31話 怪盗魔王、闇と向き合う
キースがいつも座っている玉座に、いま先代の魔王が座っていた。
その胸に突き立つのは、伝説の剣フラグナム――流れる黒い血。
あの光景が、再び目の前に現われた。
――魔王の死。
しかしこの場に四天王はいなかった。
ディアナ、アレイラ、ギンロウ、ヴィクトル――誰もいない。
「……先代魔王か、しつこく現われてくるんだな」
キースの声は、ふたりきりの謁見の間に反響した。
「俺に何の用がある?」
「名も無き者よ……お前は未だ魔王というものを理解していないらしい」
先代魔王は、黒い血を吐きながら言った。
「力を従え、束ねるということの意味を……」
黒い血は床にしたたり落ちて、石畳の上を広がっていく。
「力を得て、それでも未だ人間としての在り方を棄てきれずにいる」
広がった血は、キースの足もとを濡らした。
しかし、もはやそんなことを恐れはしない。
「何が言いたい」
キースが問うと、先代魔王は笑った。
「キースという人間は、もはやこの世のどこにも存在しないのだ。名も無き者よ」
「俺はキース・アルドベルグだッ!!」
キースは叫んだ。
「もとかもしれないが、それでも俺は人間だ! だから最小限の犠牲でこの世界を……」
先代魔王の嘲笑が、キースの言葉を止めた。
口の端から血を流しつつ、嗤っている。
「すぐに思い知ることになるだろう、魔の王とはなんたるかを」
謁見の間が、黒い血で染められていく。
視界が――暗くなっていく。
「魔王からはけして逃げられない。ましてや魔王自身が……逃げられる……はずが……」
――――――。
「はっ!」
キースが目を覚ますと、全身が冷たい汗でべっとりと濡れていた。
「………………」
キースは服を脱ぐと、濡らした布で全身を拭った。
こんなときにも、呪いの装備【魔王のマント】はけして外れることなく、キースの身体を覆っている――。
………………。
…………。
……。
劇的な宣戦布告から、アシュトラン帝国軍の動きは迅速だった。
対連合国の後詰めとして待機していた部隊は、帝国新都ガラリアから南へと進軍し、国境を突破。
おっとり刀で駆けつけたトリストラム王国方面軍は、当然のことながら劣勢を強いられていた。
両軍が衝突したのは、カレブという小さな辺境の町――。
アシュトラン帝国は、大陸で今もっとも力を持っているとされている。
北方の嵐に鍛え上げられ、長きに渡る戦で血を浴びてきたその軍隊は、恐ろしく精強だ。
対して、軍備増強を始めたばかりのトリストラム王国軍は、そのほとんどが新兵。
装備も未だ、農業国らしい革製のものが中心だ。
数の上でも質の上でも――王国方面軍が勝てる要素はどこにも見当たらない。
「………………」
アレイラの魔法【スカウト】は、杖に嵌め込まれた“目”を飛ばし、遠くの風景を観ることができる。
さらに【プロジェクション】を使い、アレイラはそれを壁に映し出した。
「戦場の様子はこんな感じですねー!」
「………………」
目をきらきらさせているアレイラとは対照的に、キースの心は重く沈んでいた。
燃え盛る家々から、黒い煙が立ちのぼる。
その下で逃げ惑う人々が見える。
剣をもった兵たちが彼らを追い立て、斬りつける。
悲鳴が上がり、血が石畳に飛び散る。
トリストラム王国軍が到着したところでは、さっそく兵のぶつかり合いが始まっている。
革の盾は槍に貫かれ、若い兵士たちが次々と命を落としていく。
それでも諦めず、続々と後続の兵が前に出る。
仲間の屍を踏みながら、それでも前に進もうとする。
「これが……俺が生み出した光景だというのか……」
キースのスキル【戦略】が告げる。
遅かれ早かれ、この戦争は始まっていた。
キースが使者を送ったことは、それをほんの少し早まらせたに過ぎない。
――しかし、それに納得できるほど、怪盗魔王キースは冷徹にはなりきれていなかった。
「見てくださいあれ! すっごーい!」
「黙りなさい、アレイラクォリエータ」
「!」
氷のようなディアナのひとことで、アレイラはすぐに口を閉じた。
目をぱちぱちさせながら、不思議そうにディアナを見ている。
ディアナがはしゃぐアレイラを本気でいさめるのは、とても珍しいことだった。
「………………」
ディアナは戦場を観ていなかった。
その紫色の瞳が捉えていたのは、キースの表情だ。
「魔王様……」
ディアナが呼びかけると、戦場に目が釘付けになっていたキースは、青ざめた顔でゆっくりと振り向いた。
「畏れながら。魔王様はあらゆる魔を統べるお方。王の中の王であらせられます」
ディアナはひざまずいた。
「魔王様の遠大なるご計画、そのキャンバスは、ときとして血をもって描かれることがあるかと存じます。これからも……このずっと先までも……」
銀色の髪を床に垂らしたまま、ディアナは続ける。
「重ねて畏れながら。魔王様はもと人間。さらに魔王様の所属していらっしゃったアルドベルグ盗賊団のモットーは“不殺”……流される血に対して嫌悪を抱くのは、極めて自然なことかと存じます。むしろ人間としての精神の健康を保証するものかと。わたくしから申し上げたいことは、以上でございます」
ディアナの言わんとしていることは、痛いほどに伝わった。
――もはや、人間ではいられないところまで来てしまったのだ。
キースは再び戦場に目を戻す。
軍の衝突点から流された血が、石畳に広がっていく。
倒れ伏した両親の横で、子供が泣いている。
「………………」
目を逸らしたくなる光景だ。
それでもキースは、アレイラの【プロジェクション】を見続けた。
(いつまでも人間ではいられない……)
血煙。
切り飛ばされる腕。
(ここで俺が折れたらどうなる……すべてを捨てて逃げ出したら……)
刺された膝を引きずって離脱する兵。
しかし出血量を見れば、もう助からないことはあきらかだ。
(人間でいる限り……俺は誰も救えない……)
燃えた家から飛び出す、黒い影。
男か女かもわからない――それもやはり、助からないだろう。
(人間を、棄てなければ……魔王として君臨しなければ……)
キースの胸の内を、黒々とした感情が渦巻く。
目の光が、少しずつ濁っていく。
「俺は怪盗魔王だ……人間を棄てるべき男だ……」
キースは呟いた。
そうでなければ、誰も救えない。
ただ流血に怯え続けていては、誰ひとり救えない。
ひざまずいたままの、ディアナが言った。
「魔王様がたとえどのようなお心を抱かれようと、我ら四天王はその命令に従い、実行するのみでございます……ご命令を」
アレイラ、ギンロウのふたりも、ディアナに並んで膝をついた。
「アレイラ、もういい。戦場視察は充分だ。見飽きた……」
「はいっ」
壁に映し出された【プロジェクション】が消え、壁の松明が再び燃え始めた。
「では命令を下そう……魔王として……人を殺すための命令を下そう……」
キースの心の均衡は、底知れぬ闇に大きく傾き始めていた。





