33話 怪盗魔王、戦場へ
キースはディアナを伴って、カレブの町の野戦病院に現われた。
みなの視線が、ざあっとキースに集まった。
2本のツノに、片眼鏡、黒いマント――それが怪盗魔王の姿であるということは民草の間にも知れ渡っている。
しかし悲鳴を上げたり、走って逃げ出したりする者はいなかった。
それだけ彼らは、戦いに疲弊していたのだ。
「………………」
教会を中心に広がる天幕の下に、多くの負傷者が横たわっている。
傷を受けたトリストラム王国兵たちだが、それ以上に町の住民も数多くいた。
これはアシュトラン帝国軍による作戦のひとつだ。
住民をできる限り殺さず負傷させれば、それだけ治療に割かなければならない人手が増える。
要するに、野戦病院をパンクさせようということだ。
この作戦は、悲惨なことに極めて効果的だった。
看護魔術師たちは、額から汗を流しながら必死に負傷者の看護にあたっている。
教会の庭で、嘔吐している魔術看護師がいた。
魔力を回復させるMPポーションを、もう身体が受け付けないほど摂取したのだ。
「………………」
教会に入ると、中は端から端までベッドでいっぱいだった。
集まる視線を感じながら、キースは教会に入っていった。
泣き叫ぶ声、うめき声、帝国軍への悪態――教会はそんなもので満ちあふれている。
その中に、かすかな細いすすり泣きが混じっていることにキースは気がついた。
「………………」
泣いていたのは、幼い少女だった。
ベッドに並んでいるのは、その両親だろう。
父親はもう息を引き取り、母親は胴体に巻かれた包帯に黒い血を滲ませ、ベッドにまで滴らせていた。
腹を大きく裂かれたらしい。
顔中から汗を流し――しかし娘を心配させないためか、必死にうめき声をこらえている。
「お父さん……お母さん……」
大量の血を失い、真っ白になった頬。
くちびるはチアノーゼを起こして紫色になっている。
どう見ても、助かるようには見えない。
もはや【ヒール】を使っても無駄だろう。
この状態でも効果がある【リジェネレーション】という魔法が存在するが、それは聖都にいる大神官しか使えないものだ。
「ディアナ、俺には帝国軍から盗んだ“体力”がある。それを与えるというのは……」
「畏れながら。肉体の修復を伴わず体力のみをお与えになれば、生きた屍を生むことになります。それは魔王様の望まれるところではないかと」
生きた屍――屍人は、理性のない人を襲う怪物だ。
もはや救うことはできない――そういうことだった。
「………………」
キースは少女の頭をそうっと撫でた。
そうして、その母親のひたいに手をかざした。
仄かな赤い光が、キースの手のひらへと吸い込まれていく。
――キースは、少女の母親の“痛覚”を盗んだのだ。
「あり……がとう……ござい……ます……リリー……この方に……感謝を……」
母親は、穏やかな顔をして目を閉じた。
まなじりから、涙が流れ落ちる。
彼女は命の限り、娘の名を呼び続けた。
「リリー……私のリリー……大切な……私の……」
痛みが長引かせる命もある。
しかしそれは、あまりに残酷な生だ。
キースは少女が泣き伏すベッドから、ゆっくりと離れた。
「……キースさん?」
バケツに水を汲んできたのは、マリィだった。
ふたりの目が合った。
「どうしてここに……」
キースは何も答えなかった。
いまさら、彼女に言えることなど何もない。
支配者たちの思惑の交錯が生み出したこの地獄の中で――彼女に言えることなど何もなかった。
「………………」
キースはマリィから目を逸らすと、マントを翻して教会を出た。
かつて夢の中で聞いた、魔王の声がキースの脳裏に去来した。
(魔王からはけして逃げられない。ましてや魔王自身が……逃げられる……はずが……)
「……魔王様?」
「どうした」
ディアナはキースの顔色を窺っている。
いつもの彼女らしくないことだった。
「いえ……なんでもございません。失礼を致しました」
ここに人間キースはもういない。
いるのは、すべての脅威を排除する覚悟を決めた、ひとりの魔王だった。
………………。
…………。
……。
早朝、ふたり組で馬を走らせているのは、帝国軍の斥候だった。
戦が始まるその前に、相手の陣容を把握するのが彼らの仕事だ。
あり得ないことは起きない。
そのあり得る範囲のことをつぶさに記録する。
斥候の働きとはそういうものだ。
しかし――今朝だけは違った。
「……地図を間違えたのか?」
そこには、目を疑う景色があった。
――巨大な山だ。
半焼したカレブの町があるべき場所に、巨大な黒い山があった。
そして朝霧にかすむそのいただきに、石造りの砦がそびえ立っていた。
「あんなところに砦が!? ここはいったいどこなんだ!?」
「ここら一帯は平地のはずだ、こんなことはあり得ない!」
正体不明の砦――下手に近づけば矢のひとつも降ってくるかもしれない。
「………………」
ふたりの斥候は、地図を確認しながら本隊まで戻った。
やはり、道は間違えていない。
「……報告するしかないよな」
斥候のふたりは、どう言ったものか迷いながら司令官の天幕に向かった。
「戻ったか。どうだった、敵の陣容は」
「それがですね……敵の姿は見当たらず……代わりにその……」
今朝、町があったところに、とつぜん山が現われた。
そんな報告をしたら、頭がおかしくなったと思われるだろう。
だからといって、嘘をつくわけにはいかない。
「貴様らは、まさか敵陣まで辿り着けなんだというのか?」
「お、仰る通りであります!」
それを聞いて、司令官デュッセルは口ひげをひねった。
「貴様らは斥候としてよく訓練され、実際にその力あってこそ勝てた戦もあった。その貴様らが敵陣に辿り着けんとはどういうわけだ?」
斥候のふたりはぴんと背筋を伸ばす。
もはや本当のことを言う他はない。
「敵陣に辿り着くはずの道で……その……」
「どうした」
「巨大な山が現われたのであります!!」
それを聞いて、司令官デュッセルは頷いた。
「他に何か見えたものはあるか?」
「砦が……山の上に砦がありました……!」
「ふむ……」
地図で確認してもその位置にあるのはカレブの町だ。
町があるのはどこまでも広がる平野。
そこに山が現われ、おまけにたった一夜で砦が建つなどありえない。
「なるほどな。トリストラム王国は魔王と組んだ、もはや魔の国の一部と言っても良い国家だ。貴様らは、何か幻術のようなものを仕掛けられたのかもしれん……」
それを聞いて、ふたりはほっとした。
司令官デュッセルの言い分のほうが、自分たちが見たものよりよほど現実的だ。
「部隊に帰って休憩をとれ。ただし、看護魔術師の検査を受けてからだ」
「了解致しました!」
ふたりを帰したあと、司令官デュッセルは地図を見ながら考えた。
(魔の幻術とはいえ、1個大隊を騙すようなことはできようはずもない……幻はしょせん、幻だ)
地図の上には、昨日3分の1を焼き払ったカレブの町がある。
今日中に占領するのは、けして無理な話ではない。
しかしそれは――幻が、幻であればの話だ。
帝国軍がその正体を知ることとなるのは、戦闘が始まった後のことだった。
「全隊、進め!!」
ガンガンガンガンガンガン
司令官の声に合わせて、鐘の音が平野に響き渡る。
続いて起こる、その音をかき消すような轟きは、大軍が一斉に移動を始めた音だ。
圧倒的戦力差を持つ軍の行動は、ただ前進し、包囲し、そして破壊する。
そう来るとわかっていても、対処法などは存在しない。
――そのはずだった。
「……なんだあれは!?」
「山だ……昨日はあんなもの……!」
「砦があるぞ……どういうことだ……!?」
ふたりの斥候が目にしたのと同じものを見て、歩兵の足が乱れる。
すぐさま司令官のもとに伝令が走り、巨大な山と砦の存在を知らせてきた。
(すさまじい幻術だ……まさか大隊すべてに効果をもたらすとは……)
しかし、司令官デュッセルはすぐに命令を下した。
「幻に惑わされず、陣形を保ったまま前進するよう全部隊に伝えよ! 幻術を打ち破るには、それが消え去るまで接近するしかない!」
どんな司令官であれ、そう命令しただろう。
“気のせいだ”などと言わずに、これは幻術である、とひとつの答えを導いただけでも、この司令官は優れていたのかもしれない。
(突然現われた山に砦……ここまでの効果を持つ幻術なぞ聞いたこともないが、他の可能性はあり得ない……あり得ないことだ……)
圧倒的戦力差に、油断のない司令官。
負けるはずのない戦だった。
「相手の魔術師が見せる幻だ! 進め進めーっ!」
伝令は前線で馬を走らせながら、声の限りに叫ぶ。
その声を聞いて、大隊は再び動き始めた。
「幻だとよ……」
「トリストラムにはあんなことができる魔術師がいるのか……」
「魔王と組んだだけのことはあるぜ……」
巨大な山の“幻”、そびえ立つ砦の“幻”――ひとりひとりが自分にそう言い聞かせながら、大隊は進んでいく。
前線は、もはや山のふもとに近いところまで来ている。
まだ幻は消えない。
朝霧の中――砦に人影が見えた。
ひとりではない。
砦の中からぞろぞろと、回廊に影が集まり、整列する。
「幻はまだ消えねえのか!」
「進め! 隊列を乱すな!」
――その影から、無数の小さな影が射出された。
小さな影の群れは弧を描くように空を飛び――
「ん?」
――やがて部隊に降り注いだ。
シュドカカカカカカカカカカカカカカカカッ
「ぐあああっ!!」
「ぎゃあっ!!」
「おぐっ!!」
幻ではない!
幻ではなかった!
無数の矢が歩兵の真上から飛来する。
兜を貫かれた兵が、崩れ落ちる。
肩に矢を受けた兵が叫ぶ。
「本物だッ! あの砦は本当にあるッ!!」
「散れッ! 散れッ! 的になるぞッ!!」
人影――敵軍が再び弓を引き絞るのが見える。
矢が放たれる。
部隊はすぐに散り散りになった。
しかし帝国軍は、よく訓練された精強な軍隊だ。
あくまで敗走はしない。
散開した部隊は、西側から山を迂回するようにして、カレブの町へ攻め込もうとする。
その一方。
「司令官ッ!」
伝令は息を切らせて、次々と司令官の天幕に飛び込んでくる。
砦が本物であったことも、とうに伝えられていた。
司令官デュッセルは脂汗を流しながら、テーブルの地図を見つめている。
(山が……砦が……幻でないなどと……)
歩兵大隊が矢の斉射を受けたという、伝令の言葉が信じられない。
しかし次々と舞い込んでくる被害報告は、砦の存在が確実であることを、切実に訴えていた。
自説が覆され、顔を青くしている司令官デュッセルに、次なる脅威が知らされる。
「山が……司令官……山が……!」
「今度はなんだ……!?」
伝令は震えながら叫んだ。
「山がッ! 動きましたあッ!!」
「何ぃ!?」
そのとき、遠くから大地を震わす何かが聞こえた。
兵の足音でも、ときの声でもない。
ンボオオオオオオオオオオン……
初めて耳にする“山”の鳴き声に、司令官デュッセルは恐怖した。





