サーガ01
神々が世界を創造し、精霊が生まれ、大空には竜が羽ばたく時代。
魔導士と呼ばれる人々が世界を支配していた時代。
この物語は真世界が生まれる以前の物語である。
地平線の見える広大な大地に広がる農地では、果樹栽培でブドウやオリーブが盛んに作られ、羊の放牧も盛んに行われていた。その豊かな大地にそびえる高い防壁に囲まれた都市国家メミス。
壁に囲まれた都市の中心にある小高い丘の上にある神殿。この場所が城塞であり、この都市を守護する月の女神ムーミストからの信託を授かる場所である。
数百年前から神々は人間の前に姿を現すことが少なくなっていた。
月の女神ムーミストの守護を受けていたメミスの都でも、ムーミストの信託を授かることのできる巫女ですら三〇〇年もの間、信託を聞くことができなかった。
この国は巫女がムーミストの信託を受けて、それを神官と呼ばれる十三人の者たちが解釈し国を動かしてきていた。しかし、三〇〇年前から神官たちが神の言葉を偽造し、国を動かしていた。
この世界に存在する魔導士たちは、特別な〈血〉を持って生まれた者が神々に忠誠を誓うことにより魔導と呼ばれる術を使用することができる。
メミスでは魔導士になるためには貴族であることが絶対の条件で、それ以外の者が特別な〈血〉を持って生まれたとしても魔導士になることは決して許されなかった。
千年以上もの昔、メミスでは女が魔導士になることを禁じていたのだが、男を偽り魔導士になったある女性が、ムーミスト宿敵であり、この国で最も恐れられていた怪物レザービトゥルドを倒したことから、女の貴族も魔導士となることを許されるようになった。
この国の魔導士の数は一時急激に増えることになった。しかし、現在はその一〇分の一にも満たない数に減少してしまった。その要因は神官たちの間ではムーミストの信託を受けられなくなったことと関係があるのではないかという噂が囁かれるが、実際のところは原因について知る者は誰ひとりと存在していなかった。
メミスの都に住む魔導士たちは恐怖感を胸に抱いていた。もし、このまま魔導士の数が減り続けたらこの国の情勢はどうなってしまうのか。もし、魔導士の数が減り続けていたら魔導の力で支配してきた一般階級の人々が暴動を起こすのではないか。
メミスの都で最も国の情勢に不安を覚えていたのは神官長を勤めるキースであった。
キースはこの国の巫女と双子であり、この国では代々巫女は生涯男と交わることを禁止され、男の方が子供を作り必ず男女の双子が生まれ、巫女と神官長を代々受け継いでいた。
まだ子供のいないキースは常に厳重な警備かに置かれ、神殿の外に出ることも余程のことがない限りは禁じられていた。そのためキースは部屋にこもることが多く、読書に明け暮れる毎日を過ごしていた。
今年で十八となるキースはこれまで幾度か貴族の女性との縁談話を受けたが全て断ってきた。その理由は読書によって影響を受けた自由恋愛に憧れを持ってしまっていたからだ。
読書によって培われたモラルは度々キースを悩ませた。この先、魔導士の数が減り、民が巫女がムーミストから信託を受けられないことを知ったら暴動が起こるのは間違いない。だが、本当に暴動が起こったとき、自分はどちらの味方につくべきか?
キースは常々思っていることがある。彼はこの国で最も権力を持つひとりとして生まれたが、その力の行使には疑問を抱いていた。魔導を使えるということだけで人々を支配していいのかという疑問だ。
歴代の神官長たちも読書に明け暮れる者が多くいて、キースと同じようなモラルの問題に頭を悩ませた者が数多くいた。その中でもキースの悩みは歴代の神官長に比べ深いものであった。だが、ある日キースはもっと大きな悩みを背負うことになってしまった。
その日、キースいつものように部屋に閉じこもり読書をしていると、窓のないはずの部屋にそよ風が吹き込んできたのだ。
そよ風は薔薇の香りを部屋中に振りまいた。
キースは驚いた顔をして辺りを見回した。誰かが自分を殺しに来たのではないかと考えたのだ。
ドアは鍵が掛かったままで開いていない。風はどこから吹き込んだのか?
思わずキースは身を強張らせた。すぐ横に何者かが立っていたからだ。
こんな行動を取るなんて暗殺者しかいないとキースは思った。
キースはその立場から人間からも怪物からも命を狙われることがある。だが、魔導力だけなら世界一の魔導士と言われる彼は警護など付いていなくとも命の心配をする必要などなかった。しかし、今回は違った。
音も気配もなく真横に近づいて来た者は只者ではない。そう思ったキースは自分はこのまま殺されるのだろうと考えた。
キースは横に立つ人物を下から上へと見ていった。
丈夫そうなブーツから上は茶色いローブで身体を包み、顔は陶磁器のように白く、髪はも白く腰の辺りまで垂れていたが、老人ではなくとても美しい娘の顔だった。
娘の顔に美しく光る深紅の瞳を見てキースは呟いた。
「人間ではないのか……」
この世界の人間には深紅の瞳を持つ者はひとりもいなかった。
「左様ですキース様。わたくしは精霊の里にひとつ、ラルソウムから参りましたローゼンと申す者です」
「それで、私に何の用かな?」
「貴方様の力を貸していただきたいと思い参りました」
どうやらこの娘は精霊の娘で友好的な人物らしいことがわかった。しかし、キースは相手の申し出に不快の色を示した。
「私に力を借りたいとはどういうことだね?」
「貴方様が世界一の魔導士との噂をお聞きして、ぜひともわたくしと共に旅をしていただきたいのです」
「旅だとこの私がか!?」
「左様です」
「冗談じゃない、私はこの神殿ですら一度しか出たことがないのだぞ。その私が旅に出るなどできるわけがない。それに私が君と旅をする理由や動機などはひとつもない。さあ、お引取り願おう」
娘はキースの言葉に耳を傾けることなく、その場から動くような気配もなかった。
「お話だけでも聞いていただきたいのですが?」
この言葉にキースは少し悩んだが、結局は娘の話を聞くことにした。退屈しのぎにでもなると考えたのだ。
「話だけは聞こう。だが、私の気持ちは変わらず君と旅に出ることはないだろう」
「では、お話しいたします。――この世界は崩壊の危機にあり、その事実に気が付いたラルソウムに住む我々の一族は調査団を編成し世界各地へと旅立って行きました。わたくしもそのひとりです」
「数多の神々が創りあげたこの世界が崩壊するだと? そんなことがあり得るわけがない」
「世界が崩壊しはじめているのは事実です。現にこのメミスから遥か北に位置するアムドアの都を中心として半径一五デティート(約一八キロメートル)もの大地消失し、大きな穴のようなものができました。この大穴は通称〈アムドアの大穴〉と呼ばれ、世界各地から集まった精霊や魔導士たちによって辛うじて隔離することに成功しました。今上げた例は大規模なものですが、小規模なものは世界各地で起こっています」
「もしやその穴とは〈混沌〉のことか?」
「その通りです」
ローゼンの返答を受けて事態の危険性を思い知らされたキースの顔が驚愕の色に変わっていった。
〈混沌〉とは天地創造以前の空間に存在していた全ての世界の元が溶け合っていた〈はじまり〉の物質である。
大規模な魔導の実験に失敗した場合に、稀に〈混沌〉が生まれることがあるが、それは極小規模な拳ほどの〈混沌〉が発生するだけで、半径一五デティート(約一八キロメートルもの〈混沌〉が発生するなど前代未聞である。
発生してしまった〈混沌〉は人間には触れることも処理することもできないとされる。〈混沌〉は全ての物質を吸収し大きくなっていくので、特殊な術で封じ込めて隔離するしかない。
〈混沌〉が増えれば増えるほど、生物が住める場所が狭くなっていく。もし、〈混沌〉が世界を覆うことになれば、それはこの世界の消滅を意味していた。
キースは決断に迫られていた。世界崩壊はただ事ではないのだが、神官長たるキースはメミスのためにこの神殿から出ることは望ましくない。だが、キースは決断した。
「私の力が必要ならば快く貸そう。しかし、私は魔導の力と知識はあるものの、実践の経験は皆無に等しいぞ。その私でも力になれるのか?」
「ご心配なさらずに。貴方様は我が精霊の里ラルソウムの長様がお選びになった人間。必ずや世界崩壊の謎を解き明かしてくれるでしょう」
「わかった、私は君と旅に出よう。しかし、その前にいろいろと準備がある。君も私について来たまえ」
キースは櫃の奥に閉まってあったローブを羽織ると部屋の外に出て行った。その後をローゼンも続いた。
昔からの名前をそのまま受け継ぎ『神殿』と呼ばれているこの建物だが、今では権威の象徴である賢覧豪華な『宮殿』と言った方が正しいかもしれない。
壁や天井に施された彫刻や絵画はどれも美しく、この地方は昔から宝石が多く採れるためにそれがふんだんに使われている。
長く伸びる赤いじゅうたんを進み、神官や魔導士たちの視線を集めながらキースはローゼンを引き連れ歩いていた。
誰もがローゼンのことを不審の眼差しで見るが、すぐに男女を問わずその美しさに魅了された。
キースの足が止まった。その目の前には双子である巫女が宝石の散りばめられた玉座に深く腰を掛けていた。
「何用だキース?」
妖艶な色気を放つ顔から玲瓏たる声が零れた。巫女の言葉は誰をも魅了する魔力を秘めている。
「外の世界へ旅に出る」
「ふふ、そうか、わらわにはわかっておったぞ。ムーミスト様の信託を受けずとも、少しばかりの未来なら見通すことができる。今日この時、お主が旅立つこともわかっておったぞ」
巫女は少しも驚くことなくキースの言葉を受け止めた。しかし、ここにいた魔導士たちや神官たちは驚きを隠せずに入られずざわめき始めた。だが、誰も神官長であるキースに口を挟むものはいなかった――この老人以外は。
「キース様、その件お考え直しいただけないでしょうか?」
口を出したのは元神官を務めていた実績を持つキースと巫女の教育係である名誉神官の地位に就くアースバドであった。このアースバドは八十を越える老人であるが、魔導力は現役の神官をも凌ぎ、キースは小さい頃にこの老人に厳しく育てられたために今でも頭が上がらない。
キースは後ろにいたローゼンに目を向けて前に出るように合図をした。誰もが何者かと疑問に思っていた女性に注目する。
ローゼンは恭しく巫女に頭を垂れた。
「わたくしは精霊の里にひとつ、ラルソウムから参りましたローゼンと申す者でございます」
「わらわはこの国の巫女――名前は無い。お主の好きなように呼ぶがよい。して、精霊がこのメミスに何用で来たのだ?」
この国も巫女は代々名前を持っていない。それは名前を使われ呪いなどの術を架けられないようにしているためだ。
ここにいた全ての者にローゼンはキースにしたような話をざっと話し、キースを旅に連れて行きたいと申し出た。
巫女はローゼンの話を聞く前から答えを用意していたように即答した。
「よろしい、キースを連れて行くがよい」
「いけませぬ巫女様。まだ子供のいないキース様にもしものことがあったらこの国は破滅しますぞ!」
アースバドは声を荒げた。巫女に向かってこんなにも声を荒げて意見を申し上げたのは初めてのことだった。それほどまでに重大なことであるのだ。
しばしの沈黙を置いた後にアースバドは自分を含む四人を残して全員部屋の外に追いやった。
「巫女様とキース様、それにローゼン様以外の者は直ちにこの部屋の外に出て行け!」
巫女の護衛まで外に出され、静まり返った大きな部屋に老人の嗄れ声がまず響いた。
「歴代の神官長が国の外へ出た最後の記録でさえ千年も昔のことですぞ。それにキース様にはまだ子供がおりません、もしものことがあられたらどうなさるおつもりなのですか?」
決意はすでに固く、自らの自由意志を貫こうとしているキースは普段ならばアースバドに頭が上がらないが、この時ばかりは一歩も引くことはなかった。
「私にもしものことがあっても心配はいらない。このメミスの長い歴史の中で、神官長が子供を作らぬまま死んだことは幾度かある。その場合は巫女が自らの力を失うことを代償にして子供を生むことになっている」
「しかし……」
アースバドは言葉に詰まったが、キースは話を続け常日頃から思っていたことを口に出した。
「それに私などこの国には『不要の存在』だ。私などいなくとも巫女と神官たち、そしてアースバドが国を治めてくれる」
巫女がキースの言葉を後押しした。
「世界が崩壊してしまえばこの国もなくなるのだぞアースバド」
「ですが、巫女様。キース様が旅に出たことが民に知れたら混乱を招くのではないでしょうか?」
「神殿を一度しか出たことのない神官長がいなくなっても、この神殿に出入りをしている者や仕えている者以外は誰も気づくまい」
それでもアースバドは首を縦には振れなかった。
「やはりなりませぬ。キース様の旅に護衛を一〇〇人、いや、一〇〇〇人付けようともこのメミスから外に出すわけにはいけませぬ。それにこのローゼン様が精霊であることは身体から発している気を『視れば』わかりますが、先ほどの話が本当のこととは言えますまい。確固たる証拠がない限りは信じることはできませぬ」
精霊のほとんどは聖なる存在であり、善の象徴であり、嘘をつくなどまずない。それでもアースバドは自分のいる立場からローゼンの言葉を簡単に信用するわけにはいかなかった。
ローゼンは困り果ててしまった。証拠など何も持っていなかったし、そもそも彼女の育ってきた精霊の里では相手を『疑う』という行為すら存在していなかった。
「証拠は何も持っておりません。しかし、この国でも年々魔導士が減少していると思います。この現象は世界全体で起こっている現象で、我々精霊は神々が世界にお姿をお見せなられなくなったこと、〈混沌〉が世界中で急激に発生していること、そして、魔導士の減少――この三点は何らかの関係があると考えおります。ですから、キース様がわたくしと旅をして今世界に起こっている現象の謎をつきとめることがでれば、この国の魔導士の減少を食い止められるのではないでしょうか?」
「私の命などよりも、魔導士の減少を食い止める方が、この国のためになるとは思わんか、なあアースバドよ?」
アースバドにとってこの決断は一か八かの賭けであったが、ついに彼は首を縦に振った。
「仕方ありませぬな。キース様、どうかご無事で帰って来てくだされ……」
「ありがとうアースバドよ。私はすぐにこのメミスを後にする――この国のことは頼んだぞ」
ローブを翻しキースは歩き始め、ローゼンと共に部屋を後にした。その姿を見守るアースバドは生気を失った枯れ木のようであった。
巫女は遠い目をして呟く。
「キースが旅立つことは予知できたが、この先の未来はわらわにもわからぬ」
昏い陰が巫女の顔を包み込んでいた。