35話 怪盗魔王、人間を取り戻す
カレブの町は、勝利の喜びに沸き立っていた。
焚き火を囲んでエールの杯がぶつかり合い、泡を飛ばす。
兵も町人もみな交じり、軍歌が町に響き渡る。
10倍はいるであろう強豪アシュトラン帝国軍を、弱兵といわれるトリストラム王国軍が全滅させたのだ。
もちろんこれは、魔王軍の力がなければとてもなし得なかったことだ。
しかしその魔王軍は、町から少し離れた場所、ンボーンの黒山の傍らで野営をしていた。
町の人々を怯えさせないようにという、キースの計らいによるものだ。
彼らはそれぞれの種族の天幕で、勝利の喜びを分かち合っている。
やはり人間と亜人種との溝は、まだまだ深い。
エルフとドワーフといった亜人種同士でさえ、いさかいの種は尽きないのだ。
ギンロウとアレイラは、天幕から天幕へと回りながら、それぞれの酒を味わっている。
その一方、キースとディアナはふたりきりで、ンボーンの砦の中にいた。
窓辺の椅子に座り、森の向こうへ沈んでいく夕陽を眺めていた。
テーブルに置かれたカップには、少しブランデーを垂らした紅茶だ。
「ディアナ」
キースは言った。
勝利の喜びに浸った声色ではない。
「はい、魔王様」
「この先のことだが……魔族や徒と、人間たちとが同じ酒を飲む日は来ると思うか?」
「それは、わたくしにはわかりかねることでございます。しかしながら、ひとつ申し上げられることがあるとすれば……」
ディアナは言った。
「戦争は人間たちのものです。同族同士でさえ、同じ卓を囲むことのできぬ連中です。道は遠いかと」
魔王の徒たちの賑やかな声は、砦まで響いてくる。
しかしキースは、その声にむなしさを感じずにはいられなかった。
「この戦争は遅かれ早かれ、必ず起きたことであるかと存じます。むしろ魔王様が軍を動かされたことで、被害は最小限に留まったかと」
「俺は魔王だ。どんな経緯であれ、俺は今、魔を統べる王だ……」
「仰る通りでございます。魔王様は魔族、徒、やがては大陸全土を支配する、王の中の王でございますわ」
「………………」
キースは思った。
(いつまでも人間のつもりでいちゃいけない……。もっと冷酷に……俺に求められているのは、人間を棄てることだ……。心の底から、闇に染まること……)
再び、先代魔王の言葉が、キースの脳裏によみがえる。
『魔王からはけして逃げられない。ましてや魔王自身が……逃げられる……はずが……』
「……あの言葉に、間違いはなかったらしいな。俺は、魔王であることからは、決して逃れられない」
キースはそう呟いて、紅茶をひとくち飲んだ。
夕陽を眺め、物思いに耽っているキースを見て、ディアナは思う。
この戦争に責任を感じているキースを、どうにか慰めてあげたい。
それに、砦にふたりきりというこの状況――はっきり言うと、決して悪いものではない。
キースを慰めるにあたって、あんなことやこんなことが起きても、決して不思議ではない。
それはきっと、魔王様も喜ばれること――。
「お、奥にキングサイズのベッドがございます。そこで少しばかり横になるのが良いかと存じますわ。できるなら私もお供したいと……」
「失礼致します。ご報告したいことが」
ギンロウの声だ。
ディアナは密かに舌打ちする。
「入れ」
「魔王様にお目通りを願う者が現われました。例のマリィとかいう神官です」
「………………」
キースの胸がチクリと痛む。
心が押し戻されそうになるのを、キースは振り切る想いで言った。
「砦には入れるな。負傷者はまだ残っているはずだ。神官としてやるべきことをやれと伝えろ」
「畏まりました」
ギンロウはンボーンのしっぽを降りて、マリィにキースの言葉を伝えた。
「私はもう魔力を使い果たしました。野戦病院でできることは、もうありません……」
「しかしお達しはお達しだ。砦に入れることまかり成らん」
そう言ってギンロウは、砦に戻っていった。
「………………」
マリィは町には帰らず、ずっとンボーンのしっぽの傍らで立ち尽くしていた。
やがて日は沈む。
野営の明かりが、マリィの白いローブを照らした。
「………………」
その様子を、キースは砦の中から見下ろしていた。
ディアナには、先にベッドに行くように伝えてある。
ギンロウは別室でひとり、酒を飲んでいた。
勇者パーティーでキースが不当な扱いを受けたとき、いつも抗議してくれたマリィ。
ドロップアイテムの山分けのとき、このマントを渡してくれたマリィ。
勇者たちから殺されかけたとき、とっさにヒールをかけてくれたマリィ。
キースがいま棄てようとしている人間というものを、いちばん深く胸に抱いているのがマリィだ。
(こんな俺に、何の用があるっていうんだ……)
キースは窓辺にひたいを当てた。
困惑で熱くなった頭を、冷たい石の壁が冷ました。
マリィはまだ帰らない。
夜になり、すっかり冷え込んでくる。
ついには、小雨まで降り始めた。
――マリィは、まだ帰らない。
小さな白い影は、冷たい雨の中で動かない。
「ギンロウ……」
キースはとうとう、根負けした。
「マリィを中に入れてやれ」
「畏まりました」
少し待つと、マリィはギンロウに伴われて、砦の中へとやってきた。
白いローブはすっかり濡れそぼっている。
「ギンロウ、席を外してくれ」
「畏まりました」
ギンロウはまた別室へと戻っていく。
石造りの部屋に、ふたり、取り残された。
(俺は人間を棄てた身だ……俺は怪盗魔王……)
キースは、マリィに冷たい視線を向けた。
「俺は悪鬼羅刹を束ねる魔の王だ。もちろん覚悟があってきたんだろうな」
胸がジクジクと痛む。
しかしキースは心の底から魔王に染まる気でいる。
そうでないと、もはや己を保てないと信じていた。
「……もちろん。キースさんは魔王様ですものね。何をされても仕方がないわ」
「では、何を目的にここに来た」
「怪盗魔王様に、お礼を言いたかったんです」
キースの冷たい視線を受けて、マリィは寂しげに笑った。
そうして、深く頭を下げた。
「町を救ってくださって、ありがとうございました」
「………………」
胸が痛い。
とても耐えられそうにない痛みだ。
(いや、それはまだ俺の中に人間が残っているからだ……そんなものは棄てろ!)
キースは自分に言い聞かせる。
「顔を上げろ」
キースは、なんとか冷たい声を絞り出す。
わずかな震えが、マリィに伝わっていないか、それが不安だった。
「感謝の言葉は受け取った。では早々に帰ることだ」
「まだお礼を言う相手が残っています」
これ以上マリィと一緒にいると、怪盗魔王が崩れそうになる。
しかしキースは、必死にそれを耐えた。
「……四天王か、我らが徒か」
「彼らにもお礼を言わなければいけませんね……でも」
マリィは、キースの目をまっすぐに見た。
黒目がちの瞳は、松明の炎を映して美しく輝いていた。
「私が本当にお礼を言いたいのは……一緒に旅をした、キースさんです……」
自分の中にまだこびりついている“人間”が見抜かれている――。
キースは自分が崩れそうになるのを感じた。
「………………」
キースは思わず視線を落とす。
しかしマリィはその目を、優しく見つめている。
「突然魔王になって、たくさんの責任がいっぺんにのし掛かってきて……だから心の底から魔王にならないといけないんですね、キースさんは……」
すべてが、見抜かれていた。
「そう思うなら、なぜ人間であったときの俺に声をかけようとするんだ!?」
もうやめてくれ。
これ以上俺の心をかき乱さないでくれ。
俺は魔王なんだ。
もう――人間じゃないんだ。
人間でいたら――壊れてしまう。
「俺を……魔王でいさせてくれ……」
「キースさんは魔王ですよ」
マリィは一歩進み出て、キースの胸に手を当てた。
「キースさんは魔王です。その魔王の中に、人間キースがいる。どちらかになりきる必要はないんですよ。そのままのキースさんを、みんなが慕っているんですから……」
必死に、必死に棄てようとして、どうしても棄てられずにいた人間キースを、マリィは受け容れてくれた。
痛かった胸が、今は温かい。
目の奥が熱くなってくる。
どうしても棄てられなかった人間が、キースを動かした。
「………………!」
キースはマリィを抱きしめた。
涙を流すところを――見られたくなかった。
「マリィ……俺は人間を棄てられない……」
「棄てなくていいんですよ」
マリィはツノのあるキースの頭を、そうっと撫でた。
「それがキースさんなんですから……キースさんはキースさんでいてください」
キースの涙が流れ切るまで、ふたりはじっと抱き合っていた。
横風に吹かれた雨が、窓辺を濡らした。
 





