはけして神の望まれることでは……!」
「神の御心を代弁するのは禁じられているはずです」
マリィは背を向けたまま、取り巻きのひとりに言い放った。
「困っている方がいて、それを救える力があれば、私は必ず手を差し伸べます」
少女の涙をローブの裾で拭いながら、マリィは言った。
「聖女かどうかなどという以前の問題です……これはマリィ・コンラッドとしての生き方です」
奇しくも同じ頃、魔王領の北方でキースが口にしたことと、マリィのその言葉はとてもよく似ていた。
………………。
…………。
……。
「聖女様の“顔見せ”は、今日も無事に済んだようですね」
聖堂の地下室でぶどう酒を傾けながら、大神官は言った。
聖体拝領で使うものとは、比べものにならないような高級酒だ。
「それが……」
マリィの取り巻きのひとりである神官が言った。
「聖女様は、ご自身の力を与える相手を選びません。今日は我々の制止も聞かず、貧民街で怪我を負った子供を癒やしました」
「そうですか……」
欲深い人間の方が、下手に誠実な人間よりもずっと扱いやすい。
欲しがる物を与えておけば、それなりに大人しくなるからだ。
人間の欲望にはキリがないが、それでも欲望を満たすことで一時的な効果は得られる。
「………………」
しかし本当に誠実な人間の、心からの親切心は、欲望以上に歯止めが効かない。
自分の持っているものはみんな与えてしまおうとする。
だからこそ、身内に引き込んだときに厄介なのだ。
「計画を早めた方が良さそうですね……」
大神官はそう呟くと、血のように赤いぶどう酒を口に含んだ。
そのとき、地下室の扉が叩かれた。
「大神官様! 冒険者どもが戻りました!」
それを聞くと、大神官の顔の皺が、笑みの形に刻まれた。
「いま向かいます。鑑定士を呼びなさい」
地下室から上がり、廊下を抜け、大聖堂の薄暗い部屋に入ると、そこには白いローブを羽織った数人の冒険者たちが待っていた。
「大神官様、ただいま戻りました」
「長旅ご苦労さまでした。例の品は?」
「ここへ」
石の台の上に、凍り付いた宝箱が置かれていた。
大神官は革手袋を受け取ってそれをはめると、ゆっくりと宝箱を開いた。
――中にあったのは、繊細なつくりの透き通った冠だ。
しかしガラスや水晶で作られたものではない。
大神官は革手袋を脱いで、冠にそっと触れてみる。
指の骨まで凍えるような冷気――冠は溶けない氷でできていた。
「鑑定士が到着しました」
「確認させなさい」
丸眼鏡をかけた鑑定士は、宝箱の前まで来ると、スキル【鑑定】を発動させる。
「……本物の【冷徹の冠】ですな」
おごそかに鑑定士は言った。
「【絶対零度】のスキルが付与されております。下手にこれを装備すれば、使用者の精神さえも凍りつくことでしょう」
鑑定士は宝箱から大神官へと目を移した。
「呪いの装備と言っても過言ではないかと。大神官様、どうしてこのような品を?」
「それはあなたが考えるべきことでないでしょう。あなたはあなたの働きをした。私は私の働きをすることとしましょう」
大神官は薄暗い部屋の中、【冷徹の冠】の輝きを見てほくそ笑んだ。





