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桜ん坊と百合の花  作者: 畑々 端子
6/12

円満解決の難しい方の三竦み

 物事とは起因の因果を別として一度動きだせば、思わぬ幸いにぶちあたるものなのである。あまりに、近くに居ることを日々としていた私は、文芸誌に掲載する千年パンツを執筆のため、我が根城たる流々荘に籠もりきりとなって3日。ようやっと、葉山さんに恋をしていたことを思い出した。


 夏休みに行われた『文芸誌がんばろー会』の場にて知り合ってより、ここここ5ヶ月間という期間、言葉は交わさずとも何かしら彼女と場を同じくしており、彼女の記憶が薄れる暇がなかった、だから私はいつでもどこか満ち足りた面持ちでいた。


 そう言えば聞こえは良いが、真梨子先輩が居て葉山さんが居た。が正しいく、今までをもやもやとした夢であると言うのであれば、現在はすっかり夢から覚めてしまった面持ちの私はどうにもやりきれない心中で、気が付けば「むぅ」とため息のような唸り声のような、よくわからない声を出していたりした。


 そんな心中にて、千年パンツなどと言うそもそも、私自身ですら得たいを知らない物の筆が進む訳もなく、私は仕方がなく葉山さんに会うために、大学へ向かい、校門を通ってすぐに、真梨子先輩を探したのであった。


「おー恭君、えっと3日ぶりっ」


 見つけたのは真梨子先輩が先であった。


「いよいよって感じですね」


 私は講義そっちのけで文化祭へ向けて滾る青春のエネルギーを単純に燃やす同士の姿を見ては、駆け寄ってくる真梨子先輩にそう言った。


「夏目君、こんにちは」


 もちろん、その後ろには葉山さんがいて、私は「奇遇ですね」と引きつった笑顔を浮かべてみた。人は3日笑わなければ笑顔も引きつるのである。

 

「恭君お昼食べた?」


「まだですけど」


「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」


 声を弾ませつつ、何やらにやにやしていた先輩は、行きつけと称する洋食店へ私と葉山さんを先導すると、注文の段となって「あちゃー私バイトへ行かなきゃだったんだ」とわざとらしく棒読みすると、困った顔の葉山さんを残して「また明日ね」と店を出て行ってしまった。


 私は無論、先輩に感謝をしていたが、こうも露骨であると無用な気を回してしまう。葉山さんも、私と同じ心中であるらしく、窓の外、通りすがりに手を振る真梨子先輩の姿をさらに困った眼で見送っていた。せめてもの助けは、葉山さんが私の気持ちに気が付いていないと言う事実ただそれだけ……


 結論から言えば、その時も、その後も何もありはしなかった。食事の時は葉山さんがクルッポと呼ぶ鳩のカップルの話や、ここ3日間の真梨子先輩の武勇伝を拝聴したり、それはそれは穏やかな時間であった。けれど、私はどこか興奮していたのだろうと思う。意中の女性を前にして二人きりと言うこの貴重な状況に、私はきっと一掬の緊張と一反の興奮をしていたのだろう。


 私の注文をしたデミグラオムライスはまるで味がしなかったし、面白可笑しい話しも気の利いた話しも、何一つとしてすることはできなかった。


 失意に思うことはない。けれど、私は洋食店の前で別れた彼女の背中を見ながら、もうこのような機会はないのかもしれない。これが最後なのかもしれない。そんな風に思うと、一層、この1時間にも満たない時間が貴重に思えて仕方がなく、どうして、葉山さんとの距離を縮めなかったのか!と切ない気持ちに吹かれてしまってしょうがなかった……別れ際に大きなため息をついた彼女に対してどうやって距離を縮めれば良いと言うのだ……


 終わりが悪ければ全て悪い。


 切な風に吹きさらされた私は、流々荘へ帰って愛すべき四畳半の寝転がると天上の染みのようなモノを見上げては「はぁ」と深く重たいため息をついたのであった。



 ◇ 



 文化祭を目前に、千年パンツを巡る主人公と愉快な仲間達がおりなす南走北飛の活劇は未だクライマックスにも居たらず、ヒロインときたら引き籠もりを決め込んだまま、台詞とて一つもなく。ゆえに限りなく男のみが喋り行動をし、のたうち回ると言う、青春活劇にあるまじき男臭の濃い作品へとひた走っていた。それもこれも、私の実生活から乙女臭が消えてしまったことが大きな原因だと私は声を大にして言いたい。作品の序盤を書き始めた頃、私の毎日は乙女臭に色めき立っていた。真梨子先輩の甘い香水の香りに、葉山さんのシャンプーの匂い。私の嗅覚は毎日香りのフルコースを頂いていたわけだ。


 だから、その影響を色濃く受けた作品の序盤では、まさに真梨子先輩のような葉山さんのような女性が複数登場しては、キーボードをポチポチと打つ私の手も踊りに踊り、原稿とて水の流れるがごとく進んでいた。しかし、文化祭が近づくにつれ……いや、ちんどん屋が成功に終わった頃から、それぞれの役割が忙しくなり、私は一介の文芸部員にその地位を納めたし、真梨子先輩は相変わらず、文芸部と美術部とのパイプ役をこなしつつ、文化祭で入れない分、今の内にと増してバイトに勤しんでいるらしかった。


 夕方、陣中見舞いと称して冷やかしにきた古平がそう教えてくれたのだから、きっと間違いはあるまい。


 その時、私は「葉山さんはどうしている」と聞いてみたのだが。


「葉山? あ、いつも先輩の金魚の糞してるあの子のことか?そんなもの知るわけがない」古平は、へちゃむくれのようなユニークな表情をして、我が愛しき女性に対して金魚の糞などと言う無礼千万な物言いをぶちまけた。私はもれなく憤怒するとその辺に転がっていたペットボトルを投げつけ、「何をするんだいきなり」と言う古平にゴミ箱を投げつけた。


 すると、


「あひぃ」と古平は妖怪のような声を出し、下駄箱の辺りに、ソースの良い香りのする何かを置いて部屋から退散した。


 その影を確認してから、ようやく私は自分が今、一番に大切にしなければならない相棒ことノートパソコンを振り上げていることに気が付き、しばらくその体勢のまま、次にまずどうするべきかを慎重に熟慮を重ねたあげく、ようやっとノートパソコンを机の上に戻したのであった。


 まずは冷静になる必要がある。


 私はそっと立ち上がると、パソコンの電源を切って、窓を静かに開けてみた。途端に舞い込む夜風はやけに冷たく、どんよりと温い部屋の温度に慣れていた私は思わず身震いをしてしまった。しかしながら、冷たい風と言うのはどことなく清潔で清らかな感じがして、私の私による男臭にのみ汚染された四畳半が浄化されて行くようで、肌寒くはあったが、清々しい気分にだけはなれた。


 とりあえず、私は空腹であることを思い出して、そう近くでもないコンビニへ腹を満たしに出掛けることにした。思えば随分と陽が暮れるのが早くなったものである。夕暮れと夜との境が随分と夜側に味方するようになって来たように思う。私は時計と

言うものあまり利用しないから、時刻はかなりあやふやであったが、とにかく夕闇せまる夕方頃、ペガサス号にまたがると、コンビニへと両足に鞭を振るったのであった。





 楽しくもエキセントリックな時間は稲妻のように過ぎてしまいます。思い返せば思い返すほどに、とても楽しく充実した毎日であったように思います。


 ちんどん屋は準備に費やした時間と手間の分だけ大成功でした。ビラを配り終えた後も、観光で訪れていた外国の旅行者からの写真撮影の依頼が多く、もう何枚撮られたのかさえ覚え切れないほどでした。自分の袴姿が海を渡って行くのかと思うととても恥ずかしくて仕方がありませんが、そんな羞恥心よりも今は達成感の方が勝っていて、程よく温いお風呂と相まって私は一層惚けては燃え尽き症候群の真っ直中にいたのでした。


「県大でござーい」私は、湯気のさめやらぬ天井に向かってそう言いました。気持ちの上ではこれからこそが本番なのだとわかっているのですが、どうしても奮い立たせることができませんでしたので、気合いのつもりで言ってみたのです。


 けれど、


「あぁー」気合いは入りませんでした。


 やはり私は絶賛燃え尽き症候群中なのでした。





 はっきりと燃え尽き症候群が癒えたとも言い切れないまま、私は真梨子先輩と千年パンツの製作を続けていました。小春日さんにパンツの作り方を相談に行くと。小春日さんはとにかく真剣にパンツについて考えてくれました。数ある男性用パンツの特徴と形状をホワイトボードに書いて説明してくれた後、とても顔を赤くしながら「古平君は……」と彼氏である古平さんの好みまで教えてくれました。


 テーマは『卑猥でなくまた汚くない千年パンツ』でしたので、これぞパンツ!と言うパンツを作るわけにもいかず、加えて原作を読んでいないのでどんなパンツかも検討もつきません。なので、すぐさま暗礁に乗り上げてしまいました。


 暫時、3人で腕組みをして唸っていると、「そうだっ!」と真梨子先輩がとても良い笑顔で立ち上がったのでした。


「ふんどしにしょ!」

 

「「ふんどしですか?」」私と小春日さんは思わず同じ台詞を同じタイミングでキラキラした先輩の笑顔に投げかけます。内容は知らないながらも確か、小説の舞台は現代だったと思うのですが……


「うん。ふんどしだったら、いざという時は一反木綿って誤魔化せるし。プランBも兼ねて」


「一反木綿って妖怪のですよね」


「プランBですか……」


 私と小春日さんは口々にそう言いながら顔を見合わせたのでした。


 それでも代案が思いつきませんでしたので、千年パンツはふんどしで作ることにな

りました。


「作り方を調べておきますね。多分、ミシンを使えばすぐにできると思うけど……」


 作り方に関しては翌日までに小春日さんに調べておいてもらうことにしました。小春日さんも自分の製作で忙しいと言うのに、申し訳ない限りです。


 即日で取りかかっても良かったのですが、真梨子先輩がお昼からアルバイトがあると言うので、明日から作業に取りかかることにしました。


 部室棟を出て、事務所前のピロティを通り抜け、正門へと続く道すがら、夏目君と会いました。


「おー恭君、えっと3日ぶりっ」 


 真梨子先輩が尽かさず、そう言いながら夏目君の元へ小走ります。やはり夏目君の顔を見ると先輩は嬉しいみたいです。


「いよいよって感じですね」


私は歩いて行きましたので、そんな夏目君の声も随分と小さく聞こえました。


「夏目君、こんにちは」真梨子先輩の隣よりも少し後ろに立った私は、会釈混じりにそう言いました。すると、夏目君は今まで疲れたようなじとっとした目元を引きつった笑顔に変えて「奇遇ですね」と言うのでした。そんなに私が居たことに驚いたのでしょうか?


「恭君お昼食べた?」


「まだですけど」


「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」


 先輩は声を弾ませて、私と夏目君を交互にみてはにやにやとしながら、そう提案をすると、私と夏目君の返事を待たずに大学かと隣接する舟橋商店街にあるオムライス屋さんへ向かいました。先輩や小春日さんと良く行くお店です。


 一番奥の窓側席に腰を降ろすと。いつものパートのおばさんがオーダーを取りに来てくれました。私はデミグラオムライスを注文すると夏目君も同じものを注文します。

先輩はと言うと……「あちゃー私、バイトあるの忘れてた」とわざとらしく腕時計をみやってそう言うと、「しまった……」と項垂れる私に「また明日ね」と言い残し、さっさとお店を出て行ってしまいました。

 

 私は後悔の念を込めて、手を振りながら窓の外を通り過ぎる先輩の姿に目配せをし続けました。


 本来ならば私が二人に気を配って退出しなければならないと言うのに……


 その後、夏目君とは山も無ければ谷もなくクルッポ夫婦の話や、ここ3日間の真梨子先輩の活躍をお話しましたし、夏目君はここのところ下宿に引きこもって執筆に専念している旨を聞きました。


 心持ちこそ真梨子先輩に馳せられていても、相変わらずこのお店のデミグラオムレツはとても美味しいのです。ふわとろ卵にかけられた特製デミグラスソースは濃厚でありながら、むつこくなく喉の奥に至ってなお余韻を残すとても不思議なソースなのです。


 店員さんに聞いたことはありませんけれど、お店の佇まいからもきっと、何十年も継ぎ足し継ぎ足しされ熟成されたソースに間違ないと思うのです。そんな私とは対照的に夏目君は同じデミグラオムライスを食べていると言うのに、どこにも感情が見あたらないままにスプーンを進めていました。〆切が迫っていて神経質にでもなっているのでしょうか?こんなに美味しい物を美味しそうに食べられないほど急を迫られているなんて……雑用専任の私は少し羨ましいような悔しいような、やるせない面持ちとなってしまいました。


 だから、夏目君とお店の前で別れた直後、ため息が自然と出てしまいました。特大のため息がです……甘美祭を作る一員え有りながら、どうしてもその一員になりきれていないような虚無感の再来でため息を一つ。もう一つは今更ながらですが、真梨子先輩のキューピットになるべくチャンスをすっかり逃してしまったことにです。会わせて二つ分ですから特大になってしまうのも無理もありません。


 大学へ帰る道すがらはずっと真梨子先輩のことを考えていました。ちんどん屋をする一週間程前から文化祭でバイトを休む関係で、先輩は普段に増して働いて居る様子で私ですらここの所、先輩とまとまった時間を過ごした記憶はありません。夏目君も〆切で家に引き籠もっていると話していましたから、先輩とまともに会っていない事でしょう。


 だから先輩にとって今日は、夏目君と過ごす貴重な時間だったはずです。なのに、それを私に譲ると言うか押し付けると言うか……好意を抱いている相手を異性に……加えて親しくしてくれている私なんかに任せて……手を振りながら窓の端に見えなくなって行った先輩はどんな気持ちだったのでしょうか。顔で笑って心で泣いていたのでしょうか。


 それとも、私だから心配もせずに二人きりにできたのでしょうか……


 考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。まるで沼の中で必死にもがいているようです。


 考えてわからないことを考え続けていたので、今日の釘打ちはそれは悲惨なものとなってしまいまし

た。打ち損じは数知れず、釘も大層曲げてしまいましたし指も打ちました。とうとう親指の爪の中に血豆のようなものができてしまう始末です。


 私は夕方過ぎた頃に作業を切り上げて、ソーイング同好会へ向かいました。ふんどしの件もありましたけれど、小春日さんに相談してみようと思ったからなのです。もちろん、小春日さんの都合が悪ければ邪魔をするつもりはありません。

 

「葉山さん」


 私が同好会室へ続く廊下を歩いていると後ろから小春日さんに声を掛けられました。 


 どうやらお手洗いへ行っていたようです。


「今日は終わりなんですか?」いつも通学に使っているトートバッグを肩から提げていたので、私は期待を込めてそう聞きました。


「ええ、後は家に帰ってやろうと思って」と小春日さんは言い、続けて「部屋にはみんな作品が置いてあって気を遣うし、狭くって」と困った顔をして言うのでした。


「そうなんですか。今丁度小春日さんに会いに行こうとしていたところなんです」


 自分勝手にも私はこれで相談ができる。と少し嬉しくなってしまいました。


「その……ふんどしの件ですよね。簡単だけど作り方を書いておいたから、これで作れると思うの」とトートバッグからふんどしの分解図のような物が書かれたコピー用紙を一枚取り出すと、私に見せながら懇切丁寧に教えてくれました。


「忙しいのに本当に助かります。これだったら、私と先輩でも簡単に作ることができそうです」

 

 小春日さんの説明を受けてから、『ふんどし』に決めた真梨子先輩の判断は正しかったとしみじみ思いました。先輩の部屋にならミシンもありそうですから、難なく作り上げることができるでしょう。


「あっ、そうそう。生地も余ったのがあるから。取ってくるね」


 少し歩き出してから思い出したようにそう言うと小春日さんは踵を返して部屋へと駆けて行きました。


 作り方を教えてくれた上に、生地まで用意してもらえるなんて!これぞ至れり尽くせりと言うにふさわしいと思うのです。


 持つべき物はやはり親しい友人ですね。そう思わずには居られない私なのでした。

 




 ふんどしの件に関しては後で真梨子先輩にメールをしておくとして、私は私の懸案事項を小春日さんに相談しなければなりません。ですから、「少し相談したいことがあるのですけど」と学食の二階席へ場所を移したのでした。


「んと、それって……つまり、夏目君は葉山さんの事が好きってことなんじゃないかな?」


 

「へっ!」閑散とした二階席の窓側で私は開口一番にそんな事を言う小春日さんに目を見開いて言葉にならない抗議をしました。


 真梨子先輩の恋愛成就について一通り話した後の話しです。少し考え込んだ風に腕を組んでみせたかと思うと、多少の躊躇を伴って、小春日さんは言ったのです。


「そんな、夏目君が私の事をだなんて……ありえない」


「そうだよね」と言ってほしくて、私は小春日さんに懇願するように言います。まさか……まさか、真梨子先輩の意中の人がよりにもよって私のことをだなんて。私は今まで誰かに告白されたことなどありませんし、誰かと噂になったこともない婦女としてとてもスマートな人生を歩んできました。恋とは愛とはどんなものでしょう。と想いを巡らせてときめいてみたり、クルッポの恋模様をみて癒されたりしてはいました。


 いましたけれど、そんな……私だなんて‼


「葉山さん……大丈夫?あくまでも可能性だからそんなに動揺しなくても……」


 頭の中はすでに洗濯槽のようにぐるぐると大変なことになっていましたけれど、表面上は何事もなく平静を装っているつもりでした。けれど、小春日さんにそう言われてしまう限りは装いきれていなかったようです。


「あ、え、大丈夫です。でもどうして、そう思うのですか?」


「先輩の葉山さんへの接し方が私の時とそっくりだから」


 と小春日さんははにかみながらそう言い「ほら、古平君との仲を取り持ってもらった時」と続けました。


「……」私は考えてしまいました。もちろん、先輩が小春日さんと古平さんとの仲をどのようにして取り持ったか。と言うことに関してです。


「私と古平君って全然接点とかってなくて、でも私の気持ちを知った真梨子先輩が、頻繁に古平君と会う切っ掛けを作ってくれたり、二人きりにしてくれたりしたんだよね。さっきの話しを聞いてると私と同じだなぁって。だって、葉山さんも先輩と一緒にいると良く夏目君と会うでしょ?」


「あぁ……確かに……」


 全然意識をしていませんでした。盲点です。けれど小春日さんの言う通り、先輩と行動を共にしていると今ままで面識が全くなかった夏目君と良く会います。主に先輩が会いたいのだと思っていたのですよ。だって、先輩は夏目君のことが好きなのですから……でも、夏目君は私に好意を寄せていて……寄せられている私は先輩と夏目君の仲を取り持とうとしていて……


 見事にこんがらがってしまいました……


「でも、すごくややこしいよね。夏目君は葉山さんのことが好きで、先輩は夏目君の事が好きで、葉山さんは先輩と夏目君のキューピットでって」


 苦笑しながら小春日さんが言います。


「あぁ」


 万策を考える前に万策尽きた。と私は机に突っ伏して「どうしてこうなってしまったのでしょうか」と泣き言を吐くことしかできなかったのでした。






「そう言えばご飯まだだったよね。忘れてた」パジャマ姿の先輩が冷蔵庫を開けて思い出したように言います。


 例によって私は、真梨子先輩の家にお邪魔をしていて、小春日さんからもらった作り方のメモと生地を広げて、鋭意ふんどしの制作中です。


 小春日さんに相談を聞いてもらったあと、もやもやとしたまま正門を出た所で、先輩から「7時くらいから家に来て!」と連絡がありました。小春日さんが私よりも先に先輩に連絡をしておいてくれたみたいです。なので7時よりも10分早く先輩の下宿先へ到着したのですが、先輩は不在で、5分ほど待ったところで額に汗を浮かべた先輩が「ごめーん」と言いながら駆けて来たのでした。


「私、何か買って来ましょうか」


「んー今日作業できるって知ってたら、買い物いってたんだけどなぁ」と冷蔵庫のドアを力無く閉めると、「私買いに行ってくるよ」と台所に置いてある財布を掴んで先輩は言います。


「パジャマで買い物に行くつもりですか」


 私はそう言いながら、お財布をポケットに入れて真梨子先輩の丁度胸元に指をさして言いました。


「あちゃ」


 自分の格好に気が付いた先輩はいたずらっ子のように舌を少しだしてそう言うと「ごめんお願い」と両手を合わせて私に言いました。


「行ってきます」出がけにそう言うと「気をつけてね」と黄色い声が背中に返ってきました。


 さて、どこに買い物に行きましょうか。近くのスーパーが一番良いのですが、私の頭の中にはその前にいつか見たコンビニの幟が思い出されてしまって仕方がありません。それは『絶品パスタ全種30%OFFフェア』と大々的にプリントされている幟です。


「そうしましょう」私は分かれ道を三条通り方面へ進みました。確かにスーパーの方が豊富なお総菜がありますし、お値段もお手頃です。けれど、けれど!絶品なパスタなのですよ。しかも全種類が30%もOFFだなんて!これでは足が自然と向いてしまうのは仕方がないことなのです。


 私はどんなパスタがあるのでしょう。と心持ち明るくわくわくとさせながらコンビニへ向かったのでした。





 私行きつけのスーパーが近所にあるにも関わらず、私は、三条通りを遡っているのには理由があった。目指すコンビニがその場所にあると言うこともさることながら、最も重要視すべきは、『絶品パスタ全種30%OFFフェア』を開催していると言う事実である。


 絶品とうたった所でコンビニのパスタにそこまでの期待は抱くまい。しかしながら、とろとろソースのカルボナーラが食べたい。温めてもらったならその芳醇な香りに果たして家まで我慢できるかどうかさえ自信が無いほど、空腹を抱えた私であるのだ。加えてそれが30%もOFFともなれば多少の労力は惜しまない私なのだ。


 週の真ん中である今日はさすがに三条通りとて賑わいに欠けていて、いつもより殺風景に見えてならない。加えてこの寒風であるからして余計に脱色感が否めない。


 そのコンビニは三条通りを自転車で登ること、背中に汗を感じる頃に左折をして、さらにやすらぎの道沿いに狭い歩道を登った所、丁度、高天交差点の角地にあった。


 ちなみに言うと古平のバイト先である。


 私は古平が居れば、面白いと思ったのだが生憎、古平は勤務の日ではなかったらしく。店内を隈無くトイレに至るまで見て回ったがついにその姿を見つけることはできなかった。決して、知り合いのよしみで何かおまけしてもらおうなどと邪な気持ちを抱いていたわけではない。純粋に冷やかしてやろうと思っただけである。


 パスタの幟はすでに撤去されていたが、店内に入ってすぐの正面の棚に『絶品パスタフェア無くなり次第終了』と手書かれた黄色いPOPが掲げてあったので、私は迷わずその棚へ向かった。向かったのだが。私はその棚の前に着くなり「むう」と唸らざるえなかった。いや、店内に入った時点で嫌な予感はしていたのだが……「まさか、そんなバカなことがあるわけない」と捨て置いた予感が大当たりしようとは……思わずレジ業務をこなす男性店員に確認の為の視線を送ってしまったほどである。


 私の眼前にあるのは、いずれも『絶品パスタ!』と蓋に大きく書かれた、即席カップパスタだった。


 確かに『絶品パスタ』だけれども!そんな名前を付けられたら、普通はすでに調理済みで後はレンジで2分!な商品だと思うではないか……期待をするではないか……一昔前ならばいざ知らず、最近のコンビニの惣菜の質とレベルは外食産業を脅かすほどの進歩があると聞いていたら、余計に期待を膨らませここまでペガサス号を走らせてきたというのに……


「詐欺だ……」


 私はどうにも諦めきれない無念と期待を打ち砕かれた失望感とに苛まれながら、それでも、棚の右端に積まれているカルボナーラを手にとると、肩を落として代金を払うと、ペガサス号の前で128円と印字されたレシートを見て、128円では夢も希望も買えやしない。もはや泣く気さえも失せてペガサス号にまたがった。


「あれ?」


 ペガサス号のペダルに足を掛けた所で、我が愛しき葉山さんがコンビニへ入って行くのが見えた、ほんの一瞬であったが、私が葉山さんを見間違うはずがない。はずがなかったが、何せ競歩のような早足で突然角から現れたものだからと自信がなかった。もしかしたらと私はそれとなくコンビニのガラス越しに店内を覗いてみると、そこには間違いなく麗しの葉山さんが絶品パスタの棚の前に佇んでいた。


 もしかしたら彼女も絶品パスタを目当てに来たのだろうか?棚の前に着くなり何度かレジの店員や品出しをする店員の方へ困った顔を向けてみたり、こう垂れてみたりを繰り返し、最後にPOPを顔を近づけ穴が開くほど見てから、ため息混じりに右端に積まれているカルボナーラとあともう一つ何味かを手に取ると、肩を落としてレジに向かったのであった。





「こんばんは、奇遇ですね」


 本当は葉山さんを待っていた訳だが、私はコンビニから出てきた葉山さんにそう言って声をかけた。


「あぁ、夏面君。こんばんは」


 レシートを見ていた彼女だったが、私の声に驚くこともなく極々自然にそう返事をくれた。


「先輩のお使いですか?」


「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」


「実は私も」と私は買ったばかりのカルボナーラを彼女に見せた。


「同じですね」


 彼女がそう言ってからどちらともなく歩き出した私と葉山さんは、信号待ちの間だけ黙っていたのだが、沈黙に耐えかねた私が意を決して「実は、料理済みのパスタだと思っていたんですけど、カップパスタでがっかりしたんです」と話したところで信号が青にかわった。


空気の読めない信号である。


タイミング悪くも私の意を決した言葉は虚しく雑踏に踏みつぶされてしまったと思ったのだが、「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」と彼女との会話が成り立ったので一安心した後、同じ気持ちを共有できている奇跡に鼻血が出そうになった。生まれてはじめて、自身の変態性に気が付いた瞬間でもあったと思う。


 だが、奇跡はそう続かず交わした言葉はそれだけに止まり、沈黙を保ったまま舟橋商店街の入り口前まで来てしまった。何か話題を!と色々とまさぐってみても、気の利いた話題もなければ、面白可笑しい話題もない。ずっと執筆のために引き籠もっていたことが難して全てにおいて私は枯渇していたのである。だから、一様に考え込むかのように地面を見つめている彼女の顔を上向かせる話題などありはしなかったのだ。


 ただ、彼女が舟橋商店街の方へ歩みを進めたことには少し驚いたと言うよりも、動揺した。彼女もすでにこの周辺に住んで1年以上を数える訳だから、商店街を抜けた方が先輩のアパートへは遠回りになることを知っているはずなのだ。ひょっとしたら大学に行くのかも知れないが、そんな可能性よりも、もっと下心に満ちた私の思慮からすれば、これは私が居ることを前提とした遠回りだと考えたかった。


 

 そして、不意に顔を上げたかと思うと、その芙蓉の眦をこちらに向けて「私の知り合いの話なんですけど」と前置いてから、


「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」最後に至るにつれ自分でも何を言おうとしていたのか曖昧になった。と言う表情になりながら葉山さんは私にそれだけを告げた。


 私は彼女の曖昧な表情を見ながら、とりあえず、彼女の知恵の輪のような話しを反芻して咀嚼して考えた。


 まず、登場人物はABCの3人。AはBに好意を寄せていて、でも、BはAに興味がない。が、CはAとBをくっつけようとキューピット役を演じるのだが、実はCはAに好意がある。ある日それを知ったBがAとCをくっつけようと奔走する。


 ありがちな三角関係ではないにせよ、天下三分の計、もとい三竦みと言ったところだろうか。


 正直、そんなややこしい人間模様に興味はなかったし、自ら火中の栗を拾うことはおよしなさい。彼女にそう進言して差し上げたかったが、それでは愛情にかける。ゆえに私は、


「三竦みですね。円満解決は難しい方の」とかなりオブラートに包んでそれだけを口にした。


「円満解決は難しいですか……」


 彼女は露骨にため息をついてそう言った。もしかして、私の返答にそこまで期待をしていたと言うのだろうか……であるならば、私は千載一遇のチャンスを逃したことになる。


「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」


 もちろんフォローのつもりで言った。そのつもりが……自然消滅って……私は一体何を口走っているのだろうか。


「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」彼女は苦笑しながらそう言うと「そんな都合良くいかないです」と夜空を見上げたのだった。


 どんなに頭を捻ったところで、きっと言えた台詞に大差はない。言葉の違い、表現の違いだけであって根本的な解決法などありはしないからだ。


 大学の前を通り過ぎた辺りから再び沈黙が続いた。けれど、それは私から作った沈黙であったと思う。この話しはきっと葉山さん自身の話だろう。


 それなら、尚更希望的観測的憶測論を唱えてどうなる。この三竦みは一見して絡まりあった糸に見えて、実際には至極単純なあやとりのようなものなのだ。誰かが告白をすれば、身を引けば、涙を飲めば忽ち解消されることだろう。それが叶わないのは三者三様に願望がありながら現在の関係を維持したいと心の片隅で思っている。それこそが全ての結論だ。  


 冷静な自分がそこにいた。ABC何れかが葉山さん自身が当てはまるはず。Bであって欲しい……欲しいのだが、私自身が色々な理由を並べて自身を説得してもなお、私の気持ちはどんよりと沈んだままであった。


 葉山さんほどの乙女である。想いを寄せるのは私1人だけであるはずがないし、彼女が一握りの勇気を出せば、それは忽ち成就することだろう。

 その事実を知れば、まったくの部外者である私が泣くことになるだろう。


 まったくもって皮肉な話しだ……


 私は、小さく口を開けたまま私を見上げる葉山さんを視界の端に捉えつつ、満月に近い月を見上げるのであった。 



 


 三条通りは京都で言う所の祇園のような所ですから、平日でも混み合っているかもしれません。なので、私は三条通りから一本筋を違った道を使ってコンビニ向かいました。 


 秋深まれりと言えども、まだまだ体を動かせば汗ばむ気温ですから、早足で歩く私の背中はすっかり汗ばんでしまっていました。やはり、近所のスーパーに行けば良かったでしょうか。そんな後悔の念が頭の中をよぎる中、私を支えていたのはのど越しの良いパスタにそれに絡まる濃厚なカルボナーラソース。想像しただけでも唾液が溢れてしまって仕方がありません。


 もちろん、カルボナーラがあるとはかぎりませんけれど、カルボナーラと言えば定番中の定番ですから、売り切れはあるとしても。商品がない、と言うことはないと思います。


「そんなね」


 私は呟きながらさらに足を速めました。何せ売り切れはあるのです。30%OFFならば、尚の事あり得るのです!


 競歩さながらに歩き続けること7分ほどで、目的のコンビニへ到着しました。私は休むことなくドアを開けると、店内になだれ込みます。そして、探すのです「(絶品パスタはどこぞにおわす!)」っと。


 フェアをするだけあって絶品パスタはすぐに見つけられました。レジ前の棚に山と積まれてありましたので、売り切れの心配は皆無でした。


 私は棚からはみ出るように設置されていた黄色いPOPを読み返して確認をしました。間違いはないはずです……いいえ。間違いありません。


 けれど……けれど……そこに積まれていたのは、パスタはパスタでも即席麺のパスタだったのです。


 私は明瞭に困惑しました。てっきり、レンジでチンと言わせるだけで、蓋をあけると芳醇なソースの香りが鼻腔一杯に広がる調理済みのパスタだと思っていたからです。

困惑していた私は、目の前の事実を暫時受け入れることが叶わず、店員さんに確認をしようと視線を右に左にと泳がせました。けれど、店員さんはどなたも業務に勤しんでいる様子でついに、声を掛けることができませんでした。 


 私は何度かため息をついてから、もう一度POPを熟読してから、仕方がなく右端に積まれたあったカルボナーラ味とマヨ明太味を手に取りました。蓋には『絶品パスタ!』と大きく書かれてありますから、もう疑う余地はありません。私は泣く泣く絶品パスタをレジへと持って行き、支払いをしたのでした。 


 確かに私の早合点でしたし、過度に期待もしていました。けれど……けれども!


『絶品パスタ』なんて名前をうたわれたら誰だってカップパスタだなんて思いません!


 私はパスタの入ったレジ袋を手にぶら下げると、だらりだらりとコンビニのドアを開けました。128円。そうです、悪いことだけではありません。私の期待と予定を打ち砕いた点では極悪ですが、お財布に優しいことと言ったら。近所のスーパーに引けをとりませんもの。


 そうやって無理矢理にでも納得しないと、この気持ちは到底やりきれません。私はレシートを見ながらそんな事を考えていました。


「こんばんは、奇遇ですね」


 私がどうしてこの気持ちを晴らしてやりましょうか、とプリプリしていると、自転車のハンドルに手を掛けた夏目君が立っていました。ハンドルに掛けられたレジ袋の中には『絶品パスタ』のカップが袋から透けて見えました。


「あぁ、夏目君。こんばんは」

 

 夏目君も買ったのですね。とレジ袋にばかり気を取られていた私は、夏目君に返事をしてないことを思い出して慌ててそう言いました。


「先輩のお使いですか?」


「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」


女子としてはカップパスタを「晩ご飯」だなんて恥ずかしい思いでした。けれど、惣菜を買っていてもそれは大してかわりませんね。手抜きにはかわりありませんから。

 

「実は私も」


 そう言いながら夏目君は買ったばかりでしょう、カルボナーラ味のカップを袋から出して見せてくれました。


「同じですね」


 はい。知ってます。と胸の内では思いつつ、それを口に出してはあまりにも無愛想

だと思うのです。


 どちらともなく歩き出した私と夏目君は信号待ちの間だ、言葉を交わすことはありませんでした。夏目君は何かそわそわしている様子でしたけれど、私はずっとこのチャンスを生かす方法はないでしょうか?と思案していたのです。頭をフル回転させているのですから会話をしている余裕などありません。


 なのに、「実は、料理済みのパスタだと思っていたんで、カップパスタだとわかってすごくがっかりしましたよ」と意を決したように言うので返事に困りました。ですが、丁度そのの時に信号が青に変わりましたので、動き出した帰宅ラッシュの雑踏に聞こえない振りをしました。

 

 とても空気を読んでくれる信号ですね。


「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」


 信号を渡り終え、舟橋商店街の方へ足を向けると雑踏の流れから離れ一気に静かになりましたので、そのタイミングで私はそう言いました。やはり、聞こえているのに聞こえていない振りをするのは気が咎めます。


 夏目君は私が話し終えると、とても安堵した表情をしたかと思うと次の瞬間には鼻を抓んでいました。まるで鼻血が出てきてしまったかのように……


 夏目君が鼻を気にしている間に私は視線を足下に落とすと、思案に続きに取りかかります。真梨子先輩のように男女の仲を取り持つことに慣れていませんので、どうしたらいいのか正直に言って考えが及びません。けれど、こうして偶然、夏目君と出会い二人きりになる機会もそうそう巡ってくるとも思えませんからそんな泣き言を言っているわけにもいきません。


 そうこうしている内に舟橋商店街の入り口前まで来てしまいました。本来ならこのまま直進した方がずっと先輩のアパートへは近いのですが、今は時間が必要ですからわざと舟橋商店街の方へ曲がりました。普段であれば訝しまれるでしょうけれど、今は文化祭と言う口実がありますから、舟橋商店街を通っても怪しまれないはずです。

 

 時間稼ぎの遠回りをしてもせいぜい10分程度です。私はまだまとまりきっていないながらも「私の知り合いの話なんですけど」と夏目君を見上げて言葉を発したのでした。


「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」


 我ながら話せば話すほどにややこしくなる知恵の輪のような言い方でした。最後の方に至っては自分でも何を話しているのか曖昧にしか理解できていませんでしたから……


「三竦みですね。円満解決は難しい方の」


「円満解決は難しいですか……」


 私なりに考えてみました。『ある人』と『その人』の話しは、夏目君と先輩と私の3人による現在の関係を意味していて、火中の夏目君であれば私の意図を慮って、真梨子先輩の気持ちに気が付いてくれる。そう期待したのですが……小説を書くほどの空想力があればもしかしたら……と思ったのですが、夏目君の返答は私の期待を大きく裏切るものでした。さらに言うならば、興味がなさそうに言った辺りが絶望的です。


だから私は思わずため息をついてしまいました。


「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」


 慌てて夏目君が付け加えますが、またしてもそれは私の期待する言葉ではありませんでした。


 自然消滅って……


 そうなると私は「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」と言うしかなく、続けて「そんな都合良くいかないです」と思っている事を口に出したのでした。


 そんな会話が大学の正門前で行われた後は、再び沈黙の中を歩きました。こういうのは生兵法というのでしょうね。これ以上は得策も浮かぶはずもなく、すでに万策尽きてしまった私には夏目君に真梨子先輩のキモチを直接口にするしか方法を持ち合わせていません。でも、それは……それをしてしまっては……


 してはいけないと私の何かが強く訴えるのです。





 結局、真梨子先輩のアパートまで夏目君とは一言も交わしませんでした。夏目君はぼんやりと小さく口を開けたまま夜空を見上げ続けるばかりで、どこか話し掛け辛い雰囲気だったので、私は話し掛けませんでした。取り立てて話題もありませんでしたから、私としては助かりましたけれど……


「お帰りー、遅いから心配しちゃったよ」


 アパートのまえにの道路まで出てきていた先輩はそう言いながら私の元へ駆けて来ました。


「あらあら恭君も一緒なんてどうしちゃったの?待ち合わせとか?」


 とても嬉しそうに先輩はちゃかすように言いながら夏目君の腕に肘を当てて囃し立てます。夏目君は「そんなんじゃ無いですよ」と迷惑そうにそう言っていましたけれど……私には先輩が無理をしているように思えてならなずつい「交差点のコンビニ前で偶然会ったんです」少し大きめの声で言ってしまいました。


「そうなんだ。スーパーに行けば良いのに」


「このパスタが食べたかったんです」


 私はそう言うと袋からカップを出して先輩に見せました。勘違いをしてわざわざ買いに行ったことはもちろん秘密です。


「それって、がっかりパスタじゃない。音無さんがね、昨日だったかな?調理済みパスタだと思って買いに行ってすごくがっかりしたって、わざわざメールしてきたのよ」


 先輩はにこにこしながらポケットから携帯を取り出して素早く操作すると、音無さんのメールを見せてくれました。画面には『絶品パスタ!』カルボナーラ味が映っていました。その下に一言「がっかりパスタよこれ……」と書かれていました。


「(確かに……)」私も音無さんにしっかり同感しました。あの夢を打ち砕かれたがっかり感といったら!


「あれ。なっちゃん飲み物買わなかったんだ」  


「あ、デロリン買うの忘れました」


 先輩と一緒の時は買い物に行った時は必ずデロリンソーダーを買うのが慣習となっていましたけれど、今回はすっかり忘れてしまっていました。


「ひとっ走り買いに行ってきましょうか?自転車で行けばスーパーすぐだから」と夏目君が言いましたが「どうせなら、みんなで行きましょ」子供みたいに笑いながら先輩は1人で先に歩いて行ってしまいました。


 どうせまた私と夏目君をどうにかしようと言う先輩の作戦なのでしょうね。そう思った私の安易な勘は易々と当たってしまいました。


 近所のスーパーにデロリンを買いに行った帰り、先輩は急に「恭君も私の部屋においでよ」と言い出したのです。いつもならため息の私でしたけれど、今度ばかりはチャンス!と思えたのでした。何せ、夏目君と先輩が部屋に入った途端に、何んとか言って私だけ自宅へ帰れば良いのですから。


 ここぞとばかりに私は真梨子先輩に加勢しようと口を開いたのですが、先に「〆切がやばいので、これで帰ります」と夏目君が私との帰り道で見せた空虚な雰囲気を伴って言いましたので、私は何も言えませんでした……


「事務所の輪転機でしょ?だったらまだ……」真梨子先輩はそう食い下がりましたけれど、


「おやすみなさい」一言を残して夏目君は自転車で行ってしまいました。

  

「素直じゃないんだから……」と夏目君の背中に呟いた先輩の横顔は私がはじめて見る顔でした。街灯の加減も手伝ったと思いますが、どこか寂しげで……憤っているような……   


 先輩は大きく手を振り珍しく私の横を少し早足で歩き、何一つ言葉を発しませんでした。携えたレジ袋も腕の動きと一緒に大きく振られています。


 とにかく、とても気まずい空気が漂っていました。


 夏目君とは別段何とも思わなかったのですが、先輩の場合はとても困ってしまいます。どうしてしまったのでしょう……


「なっちゃんさ、夏目君に何か言った?」


 不意に足を止めた先輩に習い私も足を止めると、真っ直ぐに私の瞳を瞳に宿して先輩は静かに言いました。作り優しさが伝わって来て、私の背筋には冷たいものがつたいました。


「いいえ」私はそれ以外にも、信じてもらいたくて色々と付け加えて言いたかったのですが、気が動転してしまって鯉のように口をぱくぱくさせるだけで、結局はその一言しかいえませんでした。


「本当に?」

 

「はい。パスタでがっかりした話をしただけで、後は何も話しませんでした」私は生唾を飲み込んで何とかそう言いました。何せ嘘をついてしまいましたから……


「んーだよね。振られたら一緒に歩いてなんてられないよ恭君のガラスのハートじゃ」何度も頷いてからそんな独り言を呟くと。途端にニンマリする先輩なのでした。


「何を言ってるんですか?そんなことより、そんなに袋を振ったらデロリンの色がでちゃうじゃないですか」


 先輩が何を考えているのかは、先ほどの独り言でわかりました。だから私は急いで話題をすり替えました。できれば、今はその話題は避けたい気分なのです。


「あーごめん。緑色でした……」


 私に言われて、「やば」とつぶやきながら、急いで袋の中を確認した先輩は緑色に変色したデロリンを見せながら、頭を下げました。

 

「まったく、先輩ったら!」


 私は頬を膨らませてみましたが。デロリンのことはどうでも良かったのです。先輩が私が危惧していた事柄について気が付いていないことがわかっただけで、私は満足ですし、とてもほっ、として胸をなで下ろした面持ちだったのです。 

 




 先輩の部屋では絶品パスタを一緒に食べて、順番にお風呂に入って、後は0時近くまで先輩が取り貯めていたドラマを一緒に見て過ごしました。普段私はあまりテレビを見ませんので、ドラマもそれほど面白いと思わないのですが、なぜでしょう。先輩と一緒だととても楽しい時間になってしまうのですから摩訶不思議です。 

 

 結局、ふんどし製作は少しも進みませんでしたけれど……


 3時間と半時間ずっとドラマを見続けた私はさすがに、目が疲れてしまって、それが為かはわかりませんが眠気が強まってしまいました。パジャマにも着替えていますし、お布団も布いてありますから、後は潜り込むだけなのです。だから余計に眠くて眠くて……私は「ふあぁ」と欠伸をしてしまいました。


「さすがに、私も眠くなってきちゃったわ」と先輩も欠伸をしながら言います。

 

「2話くらいでやめとこうと思ったんだけどね、つい続きが気になっちゃった」


 もう一度、欠伸をしながら先輩が言いました。


 時刻ははまだ0時を回った所でしたけれど、私と先輩はもう寝ることにしました。明日はふんどしを完成させなければなりませんし、大学にも行かなければいけませんからとても忙しくなると思います。


 明日に備えて早く寝るにこしたことはないのです。


 私はお布団に、先輩はベットにそれぞれ潜り込むと、先輩は「消すよ」と言って電気を消してしまいました。けれど、窓から入る街灯の明かりが何がどこにあるのか程度に部屋をぼんやりと照らすので、電気を消しても大して困ることはありません。


 眠りに落ちる束の間、私は先輩と明日のふんどし作りについて段取りの確認やお昼前には一緒に大学に向かう旨の話しをしていましたが、私はその途中で瞼が重くて仕方がなくなってしまいましたので「もう無理です、お休みなさい」と言いました。


「おやすみ」欠伸の先輩の声を聞いてから私は薄い眠りに落ちました。


 



 どれくらい微睡んだのかはわかりませんが私は先輩が何かを話している声で目を覚ましました。独り言のようでしたけれど、寝返りを打ってみると、それが私に対して話し掛けていることに気が付きました。


「なっちゃんまだ起きてる?」


 半分眠っている私は、返事をしたと思いますが、覚えていません。それでも先輩が話しを続けた限りは何かしらの返事をしたのでしょうね。


「あのね……恭君はね。なっちゃんの事が好きなんだよ」


 優しく滑らかに語りかけるように先輩が話します。余計なものを濾したような感情の籠もった重い声でした。


 私は声にこそ出しませんでしたけれど、寝ぼけ眼にも「(それは知っています)」と答えました。実際には可能性が事実へと決定的に確定した瞬間でもありましたけれど、正直にもうそんなことはどうでも良かったのです、何せ私は先輩のキューピットになると決めたのですから。


「恭君ね、無愛想に見えるけど、本当はすごく優しいし頼りになるんだ。不器用なやり方だけど、なりふり構わず一生懸命になってくれるの……だから、恭君とのことちゃんと考えてほしいの」


 言葉が増すにつれ先輩の声色には優しさが増して行きます。それは私の耳に心地よくも滑らかに先輩の気持ちを届ける為にそうしていたのでしょうか……いいえ。答えは否です。最初はそのように感じたのですが、それは違うのです。好きな人の事を考えながら好きな人を想って話すからこそ、どんどんと声色が優しく滑らかになっていくのでしょう。


 私には……私には、夏目君の事が大好きな先輩の気持ちしか伝わって来ませんでした。


「……おやすみ……」先輩はもう一度そう言い、


 そして、カーテンを滑らせる音と共に部屋は暗黙に包まれたのでした。





 人生とは長編小説のようなものである。そんな風に年老いたるを達観したかのように顧みることをするには少々早すぎるのかもしれない。だが、大学へ入学を果たし、まだ2年も経たないと言うのに、私の私による私だけの歴史書には多くの些細が書き込まれて仕方がない。


 愛おしい人に告白する前にやんわりと可能性を否定された。そこで、潔しと諦めるか、なおも食い下がるか。いずれが男らしいのかと自問してみても自答することはできず、「あれはそう言う意味の話ではない」と現実逃避の一手ばかりが金魚鉢のブクブクのように湧き続ける。


 会話などどうでもよく、訪れた沈黙も気にもならなくなって、気が付けば真梨子先輩のアパート前にして、真梨子先輩が居て……先輩は例によって私を誘ってくれた。先輩の心づもりを鑑みれば感謝してこそ耐え得ないのだが、私は到底そのような気分ではなかったから「〆切がやばいので、これで帰ります」と好意を無碍にしてその場から走り去った。


 私は自宅に戻ると、玄関に座り込み大きく呼吸をした。後悔はなく寧ろ安堵の方が大きかった。


 一呼吸置いてから開いたままにしてあったパソコンを起動させると書き換えの画面がたちまち出力さる。


『始まる前から終わった恋』

 

 白い画面にただ一言だけタイプしてみると、妙に文学的に思えてしまって、途端に哀愁が立ちこめ泣きたくなってしまった。


 「(これでは駄目だ)」


 そう思った私は、これ以後そのラベルを見ればその邂逅に涙するであろう絶品パスタをゴミ箱に殴り捨て、不退転の決意を天井に刻んでから、パソコンの前に座すと、忌々しい言葉を消して、猛烈な勢いでタイプを開始したのであった。


 有頂天でも幸福感でも楽天的でもタイプは進まなかった。けれど、絶望感に苛まれる今、タイプが進みに進むのはとても皮肉な話しだと自分でも笑いたくなる。


 いっそ、何もかも燃やして終わらせてやろうか。などと、作中に八つ当たりを織り交ぜようかと考えたその刹那に携帯が震え、手に取ると少し前まで愛おしく想っていた葉山さんの姿があって、その後に真梨子先輩の文面が出力された。


『葉山さんと何かあった?何かあっても気にしなくていいよ。小説書きあがったらお疲れ様会しょうね』


 今頃、先輩が葉山さんの気持ちを軌道修正してくれているのだろうか……文面を見やるに私の絶望に一筋の光が差し、それが期待やら妄想やらで瞬く間に広がって行くのを感じた。


「アホらしい」私はそれを自身で一蹴した。


 もし、ここで期待を抱いたなら!可能性を見いだしたなら! 次ぎに絶望に陥った時、私は蒙昧な心中にて先輩に八つ当たりの感情を抱くことだろう。それは不条理だし不本意だ。だから私は、一切の希望を一蹴して光が差し込んだ大地を再び絶望で満たした。


 その十字架を携帯に背負わせることにした私は、力の限り携帯電話を襖に投げつけた。襖であれば携帯が大破することはないだろう。そんな手前味噌な考えのもとに行った一種の八つ当たりであったが、その結末はあまりにもイレギュラーであったと私は後悔したい。


「あっ!」 


 手裏剣のように猛回転をしながら襖に向かった携帯は、当たった途端に太鼓のような音をさせたかと想うと、襖に深々と突き刺さった状態で止まった。てっきり、襖に弾かれて畳の上に横たわると思っていただけに、私は唖然としてしまった。


 多分……壊れてはいないと思う……


 空腹を忘れ、夜を忘れ朝を忘れ昼を忘れ。心頭を滅却し、加えてゾンビのようになった私は、恐いものがまるで無いような領域に到達してしまったようだった。


 ふわふわした頭の中でひたすらタイプを続けた私は、日を跨いだ夕暮れ。あっけなく物語は大団円を迎えたのであった。満足感などはない。こんなに早くできるのに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろうか……ただ、それだけ……


 画面上で遊ぶ遊標の点滅を見つめながら、その責任は私を虜にした葉山さんにある。と断言をし、現世に現れた女狐め!などと憤ったあと、私はどうにかしてしまっていると確認をした。


 倒れるように横になると見上げる天井がぐるぐると回る。瞼を閉じてもまだ回る回る……


 恋仲になれないからと言って一度でも恋いこがれた人を悪く言うのは男子の名折だ。





 3時間ほど経って意識を取り戻した私は、推敲作業をそこそこにパソコンをリュックに入れると大学へ向かった。時刻はすでに深夜を回っていたが、大学では甘美祭の準備に勤しむ学生で大いに賑わっていた。


「やあ、原稿持ってきたんだろ」


 原稿の印刷にと文芸部室に行くと部長がいたので「いいえ、忘れ物です」と入らずに部室を後にした。甘美祭の2日前に完成したと言っても、この期に及んで似非編集長気取に書き直しを命じられるのも腹立たしい。


 私は、クリエイティブ部室へ行って原稿の印刷を済ませると、その足で事務所の中にある輪転機室向かった。先客の執行部がパンフレットの増刷をしていたので10分ほど雑談をして過ごしたあと、原稿を両面印刷にかけた。


 印刷は5分とかからずに終わったのだが、私はそれ以上の時間を窓から覗く満月を見上げることに費やしていて、部屋のドアが開いた音で我に返り、さっさと輪転機を譲って家に帰ることにした。この分だと部長は明日の朝は部室に居ないだろうから、製本作業は明日することにした。


 今夜の満月は本当に綺麗だった。個人的な懸案事項が解消された事も手伝ってより優美に見せてくれているのかもしれない。私はぼんやりとペガサス号を押しながら満月に魅了されていたのである。


 部屋に帰り万年床に転がり込もうと思っていたのだが、部屋に帰ってみると襖に刺さっていた携帯が畳の上に落ちていることに気が付いた。手に取ってみると真梨子先輩から着信がほぼ3秒おきに入っていた。


「もしもし、どうかしたんですか?」


 私は冷蔵庫を開けながら電話を掛けた。どうせ、葉山さんとのことだろう、すでに私の中では踏ん切りもついていたし今後に何を期待することもなかったので、素っ気なく切るつもりだったのだが……


「……やっと出てくれた……すぐ来て……お願いします……」それは紛れもなく真梨子先輩であったが、様子が明瞭におかしかった……多分……泣いている……


「すぐ行きます!」


 私は、電話を切ると、とるものもとりあえず部屋を飛び出し、ペガサス号に飛び乗った。今度もGであって欲しいと願いつつ、あの震えた声からすれよほどの事があったに違いない。先輩のアパートへと続く坂道をトップスピードで駆け下りながら私は最悪な事象ばかりを巡らせた。ストーカーが蛮行に及んだのかもしれない……と…… 状況くらいは聞いておくべきだった。そうすれば、得物の一つでもカゴに押し込んで来たと言うのに。


 アパートの入り口にペガサス号を乗り捨て、階段を駆け上がる。先輩の部屋に近づけば近づくほどに呼吸と歩調がちぐはぐになってゆく。迫るドアの前には誰もいない、私は静かに呼び鈴を鳴らした。

「いらっしゃーい」と何事もなく、いつものように私の通り越し苦労であって欲しいと願いながら。もし、先輩のいたずらであったなら私は歓喜しながらも先輩には怒ることだろう。こんなにも心配させて!と大層怒ることだろう。


 その後、呼び鈴を何度か鳴らしたが先輩は出てこなかった。ドアノブを捻ると鍵がかかっていた。私は迷うことなくドア横のメーターカバーを開け、メーターの下にあるお菓子の缶を手に取った。いつもならここに合い鍵が入っているはず……


 缶の中は空だった……


 「先輩!俺です夏目です!居るんですよね!返事して下さい!」私は全身に冷や汗をかきながらドアに備え付けられてある郵便受けの蓋を開けて室内に向かって叫んだ。


 鼓膜がじんじんするのを感じながら、耳を澄ませると玄関に向かってくる足音が聞こえた。私は呼吸を荒くしてドアの前でその瞬間に備えて身構える。不届き者であれば一矢報いるまで、先輩だったなら……先輩だったならば……先輩であってほしい……


 玄関に灯りが灯されることなく、少し開いたドアからは先輩の顔を半分ほど覗き、


「すみません遅くなりました」と私が言うと。

 

 その刹那、ドアが勢いよく開いたかと思うと、私の胸なもとに先輩の顔が迫って来た。その間は不思議と世界がスローモーションのようにゆっくりと時間が過ぎ視界の端に躍り上がった髪の毛の端が消えた頃、ようやく、先輩の匂いが私の鼻腔をくすぐった。


「恐かったの……すごく不安で不安で……」先輩は胸に顔を押し当てて弱々しい声でそう言った切り、しばらく動くこともしなければ何を言うこともしなかった。


 私も一度だけ「大丈夫。今は私が居ますから」と声を掛けたきり何も言えなかった。現状把握に相当な時間をかけて、どうして先輩が私の胸に縋って泣いているのかはわからなかったが、無頼漢はどうやら近くにはいないと言うことはわかった。

 

「ごめんね、吃驚したよね」と泣き腫らした顔を上げて言う先輩に私はうまく言葉を掛けることができず「入りましょう」と何とか先輩を部屋に入るように促す事しかできなかった。


 できるだけ部屋中を明るくしてから先輩はリビングに膝を抱えて座り込んだ。私は、マグカップに水を入れて、先輩に差し出す一方でようやく「何があったのか教えてください」と言えたのだった。


 先輩は膝に顔を埋めたまま動こうとしない。狼狽した時にぶつけたのかプリーツスカートから覗く足には青あざができていた。


 私は斜向かいに腰を降ろすと、絨毯の上に落ちていた大学ノートの切れ端を拾い上げ、そこに書かれてある文面をみて戦慄した。


 切れ端には【合い鍵の取り扱いにはご用心】とだけ書かれてあった。


「先輩これ……マジですか……話してください」思わず私は先輩の肩に手を当てて先輩に迫っていた。場合によっては警察に届けなければならないからだ。


 それでも先輩は顔を上げようとしない。


「葉山さんにも来てもらいます」

 

 女同士の方が話しやすいこともあるだろうと思い、そう言ったのだが、


「どうして葉山さんなのよ。私は恭君を呼んだのに!」と急に先輩は顔を上げた。

 

 先輩の顔が急に近くに現れたので私は息を飲んだ。


「いや、女同士の方が話しやすいかと思って……」反射的に仰け反ってしまったところが情けない……


「少しだけ……いいでしょ」そう言いながら先輩は再び私の胸に顔を埋めた。


 言いも悪いもなかったのだが……私はまた両手のやり場に困った、情状を汲み取るには十分であったが……だからと言って、先輩の背に手を回すことはしたくない。未だに震えている先輩の身を案じればこそ、なおもってそれをしてはいけないと思えてならなかった。


 けれど、正直に私は安堵した。現状からさっするに、先輩は怯えていた。だから、こうして誰かの胸に縋りたかったのだろうと……そして、同性ではなく異性である私を……クローゼットを勝手に開けると言う無礼を犯した私を選び、縋ってくれたことに無情の感謝をするとともに、今この時、あの気色の悪いメモを持ち込んだ不逞の輩が闖入しようものなら、相手の得物の有無など関係あるまい。私は先輩の盾となりこの一身をかけて排除に努めることだろう。

 

 この心臓の高鳴りを聞かれてはいないだろうか。そんな心配をはじめた頃合いで先輩はそっと顔を話すと「顔洗ってくるね」と言い残し、私に顔を見られまいと俯いたまま、洗面所に歩いて行った。



 落ち着きを取り戻した先輩は、事の子細を話してくれた。

 






 

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