砂山レジスタンスよ永遠なれ!!
「葉山さん知ってる?」
「一度だけ見たことがあるけど……」
真梨子先輩が自信を持って、胸を張って発表したのは、昨今では随分と聞き慣れない言葉でした。それを証拠に、小春日さんは頭上にクエスチョンマークを並べ、知ってか知らずかの音無先輩は三点リーダーを並べていましたから。
かくゆう私だって、それを見たのは幼少の頃、家の近くにサーカスが来た時にたまたま、見かけたことがあっただけでしたもの……
「あれれ、みんな反応鈍いなぁ。私は自信があったんだけど」
やれやれと。腰を降ろした真梨子先輩はどこまでも不満げでした。
「他には無いの?」
音無先輩は反対なのでしょうか。真梨子先輩にすぐさまそう聞くのです。
「後は、みんなで水着になってチラシ配るとか?」
「水着って……」
額に指をやって、呆れてみせる音無先輩です。確かに水着というのは荒唐無稽だと私も思いました。
「水着って言っても、スクールタイプとか競泳のじゃなくて、ワンピタイプとかふりふりのついたうんと可愛いやつだから大丈夫!」
とりあえず、何が大丈夫なのかを説明して欲しい私でした。
酔っているとはいえ、無茶苦茶です。
自分で言っておいてげらげらと笑う真梨子先輩は「浴衣いいなあ」と呉服店の娘である音無先輩の着ている随所に桜が満開の浴衣をなで回しています。真梨子先輩だって、今日のためにわざわざ新調した萌葱色のネグリジェはとてもよく似合っていると私は思っていました。あまりに嬉しかったのか、先輩は何度も携帯で写真を撮っていました。それも私や小春日さん、音無先輩ももれなく……
無い物ねだりと言うか、他人の持ち物の方が良く見えてしまう摩訶不思議マジックですね。
「そりゃ、真梨子先輩や音無先輩は良いかもしれませんけど、私や葉山さんは……その……色々と足りませんし、だからそれは却下です。即却下です。ねっ葉山さん」
お酒に酔っているのか、はたまた羞恥心からか、頬を少々赤らめた小春日さんが力強く私の腕を掴むものですから「そうです却下です先輩」と私も断固反対の意思を伝えました。
悲しいことですけれど。小春日さんの言う通り、私も小春日さんも真梨子先輩や音無先輩のように強調するものが物足りませんから、水着は却下なのです。
精々、みんなして市民プールにでも行った折、存分に水着になりたいと思います。
「いや、後輩ちゃんたち、そう言う問題じゃないと思う……」
捕まると思う。と音無先輩は猫のようにまとわりつく真梨子先輩の頭を撫でながら、私と小春日さんに呆れ顔でそう言うのでした。
赤霧島をやっつけたところで、真梨子先輩はリバースをすることなく、酔い痴れた面持ちで「もにゃもにゃ」と寝言を言いながら音無先輩の膝枕で眠ってしまいました。
それは丁度日付がかわった頃のお話で、半分程度残った八咫烏を手酌でコップへ注ぎながら、音無先輩はしみじみと言ったのでした、
「ちんどん屋だなんて、真梨ちゃんらしいわ」と。
○
音無先輩が真梨子先輩を寝かしにベットへ連れて行き、それからそのまま二人ともベットで寝息を立てているのを発見して「風邪をひきますよ」と言いながら毛布を掛けていると、なんだか本当にお母さんにでもなった面持ちの私でした。
小春日さんと二人きりとなった私は、その後も色々とお話をしました。私は一番に、ノートに書かれてあった、学生の天敵について話します。真梨子先輩の発案に賛同した小春日さんでしたら、一緒になって憤慨してくれるだろうと思ったからでした。
けれど「そうだったんだ。そんなこと全然知らなかった」と小春日さんに言われてしまいました。
小春日さんは古平さんに声を掛けられたのだそうでした。
「古平君とは仲が良いんですね」と私が言いますと、
「だって、私の彼氏だから……」
口をすぼめてそう言った小春日さんは今にも抱き締めたくなるくらいに可愛らしかったと思います。
現に、私は「わぁ」と顔を赤面させ、照れ隠しとばかりに小春日さんを抱き締めてしまっていました。
真梨子先輩の抱きつき癖がうつってしまったのかもしれません。
それから、暫し、小春日さんの恋路を拝聴しました。小春日さんは、古平君と基礎ゼミで同じクラスになったのでしたが、はじめから古平君に良い印象を抱いていなかったと言うのです。むしろ、近寄りがたく、できるなら会話もしたくない。そんな最悪な印象だったそうです。
ですが、基礎ゼミが始まってからすぐ、気が付いたら隣には真梨子先輩がいて、そして、事ある事に古平君と小春日さんを呼び出しては二人きりにしたり、時には古平君を小春日さんに押しつけて帰ってしまったり……とてもシャイであった古平君でしたけれど、小春日さんと会う時には必ず赤いガーベラを一輪くれるなど、決して表立っては際立たないながらも、繊細微妙な優しさをくれたのだとか。
そんな優しさに気が付かせてくれたのも、真梨子先輩だったそうです。直接的には決して言わず、遠回しに、その愛情や優しさに気が付かせてくれたのだと小春日さんは薄暗い和室で寝息を立てて眠っている真梨子先輩に視線を向けながら、話してくれたのでした。
「真梨子先輩は私たちの愛のキューピットさんなの。私も古平君も感謝してる。どれだけ感謝してもしたり無いくらいだもん」
小春日さんは自身の恋路をそう締めくくります。
「キューピットですか」
私はずっと前に、美術部の先輩に真梨子先輩は「キューピット」と聞いたことがありました。聞いた当時は意味がまったくわかりませんでしたけれど、そう言う意味だったのですね。
悪く言えばお節介。良く言えば天使の行いです。
でも、私は少し悲しくなってしまいました。真梨子先輩だって恋はしたいでしょうに。内心は甘えん坊のくせに、強がっているだけなのですから。
「キューピットは………悲しいですね」
「どうして?真梨子先輩に感謝している人は私達も含めて沢山いるよ。今では、縁結びの神様とまことしやかに噂されるくらいだし」
嬉しそうに話す小春日さんです。ですが、それは違うのです。とても大切なことを忘れてしまっています。
だから……だから、私は少しだけ今少しだけ幸せそうな小春日さんが憎く思えました。
「キューピットに恋を成就してもらった人は良いですよ。幸せですから。でも……キューピット本人はどうなるんですか。ずっと他人の恋路ばかりお節介して、キューピットの恋はどうなるんです!キューピットだって恋がしたいはずです」
私が急にそんなことを言い出すので小春日さんはきょとんとしていました。当然です。私だって、急にそんなことを言い出されたら、惚けてしまうと思いますから。
だって悔しいじゃありませんか。沢山の人を幸せにしてきた真梨子先輩が、その張本人たる真梨子先輩自身が幸せになれないなんて……別に恋人ができればそれで良い。そんな短絡的なことを言うつもりはありません。人の幸せの形はそれぞれです。だから、どんな形でも良い。とにかく真梨子先輩がもう海のDVDを見なくて済むように……そうなってくれさえすれば良いのです……
「うん。葉山さん今とっても良いこと言った!うん!。ほんとに言いこと言ったよ!」
真梨子先輩を思うが為とは言えど、場の空気を悪くしてしまいました。そう思って反省していた私でした。でも、小春日さんは瞳を輝かせ今度は私を追い被さるようにして抱き締めるのです。これには私の方が何が何やらさっぱりわかりません。
「今度は私がキューピットになる番。真梨子先輩に恋のすばらしさをプレゼントする番!」
素面のはずの小春日さんはますます抑揚を激しくさせて私の耳元で言います。
「あっ」
次の一言はきっと鼓膜が破れてしまうほど大きな声でしょう。そう身構えていた私を離して、小春日さんは一人だけで身を起こします。
「キューピットは良いけど、真梨子先輩って好きな人いるのかな」
今にも泣き出しそうな視線を私に送りながら、小春日さんは言います。やっと良案が浮かんだと言うのに決定的な材料が手に入らなかった……そんな面持ちでしょうか。
「大丈夫。その点はリサーチ済みだから」
私はここぞとばかりに親指を立てると、和室の二人を気にしながら、小春日さんにこしょこしょっと、真梨子先輩の意中に居る『想ヒ人』の名前を教えたのでした。
◇
ススキの見頃を向かえ、大学の垣根ではちらほら手入れの皆無を象徴するようにススキが秋の香りをそこら中に振りまいていた。
私はと言うと、寝ても覚めて『千年パンツ』一色であった。お陰で昨夜など夢の中でもいそいそと執筆をしているのだからしてこれには驚いた。密室にて取り立てて誰が訪問することなく、空調の音だけがやけに五月蠅いこの図書館でも、ビー玉くらいのときめきは何度かあった。その全てに起因するは真梨子先輩であり、愛しの葉山さんもそこにいたのである。
まずは、『ちんどん屋やるべ!』と言う件名にて、真梨子先輩のネグリジェ写真が送られて来たかと思うと、次ぎには愛おしい葉山さんのきょとんとした写真が、最後には人間くらいはあるだろう、ぬいぐるみの写真と続いた。
最後の写真は削除するとして、またしても葉山さんの写真を送ってよこすとは、さすがは真梨子先輩である。
なんと言おうか、真梨子先輩の送ってくれる葉山さんの写真だけで十分な話題となる。
葉山さんの写真が貼付されてあったメールには「恭君もおいでよ。楽しいにょ」と書かれてあった。私はその場で携帯を全握力を持って締め付けると「行きたいに決まってるでしょ」と声を殺して変顔にて呟いた。
もはや乙女の園、桜花の園、そしてハーレムと言えば随分といやらしく聞こえるだろうか……
とにもかくにも紅一点ならぬ黒一点と私一人が、ただ一人が妙齢たる婦女の輪の中に入って、面白可笑しい時間を過ごせるのであるからして、これを断る理由などどこにもありはしない。それよりも、私は真梨子先輩宅へ向かう道中「さあ私を羨めしがるがいい!」とすれ違う男と言う男に胸を張って堂々と吹聴して回らなければ気がすむまい!
真梨子先輩からメールを受け取るたびに、一喜一憂して溜息と一緒に「おやすみなさい」と返信するのも、なんだか慣習になってきた気がする。
先輩は私をどうしたいのだろうか。まあ、葉山さんに好意を寄せていることを知っている先輩のお節介と言えばそれまでであるが……そう言えば、葉山さんの写真を送ってくれる際、どうして先輩は自分の写真も同封するのだろうか。今回のように、別口で送ってくるものもあれば、一緒に映っているものもある。
ポップコーンの写真には葉山さん唯一、一人だけが映っていたが、後に送られてきたデロリンソーダの写真にはしっかり真梨子先輩が写り込んでいた。
浮気心を起こすつもりはない。
だが、そんな写真を見ていると純然と真梨子先輩とて素敵な女性……そう思えてきて仕方がない。化粧を落とすと、大人びた雰囲気こそ薄まっていたが、あどけなさを感じさせる可愛らしい顔であり、そんな先輩が可愛らしいパジャマを着込んでいれば、つい守ってあげたい衝動に駆られてしまう。
日頃の大人びた先輩の姿は仮の姿なのだろう。どうして先輩はそうまでして自分を誤魔化すのだろうか。
私は私個人的には真梨子先輩らしい真梨子先輩が好きなのであった。
そんなことを考えてしまった私は、その後一字一句として書き進めることは叶わず、閉館時間ぎりぎりまで真梨子先輩との出会いから今までを回想しては天上に並べていたのであった。
翌朝、図書館のお馴染みの席に腰を降ろしてパソコンの電源を入れ、あくびの一つもしている間に、これまでどれくらいの男どもが真梨子先輩のお節介に勘違いを起こし、先輩との甘い時間を過ごせることを切望しては夢やぶれていったのだろうか、とそんな事を考えた。
精神鍛錬に抜かりのない私であるからして、変な感情を芽生えさせず真梨子先輩の後塵を拝しているわけだが……それとて、先輩がお淑やかな服装に着替えた刹那には虜になっていた。と言うことだって往々にしてあり得る話しである。
私は『世界で一番乙女に飢えた男』と言う不名誉な称号も甘んじて受け取る。そんな男なのである。
図書館に一日中引き籠もっていると、誰と接触することもなく、とかく身だしなみが無法地帯になりがちになっていけない。他者からの視線を気にしなくなると、赤信号と聞いたことがある。
現在の私からすれば、シグナルはすでに猛赤信号と言えるだろう。3日ものの無精髭を蓄え、服とて3日間着た切り雀である。さすがに汗臭くなってきたので、本日帰宅の折には着替えようと今朝起き掛けに思った。
身だしなみなど衣食足りてからで良いではないか。思い出してみれば、ここ数日、ろくな物を口に入れていない。大体をインスタントラーメンの麺を乾麺のまま丸かじりして、お茶で流し込むと言った荒技で空腹のみをしのいで来た。
自炊をする意欲が減退しているからであることは言うまでもない。ただ、それにともなって椎茸のように舌の上に生えてきた口内炎には困ったものである。乾麺を貪るたびに声にならない叫びをあげなければならないからだ。
それもこれも『千年パンツ』を完成させるまでの辛抱である。盗作は容易い。いつもニコニコ挙動不審である。だが、創作ほど精神力と体力を奪ってゆくものはありはしない。自身の辞典からアイディアを搾って踏んで叩いて、残りの一滴を抽出してもなお、捻りつづけなければならないからだ。
ゆえに、この作品が完成を見た暁には、私は創作者にしか絶対に理解不可能な無限の達成感に包まれ、その心地よさに陶酔するのである。何をどれだけ書こうとも原稿料が発生しない我々文芸部員にのみ味わうことを許された、悦楽の一時と言うわけだ。
そして!完成したその時には、葉山さんに想いを伝える!
いつしか、そんなオプションもひっつけながら、私は今日も一人孤独な戦いを開始したのであった。
昼頃を過ぎ、窓ガラス越しに見える中庭に屯する学生たちの姿が少なくなってきた頃。知恵熱で前頭葉がオーバーヒートを訴えるのでそろそろ昼寝でもしてやろう。そう思った私は携帯の目覚ましを30分後にセットしてから机に突っ伏した。昨夜よりも1時間がんばった前頭葉であった。
「へー千年パンツかあ」
「本当ですね。千年パンツです」
微睡みをはじめて、ものの10分も経たないうちに、私の背中が何やら騒がしい。
普段は足音一つしない図書館において、人の声を聞く事は滅多にない。これは、もしや、図書館に出ると言うワンピース令嬢ではないだろうか。私はそんなことを考えながらも、その声が空耳でない確証をひたすら探していた。何せ、ワンピース令嬢は地下室の六法全書置き場に出ると言うのがもっぱらの噂であったし、せっかく心地よく微睡んでいると言うのに、空耳ごときで首をもたげようものなら、覚醒につき、二度と心地よく居眠るなどできるはずもない。
だが、
「恭君、気持ちよさそうに寝てるね。可愛いっ。ちゃんと食べてるのかな、ちょっと痩せたかも」
「先輩。それじゃまるで先輩が夏目君のお母さんみたいですよ」
とはっきり麗しの笑い声が聞こえたので、喜んで目覚めることにしたのであった。
◇
それは真梨子先輩と麗しの葉山さんだった。
二人は私が寝ていることを確認してから、話題を二転三転させ、最後に美術部の展示スペースが余っている。と言う話しをしてから、ようやく口を止めた。
すでに狸寝入りを敢行していた私としては、話しの腰を折ることも、はたまた会話を途絶えさせてしまうことも心苦しく……簡単に言えば頭をもたげるタイミングを伺っていたのである。
ようやく訪れた束の間の沈黙に私は苦痛をもよおし始めていた首を半回転させると共に、ようやっと眠た眼を装って頭をあげられたのであった。
「起こしちゃった?」
わざとらしく言う真梨子先輩はいつもの真梨子スマイルを浮かべて、私の隣に腰を降ろすと、葉山さんはその後ろに立ち据えた。
「確信犯ですよね」
背伸びをしてみせる私であったが、どうにもそう言う気分と言おうか、葉山さんを前にした照れ隠しの意図も十二分に含まれてあったと言いたい。この瞬間に関しては目脂の有無とて至極気になる。
それに拍車をかけて私の膝元を震えさせたのは久方ぶりに『誰か』と会話をしようとしているからでもあった。スーパーのレジでインスタントラーメンを買う時に、「袋はどうされますか」「ください」のやりとりをして以来の会話であったと思う。
会話をしないと、声も出なければ舌も回らない。舌も声帯も筋肉を使わなければなまってしまうようだ。
それでも、久々の会話は楽しかった。真梨子先輩との会話は楽しいことばかりが凝縮されているので、面白可笑しい。そこに時折、葉山さんが言葉を挟むのだ。会話リハビリ中の私には少々難易度が高い顛末となってしまった。
日々をディスプレイに向かうことばかりを良しとせず、誰かと話しさえしていれば、真梨子先輩や葉山さんと面白可笑しく談話に花を咲かせられたと言うのに。
誠に無念である。
「そうだ、部長会の宣伝なんだけど、ちんどん屋することに決まったから」
パジャマパーティの折、音無さんの着ていた浴衣がいかに可愛かったか、と言うところを話し終えたところで、真梨子先輩が思い出したようにそう言った。
「ちんどん屋ですか。また珍しいですね」
「夏目君知ってるんだ、私も一度見たことがあるだけなんだけど」
私が幼少の頃、休日の朝に商店街に行くと商店主有志のちんどん屋が、セール品の書かれたチラシを配って練り歩いていたのを祖母と一緒に良く見に行った覚えがある。
そう言えば最近はめっきり見かけなくなったな………
「詳しいことはまた私の部屋でお酒呑みながら決めましょう。今度は恭君もおいでよね」
「葉山さんも音無先輩も来るんでしょ。なら行けませんよ」
「じゃあ、二人きりならOK?」
身を乗り出す真梨子先輩である。そんな緩んだ表情で言われても全然真に受けられませんし、その、何というか……自然と目が行ってしまうから谷間もどうにかしてほしいです。
「昼間なら良いでしょ?」
「えっ」
私はてっきり夜中また、パジャマパーティーよろしく、ハーレムもとい、桜花の園が展開されるのであろう。そう勘ぐったがゆえに、参加を渋ったのだが……その手があったか……
「そうだよ。恭君。昼間なら良いでしょ?良いよね。決まり!」
後でメールするねえ。真梨子先輩はきっと私がそれでも断ると思ったに違いない。だから、私が返事をする前に葉山さんの手を持って駆けて行ってしまったのだろう。
しかし、真梨子先輩に手を引かれながら、後ろ髪を引かれる乙女のように私を見てくれた葉山さん……ありがとう。
これで私は昼食を食べずして夜まで戦う事ができる。
そう決意を新たにしたそばから胃酸過多の地獄の苦しみに私は溢れ出る唾液を飲み込み、これを薄めることに専念せざる得なかった。こんな状況下では執筆などかなうものか、やはり学食に行こうか……
流星のごとく方針転換を画策した私であったが、ふと机の上をみれば、そこにはゼリー状の簡易食糧が一袋置いてあったの。
『惚れ直したぞ(^_^)v』と書かれたメモと共に……
真梨子先輩は何をしに来たのかと思ったら……きっと何でもないお喋りをして、気の向くままに帰って行くのだろう。そんな風に思っていた自分が情けない。
わざわざ、これを届けに来てくれたのだろう。本当に真梨子先輩と言う人は、感謝の言葉も言わせないなんて……
「惚れ直すのなら、私の方ですよ」
メモ紙に書かれた文字を指でなぞりながら、私はそう呟いた。そして、誰もいないことを確認してから、飲食御法度の図書館内にて真梨子先輩の愛情を一気に飲み干したのであった。
誰かに応援されている。そう思えるだけで随分と筆の進みようも違ってくる。それと言うのも、時折、我に返ったように虚しく思える瞬間があるからだ。
私はプロの作家でもなければ、将来物書きを目指しているわけでもない。だから、このように多くの時間を図書館に籠もりパソコンのキーボードを打つことに、青春の貴重たる時間を浪費していて良いのだろうか……そんな空虚な面持ちとなるのである。
そこに意味をどう見出すか……私に必要なのはそれだろうと思う。文字をただ書き並べて、物語りを紡いだとしても。誰の目にも止まることなく、ただのゴミくずとして消滅するしかその他を知らないのであるなら、今この時に執筆をやめてしまったところで、誰がなんとも思うこともありはしない。ただ、私が一人。私が一人だけ、ついに主人公を幸せな終幕を見せてやることができなかった悔しさに涙するだけである。そこには当然、意味などありはしない。
だから、誰かに応援してもらえることは無情の喜びなのだ。誰かが私の励んでいる行為を認めてくれているようで、それだけで、至宝たる『意味』を手に入れた面持ちとなれるからである。それに、加えて誰がわざわざ、私などの為に差し入れを持って来てくれるだろうか。
双方相俟って私はあらためて涙が出るほどに嬉しさを噛み締めていたのであった。
そのお陰か、その日は携帯の中に居る葉山さんに助けを求めることもなく、比較的順調に筆を進めることができた。
図書館から帰り道、真梨子先輩が差し入れてくれた、ゼリー飲料を握りながら、再び先輩に感謝をしながら、私は暫時立ち止まって南の空に蒼く輝くシリウスを見上げた。
あの蒼い光は私の父や母が生まれる前からそこにあったはずだ。誰に見上げられているかも知れず、はたまた、その存在自体が認識されていることすらも当のシリウスにはわかるまい。
人間原理という誠に申し訳ない尺度で言えば、我々人間が『シリウス』と言う存在と意味を与えたがゆえに、シリウスはシリウスたりえるのだ。だが、そんな論はやはりシリウスに申し訳がない。
所詮、光年と言う尺度は人間の想像と……いいや、全てを凌駕してあまりある。今、私の瞳に届いている光とて、光速にて何十光年、遥か昔にここを目指して旅だった光なのだから。
海を見ても思う。しかし、星を見上げてもやはり思ってしまう。意味などとそんな小さなことを手に入れなければ、何を成すことも出来ないなど……やはり自分は小さい。なんとちっぽけな存在なのだろうかと。
シリウスはきっと、誰に見つけられなくても、その蒼き輝きに魅了される者がいなかったとしても、広大な宇宙の中で孤高にも己の体を燃やして輝き続けていたことだろう。そう、そしてその鼓動が尽き終焉の大爆発でその生涯に幕を降ろすその時まで。
そんな孤高たる強さが私にあったならば…………
そこまで考えて私は歩き出した。そんな強さがあったならば、もっと違った人生を歩んでいたに違いない。
確実にそうだろうと思う。今頃、この帰路を歩いていることもなければ、夏の暑さの中をペガサス号に跨って額に汗をすることもなかっただろうと思う。無いモノ強請りも人の性、あんなに大きくも雄麗たる月があると言うのに、どうして私はシリウスなどに惹かれたのだろうか……私は自分が可笑しくて吹き出してしまった。誰もいない帰り道であるからして、大いに醜態を曝したところで後悔する日はきやすまい。
そして、先月読み終えたばかりの恋愛小説『月が兎に恋をして』を思い出すと、今一度読み返したくなってしまった。
偶然と勘違いを繰り返して男女が出会う。そんなのは、ありきたりな物語りにも思えるのだが、男女双方の心情が刻銘に書かれた構成はなんとも技巧が凝らされていると言える。私の『千年パンツ』にもこの構成を取り入れていることは言うまでもなく……
「そうだ」
ここで私にアイデアが閃いた。千年パンツの複線に『月が兎に恋をして』を織り込んでやろうと思ったのである。
もちろん盗作などではない。劇中で主人公とヒロインに『月が兎に恋をして』を読ませるのだ。
複線にはもってこいではないか。それに、読み手がもしも『月が兎に恋をして』を読んでいたとしたならば、なかなかどうして、自分が知り置いているモノが登場していると言うのは嬉しいものなのであるから、そう言った点でも喜んでもらえるかと思う。
私だって最近読んだ小説の中に、中学生の頃に夢中になった海底二万里が登場していた時には不思議となんだか嬉しかったものである。
下宿に帰ったならば、忘れてしまう前にまずはこのアイデアをメモしておかなければならない。そう考えながら、私は再び夜空を見上げた。私の視線の先には蒼い輝きはない。その代わり、少し楕円に傾いた月の姿があった。
○
真梨子先輩の提案で、めでたくも部長会での宣伝活動は『ちんどん屋』に決定しました。
お昼過ぎから開催された部長会有志が集まっての説明会には、真梨子先輩をはじめとして小春日さんに古平君。夏目君に音無先輩。そして、文芸部の部長さんと、よく飲み会で顔を合わせる気の知れたメンバーが揃いました。
小春日さんなどは、ちんどん屋を見たことがないと話していましたので、映画研究会からちんどん屋の登場する映画を借りてきて、まずはちんどん屋とはなんぞや?と言うところから話しが始まりました。
映像には派手なメイクに風変わりな衣装を身に纏い、鉦【かね】や太鼓を叩いたり、三味線にクラリネットを演奏したりする男女の姿が映っており、その様の人目をひくことと言ったら!とにかく『宣伝』と言うにはもってこいだろうと思いました。
ただ、楽器を演奏できる人が誰一人いませんでしたから、その後の打ち合わせでは、楽器は用いずに拍子木を使うことに決まり、真梨子先輩たっての希望で宣伝をする日はわざわざ、砂山さんも参加する甘美祭実行委員会が駅前で宣伝チラシを配る日に被せることになったのです。
ですから、真梨子先輩の意気込みは天を突くばかりでした。残念ながら、甘美祭実行委員会と日を同じくするので、音無先輩は部長会の方に参加することができなくなってしまいます。その代わりと言うわけではありませんけれど、音無先輩は「私の実家、貸衣装もやってるから」と、衣装をなんとか都合をつけてくれると胸を叩いて宣言してくれたのでした。
物事とは一度動き出すと、後は何もしなくても勝手に動いて行くものですね。『真梨子式宣伝大作戦』の骨組みが決まってしまうと、後は事細かな事柄について各々にアイデアや意見が積極的に出ていきます。
これぞ会議。そう思ったのは私だけではないと思います。先日多目的ホールで行われた会議……あんなものは会議ではありません。司会進行がまるで誰もいないホール内に一人で喋っているような……あんなのは会議ではないのです。
楽しそうな表情を浮かべ『良いモノをより良く』持てる知恵を出し合い、一つの目標を完璧に磨き上げることこそ、会議のあるべき姿なのですから。
1時間を予定していた会議は2時間を超え、真梨子先輩が次回会議の話しを始めなければ、それこそ夕方まで続いていたかもしれません。
私も久方ぶりに、口の周りの筋肉がごわごわとしていました。
第1回会議より数日の後、『真梨子式宣伝大作戦』第2回会議をより有意義にするため、発起人である真梨子先輩は私と小春日さんに声を掛けて、一緒に音無先輩の実家に向かいました。
第2回会議と言っても、迫る甘美祭を見据えると大凡その会議が最後となるだろう。そんな認識を誰もが言わずとも暗黙の了解としているはずなのです。だから、3人連れだって肝心な衣装を持ち込んで士気向上と現実性をテコ入れしようと言う企みだったわけです。
行きの電車の中で、私は小春日さんとどんな衣装が良いでしょうか。と色々と話しをしてました。真梨子先輩はもう決めている様子でして、私と小春日さん話しを聞きながら終始微笑んでいるだけでした。
小春日さんは「ウエディングドレスとかもいいかも」とか「パーティードレスもいいなあ」とドレスアップした花嫁さんを恍惚と見上げる女の子のような眼差しで、空調にはためいている中吊りの五色饅頭の広告を見上げていました。
まるで、「(あの五色饅頭美味しそう)」傍目から見ればそのようにも見えなくもないだけに私は夢見る少女である小春日さんを可愛いと思う傍らで、一人笑いを堪えていたのです。
「なっちゃんはどんなのが良いの?」
さすがに、音無先輩のご実家に伺うとあって真梨子先輩も普段の派手な装いは控え。白いブラウスに水色のスカートと、とても落ち着いた装いでした。首元の赤い林檎を象ったペンダントトップがブラウスの白を引き立てていました。
やはり先輩こちらの落ち着いた装いの方が似合っています。憧れのお姉さんのような先輩を見ていると、ノーブルと言う言葉がとても似つかわしく、たまに無邪気に笑ってみせると、これもまたエレガントの趣があるのです。
小春日さんが、高校の先生みたい。と言い表したのにもちょっぴり納得でした。
「そうですね。私は……浴衣で良いです」
第1回会議で上映された映画では、昭和の香りを匂わす。浴衣に着物、燕尾服でしたから、やはり、それに習って私は浴衣で良いと思います。
「浴衣なんて駄目。そんなんじゃ目立たないじゃない。目立ってなんぼなんだから」
「浴衣なら水着の方が目立つわね」そんな事を本気で言う先輩でした。
音無先輩のご実家は、烏丸と言うところにあり、真梨子先輩が『とりまる』と読み間違えてしまい、女性の駅員さんに笑われてしまいました。私も『からすま』と読むとは思いもしませんでしたから、真梨子先輩のことは笑えません。地名は難しいのです。
電車を降りて、音無先輩に書いてもらった地図通りに幹線道路を渡って、路地に入って行くと、鉄筋コンクリートのビル群の中にぽつりと、京都を思わせる風情のある木造建築が異風を漂わせていました。
軒先には『音無呉服』と萌葱色地に群青色にて染め抜かれた暖簾が堂々と微風に揺れています。
そして、私はもとより真梨子先輩ですら「入ってもいいよね?」と言わせてしまう、殺し文句が暖簾の先にあるガラス戸に貼られていたのです。
これは、これこそ、格式の京都を思わせる一言ではないでしょうか。いいえ。それ以外に言い表しようがありません。
私と小春日さんは今すぐにでも回れ右をしたい気持ちを押さえて真梨子先輩の背中に隠れました。
『一見さんお断り』の札には思いのほか緊張してしまうものなのです。
○
私たちが『一見さんお断り』にたじろいだことをお話すると、響先輩のお姉さんである音無 鳴海さんが、宇治茶と生八つ橋を眼下に「あはは」と明眸皓歯を覗かせて笑顔になりました。
「ほら、うちは舞妓さん相手の貸衣装やから、たまに舞妓さんの格好させて、言うて観光のお客さんが来はるさかい、だからあの札はったんよ」
さすが、お茶の本場は違いますね。私がスーパーで買っている緑茶とは香りも渋みも別次元です。そろそろ、我慢できません。と思ったところでお茶と相対する甘味の八つ橋を囓ると、生き返ったようにとても幸せな面持ちとなるのです。渋く苦いがゆに甘さが必要以上に引き立つのかもしれません。
真梨子先輩は私と小春日さんがお茶に八つ橋にと舌鼓を打ち放しにしている最中でも、鳴海さんとしっかり打ち合わせをしている様子でした。
さすがは真梨子先輩ですね。これが私と小春日さんだけだったならば、きっと「帰りに生八つ橋を買って帰りましょう!」とお互いに頷きあってはしゃいでしまったことでしょう。
蛇足ですけれど、帰りに生八つ橋を帰って帰るつもりでいますよ。もちろん!
しっかり京菓子に舌鼓を打った後、さらに暖簾をくぐった奥の部屋に通された私たちでした。
「ちょっと、待ってて」
鳴海さんはそう言うと近くの襖を開けて、どこかへ行ってしまいました。
その部屋からは、日本庭園を思わせる情緒ある庭を見ることができ、苔の生えた石灯籠や動いてはいませんでしたけれど、獅子脅しなどは、時代劇でしか見たことのない『和風』だったのです。日本人でありながら、このような純和風をはじめて目にしたと言うのもなんだかおかしな話しですけれど……
私の部屋の4倍はあるでしょう縦長の部屋で私はお庭を、真梨子先輩と小春日さんは襖に描かれた味わい深い猫の絵を……それぞれに見入っていました。
やはり、和風とは地味ですね。シャンデリアもなければ大きな鏡もなく、絵画もなければ甲冑も石像もありません。けれど、私にはわかるのです、柱一本、襖の一枚。立たずにそこにあって然るべき物たちが全て一流品であることが。畳みなどは踏みと微かに沈むのです。ふわっと沈むのですよ!わら詰めを藺草で編んだ表をつけたこれを本畳みと言うのでしょう。見た目こそ変わりませんけれど。私の部屋の畳みなどまるで板が入っているかのように硬く、どれだけ踏みつけてもふんわりと沈む事などありません。
鳴海さんに言わせれば「こんなん、町屋やったらみんな同じよ。うちは特に商いしてるから」なのだそうです。
慎ましくも地味ですけれど、見えないところに贅を尽くすところがやはり『和風』なのでしょう。これは日本人気質に通ずるところがあると思うのです。
「お待ちどうさん」
鳴海さんは奥の襖から幾つか浅広い桐の箱を抱えて戻って来ました。
「私なりに色々考えてみてんけど、どうやろうか?振り袖がええと思ってんけど」
並べられた桐の箱を空けると、そこには可愛らしくも鮮やかな桜柄、面白い市松模様、梅の枝に鶯が止まった絵柄。一目みただけでも、格が違う振り袖が収められてありました。
「どう?」
「どうと言われる前に、こんな上等な振り袖を借りてしまっても良いんですか……」
私は不安になってついそんな、貧乏くさいことを聞いてしまいました。洋服ならば少々どれくらいの価値があるのか知り置いているつもりですが、着物となると全く未知の世界でして……
いややわあ。と手を口許に当てて言う鳴海さん。
「そんな、こんなん三重で家も立たへんから」と笑うのですが……家と言われても……微笑む鳴海さんを尻目に私と小春日さんは顔を向かい合わせていただけだったのです。
「他にも出してくるから、もうちょっこっと待ってて」私と小春日さんの反応に気を良くして下さったのでしょうか。鳴海さんは気前良くも次から次から次へと桐の箱を出して来ては、蓋を開けて、着物の説明をしてくれました。
どんな時にどんな人たちが借りて行ったのか……基本的に江戸時代からある一品であるところから話しが始まるものですから、その時点で私と小春日さんは物怖じしてしまって、触ることすらままなりません。
別段買いに来ているわけではないのですが、「もう少し安い着物はありませんか?」と聞いてしまいたくなるのが人情と言うものですよね。
「真梨子先輩はどんなのにするんですか?」
これなっちゃんに似合うと思うよ。など私と小春日さんに柄を合わせてばかりいる先輩に私が聞きました。
「私のは特別なのよねえ、なっちゃんたちのが決まったら見せてもらうつもり!」
ここに並んだ絢爛豪華な振り袖よりも、特別な品とはどんな物なのでしょう。もしかして、白無垢を着るつもりでは……口に出さないながらも、真梨子先輩のきらきらが瞳からこぼれ落ちてしまっていて、少し恐いくらいでした。
その後、「こんなのもあるよ」と鳴海さんが出して来てくれたのは、桜色の上と紅色の袴と洋風のドレスです。
私は大正浪漫漂う袴が一目見て気に入ってしまいましたので「これにします」と鳴海さんに言いたかったのです……ですが、「鳴海さん、私これにします!これしかありません!!」と小春日さんがそれはもう、思わず私が振り返ってしまうほどの勢いで身を乗り出しながら大きな声で言うものですから、すっかり私は何も言うことができませんでした。
小春日さんの選んだドレスは鹿鳴館スタイルドレスと言うそうです。
『鹿鳴館』とは明治時代に建設された社交場の名称なのだそうで、舞踏会なども開かれ、その際、実際に婦女たちが着飾ったドレスの一着なのだそうです。
確かに、若草物語や近代イギリスを思わせる仕立てではありました。けれど、手触り良さそうな光沢のある生地に見かけよりもずっと軽いようで、肩幅を合わせるのに小春日さんがドレス持ち上げますと、素直にふんわりと持ち上がるのです。
「見た目よりも軽そうですね」
「葉山さん。これ、全部絹よ!シルク仕立てなのよ!」
絹とシルクは何か違うのですか?と内心思っていた私でしたけれど、シルクとは高級生地であることくらいは知ってますから、それをふんだんに用いたドレスとは一体お幾らくらいするのでしょう……すぐにそんな野暮ったいことを考えてしまうのは貧乏人の性ですね。
その他にも、小春日さんはドレスの作り自体にも興味があるようで、縫い目を見てみたり、胸元の刺繍を撫でてみてはその滑らかさに感嘆の声を上げていました。「そのドレス全部手縫いなんよ」と鳴海さんが言うと。「参りました」とドレス向かって溜息をついていました。洋裁を嗜むソーイング同好会の血が騒いだのだろうと思います。
鳴海さんと盛り上がる小春日さんを余所に私は、自分の気に入った袴を穴が開くほどに見つめてはその良さを探ってみました。けれど、作りが頑丈で繊細。そんな誰でもわかるような漠然とした良さしか見当たりません。私は小春日さんのように縫い物をするわけでも和裁も洋服も詳しいわけでもありません。まして、袴など大学の卒業式の時に着ることになるのだろう。そんな認識でいたのですから、付け焼き刃にもなりません。
「まりちゃん、袖だけでも通していって、袖あわへんかったら出さなあかんし」
「はい。待ってました!」
膝をぺしりと叩いて立ち上がった真梨子先輩は鳴海さんの後に続いて近くの襖からどこかへ行ってしまいました。衣装部屋へ繋がっているのでしょうね。
「わあ。こんなドレス着られるなんて思ってもみなかったあ」
恍惚となってみたり、携帯カメラで写真を撮ったり。小春日さんの眼中には真梨子先輩の姿はまったくないようでした。
そんな小春日さんに私は少しばかし呆れ気味だったのですが、夢中になって喜ぶ小春日さんの姿には幾ばくか妬ましくも思ったり……なんだか羨ましく思ってみたり、なんだか悔しいです。
目の前に並べられた風光明媚に花鳥風月な振り袖を一重一重見ていると、なんだか不思議な面持ちとなってしまいました。
これらの着物たちは江戸時代に拵えられ、何度も修繕されて悠久の時を越えて、私の眼の前にあるのです。きっと、代々これらの振り袖を袖に通してきた女性たちは、この着物を大切に大切に愛情を持って接していたのだろうと思います。だから、今もこうして美しいままの姿で残っているのでしょう。
この着物たちを身に宿してきた人たちは一体どのような方々だったのでしょうか。どれだけ大切にしていても、人の一生は限られています。持ち主がいなくなっても、存在し続けるモノ……そう考えてしまうと、なぜか切ないです。
私が大切にしていた、クマのぬいぐるみは従姉妹の女の子にお母さんが勝手にあげてしまいました。
「代わりのぬいぐるみを買ってあげるから」泣きじゃくる私にお母さんはそう言いましたけれど、結局、新しいぬいぐるみは買ってもらえませんでした。
いいえ。私が断ったのです……私は従姉妹にあげられてしまったクマのぬいぐるみが良かったのです。おばあちゃんからお誕生日プレゼントでもらったあのぬいぐるみが……
誰にだって特別なモノはあると思います。笑われてしまうかと思います。けれど、私はモノには想いが宿ると信じて疑いません。大切にしてきた想いで、小さな傷に落ちない汚れの一つ一つに大切な思い出が詰まっているのです。お母さんから見ればボロボロのぬいぐるみでも、私にとっては特別で大切なぬいぐるみ………なんだか泣きたくなってしまいました。
「そっか……」
視界がぼやけてきた頃合いで私は気が付いてしまったのです。この着物たちが悠久の時を越えられた理由が!
きっと、この着物たちを受け継いだ人が先代の持ち主が大切にしていた、その気持ちまでも一緒に受け継いだのですよ。だから、先代と変わらぬ愛情をもってこの着物たちを大切に大切に、紡がれた思い出と途絶えてしまった歴史を人が代わってもなお綴り続けていけたのでしょう。
この袴だって同じです。もしかしたら、私の同年代の女性が身に纏って大学へお散歩へ、色々なところに出掛けて行ったのかもしれません。もしかしたら、意中の男性とのデートに着ていたかもしれませんね。
こんな可愛らしい色合いですから、最高に可愛く輝かせてくれたことでしょう!
不意に微風が私の前髪を揺らしました。庭の方を見てみると、微風にはらはらと桜の花弁が流れているではありませんか……そして、縁側には桜色と紅色の袴を着た長髪の女性が佇んでいるのです。背丈は私と同じくらいですが、私よりも華奢な肩幅と腰まである髪の毛は烏の濡れ羽のように艶めいています。
「小春日さん!」
私は隣でドレスを抱き締めていた小春日さんをの肩をゆらしながら「庭を見て下さい」と急いで言います。
「急にどうしたの、そんなに慌てて」小春日さんはなんら変わりない庭を一瞥してから「あれ……」と呟いた私の顔をまじまじと見つめて「鳥?」と首を傾げていました。
狐につままれた面持ち……と言うやつですね。私にははっきりと桜吹雪と袴姿の女性の姿が見えたのです……見えたはずなんです……白昼夢のように時間が経つにつれて自信がなくなってきてしまいましたけれど………
○
「それでは当日よろしくお願いします」
三人で鳴海さんにお礼とお願いをしてから、三者三様、興奮気味に音無呉服を出た私たちは途中で大判焼きを買いました。抹茶を練り込んだ生地にごろごろ小豆の美味しいあんこに口の中をお祭り騒ぎにさせながら、駅まで歩いて、駅構内のお土産屋さんで予てから購入予定でした生八つ橋をお土産に買いました。
私は普通の漉し餡でした。先輩はカスタードやチョコクリームなどが入ったバラエティセットを2箱も買っていましたので「そんなに食べるんですか?」と私が聞きますと「1個は恭君にあげようと思って」と舌を出して、真梨子先輩と同じくバラエティセットを2箱買った小春日さんにも同じことを聞いたところ、「古平君にお土産」と恥ずかしそうにもじもじしながら答えるのでした。
「そうですか」
素っ気なく答えて見た私でしたが……これでは、なんだか私だけがお土産を買う相手も居ないようで………
それはさておき、帰りの電車の中で真梨子先輩は鳴海さんのことを随分と鼻高々と話していました。なんと言えば正しいのでしょうか。そうですね……そうです、尊敬。です。真梨子先輩は鳴海さんのことを一目置いているようなのです。先輩の話しによれば、鳴海さんは先輩と一つ歳が違うだけなのですが、若くして日本舞踊音無流の講師を務め、着物の着付けはもちろん和裁の腕前もぴかいちなのだとか。加えて、和声学も嗜み高校生の時には弓道のインターハイで全国3位にまでなった腕前なのだそうです。
「私と一つしか違わないのにすごいわよねえ。私には何にもないもんなあ」
そう言って五色饅頭の広告の方を見上げた真梨子先輩の横顔は忘れることができません。
どこか寂しそうな。まるで『自分は無能だ』と言わんばかりの哀愁漂い横顔だったのですから……
「羨ましがるなんて先輩らしくないですよ。先輩には私も小春日さんも夏目君もいるじゃないですか。それに大学には先輩の親衛隊もあります。そんな先輩を私は尊敬しているのですから、真梨子先輩がそんな風に誰かを羨んでしまったりしたら、先輩を尊敬している私はどうしたらいいんですか」
奥歯が痒くなるような台詞でした。けれど、私は言いました。決しておべっかを言ったつもりはありません。私の本心の中の本心なのです。
「わっ、私も真梨子先輩のこと尊敬してますよ。先輩は面倒見もいいし、先輩のお陰で私は葉山さんと友達にもなれたし、古平君のことも……とにかく先輩にはとっても感謝もしてますし、尊敬もしてますから」
私に続いて小春日さんも、言葉が軽くなってしまわないように、胸の中にある具体的な言葉を出来るだけ口に出して言いました。
「ありがと」
少し口を開けて、目を見開いた状態で私と小春日さんの述懐を聞いていた真梨子先輩でしたが、真っ直ぐ見つめる4つの瞳に、感極まれりとゆっくりと瞼を閉じたかと思うと、その次の瞬間には頬に一筋の涙が伝わせていました。
そして言ったのです、
「もう、二人してそんな嬉しいこと言わないでよ」と。
その後はいつものにこにこと微笑みを浮かべた真梨子先輩でした。なので私も嬉しくなって、大人げな
くも電車の中でお喋りに花を咲かせてしまったのでした。
そうです、私が真梨子先輩を待っている間に見た白昼夢なのですが、玄関まで送って頂いた折に鳴海さんにそれとなく話して見ると「葉山さんも見たんやね。ここにある着物にはみんな、代々受け継いで来た人たちの『想い』が込められてるから、その想いに気が付いてくれた人には、持ち主やった人たちが姿を現して、その着物よろしゅうて、言いとうて出て来はるんよ」と、私だけにこそっと教えてくれました。
俄に信じられない話しですが、現実に見てしまった私は信じないわけにはいきません。
あの縁側に佇んでいた女性が持ち主だった方だったのでしょうね。後ろ姿だけで顔まではわかりませんでしたけれど、きっと綺麗な人だったのだろうと思います。何がそう思わせるのかと言われれば雰囲気。としか答えられませんけれど、それでも良いではありませんか。
あんな素敵な袴を着こなす人なのですから、相場は佳麗と決まっているのです。
◇
休日の昼下がり、私は台所の方から何やら良い香りがする真梨子先輩宅の、玄関に並んだパンプスとサンダルを見て、やはり少しは身だしなみに配慮してから来れば良かったと後悔していた。
備え付けの下駄箱の上に置かれた小さな鏡を覗き込んでは、はねた前髪をなんとかできないだろうかと、この期に及んであくせくしていたのである。あの日図書館で真梨子先輩に宣言されてしまったお昼間の会議に参上したことは、言うまでもあるまい。元より、打ち合わせをすることもそれに参加することも吝かではないのである。
だが、どうして毎度と真梨子先輩の部屋を開催場所に選ぶのだろう。年頃の乙女の部屋に入り浸るのは私の趣味でもなければ、男子として気が引けて然るべきである。
とは言え、真梨子先輩が大学施設内、またはファミリーレストランなどでこういった集会を催さないの意図を知り置いている私としては、毎度をのど元まであがってくる不平を飲み込みざる得ない。
何せ一度、ぶっきらぼうに聞いてみたことがあったのだ。
大学施設内で打ち合わせをしてしまうと、真梨子先輩のフェロモンにむさ苦しい男どもが寄ってくるばかりか、真梨子先輩が誘わなかった同性の友人から嫉妬されてしまうそうで、聞きようによっては、自慢話か法螺吹きに聞こえてしまうかもしれない。かく言う私とて、そんな話しを人づてに聞いた時は『そんなものはただの自意識過剰と自己陶酔が激しいだけだ』と真梨子先輩を罵ることはしても、決して信じることはなかった。
しかし、昨年の文化祭明け、憔悴しきった文芸部の面々に対して『クリスマスに恋愛エピソードを』と真梨子先輩が突拍子もない提案して、一部の賛同者と無理矢理賛同させられた私、真梨子先輩を合わせて5名が図書館の視聴覚室にてその打ち合わせとをしていると、時間が経つにつれて、一人二人と人数が増えて行く。何を言うわけでもない部外者どもは、まるで背後霊のように視線だけを真梨子先輩に向けていたのである。
そんな視線を無視してか、受け流してか何とか打ち合わせの体を貫き通した先輩だったが、視聴覚室を出るなり「どうして声かけてくれないのよ」と真梨子先輩に泣きつく乙女がこれまた数名。背後霊には我が文芸部の真梨子先輩親衛隊長を豪語する部長がなんとか出口まで押し合いへし合いをしていった。だが、乙女たちには男である私たちがどうこうする事も出来ず……もとい、背後霊で嫌気がさしていた私は、薄情にも困惑した表情を浮かべる真梨子先輩をほったらかして、そうそうに図書館を後にしたのであった。
まことしやかは、実であり誠であったわけである。
ゆえに、私は大学施設内で打ち合わせをすることを推奨したりはしない。もしも、必要に駆られて会議をもよおすのであれば、唯一の聖域は文芸部室だろうと思う。真梨子先輩親衛隊の根城でもあり、部外者が入ってこようものなら部長がお気に入りのフィギュアを振り上げてこれを撃退するだろうし、加えて真梨子先輩がいるだけで部長の機嫌が良いと言う付加も私にとっては有り難い。無論、部長が恐ろしいと言うわけではない。だが、『三次元の乙女』と望むとも交流叶わずの部長は禁断症状が出ると、活動中一人でぶつぶつと何かを呟くのである。これがなんとも薄気味悪くも気持ちが悪い。だから、真梨子先輩がいてさえくれれば禁断症状の抑制剤となるばかりか、何かと愉快な先輩のおかげで陰湿な空気に包まれていることの多い文芸部室が明るく春めいてくるのである。
「恭君、何してんの、早くおいでよ」
無用な回想をしている間、やはり言うことを聞かない前髪と格闘していた私であった。気になり始めるとどうしても、増して気になってきてしまう……さらには我が意中の乙女たる葉山さんがいることを考慮すれば、これまた気になってついえることがない。
「こんにちは、お邪魔します」
私をわざわざ呼びに来てくれた真梨子先輩に、私は素直に前髪を諦めると先輩と連れだって居間へ顔を出した。これではまるで、お誕生日会に呼ばれたにも関わらず恥ずかしさのあまり、なかなか顔を出せない人見知りっ子のようでなおも赤面である。
「夏目君は何飲む?お茶とポンジュースとあるけど」
腰をクローゼット側に腰を降ろした私に、意外や意外、葉山さんが気さくにコップを手にそう声をかけてくれたのである。
「じゃあ、お茶で」
私は是非とも『葉山さん貴女の御手で注がれるものであれば、例え水であろうとも私にとっては最高級のヴィンテージとなります』と言いたかった。
並々と注がれた烏龍茶を前に私が一人で花を飛ばしていると、
「冷凍のだけどだけど、ピザ焼けたよ」と先輩がオーブン皿ごとチーズが煮立つマルガリータをテーブルの中央に置かれたファッション誌の上に置いた。
ちなみにであるが、真梨子先輩がファミリーレストランを会議場所に選ばないのは、端的に『お店に迷惑だから』と言う理由であった。私としては時折見かける、ドリンクバーのみを注文して、長々と居座る同胞や勉学に勤しむ高校生の姿は、品格にかけると言おうか、『お客だから』『注文してるじゃん』と高慢にも思えてしまう。本人たちはそんな気持ちは皆無であることは、名誉のためにも付け加えておかなければならないが……
やはり食事や喫茶を楽しむ空間において、参考書を広げたり、資料を配付の上で打ち合わせをするのはどうにも不一致と言いたいのだ。ファミリーレストランのウエートレスとして働いていた真梨子先輩だからわかる、店側の心情と言うのも往々にしてあるのだろうと思う。私にはそこのところが未経験なので、ただ、想像をするだけしかできないのだが。
真梨子先輩が私の前方と斜め前に座る乙女2人に対して私のことをどのように話したのか、はたまたどのような印象を植え付けたのかは知るよしもなかったが、2人共に気さくに且つなんの隔たりもなく接してくれるところを見ると、有ること無いこと、私の善の部分のみを話して聞かせてくれた様子である。
先輩。ありがとうございます!
ピザをつつきながら、始まったの雑談であり、何というか、本日は何の目的でここに集ったのだろうか。原点回帰を訴えたいほどにその雑談のみが随分と愉快であった。
人見知りしているのが黒一点と私であったのが、またなんとも恥ずかしいかぎりでる。
時折、真梨子式宣伝大作戦の話題もあがるのだが、どこまでは真でどこが冗談なのかは私にはわからなかった。嘘か誠かを省けば、葉山さんは袴を小春日さんはなんちゃらスタイルのドレスを身に纏うらしい。
真梨子先輩はどうやら、すごい着物を着るらしい。何がどのようにすごいのかは先輩だけに全く持って不明である。うさ耳バニーでなければなんでも良いと私は思った。
火中の真梨子先輩はと言うと、『花いちもんめ』を鼻歌にて奏でながら、オーブンと睨めっこをしている真っ最中である。そんな先輩を蚊帳の外にしたまま、黒一点の宴はまさに酣となってしまい、葉山さんと小春日さんはついにそれぞれの携帯電話を触りはじめてしまったのであった。
これには何とも言い難いのだか、私は眉を顰めたかった。葉山さんは私の意中の乙女であるが、ゆえに痘痕も靨と海容の面持ちでこれを容認しても私の胸の内は一向に痛むまい。けれど、誠に申し訳ないことではあるが、意中の人である葉山さんには……葉山さんだからこそ、そのような行いはして欲しくなかった。
それが本心である。
複数人居合わせる場に置いて携帯電話を触る行為と言うのは見ていて気分の良いものではない。まるで「つまらない」と物言わぬ携帯で叫んでいるよう思えて仕方がないからだ。
その点、真梨子先輩と言えば、決して宴の折は携帯を一度として触った試しなどはありはしない。携帯は持って来ていても電源は落とす。これが先輩の流儀なのである。本人が語っていたのであるからして間違いはあるまい。そして、誰かが携帯を触り出すと、その誰かを巻き込んだ絶妙な話題で、引き続き携帯を触らせないのも先輩の流儀であると私は言いたい。これは私の他薦であって真梨子先輩自身の弁ではないのが残念であるが……
「なっちゃん、お皿持って来て」
携帯の画面を見せ合いながら、何度か頷いていた二人であったが、真梨子先輩がすっかり綺麗に片づいたオーブン皿を所望すると「夏目君、お願いしてもいい?」葉山さんが私に向かって、そう言ったのである。
だから、私は何を言うでもなく、頷くと黒塗りのオーブン皿を持って台所へと向かったのであった。
台所ではオーブンを開けて真梨子先輩が待っていた。芳しくもスパイシーなバジルの香りはなんとも言い難い。すでに2切れほど胃袋にしまい込んだ私であったが、再び食欲が促進されたことは言うまでもない。このピザが焼き上がれば、真梨子先輩も居間にて談笑をするであろう。それはもう下火になった宴を鞴[ふいご]で再び天高く炎を焚きあげることだろう。
そんな風に思っていた私である。
だから、「真梨子先輩。私と葉山さんこれで失礼します。大学に行かなくちゃならなくなりました」と小春日さんと葉山さんが、連れだって玄関へ足早に去って行ってしまった時には、驚きを通り越して、さすがに憤慨の色さえも宿してしまった。
私が激昂しても仕方がない。激昂するべきは真梨子先輩であって私が怒ったところで、どうしようもない。だが、真梨子先輩は「それじゃあ、このピザ、差し入れに持っていきなよ」とドアを開けた二人にそう声を掛けたのであった。
この人はどうしようもないお人好しなのか、そうでなければ観音菩薩の生まれ変わりなのかもしれない。
◇
そして、その後が本当に困った。
「それでは私も」と部屋を出ても良かったのだが、それでは折角ピザを焼いてくれた
真梨子先輩の行為を寄って集って踏みにじるばかりか、それはそれは真梨子先輩に不快な思いをさせてしまうことになる。
もちろん、私が真梨子先輩の立場であったならば、そんな無礼な輩とは一生口など聞いてやらないし、着信も拒否してやる。我ながら度量の狭い男である。
そんな自虐は置いといて、先輩と二人きりとなってしまった、こんの現状からすれ、私は本当に逃げ出したい面持ちであった。これは私にとっての緊急事態であると言える。
「恭君、冷めるよ」
真梨子先輩そう言いながらピザを一切れ取ってくれた。
私は冷静になってみることにした。
そもそも、どうして私がこのようにどきまぎとしなければならないのだろうか。今までにも、先輩と二人きりとなったことは幾度とあった。その時はいつだって何を思うこともなく、淡々と会話をしては別れていた。
されど、今回は何かが違う。私は「市販品でも結構美味しいんだ」と口をもごもごさせながらピザを食べる先輩をそれとなく、ちらちらと見ながら考えた。考えて考えて考えて居るうちに、こんな可憐な人が彼女であったならば……とあらぬ事を考えついて、慌てて考えるのをやめた。
何をしているのやら……
これまで婦女と関わって来なかった私であるからこそ、部長のような不埒な妄想を抱いてしまうのだろう。これは男に生まれてしまった性でもあるのだが……誠に厄介である。
答えは至極簡単にして明快。
本日、真梨子先輩はいつもの派手な服装ではなく、落ち着いた淑女の出で立ちであった。ただそれだけ。危うく、清楚たる出で立ちに欲情しかけた私であったが、起因となるべき自身の感情の深淵をまさぐると、真梨子先輩と言う乙女を前にして、やはり平静を取り戻すことができた私であった。
「何よ、変な恭君」
事の心理に到達した私が凝視していた先には真梨子先輩の大きな瞳が二つあり、目線を逸らしながら、真梨子先輩が私にそのように問い掛けたので、私は若干その様に鼓動を早くしてしまった。
「今日は本当に打ち合わせだったんですか?」
結局、雑談をして流れ解散となってしまった現状では、私の疑念とて正当なものと言えよう。
「本当のところは、なっちゃんと小春日ちゃんと3人で大方決めちゃってるのよ。だから、二人からすれば、夏目君とお話したかっただけなのかもね」
真面目な顔をして嘘をつく真梨子先輩は私は好きだ。決して解りづらくなく、それでいてすぐに冗談とわかる嘘であるからして、勘違いなどと言う副産物も生まれない。無理矢理勘違いするのは精々部長くらいだろう。
「衣装はね。音無さんが用意してくれて、そうだ、恭君は燕尾服だからね。当日は付け髭して、シルクハットでステッキも持つの!」
「本当ですか……なんでまた」
どうして、そんな似非ルパンのような格好なのだろうか……私の想像では、一昔前の大学生……大學と表されていた頃の袴にマント。このスタイルが関の山だろう。そう思っていたから、まさかオーケストラの指揮者よろしく一生着ることはあるまいと思っていた燕尾服を着ると聞かされた時には正直に驚いた。
加えて付けひげにシルクハット、そしてステッキ……先輩は私をどうしたいのだろうか……
しかし、私が燕尾服を断ろうかと算段していると「部長と古平君には悪いんだけど、黒衣してもらわないといけないのよね」と真梨子先輩が呟いたので、
「黒衣って、歌舞伎やなんかで出てくるあの黒衣ですか?」尽かさず聞き返した。
そうよ。と真梨子先輩は言い。
「引き受けてくれれば良いんだけど」そう言いつつ先輩は、口元に笑みを絶やさない。
言ってる事と、口元が一致してませんよ……
真梨子先輩の計画では駅前を練り歩きながら、まずはチラシを大々的にばらまくところからはじまり、人の眼を惹き付けておいてから、その後でチラシを個々に配るのだそうだ。
黒衣は地面に散らばったチラシを回収する役回りらしい。「もちろん、衣装は完璧よ。顔を覆う直垂みたいなのもあるんだから」と胸を張って言う真梨子先輩であったが、果たしてそこが断らないポイントになりうるのだろうか……
「別に俺が代わっても良いですよ」
完全に裏方で地味な役回りであるが、私はそんな縁の下の力持ちにやりがいを感じることのできる性分であったのだ。
「駄目よ。恭君用に衣装も頼んであるんだから」
アヒルのように唇を尖らせて言った先輩は、手に持っていたピザのミミを乱暴に口の中に放り込んではむはむとこれをやっつけていた。
それから、しばらくの沈黙が続いた。動作を切っ掛けにしたくてもピザはもうなく、台所へオーブン皿を持って行こうにも、きっとそれを真梨子先輩が許してくれないだろう。かと言って、真梨子先輩も立ち上がる気配はなく、自分の部屋であると言うのに、天上に床にと視線を弄んでは、何かの切っ掛けを探っている様子であった。
私がこの先、もしも彼女と言う存在ができたと仮定して、そのお宅へはじめて訪問した際などは、このような雰囲気になるのだろう。今、目の前にいるのは真梨子先輩であるが、未来では葉山さんであって欲しい……そう思うのは必然的な帰結であろうと思ったのだが、あいにく、不自然にもそのように思わなかった。
動物と言うやつは、往々にして居心地の良い場所を求めたがる。猫は自分が一番安心できる場所で最後を向かえるし、象とて同じであると言いたい。かくいう私も一見して『動物』と言う部類から一歩上を行く存在と過信しがちな人間である。人間も歴とした動物であるのだから、私が居心地の良い場所を求めるのもこれまた自然の摂理と言える。現段階では情けないことに、その場所が我が根城でも無ければ、まだ見ぬ葉山さんの部屋でもない。もちろん文芸部室でもなければ図書館でもない。この場所、つまりは真梨子先輩の部屋だったのである。
無論、いやらしい意味は皆無であると声を大にしたい。この部屋自体が落ち着くのか、この匂いが落ち着くのか……もしかしたら、真梨子先輩がいるから落ち着くのか……
今一度言っておく、下心は一切ない。絶対にない。きっとない……ないと思う……
そんな風に考えると、再び私は真梨子先輩を真正面から見られなくなってしまい、
私も先輩に習って部屋の中を見回しているのであった。
その内、沈黙に耐えられなくなったのか、真梨子先輩が徐にテレビのスイッチを入れた。丁度、画面には乳児用の紙おむつのコマーシャルが始まったところであった。
紛う事なき無垢な乳児が母親と戯れる姿や、なんと微笑ましいのだろうか。そう言えば親戚の姉さんが一歳になる子供を連れて来たことがあった。まだ言葉も話せなければ、歩くことさえもできない。そんな瞳が私の茄子のような顔を不思議そうな表情で見つめていた。
私は何と可愛らしいのだろうと、姉さんが帰るまでずっと膝の上に乗せてはそのお餅のような肌触りに恍惚としていたものである。
けれど、「育てると大変なんだから」と言った姉さんの言葉も忘れはしない。一片だけを可愛いとしていても、それの世話やらとなると話しは別なのであろう。
姉さんにもその子供にも誠に失礼な話しで恐縮なのであるが、これは道行く犬を可愛い可愛いと言って頭を撫でることと大凡相異ないと思う。見ている分には可愛らしくて愛らしくとも、実際に飼ってみるとなると、ただ可愛いだけでは済まされない。
命と言う観点からすれば、重みも存在もなんら代わらない両者であろうとも、やはり犬と人の子を一緒くたにするのは申し訳がない。明確に差別しておくべきだろうか。
「そう言えば恭君の小説進んでるの?」
思い出したように真梨子先輩が言った。
「まあまあです。期日までには間に合うと思います」
そっかあ。と言う真梨子先輩……そんな先輩を尻目に、嘘をついた私は背筋に冷たいものを感じていた。
本当のことを言えば、まだ半分にも至っていないのだ。
「よーし!決めた!!」
テレビを消したかと思うと先輩をそう言って座ったまま伸びをして見せた。一層強調される胸元に、私はささやかながら下心を咲かせたものの「何をですか」と当然の言葉を被せて、これを沈静化したのであった。
「美術部の展示スペースが余ってるのよ。だから、私となっちゃんで千年パンツの実物を作るの。良いでしょ?」
何を言い出すのかと思えば……
「別に良いですけど、パンツですよ」
「わかってるよ。それくらい」
パンツが下着を指し示すことは言うまでもない。だが、私の言うパンツとは男ものなのである。例え新品であろうともそんな物を真梨子先輩や葉山さんに触らせるのは私の良心が痛む。それはもう痛いことこの上ない!
「裸だって芸術だ!って言い張れば合法なんだし、パンツくらいどってことないわよ」
言わんとすることは理解できます。でも先輩……その理屈、無茶苦茶です。
「よしっ。善は急げ!今からなっちゃんに連絡して製作に取り掛かりましょう」
ついに立ち上がってしまった真梨子先輩であった。
著者でありながら、どうなっても私は一切の責任を負うつもりはない。それだけを伝えておきたかった………
○
愛のキューピット。真梨子先輩が密かにそのように呼ばれている理由を小春日さんから教えてもらった私は、小春日さんさんと結託をして、一計を案じたのでした。
それはそれは単純なもので、ようするに夏目君と真梨子先輩を二人きりにすると言うベターでありながら、即効性のある策略だったのです。
ちんどん屋の話しをしてしまっては台所で作業をする真梨子先輩がこちらに来てしまうので、わざと雑談でごまかし、雑談が過ぎれば逆に『打ち合わせ』と聞いてやって来た夏目君に疑われてしまいます。だから、時折ちんどん屋の話題も織り交ぜながら、私と小春日さんで必死に雑談をしていたのでした。
私は元々饒舌な方ではありません。だから、とても疲れました。
そろそろ二枚目にピザが焼き上がる頃でしょう。そう思って、私は携帯の画面に『そろそろ出ようか?』と打って、小春日さんに見せました。すると、『夏目君に先輩の手伝いを頼んでからにしよう』と小春日さんも画面を見せて返事をくれたので、『賛成』と打ったのです。すると、美味い具合に「なっちゃん、お皿持って来て」と真梨子先輩の声がしましたから、尽かさず「夏目君、お願いしてもいい?」と私は言いました。
そして、夏目君が台所へ行ったのを見計らって、小春日さんと二人して、真梨子先輩の部屋からおいとましたのでした。
折角、私達の為にピザを温めてくれていたにも関わらず、勝手に二人して部屋を出てしまうことには胸が痛みました。けれど、これは真梨子先輩の為なのです。
ドアを開けたところで、「それじゃあ、このピザ差し入れに持っていきなよ」と後ろ髪に先輩らしい優しさに胸は張り裂けんばかりになりましたけれど……ここは心を鬼にしなければならないのです。全ては真梨子先輩の為なのですから。
「こんなに人の好意を無碍にしたのは、はじめて」
大学へ向かう道すがら、小春日さんは大きな溜息をついてそう言いました。
やはり、真梨子先輩の為とは言えど、小春日さんも心苦しい心中は同じです。
「今度は真梨子先輩が幸せになる番なんですから」
俯く小春日さんに私は言います。
「うん。そうなんだよね」
小春日さんは俯くのをやめて力強く頷きました。
そうして、二人して差し迫った甘美際の話しやちんどん屋の話しなどをして大学の校門を跨いだ私たちは、「それじゃあ」「また後で」とそれぞれの場所へと向かったのでした。
私は小春日さんのように、決まった作業がありませんでしたから、美術室に入るなり、何をしよう。そんな風に考えながら、とりあえず美術室内を見回してみました。
すると、作りかけの馬車の張りぼてがありましたので、色塗り等々は先輩方に任せるとして、木枠を釘打ちしまようと腕まくりをしたのです。
美術部なのに何をしているのだろう。そんなことを考えそうになる時もあります。でも、それを考えてみたところで何もなりません。何度も言いますが、私は絵も描けなければ、立体も作ることが出来ないのです。そんな私なのです。でも、幸いなことに文化祭の外注では私でも戦力なれる作業があるのですから、それに虚無感を抱いていてどうしますか。自分のできることを精一杯やり通す。ただそれだけです。
先輩には「展示スペースが余ってるから葉山さんも何か作ってみない?」と声を掛けてもらいました。
「文化祭用に買った銀粘土もあるし、溶剤とか使い方教えるから」
親切にそんな言葉も頂戴しました。けれど、やはり私には何も作れないのです。食わず嫌いのように、何もしないでそんな駄々っ子のような事を言っているのではありません。
私だって……私だって、小学生の頃、図画工作で描いた『闇夜の電信柱』では先生に褒められたことだってあったのですから。
なので、こっそり誰もいない美術室で『闇夜の電信柱』を再び描いてみたのです。
描いてみました。
でも、なかったことにしている限りは………私の口から皆まで言わさず、どうか察して欲しいと思います……
私は思い出して溜息をつきました。まさかあんなにも自分自身に絵心がなかったなんて……先輩から言わせれば、「うまく描こうとすると駄目よ」と言うやつだろうと思います。
でも、でも……うまく描きたいじゃないですか………
「いたっ」
溜息をついてから次の一打は釘の頭を逸れて、ものの見事に私の親指に命中してしまいました。釘まで満足に打てないなんて……私はなんだか、勝手に自信喪失です。
自信と共に床に置いた金槌。虚しい心境に陥ったそんな時でした。
「やっほー」と真梨子先輩がひょっこり美術室に顔を出したのは……
◇
本日は困ってばかりだ。いいや、真梨子先輩の聖域にいた頃の方がずっと清らかであったとここに高言したい。
右横には相変わらず、ぶつぶつと呪文を唱えつつフィギュアのスカートを弄ぶ部長が居て、その他はどこを見回してもそんな部長のオーラに耐えうる強者たちが己が作品の推敲作業に精魂を込めている。
本来であるならば、私は今頃図書館で一人細々と、なんのストレスもなく気の赴くままに、執筆をしたり備え付けのパソコンにてネットサーフィンをしたり……また蔵書を閲覧したり。目的を逸脱しつつも充実した図書館ライフをおくっているはずであった。
しかし、『千年パンツ』の『千年パンツ』を作ると言い出した真梨子先輩は、高らかに立ち上がるとその足で私の腕を持って、強引に部屋の外へと連れ出すとそのまま大学へ舵をきったのである。
私としては、嫌な予感が巡り巡っており今すぐにでも羅針盤を狂わせてしまいたい面持ちであった。けれど、そもそも羅針盤など搭載していないかぎりは狂わせようなく、真梨子先輩の後塵を拝して私はついに大学の門を跨いでしまった。
「ねえ、千年パンツのイメージ欲しいから、小説読ませてよ」
甘いような柑橘のような、とにかく良い匂いと共に髪の毛を振った真梨子先輩は唐突にそう言う。
どこか予感していただけに私はたじろぎこそしなかったものの……答えはすでに決まっていた。
「無理ですよ。まだ完成してませんから」である。
「良いじゃん。半分でも十分だよ」
食い下がるだろうとは思った。
「駄目です。それにまだ推敲だって全然してませんから。小説を見せるのは自分の尻
の穴を見せるのと同等に恥ずかしいことなんです。だから、どうせ見せるならきちんと洗ってから見せたいんです」
尻の穴云々は否定するつもりはない。小説と言うものには、やはり私と言う人物の紛うことなく心髄が往々にして滲み出てしまう。それに、誤字脱字も恥ずかしい。少々下品な表現にしたのは後悔しなければならない。だが、そうでもしなければ真梨子先輩は諦めてはくれないだろうと思ったのだ。
とにかく、半分も書けていない現状ではどうあっても、どんな御託を並べてもこれを阻止しなければならなかった。
「何それ、部長の受け売りでしょ」
案の定、真梨子先輩は眉を寄せ、整った顔を少々歪ませてまるで汚いモノでも見るような眼差しでそう呟いた。
「もちろんです」
即答する私。
この時ばかりは、残渣程度に部長に申し訳ないと思った。
それはさておき、そんなわけで、ネットサーフィンも蔵書を読み耽ることもできない、ある種の異空間、閉鎖空間、クローズドサークル的文芸部室内にて脇目を振れない状況に自らを追い込み、執筆にのみ集中させることにしたのであった。
苦肉の策ではあったが、このまま図書館で執筆を続けていても、入稿期日にようやく半分出来上がると言う始末だろう。
だから、どうしても通らねばならぬ道であるらしい……
「ねえ夏目君」
魔女っ子マリーちゃんの着せ替えを終えた部長が珍しく私に声を掛けた。声を掛けることは別段珍しいことではなかったのだが、今回はその声色が珍しく穏やか……と言うよりも猫撫で声に似ていた気がする。
「ソーイング同好会に知り合いとかいない?」
「居ませんよ。どうしてですか」
葉山さん繋がりで首皮一枚ほどソーイング同好会に所属する小春日さんと知り合いなのだが、揚々と知り合いです!と言おうものなら色々とややこしい事になりかねないので嘘をついた。
「マリーちゃんの衣装を自分で作ってみようと思ってね」
市販品は可愛くないんだ。と続ける部長。
「そうなんですか……」
私からすればそんなことは知ったことではない。と言うか、昨今ではフィギュアにも着せ替え用の衣装が売っているのか。
上座に戻った部長を横目に私はさっさと執筆活動に戻った。私には一生、その浪漫は理解できないだろう。
○
「ええっ、パンツですか!」
私は真梨子先輩の提案を聞いた時、思わずそんな大きな声を出してしまいました。周りの先輩たちの視線を一身に受けながら、せめて『千年』とつければ良かったと畑違いに間違った、後悔をしたのでした。
「面白いと思うのよね。どうせ展示スペースも余ってるんだしさ。物にならなかったら、去年の作品で誤魔化せばいいでしょ?」
仰ることはごもっともです。けれど…………
「その、その……千年ぱ……ぱんつってどんな物なんですか」
千年と言えばどこか、伝説的な香りさえ漂ってきます。それに、千年も耐えうるパンツがあるのでしょうか。
「それがさ。恭君にイメージ欲しいから小説読ませてって言ってるんだけど、見せてくれないのよね。だから、とりあえず『ぼろぼろで汚いパンツ』をコンセプトに作り始めましょう」
真面目に受け取った私がばかでした。千年も存在するパンツがあるはずがありません。当然フィクションの中でのお話なのです。
「市販品ですか?」
フィクションなら、なんとかなりそうです。遊び心さえ忘れなければなんとかなりそうですから。
次ぎに気になったのは、普通に売られているパンツなのかどうかです。特別なモノでしたら、自分達で作らなければなりません。
うーん。先輩は細く長い指を顎に当てて、そう言いました。きっと、そこまでは考えていなかったのだろうと、私は推察します。
「小春ちゃんに教えてもらって、作ってみようか」
悪戯な笑顔を浮かべてそう言った先輩です。やっぱり、そこまで考えていなかったのですね。
思いつきでいきなり、小春日さんの元へ押しかけるのも迷惑なので、本日は大人しく張りぼてに釘を打つ作業をして、次の日にソーイング同好会の部屋へ押しかけることにしました。
◇
私には毎朝の日課があった。それは、散歩と称して愛し合う二人をこっそり、リサイクルショップの幟の影に覗くことであった。
毎朝そこに居る2人は去年の秋頃から恋人であり、弱腰の男の方に女性からアプローチを繰り返すと言うなんとも羨ましくも大胆な展開を毎朝見せていた。それに気が付いたのはほんの数日前のこと、リサイクルショップの前を通りかかった時、熱烈なキスを交わす二人の姿を見た時であった。季節を跨いでついに傾けられる愛情が成就したのだと私はつい嬉しくなってしまった。
もちろん、心の片隅では「羨ましいぞ!このやろう」と叫びたい衝動をひた隠しにしていることは言うまでもない。ただ、叫んでみたところ、周囲からは白い眼で突き刺され、当の本人たちは大空高く飛翔してしまうだけだろうが……
詰まるところ、私一人変に思われるだけの結末しか待っていないわけで、そこまで熟慮してまで、無謀に叫ぶだけの度胸も愚かさも、私は持ち合わせてない。
とは言え、日課を果たすべくリサイクルショップへ向かう私の心中は黎明よりも明るかった。それはもう神々しいばかりに輝いていただろうと思う!すれ違う方々には眩しすぎて申し訳ないと思うばかりです。
そんな妄言を吐き散らかしてなお、自分自身が浮かれていることに気が付けないでいるのは、今日の午前中、我が意中の乙女と二人きりにて打ち合わせををすることになったからであった。
喫茶であったならば……と欲を出せば限りがない。
明日と言う日を見事橋頭堡としてみせん!
私が寂しく一人、部屋の中で拳を突き上げたのは、真梨子先輩から「明日行けなくなったから、なっちゃんと二人でお願い」と言うメールが私の携帯を振るわせたからである。
『千年パンツ』の千年パンツを甘美際の展示品にするために製作する。そんな真梨子先輩の申し出に困惑しつつも申し訳ないと思っていた私であったが、その後、千年パンツのイメージやら仕様を打ち合わせる席に著者として私が招かれる運びとなったことに関しては棚からぼた餅の趣があったと言いたい。まさか、先輩が葉山さんを巻き込むとは予想していなかった。
可憐たる葉山さんが居るのであるからして、私にとっては、目眩くときめきの時間であると共に、至福の時間であるのだ。そして、2度目本日は、真梨子先輩が欠席し、葉山さんと二人きりでの開催とあいなった。この機会を橋頭堡とせずして、いつを橋頭堡とするのだ!!
単純な私はそんな性分のお陰で、興奮に次ぐ興奮の後すっかり寝不足となってしまった。
そのくせ、いつもより、1時間ほど早く目覚めるのであるからして、不可思議にもまして寝不足である。
だから、きっと至らず脳を引きずる私は、妙に覚醒した眼にてそんな二人を見て、「朝から何をチチクリあっているのだ!羨ましいぞ!」と石を投げてしまいそうで自分が怖い。真剣にそんな阿呆なことを考えていたわけであるが……
いつも通りリサイクルショップに到着すると、私のお気に入りポジションである幟の影に先客がいた。加えるならばそれは、艶めく黒髪を宿し、ブラウスにスカートと飾らない地味な出で立ちながらも、背中に回されたオレンジ色のポーチがなんとも可愛らしい。そんな女性であったのである。
私はその後ろ姿を確認してから、脳髄を誠に覚醒させると、恐る恐る携帯電話を開いた。
暗黒のディスプレーには間髪入れず、我が愛し恋しの葉山さんがポップコーンを食べようとしているお茶目な姿が表示されている。
横顔であるがため、断定には至らなかったが……私の直感は告げていたのである『あれは葉山さんではあるまいか』と……
訝しげんでいた私はそう思ってしまった次の瞬間には、一挙手一投足挙動不審男となって、二人に熱い視線を送る乙女の後ろで横顔を覗いてみようとしたり、はたまた頭を掻いたりと今すぐに逃げ出さなければ、悪しき漢として国家権力に身柄を確保されてしまいそうなほど私は怪しい様であったと自信があった。
「葉山……さん?」
このままでは、私の身が危ない。そんな自分勝手な妄想はさておいて、本当のところは私も二人の熱愛ぶりを見たかったのだ。
「あれ、夏目君」
二人を脅かさないように私がそっと声を掛けると、葉山さんは驚いた……と言うよりは、恥ずかしそうに私の顔をみると、誤魔化すように幟の端っこを指で弄びながらそう言った。
「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」
私は穏やかに日向ぼっこをしながら羽繕いをする二人を見ながら、そう言った。
「何せちゅうをしていたので、つい」
葉山さんも視線を二人に戻すと、口元を綻ばせて嬉し恥ずかしと言ったのであった。
○
本日の『千年パンツ』の打ち合わせは私と夏目君の二人きりとなってしまいそうです。
いいえ。真梨子先輩からメールで『ごめんね。明日お稽古になっちゃった』と連絡がありましたので、それはすでに決定事項なのでした。発起人である先輩が欠席だなんて!と責めたい気持も無きにしもあらずでしたが、理由が理由だけに致し方ありません。
真梨子先輩は来たる甘美祭宣伝大作戦に備えて、鳴海さんのところへ日本舞踊を習いに行っているのです。ちんどん屋と日本舞踊と何が関係あるのでしょうか?と首を捻っていた私でしたけれど、「着物着るんだから、より女性らしく優雅に歩きたいじゃない」と言う先輩の一言に、妙に頷けてしまったのでした。
着物を着て優雅に歩く。そのために日本舞踊を習いに行くのはいささか大袈裟のようにも思いますけれど……これも一重に真梨子先輩がどれだけの想いを持って甘美祭に向け望んでいるか言う気概のお話しなのだろうと思います。
そうですとも!!私も一生懸命な真梨子先輩を見習わなければなりません。
それに……それに……私だってもう大学生なのですから、打ち合わせくらい先輩がいなくても出来ます。ただ……憂鬱と言うなれば、夏目君と……男の人と二人きりと言うことなのだろうと……思うのです。もう笑っても構いませんよ。どうせ私はまだ男の人と付き合ったこともなければ、手も繋いだこともない寂しい女なのです。でも良いのです。私自身が寂しいとも恋しいとも微塵も思っていないのだから!
夏目君とは駅前で待ち合わせをして、私は家を待ち合わせよりも早く出て、リサイクルショップに行きます。
ここには毎朝、リサイクルショップが開店するまでの間クルッポのカップルが、いちゃいちゃと仲良く一時を過ごしているのです。はじめてそんな姿を見かけた時は、思わず立ち止まってしまいました。けれど、私が佇んで見つめると、クルッポはまるで恥ずかしがるかのように互いに距離を置いてしまうのです。なので、私は次からリサイクルショップの幟に姿を隠してその様子を見つめることにしました。
端から見れば怪しいことこの上ないでしょうけれど、こんな微笑ましい情景を見逃すわけにも行かず……本当のところを言うと、興味本意にチュウをするクルッポが気になっていたのです。人間のチュウが愛情表現の一種ですけれど、クルッポのチュウにはどのような意味があるのでしょうか?
そんな、ふとした疑問から、私は毎朝、幟に身を隠してクルッポを観察しているのです。
「葉山……さん」
そんな折、私は急に後ろから声を掛けられて、驚いてしまいました。
幟に姿を隠して明らかに怪しい姿の私です。だから、よもや大学の知り合いに見られてしまったのでは……そう思ったので、幟の端っこをもじもじと指で弄びながら振り返って見ました。明瞭に恥ずかしかったのです。だって、なんと言い訳をしてよいのやら、私は思いつかなかったのですから……
「あれ、夏目君」
そんなことを考えていた私ですから、声の主が夏目君であるとわかった時はどこか安堵と言いますか、とにかくほっとしました。
「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」夏目君は声を潜めてそう言います。きっとクルッポを脅かさないように配慮したのだろうと思います。
それにしても『葉山さんも』と言うからには、もしかして夏目君も……クルッポを見に来たのでしょうか?
まさか……クルッポを見るために、わざわざ足を運ぶ変わり者は私だけだと思います……本当にそう思ってみたのですけれど、夏目君は確かにまたチュウをしているクルッポを見つめて微笑んでいたのです。
「何せ、ちゅうをしていたので、つい」
半信半疑でしたが、私はそっとそう言うと再びクルッポに視線を戻したのでした。
◇
長く遠く思えば想うほどに待ち遠しくも苦々しい日々であろうとも、その時はやがて必ずやってくる。『真梨子式宣伝』決行に際して私を除く各々が水面下にてこそこそと準備を滞りなく進め、来るその日に備えた。
かくしてその時はやってきたのである。
甘美祭一週間前である晩秋の日曜日の昼下がり、史上最大の作戦を決行するため、私たちは砂山氏が確実に居ないであろうソーイング同好会室に集合した。慣例となりつつある代議員と部長会との合同ビラ配りの準備等々は部長会と学生執行部が行い、似非風紀員たる砂山氏はビラ配りが行われる近鉄奈良駅前に直接向かっては別段ビラ配りを手伝うわけでもなく、一般人に紛れてこれを監視する。もっと言えば、昇降階段の入り口付近の手すりに巨体を持たせて監視するのである。
代議員議長兼似非風紀委員長たる砂山氏が毎年のように、気怠くも義務的にビラを配る代議員+各クラブ部長の面々を仏頂面で監視監督していた頃。私達は、ソーイング同好会室にて秘密裏に虎視眈々と機会を窺い準備を周到に、まるでレジスタンスのように事を進め、やがてはその堂々たる出で立ちでもって、その眼前に錦を飾ったのであった。
「「「県大でござーい!県大でござーい」」」
ある者はチークなドレスに、またある者は袴姿に、そして真梨子先輩は花魁の装いで。『奈良県立大学』と赤地に白で抜いた幟を持って、ビラを配りながら、我ら反砂山レジスタンスはそれは艶やかで賑やかな『ちんどん屋』をやってのけたのである。
燕尾服に袖を通し、幟を持って古平と先頭を歩く役を拝命した私は、それはそれは恥ずかしかった。羞恥心が先立ったことは言うまでもないが、風変わりと言う点では、真梨子先輩や葉山さんに小春日さんと言った女性陣の方が抜き身出ていたし、特に真梨子先輩は目立ってなんぼの世界の住人であった。ゆえに私は、自分の身なりをショーウィンドーで見かけた時、少しばかし安心したし、彼女達を見ていればなんとか開き直ることができた。そんなことはさておいて、近鉄奈良駅前の広場に突如として現れたちんどん屋の一行は瞬く間にその場にいた全ての視線を釘付けにし、路上ライブをしていた無名のシンガーの演奏を諦めさせてしまった。私としては、ここまで注目されるとは思ってもみなかったわけだが、駅舎へ向かう昇降口付近で偉そうに腕を組んでいた砂山氏が眼鏡の奥にある、か細い目玉をひんむいて凝視している姿をこの眼に納めることができたことをまずは最上の喜びであると言いたい。
さて、砂山氏はどう動くであろうか。事前にレジスタンスのことを知っていたクラブ部長会の面々は早々にレジスタンスの一行に加わって、ビラ配りをはじめており、その溶け込みようと言ったら、バターがホットケーキに染みこんで行くゆくようであった。定番と言おうか、女子諸君は一時、ビラ配りと言う本分を忘れキャイキャイとそれぞれの衣装に黄色い声を咲かせていたが、やがては水を得た魚のようにビラを配りはじめ、瞬く間に用意した400枚程度のビラを配り終えてしまった。
次に昇降口を見たとき、すでにそこには砂山氏の姿はなく、いつもは必ず苦言を残す彼らしくなかったが、砂山氏を除く老若男女と問わぬ大衆は青春をここに燃やす若者の熱き魂をいたく気にいったらしく、これに砂山氏は敗北をきしたに違いない。
かくして、ここに我らレジスタンスは輝かしき栄光を手に入れたのであった。