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桜ん坊と百合の花  作者: 畑々 端子
7/12

天駆けないペガサスが死んだ

 深夜よりも少し前に帰宅してみると、リビングのテーブルの上に見覚えの無い大学ノートの切れ端が置かれてあったそうだ。先輩は慌てて、合い鍵の隠し場所へ行くと合い鍵は盗まれてはいなかった。そして合い鍵を回収するとドアの鍵を閉め、とにかく私に電話を掛けたと言うのだ。

 

 もちろん、犯人に心当たりはない。先輩はそう言い切った。

 

 私は警察に届けることを進めたが先輩は大事にはしたくないと首を縦には振らず、どうしても首を縦に振らない先輩がようやく妥協したのは「大家さんに事情を話して鍵を換えてもらいましょう」と言う私の提案だった。


 その夜に限っては『帰ります』と軽々しく言えなかった。


 かといって『家に来ますか?』とも言えるはずもなく、私は困り果ててしまった。先輩が風呂に入っている間に考えを巡らしてみたものの良案は浮かばず、頭の中が一巡した頃、私は結論を諦めて、白亜の園こと、目の前にそびえるクローゼットに視点を会わせてぼんやりと眺めていた。


 あの日、クローゼットを開けた私は、違った意味で驚いた。てっきり、派手で露出度の高い服やホットパンツやなどが収められていると思って居た私は、悪く言えば地味、良く言えば清楚。そんな落ち着いた衣服の並びに文字通り目を丸めたのである。


 あの夜からどれが本当の真梨子先輩なのかがわからなくなってしまった。私が先輩のことをどのように理解していたのか……それもあやふやではあったが、皮肉にも今回の一件で本当の姿を垣間見た気がする。先輩は私の嫌う派手な婦女ではなく、葉山さんや小春日さんと並びを同じくする純然たる女の子なのだ。


 派手嫌いの私は、先輩の仮初めの姿に惑わされ外見にて嫌っているところがあったのだが、それは私の目が節穴だったからだ。それだけは自分で断言できる。


 先輩が風呂から上がってきて、事態は私が一番危惧していた方向へ舵を切った。


「今夜は……居てくれるんでしょう……」


石鹸の香り芳しく、少し大きめで水色はのネグリジェを着ていた。胸元の青いリボンがワンポイントに添えられてあった……


 私は……私は「今夜だけです」と端的に答えるしかできなかった……


 先輩は卑怯であると私は言いたい。

 

 風呂上がりに頬をほんのり朱色に染めて、上目遣いにどこか自信なさげに小さく口元を動かした先輩は、世界の誰もを恋に落としてしまいそうなほど可愛かったのだから。


 




 その夜、先輩はなかなか寝室へ行こうとせず、炬燵に入ってずっと私の斜向かいに座っていた。


 その頃には、すっかり沈静化した頭の中で、私はひたすらこういう事態も考慮した上で、やはり葉山さんを呼べば良かったと後悔し続けていた。

 

「私は炬燵で寝ますけど、先輩はベットで寝ないと風邪ひきますよ」


 テレビ番組が深夜番組に突入した頃、私はテレビを見ている振りをする先輩に言った。


「平気。結構、炬燵で寝ちゃってることあるし」


 そう言う意味で言ったわけではなくて……いや、そう言う意味で言ったのだけれども……


 深夜帯の番組の多くは趣向が大きく男子の為に傾いていると思う。家族向けに設けられてあってリミッターが解除されるのであるから、男女で見るには気まずい内容もふんだんに盛り込まれてあるわけだ。


「もう私も寝ますから、先輩も寝てください」


 CMで次の番組が桃色に傾いている内容であることを知った私は、強引にテレビの電源を切って、先輩に寝室へ向かうように促した。


「どうし…………恭君はそんなに私を寝かせたいの?」半ば必死な私に、先輩は視線を外して聞いて来る。


 わざとやってますよね。 


「逆に、どうして先輩は寝たくないんですか」


 場数は少ないながらも妄想で鍛えて来た百戦錬磨の私は真顔でそう聞き返した。


「寂しいから……じゃ駄目かな」今度は俯き加減で言う先輩。


 絶対にわざとやってますよね。


 ものすごく反応に困りつつ、私は、至って冷静にと努め。どうしたものかと思案していた。


「そうだ、恭君。お風呂まだでしょ?」


「入りません」


「お腹空かない?」


「空いてません」


「駄目?」


「駄目です」


 今夜の先輩はやけに子供っぽいと思う。変な駄々をこねてみたり、妙に私と一緒の空間に居たがる。後者は私の錯覚と願望が混在した結果かもしれないが。


「こんな事言うと変に思われるかもしれないけど、時々、どうしようもなく寂しくなる時があるの。後の祭りって言うか……なんだろうね、みんなで居る楽しい時間が過ぎて、帰って来てとっても静かな空間に居ると、急に不安になるの。どっちが本当の現実なんだろうって……今がそれ」炬燵布団の模様を数えるように俯いたまま、先輩は言い「そんな自分は嫌いなんだけど、どうしようもなくて」と続けた。


 心中を吐露した先輩の言葉には嘘は無かった。独り暮らしをしている人間であれば誰でも先輩と同じ気持ちを抱いたことはあるはずだろう。かくゆう私も、無性に人肌恋しく思う時がある……


「誰だって、寂しくなることも、人恋しくなることもあります。全然駄目じゃありませんよ。それに……それに先輩が嫌いな先輩の方が俺は好きですから」


 幸いにして合い鍵が盗まれて居なかった。だが、あんなことが後であるから、心が弱る気持ちは私にも理解できる。さすがの私でも、誰とも知れない他人が自分の部屋に入っていたと考えると気色が悪いことこの上ない。


「ありがと。優しいから恭君。好きだよ」


「そんな事を言って、私が勘違いをして、今ここで先輩を抱き締めにかかったらどうするつもりですか」


 あり得ないことだが、あり得ないと言い切れない事でもある。


「ほう。そんなことを言いますか。じゃあ、どうぞやってもらおうじゃないの」そう言うと先輩は両手を広げ、胸元を強調してみせつつ「エロビデオも一人で借りられないくせに」と大きな声で笑ったのだった。


「DVDです」意気地なしも何も、私は、はなっからそんなことをするつもりはない。


 先輩の笑顔を見て安心する一方、私は最後まで潤んだ先輩の瞳を直視することができなかった。



 ◇



 肌寒いはずのベランダに佇み、オリオン座を見上げてはシリウスを探す私は、不思議と少しも寒さを感じなかった。


 炬燵で寝付いたものの丑三つ時を二刻ほど過ぎた頃、全身の痛みで目が覚めてから寝付くに寝付けずにいる。夢うつつと頭だけはこの世の中で一番柔らかい物に乗っかった様な感触が残っているが、背中の痛みに比べれば儚い夢であったと言いたい。


 夜明けに幾ばくかの時間を残して、見下ろす町並みはとても静かで、清澄さえ感じさせる。


 そんな静寂の中に身をおいていると、真梨子先輩を苦しめる悪夢など何もなかったように思えてきてしまう。


 襖を開けっ放しの寝室では真梨子先輩が寝息を立てて眠っている。その無防備な寝顔を見ていると、果たして私はどこまで信用してもらえているのだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。


 私とて明確な男子であるからして、男子たる欲情も持ち合わせていれば、それを夢みることだってある。だから今一度私は先輩にどこまで信用してもらえているのだろうかと考える。


 そして、将来、あの寝顔をすぐ隣で堂々と見ることができる男が羨ましく思えて仕方がなくなった。あの100万ドルの寝顔をすぐ隣で見ることができる男のことが……


 そんな事を考えながら二度寝をして、目が覚めると炬燵の上には焼鮭と味噌汁、卵焼きに湯気を讃えるご飯、白菜の漬け物が並べられてあった。


「ごめん、起こしちゃったね」寝間着のまま台所から顔を覗かせながら先輩が言った。 


「おはようございます」 


私はぼおっとしながら、ぼおっと挨拶をして、豆腐と若布がくるくると揺れている木製椀の中を覗き込んでいた。


「顔洗っておいでよ」


 私の寝起きのふやけた顔を覗き込みながら先輩はお姉ちゃんのように悪戯に微笑んだ。調理の手間が1人分だけ増えたにもかかわらず先輩はとても嬉しそうだった。


 私はお言葉に甘えて洗面所で顔を洗い、鏡を見やるに水が滴ってもやはりいい男ではないことを再確認して朝食を頂くことになった。


 こんなちゃんとした朝食はいつぐらいぶりだろうか……少なくとも実家に帰らなければありつくことは難しい。


「お味噌汁辛くない?」


「とても美味しいです」鰹出汁がしっかりと効いた味わい深いお味ですとも。


 味噌汁一つとっても、日頃から作り慣れていたし先輩の女子力の高さを見せつけられたように思う。私は男であるわけだが……


 将来、このご飯を毎日食べられる男のことも羨ましくなった。


 同じような事をつい先ほど思ったような……既視感に苛まれつつ、つい癖でご飯を味噌汁の中に入れてしまった。


 朝食を終えて、少ししてから私と先輩は連れだってアパートを出て、その隣に住んでいる大家さんの元へ行った。大家さんに会う為だろうか、今日の先輩の出で立ちは、とてもフェミニンだった。桃色とも赤色とも言えない柔らかくて優しい色合いのワンピースをきている。


 出てきた大家さんに事情を説明すると驚愕の色を浮かべた大家さんは「今日中に換えておくわね」と二つ返事で交換してくれることを約束してくれたのだった。 


「大家さんいい人で良かったですね」 


「うん。とっても良い人だよ。あのアパート学生が多いからかな。男の子のとこへなんか作りすぎた料理持ってあげてたりしてるもん」


「羨ましい限りですよ」安さに負けてアパート選びを間違えたと今更後悔した私だった。


「恭君さ。ご飯作ってあげようか?」


 流し目で言う先輩。


「そんな暇無いでしょ。卒論もあれば就活だってあるのに」


 『是非お願いします』と喉まで出かかって慌ててこれを飲み込んだ私は、冷めた声色で切り捨てるように言った。


「こう見えて私、結構、料理できるんだけどなぁ」と唇をとがらせて言う先輩を見て、私はもしかして本気で言っていたのだろうか?と思ってしまったが、それとて真梨子先輩お得意の思わせぶりであるからして冗談だと認識しておいた方が後々傷が浅くて済む。


 文化祭を前日に控え、大学構内では二極化がその色を強めていた。私のように準備に余念なく当日を待つ者と未だ準備成るに至らずと必死に作業を続ける者。


 私は言いたい。何事も余裕と余念をもって望まなければならないと!


 二日前まで同じ穴の狢であった私がそんな傲岸不遜な弁を垂れ流しても、賛同する者どころか四方から金槌が飛んで来そうだ。


 だから、「それじゃ用事があるので」と先輩を正門の前に残し私はペガサス号にまたがり「えっ、恭君も講義あるんじゃないの」と言う先輩の言葉を振り切ってスーパーに併設されてあるホームセンターへ向かったのだった。


 開店時間丁度の店内では未だ品だし作業に勤しむ店員の姿が目立っている。私は特売トイレットぺーパーに後ろ髪を引かれつつもこれを振り切って『鍵コーナ』へ向かうと、多種多様と並んだ南京錠を手当たり次第にカゴの中に放り込んだのだが、レジに行く前に財布の中身を確認して落胆した私はその多くを返却した。南京錠のくせにどうしてこんなに値が張るのか。


 我ながら特売トイレットペーパーを買わなくて良かったと自身の決断を賞賛した。


「しまった……」

 

 当面の生活費を南京錠に換えて帰宅した私は、部屋に入った途端に漂う悪臭と開きっぱなしになっている冷蔵庫の扉を見て唖然として頭を掻いた。そう言えば、真梨子先輩から緊急連絡があってから取る物も取り敢えず駆けつけたとはいえ、冷蔵庫の扉さえも閉めずに行くとは……この匂いは牛乳だろうか……


 私は重いレジ袋を畳の上に放り出すと、まずは悪臭と冷蔵庫の中身を整理する作業に没頭せざる得なかった。結果、食べかけの食品はほぼ全滅し、残ったのは缶ビールと危険匂の漂う生卵だけ。


 生活費の全てを今し方使い切った私にとってはまさに絶望と言うに久しい事態であるが、人間、水だけあればなんとか生きて行ける。その上明日からは甘美祭が始まるのであるからして、各部の差し入れを拝借すればなんとか空腹は満たされるだろう。


 押入の中にしまってあった焼き菓子の缶を取り出すと、ひと思いに畳の上にひっくり返した。途端にアルミのコインが畳の上に山積みとなり、一時金持ち気分を味わった後、片付けが面倒な事に気が付いて頭垂れた。


  とりあえずは1円玉の山は置いておくとして、私は早速買ってきたばかりの南京錠の鍵をばらすと空になった缶の中へこれを全て落とし入れた。


「むう」残った錠と空になった財布を交互に見ながら私は缶の大きさに対して鍵の絶対数が少なすぎると唸った。


 これでは、鍵を隠すなら鍵の中。と言う単純且つ即効性のある私の作戦が成り立たない。私としては缶の中に溢れんばかりの鍵の中にただ一つだけ先輩の家の鍵が混じっている。と言うのが理想であって、こんな疎らな中に先輩の鍵を潜ませるのは私の理想からかけ離れている。


 財布の中を確認すると、理想と現実の狭間で頭を抱えるか煩悶としたあげくに妥協をするか、いずれかの選択肢しか存在しない。けれど、男子には妥協してはならない時が必ずある。加えて、ここで妥協をしてしまっては自身の生活を顧みず理想を求めた美しき自己犠牲の精神が無駄になってしまうではないか!理想的な結果に至らずとも許容範囲に収まる程度までは足掻きたい。いやなんとしても足掻かなければ。先輩の為と言うよりはすでに自分自身の意地のために後詰め策を練りはじめた。


 実を言えば、まだ現金は残っていた。仕送りとは別に部長の私用や執行部のお使いなど、汗と鼻水も積もればなんとやら。しかしながら、これを投入してもなお、焼け石に水であるから安易に使うことはできない。購入するは購入しなければならないのだが、できれば残った金銭を最大限行かした買い物をしなければならない。


 しばらく、寝ころんで考えを巡らせてから、鼻面くらいまである一円玉の山を見て「これを両替するか」と良案に思えて愚策に結論を得ようとしていた瞬間に私はひらめいた。そして、途方もなく後悔をした。往々にして思い込みとは人を間違った方向へ導く。私は机の引き出しから汗と鼻水の結晶を財布の中に入れると、再びペガサス号に跨ったのだった。


 三条通りを遡ること5分程度でペガサス号を止めた私は迷わずに自動ドアをくぐった。そして見つけた南京錠は種類に関してはホームセンターには到底及ばないながら、錠前自体の性能や安全性を求めていない私にとっては質よりも安価であることが第一条件なのだった。今日ほど100円均一店が頼もしいと思ったことはない。私の興味は錠前よりも付属している鍵に向いた。なんのことはない、見た目にはホームセンターのそれと瓜二つではないか。


 私はつい嬉しくなって、通りかかったパートとおぼしき女性に「この鍵をひと箱下さい」と言った。


「ひと箱ですか?」と露骨に訝しむ表情で見られてしまったが「文化祭で使うんです」と口から出任せを追加すると「在庫を見てきます」とすんなりレジ後ろにあるドアに姿を消してしまった。


 なかなか帰ってこない。勢いで箱で頼んだが、この手の商品はひと箱、何個入りなのだろうか……頼んでおいて代金が足りないともなれば、それなりに羞恥心である。


「お待たせしました」

 

 台車と共にドアから出てきた女性は。小包ほどの大きさのダンボールを私の目の前で開けると「こちらでよろしいでしょうか?」と確認を求めた。素っ気ないダンボールには個数は書いてなかったし、中身はぎっしりと詰め込まれていたので、瞬時に数えることもできず、財布を握る手に力を入れながら「はい」とだけ答えた。


 何事もまず覚悟を決めることが大切である。覚悟を決めてさえいれば、例えどんな結末であろうとも受け止めた上に内外の傷も比較的軽傷で済むし、何より狼狽しなくて済む。恥の上塗りと醜態を晒した上に狼狽えては醜さ百倍と言うものだ。

 

 『えっと四〇個くらいだけもらえませんか?』万が一に備えて台詞も用意周到に私はレジへむかったのだが……原価は100円よりも安いらしく。一個百円にしては安価な支払い金額だった。


 やはり頼りとするべきはホームセンターではなく100円均一である。支払いを済ませてダンボールをペガサス号のカゴに入れると、JR奈良駅まで続く緩やかな坂をかんがみて、サドルに跨ることはせずにハンドルに手をかけて徒歩で帰路を急いだのだった。


 クリアパッケージの山と比例して増える錠前、1円玉のそれを順にみやると何かの儀式のように思えてきてしまう。ゴミも増えたが鍵も増えた、結局のところ缶の半分ほどしか埋めることしかできなかったが、錠前一つに付いてくる鍵が4本であるから、総数にして200本くらいにはあるはずだ。


 この中に似たような鍵を一本混ぜてしまえば、持ち主でも見つけ出すのは至難の技だろう。


 缶の中を埋め尽くす銀色の鍵の中に手を入れて見れば痛いほど冷たく、握っり上げては放してみれば、まるで小銭のようにじゃらじゃらと缶の中へ落ちていく。大した作業をしたわけでもないと言うのに、全身に鉛が流れ込んだように急激な疲労感が全身を広がって行く。これが俗に言う燃え尽き症候群と言うやつだろうか……などと思いながら、私は畳の上に寝転がった。


 気が付けば正午を回っていた。





 微睡む暇もくれやしない。 


 寝転がってすぐに携帯が震え、見やると先輩から大学に迎えに来て欲しい旨が記されてあった。無視をしてもよかったのだが、どうせ、この鍵満載の缶を先輩の元へ届けなければならないと言うことを思い出して私は返信をせずに缶を携えてペガサス号に跨ったのだった。


 大学までの登り道をえっちらおっちら登って行くと、すでに正門の所に先輩が待っていて。


「いつも返事頂戴っていってるのに」と可愛らしく頬を膨らませた。


 先輩……わざとやってますよね。


「お待たせしました。今日2コマだけでしたっけ?」


「1つ休講になったんだよ。だから一緒にお昼食べようと思って」そう言いながら先輩は購買で買ったであろうビニール袋を私に見せた。


「ご馳走になるとして、それなら食堂で待っててくれれば良かったのに」


「ほら、今日は気持ち良いから外で食べようかなって思って」


 そう言えば、今日ははっきりと晴れるでもなくかといって風があるわけでもなく。過ごしやすい気候だった。


「もう鍵替わってますかね」 


「わかんない。でも夕方くらいになると思うよ。まだお願いしてから4時間と経ってないし」


「愚問でした」


 そう言われればそうであった。珍しく朝早くからあちこち走り回ったうえに寝不足が加わって、時間の感覚が麻痺してしまっているようだ。


「二人乗りとか久しぶりだわ」


 そう言いながらペガサス号の荷台に横向きに腰を据えると、思わず振り返る私の肩に手を乗せてから、「行き先はお任せ」と片目を瞑って見せたのであった……真梨子先輩であれば、やりそうなことではあったが……


 私は「落ちても知りませんよ」と言いつつ、高揚した気持ちを押し殺して、はいよっぺガサス!と坂道を転がり始めたペガサスの手綱をしっかり握りながら、まさか生涯の内に女子を荷台に載せて走る日が来ようとは……内心ときめいて仕方がなかった。


 それはそれとして、私が真に驚いていたのは、先輩が荷台を跨がずに。横乗りをしたことであったのだ。ワンピースと言う出で立ちのためかもしれないが、個人的に荷台に跨いで座る女子を見ると、げんなりとしてしまう。品性の欠片もありもしない。


 勢いだけで見切り発進したものの、思い切りブレーキを握るたびに、断末魔の金切り声を上げるペガサス号には一抹の不安が拭いきれず、適当な所で止まらなければと思わざる得ない私であった。


 使うたびに効きが悪くなるブレーキが遂に効かなくなってしまった。舟橋商店街を通り抜け、川沿いの道にハンドルを切ったところで私はペガサス号を止め、先輩に歩くことを促した。


 幾ばくか葉の残る桜並木を見上げながら、歩き出した先輩は珍しく無口で、これからペガサス号との付き合い方について考えていた私もさすがにそちらの方が気になってしまった。


 麗らかな昼下がり、この道ですれ違うのは老夫婦か気まぐれなジョガーか。広い道もないからとにかく雑音が少なく、ある意味特有の雰囲気のある世界がここにはあった。桜並木を少し進むと、凸凹したアスファルトの道から桜の花びらを象ったレンガが敷き詰められた道との堺があり、その脇には川縁へ降りる階段が設けてあって、ただ降りるだけで桜の大樹の麓へ行くことができた。


 この道を通る度にこんな汚い川を眺めながら一時を過ごす者がどこにいるのだろう。と眉を顰めていたものだが。まさか自分がその『者』になろうとは思いもしなかった。


 増水すればたちまち姿を水面下に消してしまうだろう、タイルが敷き詰められたスペースにはコンクリート製の見た目にも頑丈、インテリの欠片もない長いすが設けられてあり、真梨子先輩は先にその椅子に向かって階段を降りて行ってしまった。


 私が椅子の所にやってくると、先輩は袋の中をまさぐって「どっちが良い?」と昼ご飯に買い求めていた菓子パンを取り出した見せてくれた。


「先輩が先に選んでください」 


「じゃあ、私メロンパンにするから、恭君はコロネね」 


「頂きます」


 私は頭を掻きながらそう言って、チョココロネを受け取った。


 さてどうしたものだろうか……この時、私はどうでも良いことを思慮していたのである。すでにズボンのポケットには片手を忍ばせてある。早く答えを導き出さなければ、次の瞬間には手遅れになってしまう。それでは思慮とて本末転倒であろう。


 このような事は、いつか、彼女と呼べる乙女とのデートの時にこそ。そう考えていたのだが……


 私は何も言わずにズボンのポケットの中で握っていたハンカチを取り出すと、真梨子先輩の鞄の隣に広げて敷きやっと「どうぞ」と呟いたのであった。


 きょとんとしていた真梨子先輩の表情からすれ、私はとてつもなく恥ずかしくなってしまった。てっきり。「ありがとう」の一言が先行すると思っていた……乙女とのいいや、葉山さんとのデートの事前練習として、行動してみたのだが……この結果は家に帰ってから冷静な頭でもって次はどうしたものか論争する必要がありそうだ。


「何が面白いんですか」


 私は頭を掻いた。真梨子先輩は何が面白いのか、くすくすと笑いながら、ハンカチの上に腰を降ろすと、やはり何が可笑しいのかそのまま笑い続けていた。


 これでは私の立つ瀬がない。


「今時、こんなことする人いないよ。恭君って紳士だねえ」


 紳士と言われることは嬉しくある。だが、笑い声と共に言われると、からかっているのか篤実と評されているのか判断に困る。


「そのワンピースを汚すのは勿体ないと思ったんですよ。これから家庭教師のバイトもあるんでしょ」


 これも真実である。全てが婦女への愛情と言いたいところである。だが、半分はワンピースに一片でも土色がついてしまうのが勿体ないと思ったからなのだ。


「春また来たいね」


 涙を目尻の拭ってから水面を愛でるように見つめながら真梨子先輩はそう言ったのであった。





 先輩よりも早くコロネを食べ終えた私は、会話の機会を窺うことなくただ、浅い流れの水面を見つめては佇んでいた。やはり季節は確実に冬へ向かっているようで、何もせずにじっとしていればそれなりに冷えてくる。


「なっちゃんも一緒だったら良かったのにね」


 先輩はスカートの上に零れたパンクズを払いながら呟いた。


「それなら、小春日さんや音無さんも……」古平も……と言いかけて言うのをやめた。黒一点は私だけで十分だ。


「なっちゃんと何かあった?」


「どうしてですか」


「ついこの前まで良い雰囲気だったのに、今はぎくしゃくしてるって言うか、さ」


「それは先輩の勘違いです。良い雰囲気になんてなった試しがないし、どうやら私は葉山さんに嫌われてしまったようですから」


「もう葉山さんのことはいいんです」先輩が口を開きかけたの制するように続けて私はそう言った。


「女の子って、男の子からすれば面倒くさいんだよ。だからさ、少し我慢してあげてよ。今はそうでも時間が解決してくれると思うから」


 そんな優しい顔でこちらを向かないでください。私は先輩のお節介加減に腹が立った。恋愛請負人と名を馳せ、知る人の居ない真梨子先輩であるから葉山さんをさりげなく紹介してくれたあの日は……あの日ほど先輩に感謝した日はなかった。そう思って疑わなかった。


 思い起こせば私はこれまで、恋をするほど好きでもない異性に対して幾度か告白をしてきた『友達でいたい』とか『ごめんなさい』とか『そう言う告白はいや』とか『無視』とか……大凡、これ以上ないくらい振られ続けた経験をのみ培ってきた私なのだ。自身でもこれ以上の振られ方はあるまいと、次こそは成功するに違いない。と胸をときめかせ加えて真梨子先輩が後ろ盾てくれる現状から失敗することなど……微塵も感じていなかった。けれど、世間は広い、私1人が経験する事象の多さからすれ世間は広すぎた。


 まだ外堀を埋めている最中に『告白する前に振られる』を新たに経験した。そんな経験値ばかりを高めてなんとする。ファンファーレと共にやさぐれ捻くれレベルがアップするばかりではないか。


 縁は異なもの味なものと言うが、私は古平や部長を筆頭に阿呆漢との縁には恵まれても乙女とのご縁には遠く恵まれない星の下に生まれてしまったのだと生まれの不幸を呪うしかないのだ。


 諭すように語りかける先輩の声を聞き流しながら私はやさぐれていた。そして、畳の上に残してきたゴミの山の後始末と1円玉の山の事が心配になり頭を垂れたのだった。


 夕方を前に「冷えてきたね」と先輩が呟いて、頃合いだろうと「そろそろ交換も終わってると思いますよ」私はそう言うと静かに立ち上がった。


 言葉少なく歩く道すがら私はやっと理解した。確かに私としては葉山さんが居ない方が気を遣わなくていい分、助かったのだが。内心ではどうして先輩が葉山さんを伴っていなかったのが疑問だったのだ。感づいたのか葉山さんから何か聞いたのか、先輩は私に『諦めるな』と言いたくて二人きりで話す機会をつくったのだろう。けれど、どうしようもない。仲直りもなにも喧嘩をしていないのだから直しようがない。それに、そもそも自分の恋路を先輩頼みにした私も情けがない。


 先ほどはつい先輩に腹を立ててしまったが、それこそ愚考だった。他力本願の丸投げでは成就するものも成就するはずがないのだから……


 大家さんの家に行くと「もう鍵の交換は終わってるからね。恋人に頼るのも良いけどストーカーだったら警察に連絡してよ」と大家さんは心の底から真梨子先輩の事を心配してくれていた。本当に人の良い大家さんであるが、一つだけ訂正しておきたいと思う。


 私は真梨子先輩の恋人ではない。 

 

「恋人だってさ。これからも頼らなくっちゃね」


 新しい鍵をキーホルダーにつけながら、嬉しそうに話す先輩。この人は究極の楽天家なのか事の重大さをすっかり忘れてしまっているのか。

 

「あんまり代わり映えしないね」 


 自宅へは先輩が先行することになった。缶をペガサス号のカゴに忘れて来てしまったことに気が付いて私が引き返したからである。

 

 ドアの前で私を待っていた先輩に私が言った。確かに、据え付けられたドアの風合い違いに新しい鍵穴を見るに交換されていることは見た目にも確かではあったが、どうやら錠自体は以前と同じシリンダー型の物らしかった。


「前の鍵じゃ開かないから大丈夫だと思うけど」先輩は、以前使っていた鍵を入れて見たが錠は開くことはなかった。


 そして、視線はメータケースのドアへ行くのだ。


「駄目だって言っても聞きませんよね。合い鍵の隠し場所を用意しましたから」


 どれだけ言っても先輩はまた同じことを繰り返すだろう。ならば、やめさせるよりも、受容の後にそれに沿った対抗策を考える方が論理的である。それが事件のあった夜、炬燵の中で熟慮の末に出した私の結論だった。


「これ、全部鍵……」私が差し出した缶の蓋を開けて先輩はそう呟くと、何度か鍵の群れに指を差し込んでかき回すようにしていた。

 

「木を隠すなら森の中って言うでしょ。鍵を隠すなら鍵の中です」


 私は少しばかり得意になって言った。諺のようなことをすらっと言えるとどうにも自分が偉くなったような気になって心地が良い。

 

「ありがとう。こんなにしてもらって……恭君は私の王子様だね」目尻に浮かんだ涙を拭いながら先輩が言うので「そこ泣くとろろじゃないですよ」とすっかり自己陶酔していた私は思わぬ涙に、舌を噛んでしまった……臨機応変に立ち回れない辺りは自己嫌悪である。 


「でもこれじゃ、どれが合い鍵なのかわかんないね」完爾として口元に笑顔を作る先輩だったが、遂に涙を拭いきれず何よりも透明な雫が頬をつたい、やがて顎の先から足下へ落ちて行く。

「ごめん。嬉しくって……でも変なスイッチ入っちゃったみたい」と震えた声で続ける先輩。


「喜んでもらえたなら私も嬉しいです」私は頭を掻きながらやっとそう答えることができたのだった。

  

 その後しばらく先輩は泣き続けた。そんな先輩の姿に昨夜の事を思いだしているとと「上がっていってよ」と先輩は充血した目で言うのだ。私は困った顔をしてから作品を部長に提出しなくてはならない旨を伝え、これを断った。


 お邪魔しても良かったのだが、話すことは川縁で全部話した気がするし部長への提出の件は本当だった。


 珍しく食い下がらなかった先輩は「昨日から本当にありがと、やっと安心できた。後……ハンカチ嬉しかったよ。まさか映画のヒロインみたいなこと、してもらえるなんて思ってもみなかったから」と真梨子先輩は申し訳なさそうにはにかんで見せた。


「当然のことをしたまでです」と私は胸を張って答えた。


 別れ際、


「ハンカチ洗って返すからね」と先輩は私の背中にそう言った。ポケットの中にずっと入れっぱなしにしていて、もしかしたらあの椅子よりも汚いかもしれないハンカチであるからして、今更ながら逆に私が申し訳ない気持ちになってしまった。


 私はスキップをしたい気持ちを抑え、ドアの閉まる音を待った。そして、階段に差し掛かったところで、その音が聞こえるや否や、本当にスキップをしながら階段をおりた。階段をスキップで降りるなどと、高度なスキップテクニックが自分に備わっていたことに驚きつつ、私はどこまでも上機嫌だったのである。


 感謝の言葉の後に『当然のことをしたまでです』この一言がただ言いたかっただけかもしれない。それでも良い。この広い世の中で『当然のことをしたまでです』と実際に言うことができた男子が幾らほどいようものか!私の悦喜は最高潮達し、ペガサス号への数歩の合間を拳を突き上げ、私は今なんと格好の良い男なのだろう!と疑いもしなかったのである。 

 

  その刹那「格好悪いぞ。スキップ恭君!」真梨子先輩の声が聞こえた。ペガサス号に跨った私が見上げる先には、悪戯に微笑む真梨子先輩の姿があった。


 私の栄光は5分と保たなかった……



 


 今日を1日がんばりましょう。と目まぐるしい日々を越えて、ようやく私は最後の釘を打ち合えたのでした。


 教室の端で居眠りをしている人、床に散らばる木材片やダンボール、絵の具が何重にも練られたまま固まってしまっているパレット。改めて見回してみると如何に作業が壮絶を極めていたかを窺い知ることができます。


 「ふぅ」私は一息ついてから、軍手を外して資材置き場の上におくと、外注リストが所狭しと書かれた黒板に向かい、最後の外注品のところに赤いチョークで横線を引いたのでした。


 後は、外注元である各部、同好会が品を取りにくるだけですので、やはり私達の仕事は終わったのでした。


「お疲れ葉山さん。ごめんね、外注ばっかりお願いしちゃって」実行委員の音無さんがペットボトルのお茶を差し入れてくれました。


「いいえ。楽しかったですから」


「明日は本番だから、今日はゆっくりしてよね」


「はい」


 そう返事をしてみたものの、個人作品があるわけでもなければ小春日さんのように最終日にファッションショーを控えているわけでもありませんから、どちらかと言えば参加者と言った方が正しいのかもしれません。


 心地よい疲労感に包まれ、半ば燃え尽きたようにぼおっとしていました。教室に差し込む夕焼けのオレンジが一層疲れを助長しているように思えてしまいます。


 このままここで玉響のうたた寝をしてしまっても誰に何を言われることもないのでしょうね。そんな事を考えながら差し入れのお茶を一口飲みました、喉の渇きさえも忘れていましたので、含んだお茶は私の体の中を巡って乾いた体を潤してくれているようでした。


「終わり」


 寂しいような嬉しいような。いずれにしても私の役目はこれにて終わりとありなりまして候。なのです。

 ジャージの上着についた木くずを払いながら帰っている途中に真梨子先輩から電話がありました。


「はい」


「よかったぁ、なっちゃんまた携帯家かと思ってた」


 そう言う先輩に私は少し口をすぼめました。資材の調達や作業の進行具合など、その連絡手段として携帯電話必須アイテムで、ここ3日間、私は生涯で一番携帯電話を使ったと胸を張って言えるのです。何せ、充電器を大学へ持ち込んだくらいですから。


 先輩が「前夜祭しようよ」と言うので私は一度家に帰るか否か考えてから、直接先輩にアパートへ行くことにしました。


「何か買って行く物ありますか?」とメールを打っている最中に「何も買ってこなくっていいからね」と先輩からメールが入りました。何もかもお見通しなのですね。私は携帯をポケットに片付けると、少し歩みを早めました。


 何を作るのかは知りませんでしたが、お手伝いくらいはしなくてはいけませんあから。


「お邪魔します」


 先輩のアパートに到着すると、丁度先輩は誰かに電話をしている所でした。小春日さんでしょうか?と思っていたのですが、電話を切ってから「いらっしゃい。小春ちゃんも呼んだんだけど、まだ準備残ってるって」と言うのです。では一体誰に電話をかけていたのでしょうか。


「今夜はお鍋をします!」


 エプロンを私に差し出しながら先輩は高らかに宣言をしました。


「朝夕冷えますもんね。がってんです」


 私は頼りない腕を曲げて力こぶをつくる仕草をしてこれに答えました。


 お鍋の材料を切ったりと準備をしている最中、今日中に千年パンツの仕上げをすることや、


「ねぇ、どうして上下ジャージーなの?」 


「家にあった汚れても良い服がこれだったんです」


「ふーん。それ、高校のジャージーでしょ」


「はい。母が送ってくれた荷物の中になぜか入っていたんです。送り返すのがめんどうだったので箪笥の奥にしまってたんですけど、思わぬところで大活躍です」


「うーん。ジャージーかぁ」


「ジャージーにエプロンが不似合いな事ぐらいわかってますよ。スカートでは釘打ちはできないんです」


「うーん。そう言う意味じゃなくってね。んーそこまでマニアックじゃないと思うわけよ。私は」


「ジャージーはマニアックですか?みんな着る時は着ますよ。体育の時とか」


「さすがにロリコンじゃないと思うし……」


「私はロリコンじゃありません!」そんな噛み合わない会話をしていました。

 

 やはり一度家に帰って着替えてから来た方が良かったですね。お手伝いを優先させたことに関しては後悔はありませんが………そんなにジャージー姿がおかしいのでしょうか?


 コンロと土鍋を炬燵の上にセットしていると、呼び鈴がなりました。


「ごめん。なっちゃん出て」


 私は音無さんでしょうか。と思いながら「はーい」と玄関へかけて行き、ドアを開けるとそこには両手に重そうな袋をぶら下げた夏目君が立っていました。


「あ、こんばんは」私は思わず夏目君の顔から視線を逸らしてしまいました。それ自体に意味はないのですが、てっきり音無さんだと思っていたので驚いてしまって……つい……


「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」

 

 夏目君は小さく会釈をして、そう言いながら携えていた袋を玄関に置きました。


「それじゃ、私はこれで」今度は夏目君が私から視線を逸らしてそう言います。


 ドアが静かに閉まってから、夏目君が置いて行った袋の中身を見るとそこには南京錠が売るほど入っていたので違う意味で驚きました。


「あれ、恭君じゃなかった?」


 お玉を持ったまま先輩が玄関に来たので「夏目君でしたけど、これを置いてすぐに帰りました」 

 

「えぇー嘘ぉ。前夜祭一緒にしようと思ったのに」あからさまに肩を落として残念がる先輩です。


 さっきの電話の相手は夏目君だったのですね。私は得心がいきました。そして同時に、しくじってしまった事に気が付いたのです。これは夏目君と先輩の親密度を上げるチャンスではありませんか!っと。


「追いかけましょうか?まだ間に合うかもしれませんから」私はそう言いきらない内にドアノブに手を掛けました。


 けれど「追いかけなくてもいいよ」っと先輩の手が私の腕を掴んだのでした。


「え……でも……」私は宙を泳ぐ右手を引っ込めました。


「今夜は二人だけでお鍋しよ。ちょっと寂しいけど」

 

 そう言う真梨子先輩は何かを諦めたような……そんな風でした。





「そう言えば、この大量の南京錠。どうしたんですか?」これは夏目君に聞いた方が良いように思ったのですが、とりあえず先輩に聞いてみました。

 

「んーとねぇ」


 先輩は土鍋に昆布を入れてから少し考えていましたけれど、「こっち来て」と玄関の方へ行ったかと思うと、さっさと外へ出て行ってしまいました。


 私も急いで後を追って外に出ると、先輩がガスメーターの防火硝子張りの蓋を開けていました。


「これ見て」


 私が出てきたことを確認してから、先輩は以前に見た物よりも2倍以上は大きいお菓子の缶を持ち上げて私に見せてくれました。


「合い鍵の置き場所ですよね?」


 缶の中をのぞき込みと、同じ様な形をした鍵が缶の中程までぎっしりと入っているではありませんか「これ、先輩がしたんですか?」思わず眉を顰めて先輩に聞きました。すると、「違うよ。恭君がね、わざわざ用意してくれたの、私のこと心配して」と缶をまるで自分の子供のように愛おしそうに見つめる真梨子先輩です。


「なるほど。ブラウン神父ですね」


「誰それ?」きょとんとする先輩でした。


「木を隠すなら森の中。と言う言葉の原型を作った人です」ブラウン神父は物語の登場人物なので、厳密にはその著者が作った人なのです。


「そうなんだ、知らなかったわ。なっちゃん物知りだね」


 先輩は普通に驚いているようでした。中学の時にたまたま小説を読んで知っていただけなんですけど。


「でも、これだけあったら本物を見つけるのも大変ですよね……」


  私は先輩の抱える缶の中に手を入れて、ひんやりと冷たい鍵を掴んでは離しを繰り返しました。なぜかお金持ちになった気分になるのは気のせいでしょうか。


「だよね。だから、目印どうしようか考えてる途中なの」ガスメーターの下に缶を戻しながらそう言う先輩は「だからまだ合い鍵入れてないの」と苦笑をしながら続けてそう言いました。


 確かに、これだけの鍵の中からたった一本の鍵を見つけ出すことはとても難しい事だと思います……けれど、これではどれが本物なのかさえわからないじゃないですか。


 合い鍵とはもしもの時に重宝する鍵ですから、もしもの時、すぐに見つけ出せなければ意味がありませんし、それが急ぎの時であれば「こんな余計なことをして!」と憤る事請け合いです。


 夏目君は感謝と迷惑が絶妙に織り交ぜられたややこしいことをしますね。と私は思ったのですが、当の先輩は「頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ」とまんざらでもない様子だったのでそれを口に出すことはしませんでした。


 お鍋の中身が煮える間、私は足先から沸き上がる羞恥心に顔が熱くなるのを感じていました。


「夏目君を呼ぶなら言っておいてくださいよ」 


「言ったらなっちゃん帰っちゃったでしょ?」


「どうしてそうなるんですか。せめて、先輩が出て下さい」


 今になって考えてみれば、きっと夏目君は吹き出すのを我慢していたのだと思います。目の前にいきなりジャージーにエプロンをした女の子が現れたなら、そのちぐはぐさに笑ってしまうことでしょう。人は驚きすぎると言葉が出てきませんけれど、爆笑を堪えている時だってやはり言葉を発することができないのです。

 

「そんなに恭君のこと嫌わないでよ。悪気はないんだから」


「だから嫌いとかそう言うのではなくって、こんな格好でその……恥ずかしいじゃないですか!」


 帰るとか嫌いとか、先輩はいちいち話しを変な方向へちゃかすので私はつい語気を強めて言ってしまいました。言い終わった後に、先輩が惚けていたので、しまった。と思ったのですが、次の瞬間には「なんだ恥ずかしかったんだ。よかったぁ」と言いながら真梨子スマイルを炸裂させたので、私は内心ほっとしたのでした。





 先輩と別れ、大学へ寄った後、家に帰って来た私は突きつけられた現実に思わずため息をついた。文芸部展示室に並べられた他部員の作品の中に『千年パンツ』紛れ込ませた後、執拗に電話を掛けてくる部長の電話を尽く無視をしてさっさと帰宅したのだが、畳の上にはゴミの山と鍵の無い南京錠の山、そして私の命綱となるかもしれない1円玉の山がそのまま残っていた。


 どうやら妖精さんは私の留守中に現れなかったようである。かといって、帰って来てこれらの山がどうにかなっていたらそれはそれで恐ろしい。妖精さんなど押入にも引き出しにもいやしないのだ。


 とりあえず、それぞれをレジ袋に詰めて部屋の片隅へ固めておいておいた。腹が減ったと冷蔵庫を開けてみればものの見事に何もなく、卵だけがあったからとりあえず卵を焼こうと殻を割ってみれば、途端に得も言われぬ悪臭が私が襲った。生命の危険を感じた私はたちまち台所から退避してみたが、悪臭は私をホーミングするかのようにどこに逃げても追いかけて来た。咽せながら最終的にベランダへ逃げ込んだ私は、心なしか黄ばんで見える部屋の中を見ながら、生でも焼いても茹でても良し、美味必然の生卵がいつの間に化学兵器に成り代わってしまったのだろうか、と真面目に熟慮をし、もしかしたら侵入者があったのかもしれないと結論づけた。


 私はベランダから望むマンションに灯る明かりの一つ一つを見ながら、あの一つ一つに家庭があって今頃、美味悦楽の真っ直中にいるのだろうな。などと、マッチ売りの少女に同情の念を馳せる一方で、やっと窓をあけて悪臭に支配される部屋にはいったのだった。


 空きっ腹に寒さは答えるのである。


 喚起と言う喚起を施して後、ベランダほど冷えはじめた室内にいて私は携帯が震えていることに気が付いた。また部長だろうと無視をするつもりでいたがもしかしたら、と携帯を手に取ると案の定、真梨子先輩だった。


 昨日の今日であるから、私はまた何かあったのだろうかと臍を固めて電話に出ると


「あっ、恭君。今大丈夫?」と普段の声が聞こえて来たので胸をなで下ろした。


「大丈夫です。なんですか?」  


「あのね、恭君がくれた鍵の鍵ってどうしたかなって思って」鍵の鍵って……先輩のことだからてっきり、『前夜祭しよっ!」などと突拍子の無い提案をしてくるのかと思った。現在の私にとってはとても有り難い提案なので、電話口一番に甘美祭の話題に私は落胆の色を隠せなかった。


「錠の方なら、まだ持ってますよ」捨てようにも南京錠は何ゴミになるのだろう。やはり燃えないゴミだろうか。


「よかった!今テレビ見てて良いこと思いついたの。悪いんだけど家に鍵持って来てもらえないかな」


「全部ですか?」


「うん、全部!」余程、良案が閃いたのだろう。先輩の声は私と逆ベクトルで明るく弾んでいた。


 私と言えば「わかりました。もう少ししたら持って行きます」と素っ気なく返事をして期待はずれと一方的に切ってしまった。


 空腹は時として人格さえも変えてしまうのである。


 期待はずれだっただけに、余計にタイミングが悪いと思ってしまうのはもはや仕方がないことだと思う。昼間無理矢理2人乗りをしてペガサス号のブレーキがお亡くなりになってしまっていたことを忘れていたのだ。仕方が無く、すでに食い込むビニール袋を両手に下げて私は真梨子先輩のアパートへと向かったのである。


 両腕が疲労を通り越して痺れはじめた頃、やっと先輩のアパートに到着した。呼び鈴を鳴らすとドアの向こうから、「はーい」と言う声が聞こえた。声からして先輩ではないことがわかったからもしや、と思うも時すでに遅く開いたドアの先には葉山さんの黒い瞳があった。


 目があってしまったので不器用な間があってから「あ、こんばんは」と言った。すると葉山さんは返事をすることなく視線を逸らしたではないか。目は口ほどにモノを言うのだから、どうしても嫌われてしまったものだ。と私も葉山さんから視線をはずして「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」できるだけ葉山さんが視界に入らないように気をつけながら運んで来た荷を玄関のところに置いた。


「それじゃ、私はこれで」


 瞬間だけ葉山さんの姿を眼に焼き付けると足早にその場から退散した。


 帰りの道すがらも部屋に帰ってからも、私の頭の中はジャージー姿の葉山さん一色であった。普段着の葉山さんも可愛らしい。だが赤に近い紺色のジャージー姿の葉山さんとてやはり愛らしい。ドアから顔を覗かせた葉山さんを思い出しながら今更ながら、共学の高校へ行っておけばよかったと猛烈に後悔したし、目視撮影にて脳内現像された葉山さんに思いを馳せてはどうしてエプロンをしていたのだろうとか、やっぱり可愛いなぁ。と私自身がすでに【振られた(仮)】現実を踏まえた上でもまだ葉山さんに恋いこがれている事実を認めざるを得なくなった。この感情だけは決定的な結論を彼女自身から告げられない限り、私本位に都合良く割り切れるものではない。


 私は葉山さんのことが好きだ……彼女の事を考えると夜も眠れず空腹さえも忘れてしまう。


 だからこそ、今のままではいけない。このままでは、自分の気持ちすら伝える勇気がない言い訳に煩悶と歪曲を繰り返しあげくにフランソワーズちゃんしか愛せなくなった部長の様に堕落してしまう。


 私はアレを男子の成れの果てと呼んでる。


 明日から数日続く甘美祭はそれにうってつけの機会であり、日頃では絶望的でもこの誰しもが浮かれる数日間に関しては勝率がかなり上がる……らしい……古平情報なだけに信用しきれない部分もある。だが、この機会に成功を収めることができたなら、後に続く、クリスマスや大晦日を最大限充実させることができる。


 理詰めにて十分に自身を鼓舞した私は、闘志をみなぎらせ来る一世一代の天王山はこの機にあり!勝負はいつでも一か八か石橋叩きくそ食らえ! 


 と、ノープランで勢いづいていたのであった。





 無駄に興奮をしてうまく寝付けなかった翌日、私は部長からの着信で最悪な朝を迎えた。


 全然把握していなかったのだ、どうやら、甘美祭初日、展示室の案内係が私であるらしく、「シフト表を作らない部長が悪い」と抗議してみるも、聞きとれないほどあれやこれやとがなり立てるので、仕方がなく着の身着のままで大学へ向かうことにした。


 徒歩で大学へ向かうと、えらく文化祭らしく様変わりしていたので正直に驚いた。昨日訪れた時にはその毛すら感じられなかったと言うのに、一晩でよくここまでやってのけたものだ。


 秀吉の一夜城も吃驚である。


 『甘美祭』とかかれたアーチをくぐって、講堂まで所狭しと露天がならび、ピロティでは演芸部が客引きに奔走していて、一部の学生が執行部に追いかけられていて。賑やかなること祭りの如し。「文化祭はこうでなければいけない」私は納得するように頷いた。

 『祭りは雰囲気を楽しむものだ』祖父の口癖であったが、それまさに、「同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」講堂棟からメイン会場であるグランドを挟んだ向こうに見える部室棟の屋上から上がっている広告気球を見上げながら私はもう一度呟いた。


 間に合わなかったのだろうか。講堂棟の中庭内にある緑地帯ではクリエイティブらしい面々が何やら急ピッチで建設中であった。ご苦労なことである。


 ビンゴゲームに白熱するグランドを横切って部室棟内にある文芸部の展示へと向かうと受付と書かれた紙コップを置いた長テーブルに部長がいて、電話口と替わらない音量で何やかんやと文句を言われた後に真梨子先輩の近況を聞かれた。


「そんな事、知るわけないでしょ」面倒くさいので適当に返事をして展示室内に入ると思っていたとおり文芸部員の面々が出展した作品を身内同士で褒め合っていた。

 

 そんな微笑ましい情景に唾棄したい気持ちを抑えつつ、狭い室内に並べられた文芸紙や個人作品、部長のフィギュアコレクションを一通り見て回った私は、受付席に腰を降ろして、大きな欠伸をしつつ大袈裟に伸びをした。


 去年もそうだったが、いくらスペースが余ったからと言って、フィギュアを並べるのはいかがなものだろうか。過去の作品を並べるなり、やりようはあるはずだろうに。


 身内論評を十二分にし終えて、満足感を漂わせて部屋を出てきた面々を見送りつつ、「夏目君のも面白かったよ、もう少し推敲したらもっと良くなったのに」と感想をくれた愛すべき隣人を「〆切に間に合わなかったんだ」ともっともらしい言い訳をしてやり過ごし、静寂を取り戻した廊下で私はさっそく机に突っ伏したのであった。

 

 



 30分ほど意識を失って、足先の寒さで寝られなくなった私は、エアコンの入った展示室内に入ると、受付から携えてきた油性ペンでフィギュアに落書きに興じたのである。


 瞳を塗りはじめた所で、ポケットが震えるので取り出してみると、真梨子先輩からのメールだった。


[中庭で面白いことするから、なっちゃん誘って一緒においでね]


 ほう。また悪巧みですか先輩……大好物です。


 私と葉山さんとの仲を取り持ってくれる先輩の気持ちは、とても嬉しかったのだが、私の気持ちの中ではすでに他力本願では成せるを成せず成るを成らせず。もう覚悟を決めていた。


[葉山さんとは行けません]


[どうして?]


[葉山産にはすっかり振られていたんです。先輩も私と葉山さんの事は気にしないでいいですから] 


 回りくどいやりとりを続けて、電話を掛けてこられても困る。少々仰々しく葉山さんとの結論ではなく私自身の結論を託して、最後のメールを送信した。


 送信した後になってあんな文を送った方がよっぽど電話がかかってくると思い直し、急いで携帯の電源を切った。


 何の接点もなかった葉山さんとの切っ掛けを作ってもらえたこと。ただそれだけで良かったはずなのだ。これ以上のお膳立てはいらない。




必要なのは不退転の覚悟ただそれのみ。











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