『未練』
一
どうして生きているのだろうか、人生を全うすることにどんな意味があるのだろうか。
とりたてて嫌なことがあったわけでもないが、生きていく理由がわからなくなったので死ぬことにした。我ながらあっさりしたものである。
月が綺麗な晩、死ぬならこんな日がいいなと思い、帰り道その足で、手ごろな建物の最上へと向かった。
ビルの屋上のフェンスを越え、下を見る。
「痛いのかな。」
今更、怖気づいたなんてことはないけれど、何となくそう思った。しかし一歩足を踏み出すと、なんてことはない、痛みを感じる間もなく世界は暗転した。
二
次に気が付いたのは真っ白な空間だった。僕は、死んだなら思考はそこで途切れると思っていたが、それはどうやら誤りらしい。
「ここはどこなんだろう。」
一人そうつぶやくと、不意に後ろから声がした。
「こんにちは。」
振り返るとそこには少女が立っていた。
「あなた、お名前は?」
突然の問いかけに僕は戸惑いながら答える。
「戸川、由紀夫です。」
十は年が離れているであろう少女に敬語を使うべきか否か悩んだが、見知らぬ場所ということもあり、下手に出て様子をうかがうことにした。
「ユキオさん、ね、ついてきて。」
少女はそう言い、僕を置いて歩き始めてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。」
僕は少女の後を追い、問いかける。
「あなたは誰で、ここはどこなんですか。」
少女はこちらを一瞥し、歩みを止めずに答えた。
「まあまあ、色々聞きたいことはあると思うけど、ひとつひとつ話すよ。まず自己紹介からかな、私はアカネ。よろしくね、ユキオさん。」
アカネという少女はそれから、この場所について説明を始めた。
「ユキオさんは自分がもう死んだことは分かってるのかな?たまにそれがわからないままここにきちゃう人もいるんだけど…その様子からすると大丈夫そうだね。
ここはね、なんていうか簡単に言っちゃうと、あの世とこの世の狭間みたいなとこなんだよ。
死んではいるけど、死にきれていない人のための場所。」
「死にきれていない?」
「そう、生きている間にやりきれなかったことがあったり、納得がいかないまま死んだ人たちがここに来る。」
「そう、だったんですね…」
「さっきから敬語使ってくれてるけど、そんなにかしこまらなくていいよ。」
アカネは、ふふっと笑いながら言う。
「じゃあアカネ、僕は何かしら現世に未練があってここにきたっていうの?」
「そういうことになるね。」
アカネの説明を反芻し、僕は状況理解に努めた。僕はあの夜、生きている意味が分からなくなり、自ら命を絶った。そこまではいい。完全に「死」を迎えたものの未練があってここに来たと彼女は言うが、その点は全く得心がいかない。
「なあ僕は人生に未練なんてないと思うんだが。何かの間違いじゃないのか。」
堪らず、アカネに聞く。
「それは「見方」の問題かもね。」
彼女は意味深な表現で言葉を濁した。
「ユキオさんがここに来た理由は何にせよ、ここがどこなのか分かってもらえたかな。」
「それは分かった。分かったけど…。」
納得がいかないまま、アカネの後ろを歩き続ける。
ほどなくして、
「ほら、着いたよ。」
永遠に続くかと思われた何もない真っ白な空間は終わりを告げ、気が付くと目の前には大きなモニターがあった。
「これは?」
「モニターだよ。見ればわかるでしょ?」
「それは分かるけど、そうじゃなくてさ。」
アカネの説明はいまいち要領を得ない。そもそも彼女は何故ここにいるのだろうか。僕と同じく「死にきれなかった」のか。考えていると今度は彼女から質問が来た。
「ねえ、ユキオさんには何が見えてるの?」「それは、どういう…」
そこまで言って気が付いた。考え耽っていて分からなかったがモニターには僕の姿が映っている。それも生前の姿が、だ。
「あれは、僕だ。」
「そうなんだ、ユキオさんには自分が見えるんだね。」
「君は違うの?」
「私は…。この画面にはね、その人の未練が映るんだよ。だからユキオさんも見ていれば自分が死にきれなかった理由が分かるんじゃないかな。」
促されるまま僕はモニターを眺める。しかしそこに映るのは、毎日代わり映えのしない僕の日常。朝起き、仕事に行き、帰ってきて寝る。ただそれだけの何の面白みのない日常だ。
僕は何が楽しくて生きていたのだろうか。実際それがわからないから死んだのだが、生きていて楽しかったことが何か一つくらいあったはずだ。しかし思い出せない。
「空虚な人生だったな。」と一人ごちる。
「本当にそう?」
アカネが口を挟んできた。
「私は全く虚しい人生なんてないと思うけどな。思うに、ユキオさんはきっと寂しかったんだよ。」
予想だにしていなかった言葉に戸惑う。寂しい…僕が?
確かに人付き合いはそんなに良い方ではなかったけれど、友人がいなかったわけでもないし、生きているうちにそう感じたことはなかった。
「何のことやら、って顔してるね。まあいいや。それで自分の未練については分かった?」
「いや、君の言葉の意味も、自分のことについても、何も…。」
「うーん、まだ時間がかかるのかなぁ。」
アカネは伸びをしながら答える。
「なあ、気になっていたんだが、未練について分からないと何か困ることでもあるのか?」
アカネにここがどんな場所なのか知らされ、一瞬自分の人生を振り返ってみたものの、そもそもそれは必要なことなのだろうか。できることなら、つまらない自分のことなど考えたくはない。
「困る?そうだねぇ、困ることかどうかは人によるかな。」
また曖昧な返答だ。
「もうちょっと、はっきり教えてくれないか。」
自然と語気が強くなってしまう。
「ごめんごめん、勿体つけてるわけじゃないんだけど、なんせ人と話すのが久しぶりだから楽しくってさ。
それで、困ることがあるかだっけ。ここが現世とあの世の中間だって話はさっきしたよね。つまりここは通過点なんだよ。死んだ人があの世に行くまでの通り道。」
とアカネは説明する。
「そこまではさっきの話から予想がつくけどそれと未練はどんな関係が?」
「まあまあ、落ち着いて。それが分かってるならその次も予想がつきそうなもんだけど、ユキオさんは意外と頭のまわりが悪いのかな。」 説明は曖昧なのに一言多いな。まあ実際予想がついていないわけではなかった。
「未練を解決しないと、次に進めないってことか。」
「なんだ、やっぱりわかってるじゃん。困るかどうかは人によるってのはそういうこと。こんなところに留まっていたくないと思うのなら自分の未練が分からないのは困ったことだし、別になんだっていいと思うなら分からないままでも問題はないよ。」
なるほど納得がいった。そういうことなら別に僕は分からないままでいい。そもそも何で生きているのかもわからないままダラダラと時間を無為にしていた僕だ。その結果、生きているのか死んでいるのかはっきりしない中途半端な世界に放り出されたのは当然のことに思える。
「どう?ユキオさんにとって困ることだった?」
いや、と僕は正直に答える。
「そっか、私と一緒だね。」
彼女は微笑みながら言った。
三
色々混乱しているだろうからと、アカネから休むことを勧められた僕は、その場で休息をとることにした。
しかし、休むといっても手持ち無沙汰なので、僕は彼女にいくつか質問する。
「君はいつからここにいるの?」
「どうなんだろう、だいぶ前からな気もするし、最近なような気もする。分かんないや。」
また雑な説明かとも思ったが、違う。本当に彼女は分からないのだろう。何故かといえばここには時計がない。時間の感覚が狂ってしまうのも理解できる。そうか、とだけ返し僕は話題を変えた。
「ここには僕と君以外の人はいないのか?」
「今はいないみたい。何もないところだから人が来ればすぐわかるし。でも前には何人かいたんだよ。その前にも、そのまた前にもたくさん人が来てお話しした。私が知ってることもその人たちから聞いたことだしね。」
中にはこんな人もいたんだよ、と彼女は嬉しそうに出会った人々について語った。
そんな彼女を見ていると、人とのかかわりにおいて、こんなに穏やかなものがあったんだなと気づかされた。生前、家族との交流は少なかったし、必要に応じて友人を作ったりしたものの、その間柄は決して密なものではなかった。世間的にはそれが希薄な人間関係であることは分かっていたが、今になってそれを強く実感した。
恐らく僕は呆けた顔をしていたのだろう。それに気が付いたアカネが頬を膨らませながら言う。
「ユキオさん、ちゃんと話聞いてる?」
「ごめん、他のこと考えてた。」
人の話をしっかり聞けないなんて礼儀がなってないなぁ、などと言いながらアカネは立ち上がり、再び歩き始める。
「次はどこに行くの?」
「別に。目的地なんてないけど。ただここにいるもつまらないし、散歩しながら話そうよ。もう休憩は十分でしょ。」
僕はアカネの誘いに乗ることにした。
「ユキオさんっていくつなの?」
「年明けに27になるはずだったけど、死んじゃったから26歳。」
「へえ、思ったより若いんだね。」
僕らは大きなモニターを後にし、そんな風に他愛のない会話をしながら歩いた。
四
どのくらい歩いただろう。あれから僕は、アカネと多くの話をした。その内容はくだらないと言えばくだらないものだったが、それでも僕は温かみのある会話を楽しんだ。
だがその間、彼女は一貫して自分のことは語りたがらなかった。
それなりに時間が流れた気がする。お互い話すこともなくなり、気がついたら沈黙していた。別段、何かを話さなければ気まずい空気だったわけではないけれど、静寂を破るため、思ったことを口にしてみる。
「アカネはこの世界が好きなんだね。」
「え?」
そんなことを言われるなんて想像していなかったのだろう。アカネはきょとんとしていた。
「どうして、そう思ったの?」
「いや、なんとなくだけど。他の話をする時より、ここで会った人の話をしている時の方が楽しそうだったから。」
「そうかなぁ…。」
何かまずいことを聞いてしまったのかもしれない。アカネは考え込むように静かになってしまった。
「気に障ったならごめん。何か思うことがあるなら言ってくれて構わないから。」
「え、あ、こっちこそごめん。ユキオさんはなにも失礼なことなんか言ってないよ。ただ自分でもそうなのかと考えちゃってただけで。」
アカネは慌ててフォローする。失言したわけではなかったのか。よかったと僕は胸をなでおろした。
「そっかぁ、ここが好きかぁ…
考えたこともなかったなぁ。」
アカネは一人呟く。
「さっきは言わなかったけどさ、今ここに他の人がいないっていうのはつまり、前にいた人たちみんな、未練を解決して向こうに行っちゃったからなんだよね。」
「向こう」とはつまりあの世のことだろう。多くの人はあの世に行った、しかし、それに相対して彼女は未だここにいる。それが何を意味しているかは明白だった。
「私はその必要性を感じてなかったし、自分の未練に向き合うなんて、そんなことしたくなかったから他の人たちは私を置いてどんどん向こうに行っちゃった。
そんなことを繰り返すうちにここで暮らすのに慣れちゃってさ、ユキオさんみたいに新しくきた人に案内をしてるんだよ。」
僕は黙ってアカネの話を聞いていた。今度は真剣に。
「君は誤魔化したけれど、本当に長い時間ここにいたんだね。」
その間、彼女にどんな感情が生まれたかはわからない。しかし、決して楽しいことばかりではなかっただろう。何せここは生きていくにはあまりに何もなさすぎる。
「でも、ここで過ごして良かったこともあったんだよ。生きているうちには知らなかったいろんなことをここで学んだし、人の未練を解決する手助けができたのは嬉しかった。」
彼女の言葉に嘘はない。だからこそ僕はそれを痛ましく感じた。
五
「今日来たばかりなのに、連れまわしちゃってごめんね、疲れたんじゃない?」
「いや、不思議と疲れはないよ。」
思い返せば、ここに来てから空腹などといった欲求を感じていなかったが、そういうものなのだろうと勝手に納得した。
「ねぇ、ユキオさんの人生ってどんなだったの。」
物思いに耽っていると、漠然とした問いが飛んで来た。
「そんなこと聞いてどうするのさ。」
「ただの興味だよ。ユキオさん、モニターを見たとき「空虚な人生だった」なんて言ってたから。」
僕の方も、その時の発言について疑問を呈した彼女の真意が気になった。あのときは、はぐらかされたが今なら聞けるかもしれない。
「僕の話なんて聞いても面白くないと思うけど…」
それから僕は均一型で、浮き沈みなどほとんどなかった自分の一生について語った。
「なるほどね。」
アカネは僕の話を黙って聞いていた。
「これを聞いてもまだ虚しい人生なんてないと思う?」
「思うよ。それはゆるがない。」
彼女の意志は固いようだ。
「人生に意味なんてない、捉え方によっては確かにそう言えるのかもしれない。先天的に意味を与えられて生まれてくる人なんていないし、もしそんな人がいたとしてもその人の人生はその人だけのもので、周り人はその価値を自分の尺度でしか伝えることができない。だから、自分は生きていたって仕方がないって、そう思っちゃうのも分かる。でも違うんだよ。」
アカネがその先に何を言うのか感じ取り、僕は話の続きを聞くのが嫌になる。
命は大切だ。だからしっかり生きなさい。どうせそんな類のことを言うのだろう。それらはここに来る前、何度も言われたセリフだ。命が大事なんて誰が決めた?勝手に生まれ落としておいてはっきりしない理由で生かされる。そんな人生を散々だと思い命を絶ったのに、こんなところに来てまで説教されるとはな。
「なにも違わない。君の言いたいことは分かる。人生は尊いものだって言いたいんだろ。だが、生きている限りいつか死ぬ日が来る。その時にはどんな意味も価値を失う。そんなものは最初から無いも同然だ。」
僕は生きていたころから募っていた思いのたけをアカネにぶつけた。
「違うんだよ…」
彼女は悲しそうに呟く。
「人は一人では生きていけないなんて言うけれど、本当にそう。何にしたって大切なのは他人なんだ。
実はね、私も生きていたころはあなたと同じように考えてた。生きていることに意味なんてないってね。でもここに来て、色々な人の未練に触れて変わった。
ここに来る人はみんな大切な何かを抱えて生きていて、そういう人たちと私は何が違うんだろうってずっと考えてたんだけど、よく考えたら簡単なことだったよ。みんな変わらない。同じだった。違うのはただ一つ、それに気が付けるかどうか。
人はそれぞれ一様に大切な意味を持って生きている。でもそれにはなかなか独りでは気づけない。そのために話すんだ。そのために人がいるんだ。やっぱりユキオさんは寂しかったんだよ。自分の生きる意味を確認できない、それを支えてくれる他人がいない。そのことを悲しく思ってたんだ。」
「あぁ、そうか…」
僕は新たな視点を得た気がした。
今なら彼女の言葉の意味が分かる。彼女はありふれた綺麗事なんて言おうとしていなかった。僕に気づかせようとしてくれたのだ。人生というものを。
生きることに意味がないわけじゃない。そこにおいて意味とは見つけるものだったのだ。人とのかかわりを疎かにし、その価値を見出せないまま僕は命を絶ってしまった。なんて惜しいことをしたのだろう。
「やっと分かった、って顔だね。」
アカネがいたずらっぽく笑う。
つまるところ、僕の未練とはそれだったのだ。彼女にはすっかり僕のことを理解されてしまった。
「どうして僕にも分からない僕の未練について理解できたの?」
僕は気になったことを聞いてみる。
「なんとなくだよ、なんとなく。」
アカネは最後まで誤魔化そうとした。もう少し素直になればいいのにと僕は思う。
…体が軽くなってきた。未練を解決してしまった僕はもうすぐここを去らねばならないのだろう。
「そろそろ時間みたいだ。」
ここを訪れたほかの人々と同様に、彼女を置いて、向こうに行ってしまうことを口惜しく思った。だが仕方がない。それがこの世界の理なのだから。
「君はどうするの?」
できることなら僕を救ってくれたアカネのことも理解してあげたい。もっと彼女と話がしたい。しかし、時間がない僕にはそう尋ねることしかできなかった。
「もう少し、ここにいる。私なりの名残もあるしね。 」
彼女はそう言い、僕に背を向ける。
感傷に浸っていても別れは残酷にやってくるものだ。僕は手遅れになる前に最後の言葉を紡ぐ。
「そっか、じゃあ僕は先に行くよ。まだちゃんとお礼もできてないし、向こうで気長に君を待ってるから。」
アカネは僕に背を向けたまま「うん。」と答えた。
そうして僕は、僕を理解してくれた年下の少女に別れを告げ、何とも中途半端なあの世界を去ったのだ。
六
「行っちゃったなぁ。」
もう慣れたはずなのに少しものがなしい。それは彼が私に似ていたからだろうか。
思い返してみれば、ここに来てから自分の話をしたのは初めてのことだった。
あの日、月が綺麗な夜、ビルから飛び降り自殺をした私の未練は恐らく彼と同じはずだった。それがどういうことか、いつまで経っても解決しない。それもそのはず、私の未練はすでにそこにはなく「ここ」にあったのだ。どうりで離れられないわけである。
「私はこの世界が好きだったんだね。」
それを教えてくれた人のことを想い、彼女は今日も真っ白な世界で生きている。
終