サーガ02
旅支度を済ませてキースは神殿の外に出た。神殿の外に出たのは人生で二度目の経験だ。
神殿の中庭とは違う空気や風が漂っている。そんな空気を肺いっぱいに吸い込みキースは深呼吸をした。
「ああ、なんと清々しいことか。窮屈な神殿から解放された」
神殿から出て旅をすることにより、キースは神官長という地位から解放されたのだ。しかし、完璧にキースが解放されることとなるのはメミスの都を出ときだ。
神官たちはキースが旅に出ると聞かされ、誰もが護衛を一〇〇人は付けると言ったのだが、キースはこのときばかりは神官長の権力を利用して、一〇〇人を二人にまで減らした。
本心ではキースは神殿を出てすぐにローゼンと二人だけで旅をしようと考えていたのだが、移動手段に便利なように馬車を使うことになったため、馬車を操る者が最低でも二人は必要だったのだ。
石畳の敷き詰められたメインロードを進み、活気の溢れた街並みを背景に馬車で抜けると、やがて大きな塀が見えてきた。この塀は敵の侵入を防ぐためにあり、塀で都市を囲むようになったのは一五〇〇年以上も昔から行われてきたことだ。
都市を囲む塀を通り抜けると、広大な土地が遥か山々まで続いていた。
馬車に乗るのが初めてだったキースは馬車に揺られて少し酔ってしまっていた。
「すまない、少し馬車を止めてくれないか?」
蒼白い顔をしてキースはそう言うが、馬車はまだメミスの都が見えるくらいの位置を走っている。
この旅に同行した体躯のよい三十代のベテラン斧使いであるマーカスは、仕方なく馬車を走らせていた女剣士に声をかけた。
「シビル! キース様の具合が悪くなっちまったんで馬車を止めてくれねえか?」
「あいよ!」
シビルが威勢のいい返事して、馬車はゆっくり止まった。
気分の悪そうな顔をしたキースを、すぐ近くにいるローゼンが心配そうな瞳で見つめている。
「キース様、だいじょうぶですか?」
ローゼンに続いてマーカスも大きな身体を動かし近づいてきて尋ねた。
「キース様、大丈夫でございましょうかでございます?」
マーカスは戦士としての腕はメミスでも一、二を争うほどだが、身分はそれほど高くないために普段使い慣れない言葉に戸惑ってしまっていた。
「ああ、少し楽になった。――それよりも、その言葉使いはどうにかならないのか?」
「俺は、いや、わたくしめは、その……」
言葉が出てこないマーカスを見てキースはため息をついた。
「はぁ、自分のしゃべりやすい言葉でいい。他の二人も自分のしゃべりやすい言葉でしゃべってくれ。『キース様』などと媚を売られるのは神殿の中だけで十分だ」
馬車を止めたシビウも馬車の中に入って来た。
「神官長って呼ばれるくらいだから、もっとお頭の固いやつかと思ってたけど、そうでもないみたいだねえ」
ハスキー声でしゃべる女剣士シビウは色っぽい雰囲気を全身から醸し出す美しい女だった。
ぐったりとしているキースの手をローゼンは引っ張った。
「キース様、新鮮な空気を吸いに馬車の外に出ましょう」
春が歌うような声はキースを外へと導いた。しかし、その声とは裏腹に外の景色は枯れ果てた大地と呼ぶに相応しい場所だった。
草木はまばらにはあるものの、大地のほとんどは黄土色をした固い土で、風が吹くと土煙が舞う。
数百年くらい昔はもっと自然豊かな草木や花々の咲き乱れる土地であったのだが、魔導士の数が減少しはじめたのと同時期くらいに、大地は枯れはじめたのだった。
広がる景色を見てキースは唖然とした。
「ムーミスト様がお姿をお見せになられなくなった頃から、大地が枯れはじめたと聞いてはいたが、まさか本当だったとは……」
「大地が枯れはじめているのはここだけではありません。我々精霊はこの現象も世界崩壊の兆しではないかと考えております」
「神殿の花々の咲き誇る庭しか見たことのなかった私には、とても信じられない光景だ。私がいかに限られた世界で生きてきたか、恐怖すら感じる」
「これからわたくしと世界を見ていきましょう。そして、世界崩壊の謎を解き明かしましょう」
「私にそんな大役が勤まるのか、こんな私でも……」
不安だった。神殿の外に出てしまった自分は何よりも弱いのではないだろうか? そんな不安がキースを包み込む。
神殿を出る前は神官長という立場に縛られて、外の世界に飛び出して行きたいという願望があった。しかし、今は神官長という立場に縛られていたと同時に守られていたのだと感じる。
思いつめた表情をして遠くを見つめていたキースが、偶然にもあるものにいち早く気が付いた。
「あれは何だ、こちらに飛んでくるぞ?」
「キラービーです。巨大な蜂の化け物です!」
ローゼンはキースの腕を引っ張り馬車の中に駆け込んだ。
「大変です、キラービーの群れがこちらに飛んできます!」
マーカスは斧を手に取り外のようすを見に駆け出していった。それに続いてシビウも愛用の特殊な剣を持って出て行こうとした。
「ローゼン、キースの坊やをよろしく頼むよ」
「ぼ、坊やだと!?」
目を丸くしたキースなどお構いなしといった感じでシビウも外へ飛び出していった。
坊や扱いされたキースは怒りを覚えた。外の世界では自分など役立たずだという自覚はあるが、それでも坊やを言われては黙って入られない。
脇目も振らず出て行こうとしたキースにローゼンは手を伸ばした。
「キース様お待ちを!」
だが、手は届かず、キースは馬車の外へと飛び出していってしまった。
馬車の外には戦闘の準備をしているマーカスとシビウがいた。その視線の先には十匹ほどのキラービーがいる。
キラービーとは凶暴な肉食の巨大蜂の怪物だ。この怪物は巣の食料が尽き腹を空かせると、集団で自分より大きな獲物を無差別に襲う習性がある。
シビウは馬車を飛び出してきたキースを見て鼻で笑った。
「おやまあ、坊やも戦うのかい?」
「坊やじゃない! 私だって一人前の魔導士たる男だ」
「実戦経験もない箱入り神官長様が何を言うだい。危ないから下がっておき」
二人が言い合いをしている間にキラービーはすぐそこまで迫ってきていた。
「二人ともぐずぐず言ってないで戦う準備をしろ!」
マーカスの斧が大きく振り上げられキラービーを真っ二つに切り裂いた。二つに分かれ地面に落ちたキラービーを蹴飛ばすと、すぐにマーカスは斧を振り上げ次の相手に襲い掛かっていった。
仲間を襲われ凶暴性を増したキラービーはシビウの周りをうるさい羽音を立てながら飛んでいる。
「うるさいねえ、ザコどもが」
シビウは鞘から剣を抜いた。その剣は驚くべきことに鞘の長さを遥かに凌ぐ長さを持っていた。いったい、この剣は鞘にどう収まっていたのか?
剣を抜いたシビウはすぐさまキラービーを切り裂くべく剣を鞭のように振るった。するとどうだろう、剣の長さは二倍、三倍と伸び、鞭のようにうねりながら上空を飛び交うキラービーを切り刻んでいった。
その後もシビウは踊るような剣さばきでキラービーをカ華麗なまでに倒していった。
一方キースは全く動けずにいた。遠くから見たキラービーは大したことはなかったのだが、いざ、目の前で戦闘がはじまると全く身体が動かなくなってしまったのだ。
キラービーがキースに毒針を向けて襲い掛かって来た。だが、キースは恐怖で身体が動かなかった。
目をつぶることもできずいたキースにキラービーの針が突き刺さる寸前、キラービーの身体は斧によって真っ二つに割られた。
「戦えねえなら馬車の中に引っ込んでろ!」
マーカスの怒号も耳を通らぬようで、キースはその場から動かなかった。いや、恐怖のあまり動けずにいた。
駆けつけたローゼンがキースの身体を無理やり引っ張って馬車の中に連れ込んだ。
「キース様、大丈夫ですか!?」
「…………」
馬車に戻ったキースはすでに恐怖から解放されていた。しかし、しゃべりたくなかった。
まさか、自分がここまで腰抜けの役立たずだったなど思いもしなかった、とキースは自分を苛めた。
キラービーを倒し終えたマーカスとシビウは馬車の中に戻ってきたが、キースを見る二人の目は少し冷たい。
昔は魔導士と言えば誰もが憧れを抱く存在であった。しかし今では、魔導士の数が減るにつれて態度ばかりがでかい質の悪い魔導士が増えていた。キースはメミスの都では世界一の魔導士だと持てはやされていたが、マーカスとシビウは現実を見て落胆してしまったのだ。
馬車は再び走り出し、今度はシビウが中で休むことになった。
三人の間には会話はなかった。シビウは座りながら腕組みをして目をつぶっているし、キースに至っては馬車の隅っこで暗い表情をして座っている。
ローゼンは立ち上がるとキースのすぐ横に座った。
「キース様、大丈夫ですか?」
「……少し放って置いてくれないか?」
「……でも」
目をつぶっていたシビウは舌打ちをしながら目を開けた。
「放って置きなそんなやつ。腰抜けが移るよ」
「シビウさん! キース様に謝ってください」
怒ったローゼンの腕をキースが引いた。
「……いいんだ。間違ったことは言ってない」
ローゼンは何とも言えぬ哀しい顔でキースを見つめるが何も言えなかった。
「まったく、神官長様が聞いて呆れるね。見た目は坊やだったけど、少しは期待してたんだよ、それなのに飛んだ期待外れの腰抜けだったとはね。……魔導士だったあたしの親父が聞いたら嘆き哀しむよ」
「今何と言った? おまえの父は魔導士だったのか?」
心底キースは驚いた。魔導士であるということは、それはメミスでは貴族であると同じこと、しかし、シビウが貴族の娘だとは到底思えなかった。
「あたしの親父は魔導具作りが得意でねえ、この剣もそのひとつさ」
先ほどシビウが戦闘で使用した剣はやはり普通の剣ではなかったのだ。
「この剣を作って数日後に親父は死んだ。誰かに殺されたらしいんだが、あたしが小さかった頃の話だから本当のところはどうだったのかねえ? それで、もともと母のいなかったあたしは独りになっちまってね。たとえ魔導士の娘でも『特別な〈血〉』を持っていないガキじゃあ誰も面倒看てくれなくって、家族を失い、家を失い、この剣一本であたしは今まで生きていた。だから、神官長としてのうのうと生きてきたおまえが、本当に役立たずだったことがむかつんだよ!」
キースとて、本当にのうのうと生きてきたわけではない。しかし、人々に持てはやされ、豪華な暮らしをしてきたことは事実なので、キースは何も言い返すことができなかった。
キースは再び暗い表情で黙り込み、シビウも目をつぶって黙り込んだ。
二人に挟まれたローゼンは何もすることができなかった。精霊として暮らしてきたローゼンには人間社会から生じる問題は全く理解できないものだった。
ローゼンの暮らしてきた精霊の里には長と呼ばれる存在がひとりいたが、基本的には皆平等で、貴族のような存在はいなかった。人間社会のような階級は存在していなかったので、まずそこから理解できない。