漢たちの天王山
お鍋を食べ終わった後、先輩と千年パンツの仕上げをして、明けた甘美祭当日。先輩は準備があるからと朝早くに大学へ向かい、先輩と一緒に部屋を出た私は、一度家に帰ってから美術部の展示コーナーにそれを展示しに行きました。
一端木綿のように長くてでも汚くて。急ごしらえにしては風合いや汚れの具合など、うまく表現できていると思います。
お祭り日和の本日は、お日様ぽかぽかで温かく、かといってそよ風は冷たくて心地よく。お昼寝日和でもありますね。そう思ってしまう私はすっかり寝不足のようでした。
気持ちよさそうにふわふわと青空を泳ぐアドバルーン。会場随所に見あたる大道具のほとんどは美術部とクリエイティブ部とで製作したものです。
ですから私が手がけた物も見あたりますし、携わらずとも製作最中を見知っている物も数多く、自分の作ったものが誰かの役に、また、この甘美祭と言うお祭りを構成する一部になっていることを実感すると、昨日、最後の釘を打ち終えた感慨が蘇るようでした。
「葉山さん。お疲れ様」
学食前で小春日さんと出会いました。服装からからすれ小春日さんはまだ作業を続けているようで「お疲れ様です。まだ作業ですか?」と私が小春日さんの肩越しに中庭を覗くと、クリエイティブ部の方でしょうか数名が中庭の緑地に何やら建設をしていました。
小春日さんは「急遽作ることになったんだってさ。私はもう作業終わったんだけど……」軍手をジーンズの
ポケットに押し込みながら「着替えに変えるのが面倒になっちゃって」と苦笑しました。
「でも、よく引き受けましたよね。クリエイティ部も今朝ギリギリでなんとか外注を消化できたって聞きましたけど」
「だよねぇ。私だったら絶対断る。学食のチケットちらつかされても断るわよ!」小春日さんは腕を組むと何度も頷いてそう言うのでした。
文化祭を経験するたび学生は逞しくなる。なんて噂がまことしやかに噂されていましたけれど、どうやら事実だったようです。
私と小春日さんは連れだって、カフェに様変わりした学食に入ると、二階の席へ移動しました。
まだ甘美祭が開催されて間もない事もあってか大凡は県大の学生が占めていました。
「そう言えばさ」
入り口とは逆方向の窓側の席に腰を降ろすと同時に小春日さんが身を乗り出して言いました。
「何ですか?」
「先輩には秘密って言われてるんだけど」周りを気にしながら声を潜めて続けます。
「もちろん、お墓まで持って行きますとも」私も『秘密』と言う言葉に惹かれて、身を乗り出して小春日さんに顔を近づけました。
「真梨子先輩、クリエイティブ部の人達と一緒に何か作ってるみたいなのよ」
「何か?ですか……もしかして、それって中庭で作っていたのと関係があるのかもしれませんね」
「んーどうだろ。ちらっとしか見えなかったんだけど、私が思うにあれは鳥居だと思うのよ」
「鳥居ってあの神社にある鳥居ですよね?」
「そう、その鳥居。朱色じゃなかったけど形は鳥居だった」
「と言うことは真梨子先輩がクリエイティブ部の人に手伝ってもらってるってこと……かな?」
「真梨子先輩が鳥居を作る理由はわかんないけど、仮に真梨子先輩が頼んだんだとしたら、クリエイティブ部が手伝っててもおかしくないかも」
細くて形の良い人差し指を顎のところにやって「クリエイティブ部の部員の何人かは真梨子先輩の事好きだし、部長は去年仲人してもらったしね」と続けて言いました。
「そうだったんですか!初耳です………」
「そうだよ。他にも美術部と弓道部とソーイング同好会とサッカー部と……映画研だったかな。みんな仲を取り持ってもらったの」
「そんなに……ソーイング同好会とサッカー部は小春日さんと古平君ですよね」
私は思いついたままを口にしてみました。
「あぁ。うん」
すると、小春日さんは急に口元をすぼめて視線を机に落としてはもじもじとするのでした。
その可愛らしいことと言ったら!
「居たっ!」
私が小春日さんの微笑ましい姿を見てにこにこしていると、俄に入り口の方が騒がしくなり、突然の落雷のようにそんな声が響いたかと思えば、ぺったんぺったんがこちらに迫って来るではありませんか。
「ぇえ、先輩」小春日さんが眉を痙攣させてそう呟きます。
声で何となく落雷の主が誰なのかはわかっていましたけれど……まさか、明るい茶色だった髪の毛の色を黒に戻して且つ巫女装束で現れるとは思っても見なかったので、私の横手に胸を張るように仁王だった先輩に私は言葉を失ってしまいました。
そして先輩は大きな声で言うのです「恭君振ったって本当!」っと……私は寝耳に水と思わずカフェラテをこぼしそうになってしまいました。
「そんなっ!振るも何も告白さえもされてません‼」
私はみるみる自分の顔が熱くなるのを感じました。
「それに声が大きいです。メールか電話にして下さいよ」先輩が、大きな声で言うものだから、周りの視線が一点に集中してしまっているではないですか……ただでさえ突然闖入してきた巫女装束に視線は釘付けとなってしまっていると言うのに。
「何度も電話もしたしメールも入れたもん。でも出ないし返事もないから、直談判!」
「えっ、最近はちゃんと携帯を持って来てます」私は急いでポケットの携帯を取り出しました。
「あ……電池が……」使用頻度が増えるとバッテリーの消費も増えるのですね……
「バッテリー切れじゃ葉山さんに罪はないよ」携帯の画面を見たまま固まっている私に小春日さんが助け船を出してくれました。
「なっちゃんさ。本当に振ってないの?」
「誰が言ったのか知りませんけど、私は振っていませんし、告白もされてないんです」
私は語気を強めていいました。身に覚えが無いのだから否定し続けるしかありません。
「なんだぁ。もう恭君はいつもそうなんだから」
先輩は私の瞳を見つめて事の真意を確かめたのでしょうか。少しの間、考えてから大きく息を吐きながら、脱力したように両手を机の上についてそう言いました。
「夏目君が、振られたって言ったんですか?」
「多分、私の勘違い。本っ当にお騒がせしました」手のひらを会わせて深々と頭を下げる先輩なのでした。
「中庭で面白いことしてるから、きっと来てねぇ」そう言い残して先輩はぺたぺたと草履を鳴らしながら足早に入り口付近の雑踏の中へと消えて行ってしまいます。まるで嵐のようですね。私がそんな風に思っていると「嵐みたいだったね」と小春日さんも言うので「私も今そう思っていました」と笑いあったのでした。
○
「はじまっちゃうと、なんかもう終わっちゃったみたいだね」伸びをしながら言う小春日さんはどこか眠そうです。
「そうですね。急にやることがなくなると、気が抜けてしまって」
昨日までの忙殺の日々がまるで嘘のみたいです。はじまりと同時に終わりが始まる。そんな風に言いますが、本当にその通りです。本来は本番こそ楽しまなければいけないのですが、どうしても準備に明け暮れた日々を思い出しては寂しくなってしまいます。
きっと、大変だったけれど、とても充実した毎日だったのでしょうね。
「んーどうせやるなら徹底的にやった方がいいよね。お互いのためにも」
私が賑わう学食内を見て感傷に浸っていると、小春日さんが突然そんなことを言うので私は「甘美祭をですか?」と聞きました。
「違う違う。キューピット。真梨子先輩と夏目君のキューピットするって決めたのに、ちんどん屋とか文化祭の準備とかで何もできてないから……」
「あぁ……そうでした……」
実を言うと私もすっかり忘れてしまっていました。
「この甘美祭でなんとかできないかなぁ」
「良い機会だとは思いますけど……どうしたらいいか……」
何もしないまま暗礁に乗り上げた気分です。確かにこの文化祭と言う機会を逃す手はありませんけれど、私には何をどのようにすればいいのか皆目検討が付かないのです。
「夏目君にとっては忘れられない文化祭になっちゃうけど……まずそれからはじめないと……」
悩むに悩めず、小春日さんの提案を待っていた私は深刻そうな小春日さんの表情を斟酌して思わず息を飲みました。
そして「あのね……」と小春日さんが重々しく口を開いたのでした。
◇
文化祭での買い物は2日目に行うに限る。そもそも素人屋台であるからして、初日のクオリティたるや味見程度のもので、とても財布を開いてまで購入する価値などありはしないのである。
だから翌日の昼前に再び大学へと足を運んだ私は、早速、作り置きをしすぎて売り物にならなくなった、たこ焼きと焼きそばを手に入れると、文芸部の展示スペースへと向かった。
甘美祭期間中、構内での飲食は禁止されていたが、そんなことを気にする私ではなかったし、この小さな背徳感が味を良くしている感さえあった。
「夏目君。君どんな奇術を使ったんだい」
無人の受付の机の上に食べ終わったゴミを置いたタイミングで、部長が展示室から出てきたので驚いた。
「何の話しですか」
「これだよ」そう言いつつ携えたノートを開いて見せた。
『訪問帳』と表紙に大きく書かれた新品同様のノートには、珍しく作品の感想やらが何ページにもわたって記されてあった。
「今年は盛況ですね」この訪問帳が去年の使い回しだと思えば尚更だ。
「いや。それにも驚いたんだけどね。これ全部君の作品への感想なんだよね」
確かに、感想の一番上にの所には『千年パンツの感想』と書かれている。全ての感想の上にそう書かれているのである。著者である私が一番奇妙奇天烈と顔を顰めたくらいだ。
「天変地異の前触れだよ」
嫌味を残して受付席につくなり部長は「僕は何を間違えたんだ」と頭を抱えてしまった。編集長を気取ってみたものの、編集監督できなかった作品が世に受けたのが余程堪えたらしい。
「似非なんだから、気にしないでも良いじゃないですか」と慰めた積もりが、「なんだと、うるさいうるさいうるさい!」逆に火に油だったので、噛みつかれる前にノートを机の上に置いてその場を離れた。
「ゴミ置いてくな!」と声だけが廊下を追いかけてきたが、聞こえない振りをしたから万事問題はない。
2階へと続く階段を上った私は多目的室へ向かった。確か美術部とクリエイティブ部が作品の展示をしているはずだからである。
芸術に興味すらない私であったが、先ほど拝読した感想の中に『美術展示で実物を見て気になりました』と言う記述があり、それを読んだ私が今度は気になったわけである。
多目的室は賑わいを見せていて、クリエイティブ部と美術部の部員の何名かが熱心に来場者に作品の説明をしていた。
それは会場の窓側に展示されたあった。
衣紋掛けに掛けられたそれは、パンツと言うには長く、下に行くほど尻つぼみ。両脇から伸びる細い物はまるで手のようで……まるで一端木綿のようだった……と言うか、千歩譲ってもパンツではく、ふんどしではなかろうか……
まさかとは思ってみたものの、作品の下の所にはマジックペンで『千年パンツ』と書かれてあった。
「ふむ」何とも言えない汚れ具合とくたびれ加減に千年経てばこうなるのか。となぜか著者である私が納得してしまった。
実に無責任な話しであるが、私は千年パンツに関して実体像を想像していなかった。
そして、作品タイトルの下に制作者欄に先輩と葉山さんの名前があったことに関しても納得できてしまった。そう言えば、制作するようなことを言っていた気がする。
「千年パンツってどんな小説なんだろうね」
「文芸部の展示で読めるらしいよ」
「ちょっと行ってみない?」
私の隣で特大ふんどしを見ていた高校生くらいの女の子達がそんな会話をしながら、多目的室の出口へと向かって歩いて行く。
なんと至福の時だろうか! 私は嬉しい悲鳴を上げそうになって、もっとちゃんと推敲をしておけばよかったと猛烈に反省したのだった。
後悔をしても今更どうなるわけでもない。
だから私は逃げるように部室棟から退散して本館の方へ向かうことにした。グラウンドでは相変わらずビンゴ大会をしている。よくもまぁそんなに景品があるもんだな。などと思いつつ、更に歩いていると、突如、緑色の短パンに同色のランニングシャツ、顔には黒に目の周りを赤く塗った覆面マスクをした変なモノが現れ。無駄のないランニングフォームで私の横を駆け抜けて行った。
その後から遅れて「それ捕まえてぇ!」と箒を両手に持った音無先輩が駆けて来たので、「どうかしたんですか」と声を掛けた。
「あの覆面。昨日から甘美祭を荒らして回ってるのよ」
どれくらい走ったのだろう、音無先輩は『執行部』と書かれた腕章を直しながらその手で額の汗を拭った。
「食い逃げですか?」
暢気に言ってしまった私に、
「それならまだ可愛いわよ」と鼻筋の通った音無先輩の顔がこちらを向いた。私としてはもう少し背が高ければ好みであると思った。
手配ネーム『ラン覆面』と執行部が名付けたそれは、先ほどすれ違った上下ランニング姿で覆面マスクを被った男で、主な犯行は手を繋いでいるカップルの間を「爆発!」と言いながら裂いて駆けたり、1人でいる女の子に小玉林檎飴を配ったりするらしい。最新の犯行手口としては、楽しそうなカップルの男の方にだけ水風船をぶつける凶行も確認されているとのことだった。
「暇な奴も居たもんですね」私は率直な感想を述べてみた。
「暢気に言わないでよぉ。昨日から苦情がひっきりなしで困ってるんだから。ただでさえ会場運営に人手が足りないって言うのに」音無先輩はとても窶れた表情を作って私に陳情する。
そんなこと私に言われても困るのだが……
話しの流れとして「と言うわけだから、夏目君逮捕に協力して。うまく言ったら、執行部で発行してる模擬店の無料券あげるから」となり当然の帰結を持って「わかりました。是非協力させて下さい」私は執行部に手を貸すことになった。
もちろん、これは健全なる甘美祭の運営の為であって、決して無料券に身の籠絡を許したわけではないと言っておきたい。
音無先輩から箒を受け取った私は、先輩の所持している無線から「奴は再び本館方面に逃走中です」と言う無線を聞いて、先輩よりも早くに韋駄天走りで駆け出した。
私は一刻も早く奴を捕縛して晩ご飯を手に入れなければならないのだ。何せ、金がない私には転じて食う物がない。
冷蔵庫にあるのは腐った卵だけなのだ!
「私は学食の方から行ってみるから、本館よろしくね」
中庭のグラウンド側の端にある図書館横の通路で音無先輩と別れた私は、緑地帯にできた黒山の人だかりを苦々しく思いつつ、事務所へ通じるドアを開けると二階へと上がった。
本館2階は各研究室が並んでいて、甘美祭とは一線を引いた静寂が漂っていた。治外法権と各教員が割り振られた研究室に入りきらない荷物を廊下に置いているので、さながら旧館の物置のようである。
手に持った箒をそれとなく左右に振ったりしながら、歩いていると、柄が何かに当たったらしく、瞬く間に床一面に小さい何かが広がった。拾い上げてみると、それはどうやら金平糖らしく、食べて確認をとまで気は起きなかったがその形からそうだろうと私は思った。
どうしてこんなところに金平糖が。当然のようにそう思ってみたものの、瓶詰めされた素麺にボートのオール。何が入っているのか不明な大きなダンボール箱と、置きっぱなしになっている荷物のバリエーションの自由さに金平糖くらいあっても何の不思議もないと思い直した。
丁度、箒を持って居るのだから後でか片づけるとして、私は窓を明けて中庭を見下ろした。
鬼ごっこの鉄則はまず高いところに登ることなのである。
格好からしても、あの有り余る体力と脚力からすれ、陸上部であることは明白であったが、それはきっと甘美祭の後に執行部が陸上部を断罪するであろうから、今はあまり重要ではない。
今大切なのは一刻も早く無料券を……ではなくて不埒漢による凶行を阻止することなのだ。
緑地帯を中心に中庭は人でごった返しているので、覆面男は中庭を通ることはしないだろうと私は考えた。そして、ビンゴ大会よりも人気を博している緑地帯には白い鳥居が立っており、そのすぐ前には巫女装束に身を包んだ真梨子先輩の姿があった。
髪の色を黒に戻していたので、一瞬誰だか判別できなかったが、はじめて声を掛けられた時に見た黒髪姿を思い出して真梨子先輩だとわかった。
あの人は常に人々の中心にいるな。と感心しつつ、鳥居に『県大大明神』と黒文字で書かれていることに気が付いて、なんじゃらほいと頭を掻いた。
お客の合間から見え隠れするのがこそばゆいようでもどかしいが、制服の3割増しと、巫女装束の先輩が動く様は見ていて一向に飽きなかった。
今更ながら、どうして髪を茶色に染めたのだろうか。などとどうでも良いことを考えてしまった。
「あぁ」
私はしばらく先輩の巫女姿に見とれてから、無線を片手に部室棟の方へ駆けて行く音無先輩の姿を見て任務を思い出した。
とは言え、追えば逃げるし逃げたら追う。を繰り返したところで不毛な消耗戦になるだけではなかろうか。私は体力がないことは自負しているし、とてもではないが覆面男を真面目に追いかけたところで追いつけるはずもない。
「罠でも張ろうか」
再び真梨子先輩を見ながら、呟いていると、下界の事務所辺りが騒がしくなった。そう思った次には階段を激しく駆け上がる音が私の視線をまだ誰もいない登り口へと向かわせる。
足音のカウントダウンで飛び出して来たのは果たして、緑色の上下に大凡を黒で覆われた覆面マスクをした男だったのである。
男は箒を構えた私に怯むことなく猛然向かってくると「ちぇすとーっ!」と叫びながら水風船を投げた。
1つは窓の外へと消えもう1つが私の顔に命中をした。
私は「ふんぎゃっ」と声を出してその場に尻餅を付くと、急いで濡れた顔を袖で拭っていると、なぜか色々な崩壊音と「はんぎゃやわあ」と言う断末魔の叫び声が廊下に木霊した。
「うぅ……」急いで立ち上がろうとすると、金平糖に足を滑らせもう一度派手に尻持ちをついてしまった。その際、尾骨をしこたま打ったので、私はあまりの痛みに翻筋斗打ってから、脂汗を滴らせた。
追跡を、となんとか立ち上がってみると、眼前には大きなダンボール箱に頭から突っ込んで大人しくなった覆面男の姿があった。
「うむ」棚から牡丹餅と言うのはこういうことを言うのだろうか。
因果応報とはこれしかり。私は、彼の体に倒れかかる花瓶やら土器やなんかをどけてやると、彼が落としたであろう水風船を広い上げダンボールを開けて、至近距離から思い切り後頭部に投げつけた。
彼が意識を取り戻して、藻掻く姿を見て。どうせならマスクを取ってから投げれば良かったと思った。
「たっ頼む!逃してくれ!」開口一番、彼はとても犯罪者らしいことを口走った。
「断る」
賞金首をむざむざ逃がすほど私の心は広くはないのだ。
「そう言うなよ。タダとは言わない。使いさしだがポケットの中に模擬店のチケットが入ってる。それをやるから。なっ」
私は彼の言うことが真実であるか否かを確かめるべく、短パンのポケットと言うポケットをまさぐった。結果、全模擬店で使えるチケットが6枚とあめ玉が2つ、後は膨らます前の水風船がたっぷり。が出てきた。
とりあえず、チケットと水風船をポケットにしまってから、どうしたものか。と束の間考えた。このチケットも欲しいが報酬のチケットも捨てがたい……
「お前は彼女がいるのか?日頃勉学に励み心身ともに鍛える私には彼女がいない!できないんだっ!だと言うのに、日頃からへらへらしてる奴に限って彼女がいやがる。こんな不公平が許される世界は悪意に満ちている‼俺はその悪意を堂々と見せつける奴らに鉄槌を下している。俺のように嫌な思いをしている同士は大勢いる。それでも誰も声を、行動をできずにいる……だから私は行動に打って出たまでだ!これは革命なんだ‼。次の学生会長選挙で俺は学内恋愛禁止を訴えるつもりだ。俺の覚悟は生半可なものではないんだ!」
私が一挙両得、旨みだけをなんとか独り占めできないだろうかと思案している間中、男は荒唐無稽なことを叫き散らしていた。
「静かにしろ。他の執行部に気づかれる」他の執行部員が現れてはややこしいことになる。だからそういったのだが……「お前……じゃあ」彼はとても自分に都合の良い方向へ勘違いしたようだった。心なしか涙声であるのは感動の涙か、頭の打ち所が悪かったのか。男の涙ほど見ていられないものはない。
「執行部は私のような執行部員以外の人間も動員して、お前を捜している。今外に出るのは自殺行為だ。そうだ、この先にある教員専用トイレに隠れていろ。ほとぼりが冷めた頃にまた革命活動をすると良い」
その勘違いは私にとっても好都合だったので、やっとダンボールから頭の抜けた男に、熱くそう話すと彼は「ありがとう。本当にありがとう。こんな所でこんな形で、同士と出会えるとは思っても見なかった」と涙声で握手を求めてきたので、私はそれに応えた。
「それじゃ。本当にありがとな‼」彼はさわやかにそう言うと、2階の一番奥。窓も無ければ非常扉もない、完全な袋小路たる教員専用トイレへと向かって走って行ってしまった。
そこが、己が墓場となるとも知らずに……
汗ばんだ手でしこたま握手をさせられたので、男臭がうつってやすまいかと、ズボンで手の平を拭ってから嗅いでみたが、ソースの匂いしかしなかったので、手を洗わずに携帯を操作して。メールで音無先輩に覆面男の潜伏先を知らせた。
程なくして、音無先輩を筆頭に集結した執行部7名は手に手に得物を持って教員トイレへと突撃を敢行した。私は3階への登り口でその様子を見守っていた。これぞ、真の棚から牡丹餅であろう。
しかし、窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、覆面男は半分覆面を脱がされそうになりながらも執行部の包囲を突破し、階段の方へ全速力で迫って来るではないか、私は想定外の事態に狼狽して階段を数段駆け上がった。駆け上がってみたのだが、結局彼は階段を使うことなく、派手に転びながら反対側の廊下へと消えて行ってしまった。
廊下には再び大きな崩壊音が木霊し、その後に追いついた音無先輩を含まない執行部6人にタコ殴りにされたあげく。甘美際執行部室へと連行されていってしまった。
「この裏切り者め!」
私に向かって言ったのだろうが、そんな譫言など誰が聞くものか。そもそも、私は逃がしてくれとは頼まれても見逃してくれとは頼まれていないのだから、裏切りではないし、金平糖が滑ること学習しない彼がやっぱり悪い。
彼は大義名分たる雄弁を長々と述べたが、要約すれば『羨ましい』の4字で済んでしまう。恋人の有無において他人を羨む気持ちはわかるし同情もする。だが覆面男よ、世の独り身男子はお前のように妬みや羨む気持ちに支配されないように日頃心身の鍛練を怠らず、ついにこれを克服した。
だから、お前のような凶行に走ることもないのだ。
覆面男よ。若気の至りと改心した後は心身の鍛練怠りなきよう……
ただ、一つだけ褒められると言えば、ビリビリに破かれほとんど素顔が露呈してもなお、覆面を被り通そうとした一本気にだけは哀悼の意を捧げたいと思う。
音無先輩から報酬である無料チケット10枚綴りを受け取った私の懐は覆面男を唾棄すべき阿呆と糾弾をせず、寧ろ愛すべき阿呆と同情と賞賛を与えていたのである。
○
『県大大明神』それは突如として中庭の緑地帯に現れました。
甘美祭二日目の朝、遅めに大学へ出掛けた私は「恋守りいかがですかぁ」と声を張る真梨子先輩の姿を見かけました。先輩は白い鳥居のすぐ横に立っていて、格好が昨日と同じ巫女装束でしたので、昨日の巫女さん姿は今日のこの日の為だったのですね。と納得したのでした。
「先輩、お早うございます」まだ、来祭者も少なかったので、私は先輩に声を掛けました。
「お早うなっちゃん。どうよ、これ」
「鳴海さんとこで借りたんだぁ」と嬉しそうに一回りして衣装を披露する先輩なのです。
「とても似合ってますよ。可愛らしいです」巫女姿はとても似合っていましたけれど、見慣れていた明るい茶色だった髪の毛がカラスの濡れ羽のような黒髪に様変わりしているの正直なところ、まだ慣れない部分はありました。
「お守りとは、この南京錠のことですか?」
先輩の立つ前に置かれた机の上には『恋守り 1個500円』と書かれた小さい看板と大小それぞれの南京錠が並べられてありました。
「そう。恋人岬って知ってる?あれの真似なんだけど」
「知ってます。確か、錠に2人の名前を書いて鍵を閉ると永遠に結ばれるって言うのですよね。テレビで見たことがあります」
「そうそれ。この前の前夜祭の時、夕方のニュースでやってて、閃いたのよね。使い道に困ってた南京錠も有効利用できるし、南京錠代も回収できるし、一石二鳥!」鳥居を何度か叩きながら、先輩はピースサインをして見せます。
「そうですね、先輩は賢いです」
前夜祭の日、夏目君がアパートに持って来た南京錠がこんな形で使われるとは思って見ませんでしたけれど、先輩らしい素敵なアイデアだと私は感心しました。
「なっちゃんも後でおいでよね」と言う先輩に私は「小春日さんを誘ってみます」と返事をして、部室棟へ向かいました。
何を隠しましょう。今日は展示の担当日なのです。
途中、メイン会場のステージ上で人間黒髭危機一髪。のリハーサルをしていましたので、少しの間これを見ていました。玩具動揺に飛び出すのなら危ないですね。と思う反面、どんな仕掛けがされているのかが気になる私なのです。
海賊役の担当員が樽を模したダンボールの中に不器用にもなかなか入れない姿を見ていると『頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ』そう言った真梨子先輩の姿が不意に蘇りました。普通は頼まれてもあれだけの量の南京錠を買い集めることなんてしません。それを頼まれもしないのに買い集めに走ったのは一重に真梨子先輩への愛情が成せる技ではないでしょうか。ひょっとしたら夏目君も真梨子先輩の事を……と勘ぐったところで、今度は小春日さんの提案が蘇りました。
私は浅いため息をつくと、真梨子先輩の為と思えばこそできることですが、できることならやりたくはないですし、今日と言う日の夕暮れが来なければいいのに……と今度は深くため息をついたのでした。
「やあ、そんなに悲観することはないよ」
再び歩き出した所で後ろからそんな風に声をかけられました。振り向いてみると、そこには緑色の短パンとランニングシャツ、目の部分をのみ周りを赤く縁取った黒い覆面を被った男性が小さい林檎飴を持って立っていました。
「?」私が首を傾げていると、
「1人は決して孤独と言うことはないのだから。1人と言うことは自由であると言うことさ、2人でいることなど束縛の何者でもないのだからね。さぁこれをあげよう」
何を言いたいのかは不明ですが、男性は手に持った林檎飴を私に差し出しました。
「ありがとう……ございます」私は不気味に思ったのですが、甘美祭のイベントかなにかでしょう。と思い林檎飴を受け取りました。
「また会おう!」
私が林檎飴を受け取ると、男性は短くそれだけを言い残し颯爽と部室棟の方へ走って行ってしまいました。無駄のない綺麗なフォームで走るって行くので、陸上部の方でしょう。私は遠くなる緑色の背中を見送りながらそう思ったのでした。
展示室へ向かうと、文芸部の人達が千年パンツの前で何やら相談をしている様子でした。一様に怪訝な表情をしていたので、どうかしたのでしょうか?と不安になってこっそりと近づいて見ました。
すると「夏目君はうまく考えたよね。美術部とコラボするんなんて」「僕の世紀末ベアーも立体化してもらってたら、今頃、感想と評価の嵐だったに違いないのに……」「部長に言って来年は美術部と合作しようよ」そんな事を話をしていましたので内心ほっとしましたし、少し来年が楽しみになりました。
「あっ、葉山さん。覆面男がここに来なかった?」
作品の説明用の用紙をバインダーに挟んでいると、音無さんが駆けて来たかと思うと早口でそう聞きました。なので、「ここには来ていませんけれど、部室棟に来る前に会いました」と答えた後、受付の机の中に入れておいた林檎飴を見せては「これをもらいました。何かのイベントなのですか?」と聞きました。
「違う。執行部はあんなのを容認も黙認もしない、あれはテロよ!私たちへの挑戦なのよ‼」
鬼気迫る表情でそう言うと、トランシーバーで誰かに指示を出しながら、踵を返して再び駆けて行ってしまいました。
「(イベントじゃないんだ)」てっきり、何かのイベントだと思って遠慮無く受け取った林檎飴でしたが、音無さんの話しを聞くと急に薄気味悪くなってきてしまい、とても食べる気にはなりません。赤くて甘くて丸くって可愛らしい林檎飴には何の罪もないと言うのに……
あの覆面の人は何がために、あんな格好で林檎飴を配って回っているのでしょうか。
閑散とする展示室から外を覗くと、メインステージ裏がよく見えます。ピンク色の上着を着た係の人達が小道具を運んだり何かの打ち合わせをしていたりしています。模擬店を出している人達もそれぞれに甘美祭に参加してそれぞれに楽しんでいるでしょう。
今この時に青春を燃やそう
音無さんに言われて恥ずかしくも私が発表したこの言葉は、そのまま今回の甘美祭のメインフレーズとして使われ、正門の看板にも書かれていますし、本館の屋上から下げられた垂れ幕にも記されてあります。青春とは一体なんなのでしょうね。
私は青春を燃やせているでしょうのか。甘美祭2日目の昼下がり、そんなメランコリップに黄昏れていた私なのでした。
ステージから、がなり立てるだけの騒がしい演奏が終わり、舞台裏が一層忙しなって来た頃、小春日さんから夏目君のアドレス記したメールが届きました。
私は昨晩予め作成しておいた文章をコピーすると夏目君宛のメールに貼り付けました。いきなりのメールですので、アドレスを聞いた人も記しましたし、夏目君も文芸部の展示担当などの都合もあるかと思いましたので1日前に送信することにしました。
「
こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君から小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください
葉山 夏美
」
大学構内で一番人気の少ない場所は、部室棟裏の焼却炉がある場所なのですが、そこはフェンス一枚を隔てて、一般の人が通る道と接していますので、待ち合わせは体育館裏の駐輪場にしました。
甘美祭開催期間中は駐輪場は使用禁止になっていますし、誰でも体育館裏に呼び出されたなら、話しの内容は往々にして想像できるものです。お風呂場などで私なりに練習をしてみましたけれど、どれだけやってうまく話せる自信が私にはありませんでした。なので、できれば結論だけを伝えて済むようにしたかったのです。
そして、私は送信ボタンを押しました。どんな返事が返って来るのでしょう。不安な気持ちを抑え、黄昏時の空を見上げながらしばらくその場で携帯を握っていましたけれど、遂に返信が届くことはなかったのです。
◇
景品が底を尽きたのか、遂に終わってしまったビンゴ大会の後のステージ周辺は実に閑散としていた。お陰で並べられたパイプ椅子を荷物置きとして使えたから私としては助かった。夕方にはお笑い芸人のステージがはじまるらしく今はその前の休憩時間と言ったところだろう。
ステージ上では奇抜なファッションでただがなるだけの軽音部のライブが行われていた。観客も少なく、今パイプ椅子に腰をおろしている大凡半分以上は私と同じ、休憩をしているに違いない。その証拠に一番静かであろう後列の席だけが賑わっているのである。前座にさえなりもしない。
かくゆう私とて、模擬店で買ったカラアゲとフランクフルトを食べ、さらに隣の椅子には焼きそばとたこ焼きが置いてある。これを平らげたら千年パンツのお礼も兼ねて林檎飴でも葉山さんに差し入れに行こう。そんなことを考えていた。
焼きそばに手を伸ばした時、携帯が震えた。けれど、鰹節が踊っている間に一口は食べておきたかったからポケットの携帯はほおって置いて、焼きそばを食べることにした。食べている途中で、演目が落研の落語に変わり、ステージ袖から出てきた女子部員が可愛かったので、口だけを動かしながら彼女をしばらく鑑賞することにした。
可愛らしい彼女の次はむさ苦しいのが出てきたので、携帯を取り出そうとポケットに手を入れた所で、フライドポテトとおでんの出張販売がやって来たので、入れた手で携帯ではなくチケットを取り出して買いに向かった。
おでんは素人作りにしては味が滲みて美味しかった。久方ぶりに食事らしい食事に幸福な満腹感に浸っていると、心地よい眠気がふよふよしてきたので、そのまま椅子の上に横になって少し眠ることにした。
食べたい時にたらふく食べ、眠たくなれば寝る。これすなわち幸せと言う。
◇
宵の口前に流々荘に帰った私は、風呂に入った後ようやく携帯を見た。それはメールで。差出人が知らないアドレスだったために、ゴミ箱へ捨てようかと思ったが、件名のところに『葉山です』と書かれてあったので、ゴミ箱へ捨てなくて良かったと思った。
「
こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君に小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください
葉山 夏美
」
腹が減る前に寝てしまおうと万年床に寝転がって文面を確認したので、思わず足をじたばたとさせてしまった。これは思わぬ朗報ではあるまいか!脈無しと完全に諦めてしまって早、1ヶ月と少し。外堀を埋めることをやめて早1ヶ月と少し……押して駄目なら引いてみなっ!と言う言葉があるがこれいかに……恋愛は鹿猟に似ていると聞いたことがある。追いかけては警戒心の強い鹿に気づかれて逃げられてしまう、故に、わざと追わずじっと待ちかまえると警戒心を緩めて鹿は再び戻ってくる。知らず知らずの内に私はこの駆け引きを心得、無為自然と実践していようとは、自分の策士加減が恐くなるほどだった。
「まてよ」
仰向けになって天井を見上げて見れば、舞い上がった埃が蛍光灯に照らされて雪虫のように見えた。そんなのを見ていると、妄想モードに移行する前に古平の顔が浮かんできたのだから不愉快だ。
アドレスは確かに古平のものとは異なるアドレスだった。けれど、葉山さんがわざわざ古平からアドレスを教えてくれるように小春日さんに頼むのは不自然ではなかろうか?
真梨子先輩の家に頻繁に出入りしている葉山さんなら真梨子先輩に直接聞いた方が手っ取り早いはずだ。それに、よくよく考えてみれば、明日の事を今日メールする必要もない。もっと言えば、大学構内で一番人気の無い場所は部室棟の裏であって、駐輪場がある関係上体育館裏には人通りがある、そんな場所に呼び出して公衆の面前での公開告白をする阿呆が果たしているのだろうか?
部長ならばやりかねないながらも、葉山さんに限ってそんなことをするとは思えない。考えれば考えるだけ葉山さんの顔は遠のき、古平の顔が色濃くなって行く。
私は携帯を畳の上に放り投げると今夜の夢見に期待することなく寝ることにしたのであった。
◇
煩悶として目覚めを迎え、空腹を満たす手段もなく少し早いが腹を満たすために大学へ行こうかと考えていると、呼び鈴がなった。
来客があるとすれば真梨子先輩か古平くらいなものだから、水風船を一つ携えてドアを開けた。
「朝の早くからごめんなさい。隣に越してくる事になった神原と申します。騒がしくしますけど堪忍して下さい」
大和撫子だった……
長くて真っ直ぐな黒髪を背中でまとめたその人は、顔立ち整い鼻筋の通ったとても素敵な女性だった。小股の切れ上がった背格好や目鼻立ちはどこか真梨子先輩に似ている気がしないでもなかったが、純白のシャツに水色のスカートは色合い控えめで、薄化粧な為か、全体的に地味で昭和の雰囲気すら感じられる。飾りっ気がないにも関わらず、清楚可憐なその人は私が出会った2人目の大和撫子であることには間違いはなかった。
「どうかされましたか?」つい彼女の顔を見つめてしまっていた。
「いえ、夏目と言います。どうぞよろしく」
お隣にこんな素敵な人が越して来ようとは、この古くてカビ臭い流々荘も捨てたものではなくなる。
「皐月さん。大家さんの言ったとおり冷蔵庫は部屋についてました」
名前は皐月さんと言うらしい。
私が気の利いた話しの一つでもして差し上げようとした、その時、隣の部屋から、幼い顔つきながら年の頃なら私と同じくらいの青年が出てきた。
「あら、それは良かったわ。冷蔵庫買わへんかったから。大助かり」
手のひらを会わせて喜ぶ皐月さんは、「勝さん、こちらお隣さんの夏目さん」皐月さんが私を紹介すると、「はじめまして、隣に引っ越してきました神原 勝です」と青年は礼儀正しく姿勢を正して深々と頭を下げた。
神原と言う青年は来年の4月から県立大学に入学することが決まっていて、少し早いながらも早い目に慣れておいた方が良いと、この季節に引っ越してきたらしい。そんな事よりも、神原青年と皐月さんの間柄が気になって仕方がなかったが、諭すように話してみたり、色々と注意をしているところからすると、従姉妹か姉か……母親と言うことはないにしても彼女と言うこともなさそうだ。
てっきり、引っ越し業者を頼んでいるものと思っていたのだが、見やるに、下に止めてある軽トラックからせっせと2人で荷物を運び込んでいるので「手伝いましょうか」と声を掛けた。
「いえ、そんなの悪いです」と皐月さんは笑って見せたが、額に浮かぶ汗を見れば嫌でも手伝いたくなってしまうと言うのが男心なのだ。
古今東西美人は得だ。
私は皐月さんの為に進んで、軍手を借りて荷物運びを手伝うことにした。荷物を運んでいて気が付いたことがある。2人分にしては荷物が少なく、皐月さんの分とおぼしき荷物も見あたらない。どうやら、皐月さんと神原青年は同居するわけではなく、隣には神原青年1人が生活をするようだ。
落胆を隠せないで居た私であったが「御夕飯くらいは作りに来るからね」と言う皐月さんと神原青年の会話を聞いていて、定期的に皐月さんに会うことができると内心喜んだ。
お昼前に、皐月さんに近所のスーパーの場所を教えると、皐月さんはがま口財布を片手に買い物に出掛け、軽トラックに残っていた小物類を地面におろしてから「駐車場に入れてきます」と神原青年も行ってしまった。
2人は田舎の人間なのだろうか。初対面の人間にこんな無防備を晒すなんて……もし私が悪人であったなら、神原青年の荷物の中から小銭貯金が根こそぎなくなっていても不思議ではない。
私は善人ではない。だが、悪人でもない。悪いことを目論んでもそれを実行しない限りは悪人ではない。つまり、私は目論んでも実行できない小心者だったのである。
手伝ってくれた御礼も兼ねてと、お昼ご飯は皐月さんの手料理をご馳走になることになり、荷解きをしていない神原青年の部屋には調理器具がなかったので、昼食は私の部屋で食べることになった。来客用の小さい丸テーブルを出してきた以外は座布団もなく、申し訳無く思ったが、当の2人は全く気にならない
様子だった。
皐月さんは鼻歌交じりにフライパンで手際よく、親子丼を作ってくれた。丼がなかったのでカレー皿に盛りつけられた親子丼。北陸の方で使われると言う甘い醤油が隠し味と皐月さんが教えてくれた。半熟でふわふわ加減の卵を箸で割ると中から鶏肉やかまぼこが顔を出す、長ネギの緑も色鮮やかでこれらを白飯と一緒に口の中に入れたなら、絶妙な半熟加減が白飯と混ざったかと思えば出汁の旨みが喉に至るまで広がって行く。鼻で呼吸をするたびに鼻腔をくすぐる出汁の残り香が一口で二度までも美味しいと演出をする。
私は今までこんなに美味い親子丼を食べたことがない。私は感動のあまり思わず箸を止めてしまった。
「お口に合いませんでしたか?」と不安げに私を見て皐月さんが言う。
「いえ、こんなに美味しい親子丼は、はじめて食べました」本当の事を言った。
「そんな大げさなぁ。でもとっても嬉しいです」
「照れます」と続けて言って私の肩を小突いた皐月さん。どこかその仕草がオバサン臭かった……
食事中、皐月さんは神原青年について良く喋った。生まれた所からどうして奈良の地へやって来たのか「皐月さん、そんなことまで言わなくていいですよ!」と何度か神原青年が皐月さんの口を塞ごうと試みる一幕もあったりと、この2人は恋仲以外の縁で持って結ばれているのだろう。私はそう思った。
「一昨日から県大で文化祭やってるから、後で見に行くと良いですよ。最終日だから売り切れの模擬店もあると思うけど」
来春から後輩となる青年に私は先輩風を吹かせて言った。私が県大生と言うことは話していなかったが、それはまた来年の春また話せば良い。
「皐月さん。荷解きしたら行ってみようよ」そう神原青年が提案するも。
「荷解きしていたら模擬店が全部売り切れになってしまうわ!お昼を片したらすぐに行くわよ」皐月さんは、今すぐにでも文化祭に出掛けたい様子だった。
神原青年は私と違って良く働く。食器の洗い方も丁寧で、洗い終わった後、布巾でシンク周りに飛び散った水滴さえも拭き取る繊細さである。ひょっとしたら皐月さんの手解きなのかもしれない。
「それでは失礼します。本日は本当にありがとうございました」「ありがとうございました」
部屋を出て行く間際に、2人は謝意を伝えながら揃って姿勢を正すとゆっくりと頭を下げた。ここ2年間で出会った誰よりも礼儀正しいその様に、思わず私も何かを思い出したように「こちらこそ、美味しいお昼をご馳走さまでした」と頭をさげたのだった。
礼には礼をもって対する。無理矢理下げる頭もある。けれど、心から礼を尽くされたとき、心から感謝をしたいとき、自然と頭は下がるものなのである。
頭を上げたとき、清々しくも背中に一本筋が通ったような、そんな面持ちだった。
◇
午後3時を過ぎた辺りで私はメールフォルダを開くと、葉山さんからのメールを選択し、2回ほど文面を確認した。このメールが葉山さん本人からの純粋なメールであってほしいと願う半面、どうしてもそれを信じ切れない自分がいる。
水風船は用意した。私はどちらに転んでも良いように、
「
わかりました。午後5時に体育館裏の駐輪場へ参上します
」
と簡素な文章を作成すると、少し考えてから送信した。
甘美祭最終日を迎えて、構内では各模擬店がわかりやすい2極化を向かえていた。余裕を持って片付けをはじめる店と、頻繁に歩き売りを行う店である。
チケットがまだ数枚残っていたので、これを大好物の唐揚げに全てつぎ込もうと思っていた私は唐揚げを売る店だけ売れ行きを確認して、体育館横にある梯子を使って、屋上へ登った。
気持ち程度に角度がつけられた屋根を伝って、駐輪所が見渡せる場所についた私は、執行部に見つからないように目立たないように寝そべってその時がくるのを待ったのであった。
○
結局、昨日中に夏目君からの返信はありませんでした……私はてっきり、すぐに返信があると思っていたので、どうして返信をもらえないのでしょうか?と不安になってみたり、もしかしたら、届いていないのでは……もう一度送った方が……でも同じ文章を2度も送るなんて……と気が気でない1日となってしまいました。
昨日ほど、携帯電話に注意を払った日はありません。
すぐに返信があっても、罪悪感は否めないのです。
けれど、それは夏目君が私が告白をすると言う大前提で心を躍らせて即座に返信をしてきたと言う心情を慮っての罪悪感なのです。ですから、このように『返信がない』と言う場合は想定をしていませんでしたから、予想外の事に事実として私が困惑をしてしまっている状態です。
真梨子先輩には内密に計画してことですから、私はとりあえず小春日さんに連絡をしてみました。
「夏目君が葉山さんの事を好きなのは間違いないと思うから……返事が無い理由はなんでかわからないけど、ギリギリまで待って来なかったら、電話するしかないかも」
と言うのが小春日さんの考えでした。
「そうですね。まだ時間はありますから、待ってみます」
携帯を充電器に繋いでから、私は別の心配をしていました。小春日さんが言った『電話するしかないかも』が頭から離れなかったのです。メールをするだけでも騙しているようで罪悪感に苛まれると言うのに、直接電話を掛けるだなんて到底私には無理だと思ったからです。
「ああ……なんでこんな事になってしまったんだろう」
親愛なる真梨子先輩の為とは言え、楽しいはずの甘美祭真っ直中でこんなに沈んだ気持ちになるだなんて……本当なら、模擬店で買った林檎飴を冷蔵庫に入れて、同じく模擬店で買った食べ物を食べ過ぎてしまいましたね。とお腹をさすっていてもおかしくないと言うのに……
軽めに夕食を食べ、お風呂に入った後、ふっと「真梨子先輩は何をしているんだろう」そんな事を考えました。甘美祭の準備や夏目君と先輩との事が重なって先輩の家には遊びに行っていません。敏感な先輩の事ですから、きっと、雰囲気で私が水面下で動いていることに気が付いているはずです。だからこそ、あの夜以降、先輩は私に夏目君の話をしなくなりましたし、夏目君と無理矢理2人きりにする切っ掛けも作らなくなりました。
私は人として真梨子先輩の事を尊敬していますし、同じ女子としても敬愛しています。だからこそ、私は先輩と距離をおくことにしたのです。
秘密を隠したまま、先輩と普段通りに接することなんて私にはできません……
こんな夜に限って面白いテレビもありません。
まだ深夜には早い時刻でした。私は何をするわけでもなく炬燵の中に入って、掛け時計の秒針を眺めていましたけれど、気後れしても言えるようにと、明日、夏目君に告げる台詞の暗唱をすることにしたのでした。
炬燵で朝を迎えた私は、伸びをして欠伸をしました。そして、蓑虫のように這い出してから、携帯を見に行きます。
「!」期待をしていなかっただけに、メールの着信を示すライトの点滅を見た瞬間に私は目を完全に覚ましたのです。
「あぁ」覚醒をしてメールを確認すると、それは小春日さんからのメールでした。
こんな事を言うと小春日さんに怒られそうですけれど、期待をしてしまっただけ、とてもがっかりしてしまいました。
がっかりしていても仕方がないので、顔を洗って髪を梳かしてから朝ご飯を食べることにしました。
納豆をかき混ぜていると時も携帯が気になって仕方がありません。ご飯を食べている時でもさえも……それでも夏目君からの返信はありません。
「なんで私がこんなに気にしなくちゃいけないの」
私は洗い物をしている最中、ついにそんな風に思うと、その後は怒濤の如く洗い物を終えてしまって、大股で携帯電話まで歩くとあっという間に電源を切ってしまったったのでした。
暗闇を恐れるのは目を開けているのに見えないから恐いのです。ならばいっそ閉じてしまえば見えなくて当たり前なので落ち着くと言うものです。電源が入っているから携帯が気になってしまうのです、電源が切れていればメールが届いてもわからないので気にする必要もありません。
私は怒っていました。なのでそのまま携帯をベットの上に放り投げると、洗濯に掃除とここのところ疎かになっていた家事にとりかかったのでした。
洗濯物を干しながらつけっぱなしにしているテレビからは、冬のコスメ特集をしているようでした。母が普段お化粧をしないせいか、私もお化粧をほとんどしたことがありません。ですから、普段でしたらコスメ特集にはあまり興味がないのですが、今日に限ってそのかぎりではありませんでした……
思えば小春日さんや真梨子先輩はちゃんとお化粧をしています。いいえ、同じゼミの女の子も美術部の先輩も後輩もしています。どうして?と聞いたことはありませんけれど、きっとお化粧は下着を履くことと同じようなものなのでしょう。今年のトレンドは明るめのチークと目を大きく見せるお化粧なのだそうです。もちろん、チークやグロス、アイシャドーなどの言葉は知っていますよ。ただし、使ったことはありませんけれど……もっと言えば、持ってさえもいません。
私だって……お化粧の一つもできなければ!と思い立って百貨店の化粧品売り場に行ってみたこともありました。けれど、どの化粧品もそれなりのお値段がする上に種類が豊富過ぎて何を揃えればいいのかさえもわからず、這々の体で家に帰ったことを思い出します。
そのことを母に話すと「若い内は化粧なんてしなくっていいの」の一点張りで、以降それが母の口癖になってしまいました。私はそんな母に言いたいのです、「お母さんは年を取っても化粧をしてないじゃないですか」と。
普通、好意を抱く異性に告白をする時、人は一番の自分でその場所へ向かうと思うのです。男性はお化粧はしないと思いますが身だしなみには特に気を遣うかと思います。ならば、私も着る物はもとより、やはりお化粧をした方がいいのでしょうか……
面倒くささが先立って『いつもの自分で』と思い込みたいのですが……私の方から一方的に断る場合でも、やはりそれ相応の格好をしていかなければならないと思うのです。
私は恐る恐る携帯の電源を入れました。もうお昼前だと言うのにメールは入っていません。念の為に、センターに問い合わせて見ましたけれど結果は同じでした。頭垂れる暇もなく、私は小春日さんに電話を掛けました。
甘美祭へ出掛けていないと良いのですが……
「もしもし、返信来た?」3回ほどのコールの後に小春日さんが出ました。
「いいえ。もう甘美祭に出掛けてますか?」
「うん。夕方からファッションショーあるから、それの準備してる」
「そうでしたね、ファッションショーでしたよね」本当はすっかり失念してしまっていました。
甘美祭最終日、夕方からフィナーレまではソーイング同好会のファッションショーが行われるのです。今日のステージの為に小春日さん達はずっと製作に取り組んで来たのですから……それを私の思いつきで邪魔するわけには行きません。
「ん?何?用事があったんじゃないの?」
「小春日さんは古平さんに告白をするとき、お化粧をしていきましたか?」
「そりゃ、していったわよ。前日にヘアサロンも行ってネイル行ってすっごい気合い入れたよ」
「え……ヘアサロンとネイルにもですか……」
「うん。折角、真梨子先輩がお膳立てしてくれたチャンスだったから自分でできる事は全部しておきたかったのよ。納得した自分で告白して振られても納得できるけど、手を抜いて振られたら、髪の毛ちゃんとしてたらとか『もしも』って絶対後悔すると思ったから」
「……」私は返す言葉がありませんでした。
そうなのです、小春日さんの場合は背水の陣で望んだ告白なのです。それに比べて私の場合は半ば演技の告白ですから、今ひとつ実感がありません。そうですよね、恋人ができるか振られるか、二つに一つの大勝負。それなら事前にできる備えは全てしておくものです。散ってなお後悔をしない為にも。
「小春日さん、お願いがあります」
私は生半可だった自分自身に決意を持たせる為に、あえて忙しい小春日さんにお願いをしました。断られることも覚悟していましたし、とても迷惑を掛けることも承知の上です。
「わかった。2時間くらい前に同好会室に来て」
もしも、断られたなら今から化粧品を買って自分でなんとかするつもりでした。けれど、あっさりと小春日さんが承諾をしてくれたので、電話越しに胸を撫でおろしたのでした。
気合いだけではお化粧が上手く出来るとは思えませんから……
○
自分に出来ることは後悔無きように。
私は夏目君に告白をする心持ちで、髪を梳いて洋服を選びました、お気に入りのベレー帽とポーチを下げて、早い目に大学へと向かいました。
甘美祭最終日の今日はすでに片付けをはじめている模擬店もあれば、値引きをしてでも売り切る模擬店と二分化の様相がとても極端です。
中庭を過ぎた辺りで、両手に持ちきれないほどに食べ物を携えた女性と出くわしました。
「あの、失礼ですけど、貴女はここの学生さんですか?」上着を羽織らず季節的には肌寒い服装のその人は大きくて丸い瞳で私を捉えてそう言いました。
「はい。私はここの学生です」
率直にそう答えると、「皐月さん待ってくださいよ」とこれまた大量の食べ物を持った男の子が早歩きで現れます。
「勝さん!この方ここの大学生ですって、雰囲気も顔つきも勝さんの好みやんか。さい先がいいわぁ。あ、この子、来年からここの大学に通うんです。どうぞよろしくお願いしますね」
無手勝流に言いたいことを言ってから、皐月さんとおっしゃる女性はお手本の様な姿勢で頭をさげます。
「ちょ、皐月さん何言ってるんですか!急にすみません」顔を赤くした男の子はそう言うと、皐月さんとおっしゃる女性のお尻を膝で押します。
「もう、勝さんったら女性のお尻を触るのいけないことですよ」
「触ってません、押したんです!」
不機嫌な表情を作る皐月さんでしたけれど、二人はとても仲が良いのですね。そう思えてしまうから不思議でした。
皐月さんはまだ何か言い足りない様子でしたけれど、勝さんに押され、ついに図書館の角に消えて行ってしまいました。
「姉弟?親子?」多分、前者だろうと私は思います。
部室棟に入ると、すぐさま衣装を運ぶソーイング同好会の方を何名も見かけました。手の甲に針山をつけて、腰にはまるで美容師のように断ち切り鋏や安全ピンを収納したホルダーを下げていたり、仕上げか修正にてんてこ舞いと行った感じです。2階にある同好会室へ近づく度に、私がいかに無理なお願いをしたのかを思い知るようで後ろめたいようで……とりあえず小春日さんに会ったなら、一番に謝っておこうと思わずにはいられませんでした。
「お邪魔します」私は、磨りガラス越しに室内に誰か居ることを確認してからドアをあけました。
「やっほー。葉山さん気合い入ってるね」ドアを開けて一番に目に入ったのも口を開いたのも小春日さんでした。
「わぁ、すごい。まるでメイク室みたいですね」
長椅子を壁づたいに並べ、配置されたパイプ椅子の数だけヘアーブラシや大きめの置き鏡と化粧品のセットが並べてあります。
「まるでじゃなくて、今日だけこの部屋はメイク室なのよ。ちなみに、メイクさんは私」
「そうなんですか!」
小春日さんにそんな隠れた才能があったなんて。私は同じ女子として、自分のみならずメイクを施せる小春日さんをすごいと思いました。
○
小一時間ほどをかけて、私は小春日さんにメイクをしてもらいました。
爪の赤色、唇の淡い桃色。どんどん色づいて行く私はまるで女の子のようでした。もちろん、私は女の子なのですが、どんどん違う自分になって行くようで、鏡に映る自分の顔を見つめていると、不安がちないつもの自分がどこかに行ってしまうようでした。
「もし……葉山さんが夏目君の事を少しでも好きな気持ちがあるんだったら、葉山さんが幸せになっても良いんだからね」
誰もいない部室で小春日さんはヘアピンやタオルを片付けながら言いました。
「どうしたんですか、急にそんなことを言うなんて」
「ほら、私ってば先輩の為、先輩の為って葉山さんの気持ち考えないで巻き込んじゃってたから、今朝メイクの事で電話もらって、もしかしたらって思っちゃって」
「てっきり、夏目君もがっかりするようないつもの服装かと思ってたら、意外と気合い入れて来るからますますね」メイクアップが終わった私の顔を鏡越しに見ながら、小春日さんは私に優しい視線でそう言います。
「それは考えすぎです。私は夏目君のことをなんとも思っていません。ただ、はじめから断るにしても、ちゃんとしていないと、不誠実だと思っただけです」
これは本当です。例え結末がわかっていても投げやりにしてはいけません。ちゃんとするべきはちゃんとしないといけないのです。後腐れなきように……それに、先に好きになった女の子を知っているのに、後出しじゃんけんで勝ちに行くようなことを私はできません。
いずれにしても、本当に気持ちがないからそんなことも言えてしまうのかもしれません。
「そっか、ごめんね。へんな事言った」
「はい。小春日さんは変なことを言いました。私の普段着は夏目君をがっかりさせませんよ」真梨子先輩のように露出度の高い服などは着ていませんけれど、エキセントリックな服装でもありませんから、私の普段着を見て誰もがっかりなどしないのです。
「あっ、ごめん!そんなつもりで言ったんじゃないって、その、つまり、物の例えで、あの……ごめんさない」
「冗談ですよ」私は笑いながら言いました。そんなことで目くじらを立てるほど私はプリプリしていません。
「嫌な役だけど、お願いね」
「はい。メイクありがとうございました。行ってきます」
嫌な役です。大嫌いな役回りですが、もう私の覚悟は決まっているのです。決めているのです!それにメイクを施した私はどこか私ではないような不思議な感じがして、今であればどんな嫌な事もでもちゃんと顔をみて言えそうな気がします。
もう一度、小春日さんにお礼を言ってから、私は部室棟を後にして待ち合わせ場所である体育館裏の駐輪所へ向かったのでした。
◇
県大大明神は最終日の夕暮れ近くになってもまだ訪れる人が途切れる様子はなかった。鳥居から連なる行列が全てカップルであるところが謎なのだが、一体先輩は何をしているのだろうか?いずれにしても、盛況であるのだから良しとすべきなのだろうが……
そんな事よりも、私は雑踏に見え隠れする巫女さんの姿をじっと見つめていた。双眼鏡を持ってくれば良かったと後悔するほどに……はじめて真梨子先輩と会った時、先輩の髪は黒かった艶めく深い黒色だった。服装も葉山さんよろしく落ち着いていてどちらかと地味め。白いヘアバンドがよく似合って居たし、気が利いてよく笑う先輩の人柄に私はとても惹かれていた。入学したてで、情緒不安定だった私が想わずも特別な感情を抱かずには居られなかったのは仕方が無いことだと思う。
だが、その感情に希望や妄想はあっても決して現実的でないことはわかっていた。文芸部の部長を筆頭に真梨子先輩に好意を抱く男子の数は星の数よりも多い。俗に言う高嶺の花と言うやつである。もしかしたら……なんて妄想を毎晩と描いては諦める毎日を過ごし、気が付いた時に先輩はまるで別人のようになってしまっていた。髪を明るい茶色に染め、露出度の高い服を着るようになった。真梨子先輩と言う人間は何一つ変わっていなかったが、私にはその風体が理性に合わず、いつの間にか特別めいた感情も雲散霧消した。
どうして今になって髪の色を戻したのだろうか……聞いた所で「巫女さんに似合うと思って」と言われるだけだろうけれど……
先輩に葉山さんを紹介してもらった時、先輩のキューピットぶりの噂も聞いていたかた、近いうちに葉山さんが私の恋人になるかもしれないと思えて、それはそれはときめいた。舞い上がりもしたし、毎日念入りに体を洗うようにもなった。
だが、興奮が冷めてくると何か違う気がしてどうにも本腰が入らなくなった。葉山さんは飛び切りの美人と言うわけではないが、控えめで笑顔が素敵で飾らない所は私の好みなのだ。、いつかの感情のように一日中葉山さんの事を考えることもないし、不謹慎にも葉山さんに夢中にならなければならないのに、昨日、ステージ上に居た落研の女子を可愛いと心揺れてしまった。男子の嵯峨と言えばそれまでなのだが、そう言い切れないとても不可解な心中は私自身ですらようとして知れなかったのだ。
穴が開くほど先輩を見続けた。本当に穴が開いてしまったら困るので、私は駐輪場へ視線を戻し、手持ちぶさたと水風船を弄んでいた。柔らかくて手に吸い付くような感触がいたく気に入って揉みしだいていると簡単に割れてしまった。何度か同じ事を繰り返していたらものすごく虚しくなった。
約束の時間よりもかなり早かったが、ふと駐輪所を見下ろすと、白いベレー帽を被った女の子の姿が目に止まった。角度的に顔が見えないのがもどかしい……だが、どうやら姿から女の子であり、古平ではない。私は確信を持つと、念の為に水風船を一つだけ携え屋根から地上に降りた。
体育館の角からそっと覗いてみると、絵に書いたヒロインのような格好をした葉山さんが佇んでいたのである。私は高鳴る気持ちを抑えて、深呼吸をした。
「もしかして、お前」
どのタイミングで後ろか前から、どちらから葉山さんに会いに行こうか。などと考えていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「?」どこかで見たような顔と、はっきりと覚えている顔が並んでいた。
「やっぱり、同士じゃないか」
「あっ」
私はその刹那に逃げ出そうとしたが、陸上部の反射神経を侮るなかれ、駆け出す前に後ろ襟を捕まれてしまった。
「あの時は裏切り者なんて言って悪かったな。そうでも言わないと、お前まで捕まると思ったんだ」と彼は言う。
「かっ、解放されて何よりだな」
「ああ、これも茂月さんのおかげだ」
そう言いながら彼は隣に佇んでいるトレンチコートの女の子に視線を移した。どうやら彼女は茂月さんと言うらしい。
「はじめまして。茂月です」
「どうも、落研のステージ見ましたよ」
「ほっ本当ですか!ありがとうございます。私、はじめてでとても緊張しちゃって、自分でも何話していたか覚えてすらいなくって、ちゃんと話せてましたか私……」
茂月さんは懇願するように私に感想を求める。私は「はい。物怖じしない語り口でとても面白かったです」と答えた。実のところは彼女を脳裏に焼き付けることに必死で何を話していたかなど、一片も覚えてはいなかった。
けれど「そんなぁ」とまんざらでもないと彼女は嬉しそうだった。来年のステージに期待したいと思う。
「そうだ、同士たる君にこれを託そうと思って、探していたんだ」
彼は、そう言うと、上着のポケットから継ぎ接ぎだらけの覆面を取り出して私に差し出すではないか。
「俺は……その、茂月さんがいるから、もう必要ないんだ。そう言うことだから、学内恋愛禁止令の件も……本当にすまない。私は今年の学生大会に出馬はできそうにない」
目の前の2人は時折視線を合わせては話しを繰り返し、彼は照れくさそうに頬を指で掻きながらそんな事を話すのである。
「どうしてまた……?」
「林檎飴を彼からもらって、そのお礼に話し掛けて……」茂月さんは小さい林檎飴を私に見せてくれながらそう教えてくれた。
「じゃあなっ!元同士よ。生きていれば良いこともあるさっ」
溌剌とした語気でもって、彼は私の手に無理矢理覆面を握らせると、後ろ手に手を振りながらピロティの方へと歩いて行く。ちゃっかり茂月さんと繋いだ手を見せつけながら……
私は激怒した。
言うまでもなく怒髪天の如く怒り心頭である。私は覆面を被ると水風船を掲げ「天誅!」そう叫びながら彼の背中を追いかけた。私に気が付いた彼は彼女の手を放さずにピロティの中に逃げ込む。彼女に被害が及ぶのは忍びないが、この恨み晴らさずしておくべきか……
ピロティは未だ緑地から続く行列で混雑しており、瞬く間に逃げ道を失った彼は、私に向き直ると何かを言おうとしたが、私は問答無用で水風船を力の限り彼に投げつけたのである。
「やめ、ぶはっ」
至近距離にて水風船は果たして彼の顔面に命中し、彼の目の辺りを爆心地にして辺りに水を飛び散らし、一時ピロティは騒然となった。もちろん、結末を見届けると覆面を脱ぎ捨てその場から立ち去った私である。
落ち着きを取り戻した雑踏が犯人捜しをはじめた頃には、すでに林檎飴を売る模擬店の前に立って「この小さい方の林檎飴を1つ」林檎飴を買っていたのである。
○
小春日さんとの打ち合わせでは、私に好きな人がいる旨を夏目君に話すことになっていて、夏目君が食い下がってた時は「ごめんなさい」と繰り返して、その場から逃げることになっています。私としては追いかけて来られたらと心配なのですが、小春日さん曰く決定的に振られたら追いかけて来られない。そうです。
男子心とはそんなものなのでしょうか……私は不安を払拭できないまま、緑地帯の近くを歩いていました。
恋愛成就を願う男女の列が未だに途切れることのない県大大明神を横目に、私は体育館裏の駐輪場へ足を進めます。まだ時間が早いですから夏目君は来ていないと思います。けれど、私はすでに手に汗をびっしょりと掻いていましたし、口を閉じて居なければ口元が震えてしまって仕方がありません。どうしてこんなにも口の中が乾くのかもわかりませんでした。
駐輪場に夏目君の姿はまだありませんでした。ほっとした半面。永遠に時間が止まってしまえば良いのにと腕時計をみやって私は思いました。
世界が違って見えます。周りはとても明るい色彩に溢れていると言うのに、私だけは灰色の世界に覆われているのです。どうして私だけがこんな想いを……とつい逃げ出したくなります。真梨子先輩のためと割り切っているのにどうしてこんなにも沈んだ気持ちになるのでしょうか……
絡まった糸玉から出た3本の糸。解くにはどれか1本を切ることが一番早いと思います。本来糸には始まりと終わりの2つしかありえません。
だから3本目は切ってしまう方が良いのです。
真梨子先輩は夏目君の事が好きで、夏目君だって真梨子先輩が相手なら文句の一つも言えないと思います。だから私が切られ役なのです。
なのですが……頭ではわかっているのに……どうして……
「お待たせしました」
私は思わず腕時計を見ました。約束の時間にはまだ半時以上もあります。こんなに早く夏目君が現れるなんて……すでに予想外です……
「こんにちは」
「こんにちは」夏目君はどこか嬉しそうな表情をしていました。その表情を見やるに私の胸はとても痛みました。
けれど、これは真梨子先輩の為なのです。
私は目をぎゅと瞑ると、
「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」
何度も練習をした台詞だけを思い出して一呼吸で全てを言い切ったのでした。
昨晩からあれだけ練習をしたと言うのに、ちゃんと言えませんでした。どうして真梨子先輩の名前が出てきてしまったのかは私にもわかりません。
「え……」夏目君は困惑の色を隠せないでいる様子でした。
これでいいんだ。これで……中庭に見え隠れする赤と白の装束。これから訪る幸福を未だに知らず、後輩の恋路のために奔走する愛すべき人。
こんなやり方をしたら、夏目君の近くには居られなくなる。だから先輩のそばに居ることだってできなくなる。それが代償だと言うのであれば、喜んで差しだそう。平凡で退屈な毎日に彩りをくれた人。自分では見ることができなかった世界を見せてくれた人の幸せのためならば……一世一代の恩返しです。
全ては夢のまにまに、それは次の瞬間に崩れてしまう積み木のようで……目覚めてしまえば最初から何もなかったように惚けて佇む私がいるだけ。
「えっと……はい。わかりました……」
とても気持ちが悪い時間が永遠と続くかのように思えました。もしも夏目君が食い下がったなら、私は泣いてしまったことでしょう。けれど、夏目君は頭を掻きながらそう呟いただけだったのです。
私は俯いたままでした。やがて夏目君は「それでは」と短く言って私に背を向けて歩き出します。
これで良い。小春日さんとの打ち合わせ通り。胸を突き破るほど大きく早い鼓動が頭の中に響く中、私は一生懸命に自分自身にそう言い聞かせました。堪えなければならないのです。夏目君の背中を見ながら、鼓動が私を急かしました。この機会を失ったなら次はない……と……
困惑と動揺を隠せないはじめて見る夏目君の表情。夏目君は私の事を本当に想ってくれていたのでしょうか。例えそうであっても私は夏目君の事を好きではありません。
でも、夏目君には貴方のことを想っている人がすぐ側にいる。それを教えてあげなければ私はただの卑怯者です。
言いたいことを言うのは、伝えたい事を伝えるのは子供のやることで、大人に等しい私は知るを知らせず我慢をすることも美徳としなければ……いけません。
違う! 私はやっと気が付きました。色々な理由を並べ、真梨子先輩の為と思い込み、全部全部目を逸らして、自分を欺いて……伝えるべきを伝えず、それを美徳として気取ることが大人であるはずがありません。
誰の何のせいにするのではなく、自分の行いに責任を持つことこそ大人の行いなのです!
「夏目君、待って!」
私は力強く目を見開くと、大股で遠ざかる夏目君の元へ歩み寄りました。
「え」振り向いた矢先に私が近くにいたので、夏目君は思わず仰け反ってしまいます。
「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」
「……」
私は勢いのままに言葉を継ぎ接ぎました。事実として私は夏目君のことが好きではありません。それが大前提です。
夏目君は何も言いませんでした。その代わり、今までにないほどの冷めた視線を私に向けています。無理もありません、現状では私がわざわざ呼び止めたあげく、今一度とどめの一言を言ったにすぎませんから……これ以後に私が発する言葉は決定的且つどうやっても、誤魔化しが聞かない現実です。やはり、本能的に話してしまうことをためらっているのでしょう。口が急に動かなくなってしまいました。体が急に震えだして止まらなくなりました……。
私は一度大きく深呼吸をしました。そして多くを諦めたのです。
この一言で真梨子先輩に絶交をされても小春日さんに軽蔑をされても仕方がない。その時は謝って謝っていっぱい後悔をしよう。そんな風に……
「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」
「はぃ?」夏目君の反応は見るからにわかりやすいものでした。
「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」
「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」
それはもう束の間の夢に陶酔するように。
「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」
「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」
「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」
「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして、少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから……」
「違いますよ……」夏目君が急に語気を弱めて俯きます。きっと思い当たる節があるのです。
「違いません!」私は強く言いました。
「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」
「確かに……言いましたけど」
「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」
「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」
「でも……」
例え夏目君が話さなくても真実を知ってしまった夏目君の挙動から真梨子先輩は感じ取ってしまうことでしょう。仮にそうならなかったとしても、真梨子先輩の気持ちを夏目君が知ってしまった以上、その原因が私にあることは遠からずわかってしまうことです。
中庭に見え隠れする先輩の姿が目にはいると、私はとんでも無いことをしでかしてしまったように思えて来て、冷や水を浴びせられたように体が鉛のように重く、軽くめまいさえ感じます。
「約束します。それじゃ」
霞む視界の先に居た夏目君の表情は明らかに変わっていました。去り行くその背中に覚悟のようなものさえも感じるほどです。
私はその場にしゃがみ込むとしばらく動くことも、何も考えることすら出来なくなってしまったのでした。
○
春日山に日が落ちて、花火が上がって……甘美祭は終わりました。
私は罪悪感と達成感が入り交じったとても複雑な心境のまま本館の正面玄関の階段に座ったまま、膝に顔を埋めてただそこに居ました。
自分で自分がわからりません。どうして、土壇場になってあんなことを……そしてそれが正しいと決めつけてしまったのでしょうか……小春日さんと計画した通りにしていれば、それで全てが上手くいくはずだったのに……私は最低です。冷静になればなるほど『伝えない優しさ』もあるはずといかに自分が愚かで短絡的あったかと言うことを思い知るのです。
結局、私は1人で泥を被ることが恐ろしくなったのです。今を取り巻く楽しい関係が全て崩れてしまうことが怖くなったのです。だから、真実を伝えると自分を欺いて最後の最後に自分自身をかばって必死に弁護をしたのです。
真梨子先輩に嫌われたくなかったのです……すでに先輩のためではなく、私は私の為に計画を利用してしまいました。最低な人間です……小春日さんに軽蔑されて叱責してもらいましょう。
そうでなければ、私が私を許すことができません。
「探したよ。電話してもでないし……家に行っても居ないし」
顔を上げると息を荒げた小春日さんの姿がありました。今にも小春日さんに懺悔の弁があふれ出しそうになります。だから私はそれを堪えるために口元に力を入れました。すると、今度は涙が溢れてきたので、再び膝に顔を埋めるしかありませんでした。
「甘美祭終わっちゃったね。強者どもが夢の後、一生懸命だったよ私は、葉山さんは?」
「……」
「変な事聞いてごめん。それからもう一つごめんなさい。嫌な役を押し付けて、今夜を限りに私は最低で卑怯な人間になったよ」
「そんなこと!ないですよ」
きっと私は泣いてしまっていたと思います。滲んだ先に見える小春日さんの顔は穏やかでとても優しい表情をしていましたもの。
「大事な友達に全部泥被らせて。自分は後からおめおめと慰めて同情しようとしてるんだもん。そう言うのを卑怯って言うんだよ」
「なら私も卑怯で最低です。土壇場で恐くなって、夏目君に本当の事を話してしまいました」
「お芝居だって、話したの?」
「違います。真梨子先輩が夏目君の事を好きだって言いました。先輩は今を失いたくないから、告白しないで夏目君の嫌う派手な服を着たりしてわざと嫌われてたって、幾つか嘘もつきました」
先輩が夏目君の事を好きだと言う事以外は私の推測なのです。理路整然として聞こえますけれど、それが実だとは限りません。
「嘘じゃないよ。多分それは全部本当のことだと思う。先輩が急に髪の色変えたり服の趣味が変わったりしたのって、夏目君と知り合った頃からだから……」
「そんなの……」私はついに我慢でき無くって、声を上げて泣き出してしまいました。
「泣かないでよ。ごめん。本当にごめん」
小春日さんはそう言いながら、私の頭を優しく抱きしめてくれました。早く泣き止まないとと思えば思うほど涙は止まらず、寧ろ感情の起伏は激しくなるばかりです。しばらく私は感情にまかせて泣きじゃくるしかできませんでした。
「いっぱい泣いていいんだよ」嗚咽が収まった頃、耳元で小春日さんがささやきかけてくれました。
突如として沸き上がった無数の拍手に私がようやく顔をあげると、私と小春日さんに向けて模擬店の片付けをしている人達が拍手をしてくれていたのです。見れば、私と同じく泣いてしまって人もいるのです。
「みんな甘美祭をやり遂げた感動で泣いてるんだと勘違いしてくれてるみたい。今夜だけは堂々と泣いても許されるよ」
「そうですね。でももう大丈夫です」私は鼻をすすって涙を拭いてから「私が余計なことをしなければ、先輩と夏目君は結ばれたのかもしれません。でも私が余計なことしたから……」
「それなら私も同罪だから。葉山さん1人のせいじゃない。それにね、私思うんだ。真梨子先輩が髪の色を戻したのにも絶対意味があるって」
「先輩は巫女だから黒にしたって」
「多分それは嘘。ちんどん屋の時だって戻さなかったのに、今更戻すなんて変だよ。私の勘が正しければ、髪の色だけじゃなくて服装にも変化があるはず……自分の気持ちに気が付いてるんだよ先輩だって」
「私達に出来ることはあるのかな……」
「うんある。私達にとっての天王山は甘美祭の打ち上げだよ」
泣き腫らした顔で小春日さんの顔を見上げる私に小春日さんはそう言い切りました。
それから小春日さんと明日、先輩にも夏目君の事を話す旨を二人で確認しあい、小春日さんが撮影した甘美祭の写真を見せてもらいながら二人して大学を後にしたのでした。
明日を含め今後どう転んでも、小春日さんは私の味方で居てくれる。そう確信がもてただけでも気持ちがとても軽くなりました。
だから、私は湯舟に使って何度も顔を洗ってから拳を高く突き上げ決意を新たにしたのです。ここまで来たらもう引き返すことはできない。やると決めたら最後まで。ここで臆病風に吹かれたなら女が廃る。
と。
◇
覆面の彼を見習うわけではないが、私は葉山さんに贈る林檎飴を買ってから、体育館裏に駐輪場へ向かった。
「お待たせしました」
俯き加減で佇んでいた葉山さんは私が声を掛けると、とても驚いた様子で急いで腕時計を確認していた。そう言えばまだ待ち合わせには30分ほど時間があっただろうか。
「こんにちは」
「こんにちは」
依然として葉山さんは顔を上げなかったが、覆面の彼の奇跡とも言うべき奇跡を目の当たりにしたばかりなので、どこか気持ちが高揚していたのだろう。私はこれから待ち受ける幸福の瞬間を想像して、きっとにやにやしていたに違いない。
「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」
だが、彼女の口から出た言葉は、私を天国から地獄に突き落とすものだった。正しくは煉獄にいた私を地獄に突き落としたわけだが、いずれにしても私は酷く混乱をして困惑をした。だから、「え……」としか返事をすることができなかった。
葉山さんは目を強く瞑ったまま、口元も固く一文字に結び、私の前に立っていた。
『好きな人って誰なんですか』『最初から振るつもりだったんですか』『だったらどうしてそんなに着飾ってるんですか!』即座に目の前にいる女の子に対して投げかける言葉が浮かび上がってきた。そしてそれに追随するように、罵詈雑言が酷く尾をひいた。
夢のまにまに、ついに積み木は崩れてしまった……葉山さんが私の事を好いてはいないことは薄々気が付いていたし、理解もしていた。けれど、もしかしたら……と決定的な告白が無い以上は……と諦めつつも心の片隅に常に『もしかしたら』と言う希望がついて回っていた。それが私の生きる糧であったことは言うまでもない。
今、私の胸の隅っこに輝いていた希望は無情にも打ち砕かれ、完全なる闇のみが私を支配しようとしていた。もう、脈がないのであれば、相手が誰であれ恨み辛みを重ねて吐きかけてやったところで何を後悔する必要もない。気持ちの悪い無言の間を費やして、そんな事を考えた私は沈黙を破り、
「えっと……はい。わかりました……」とだけ答えた。
なぜか、葉山さんの姿がいつもよりもずっと小さく見えて、心なしか震えている気がした。ここで、彼女に悲し紛れに怨恨を吐き散らかしたらなら……彼女が泣いてしまうほど罵詈雑言を浴びせられたなら……彼女の心を傷つける事が出来たなら、今は満足できるかもしれない。だがしかし、後々私は後悔の念に苦しみ暮れることになると思うし、一生の悔いを残すことになると思った。
私にはそれだけの後悔を背負ったまま生きる自信がない。
俯いたまま何も言わない葉山さんに私は「それでは」と呟くように残して、彼女に背を向けたのだった。
万事はこれで良いのだ。腑では依然として恨み節を吐き出せと胎動を繰り返して止まないが、一朝の怒りに我を忘れる事無かれ。怨嗟を口にしたところで葉山さんの心は何一つ変わりはしない。
それに……悲しいと思う気持ちのどこかほっと安堵した気持ちが確かにあった。どういうわけか私自身にもわからなかったが、きっと、前もって葉山さんに振られたと思い込んでいた予行演習がそう感じさせたのだと無理矢理に思うしか心の持って行きようがなかった。
「夏目君、待って!」
「え」突然の声に振り返ると目の前に彼女の顔があったので、思わず私は体を仰け反らせてしまった。
「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」
「……」
私は不意を突かれた上に、今一度念を押されて振られたのでさすがに彼女に対して怒りを露わにした。わざわざ呼び止めてとどめを刺さなくてもいいだろう。
だが、それは言葉の一端でしかなく、何かを躊躇していたのだろうか、彼女は大きく深呼吸をしてから続けて言ったのである、
「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」と。
「はぃ?」私は、あまりの藪から棒さにそう声を出すしかなかった。
「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」
まったくその通りである。
「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」
私を振ったかと思えば、次は真梨子先輩が私の事を好きだと言う。すでに脈略以前の問題だろう。どう解釈すればそんな帰結にたどり着くのだろうか。
「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」
阿呆らしい。私はこれ以上話しを続けるつもりは無かったが、一方の彼女は先ほどとはうってかわって瞳に覇気が感じられる。それに気が付くとつい言葉が止まってしまった。
「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」
「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」
「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから」
「違いますよ……」言い切れなかった。
言われてみれば、真梨子先輩が髪の色や服装を変えたのは私と知り合ってからだと古平も話していたし、虫騒動の夜も合い鍵事件の夜も、どうして先輩は私だけを呼んだのだろうか……
「違いません!」完全に葉山さんの覇気が私を飲み込んでいた。
「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」
「確かに……言いましたけど」
「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらなないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」
「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」
喋るはずがないし、喋りようがないではないか。先輩にどう喋れと言うのだ『先輩は俺のことが好きなんですか?』とでも聞けと言うのか。そんな間抜けな質問など死んでもごめんだ。
「でも……」
ここに来て突然、彼女は語気を弱め、本当に全身を振るわせはじめた。どうしたのだろうか、あれだけ断言していたのに私を言い負かす勢いはどこに行ってしまったのだろうか。
それは不可解ではあったが、私だって大混乱の心中にて彼女を気遣う余裕はなかった。
「約束します。それじゃ」
その後は一度も振り返らず図書館横の階段からグランドに降りるとメインステージではソーイング同好会によるファッションショーが行われていた。とりあえず、開いている席に腰を落ち着けると、ようやく、手に林檎飴を持って居たことに気が付いた。