タクシーの怪談
タクシーの怪談
夜の道を一台のタクシーが流していた。
駅で客を待つことに飽いた一台だ。
こんな所に客はいない。
それは分かっていたが、どうせ駅にも客はそれほどいないのだ。
ボンヤリと車の中に居ては眠くなってしまう。
同じ客待ちのドライバーたちと外に出て話す気にもなれない。
夜道に少ない街頭の下をのんびりと流す。
薄暗がりの中で、イヤなことを思い出す。
深夜、髪の長い女を乗せて、湖に行ってくれと言われる有名な怪談だ。
訝りながらも湖に行き、バックミラーを見ると乗せたはずの客が居ない。
そして客が座っていたシートの上が濡れているというアレだ。
小雨が降っていることもあると聞く。
そういえば、今日は昼から小雨がまだ降り止まない。
薄気味の悪い想いに肩を竦め、運転手は口をへの字に結んだ。
そんなのは眉唾だと、自分に思い聞かせる。
幽霊など、生まれてこの方、見たこともない。
否定的に頭を振って、視界を悪くする水滴を睨む。
ギュギュッと厭な音を立て、ワイパーが小雨を振り捨てた。
少し晴れた視界。
ヘッドライトが、前方の歩道に人影を浮かび上がらせた。
ギョッとして身を硬くする。
人影がヘッドライトに振り向いて、細い手を上げた。
客だ。
いや、幽霊?
手を上げたのは長い髪の女だった。
瞬時に閃いた恐怖よりも、身についた習慣は運転手に車を止めさせた。
後部座席のドアを開けてしまったのも習慣だった。
「どちらまで?」
「○○湖まで」
恐怖が心の奥底まで支配する。
顔が引きつり、手が震える。
ドアを閉め、車を走らせる。
夜の暗さと降り止まぬ雨。
運転手は恐怖に取り付かれたように車を走らせ、バックミラーを見ることも出来な
い。
湖に着くまでの時間が、異様に長く感じられた。
もう直ぐ湖という交差点で、信号が赤になった。
運転手はゴクリと喉を鳴らした。
湖の何処に行くのか、行き先をちゃんと聞かなければならない。
言葉が出てこない。
恐ろしくて後ろを見ることがまだできない。
だが、目的地は目前だ。
バッグミラーに恐る恐る視線をやる。
運転手の息が止まった。
後部座席には女の影も形もない。
最初から、何も居なかったかのように、そこには何一つ残されていない。
一台の車もない深夜の交差点で、運転手はタクシーを反転させた。
猛然と、町に戻る為に車を走らせる。
こんなことなら駅にいればよかったと思っても、
後の祭りだ。
バックミラーを見ることは、もう怖くてとても出来ない。
そこに、ずぶ濡れの女が乗っていたら、今度は息ではなくて心臓が止まるだろう。
死に物狂いでタクシーを走らせ、営業所まで真っ直ぐに飛んで帰る。
営業所の駐車場に入れ、そこでようやく、運転手は息をついて背後を見た。
幸い、誰も乗っていない。
ため息をついて料金箱を持ち、乗務日誌などを纏めて持つ。
営業所の中には、同僚の運転手が三人ほど、乗務明けのタバコを吸っていた。
その一人が、顔を上げて「おう」と声を掛けてきた。
思わず安堵の息を吐き、彼らに歩み寄る。
先の恐怖体験を同僚たちに話したら、彼らはどう思うだろう。
まだ、シートが濡れているかも確かめていない。
臆病者の幻覚と思われるだろうか。
首を捻って椅子に腰掛ける。
パンと一人が彼の背中を叩いた。
何事かと見やる。
「おまえだろ!」
怒るような、笑うような、中途半端な表情が彼を見ている。
「何が?」
問えば、その同僚は今度こそ笑い出した。
「客を路上に置き去りにして、○○湖まで突っ走った運転手はよ!」
なんのことはない、彼は幽霊を乗せたのではなく、客を乗せずに走ったのだ。
事情を聞けば、客の女は三台のタクシーに逃げられ、彼のタクシーは四台目。
このタクシーを逃してはと、乗車する前に行く先を告げ、
それでも行ってくれるか問おうとしたら、目の前でドアを閉められたと、苦情の電
話をかけてきたのだ。
彼の代わりに他の運転手が彼女を乗せに行った、というところで、この話しは締め
くくられた。
携帯電話のない昔、公衆電話がなければ迎車も頼めなかった頃のタクシーのお話。
だがこの手の怪談は、現代でも生きている。
都市伝説と、今は呼ばれるのかも知れないが。
タクシーの怪談 終わり