文化祭攻防戦は缶ジュースほどの夢と千年パンツと
部室のドアの前で白羽の矢を刺すのはやめて欲しい。もっと言うなれば、トイレから帰って来た人間にドア越しで白羽を発射するのもやめて欲しい。これではまるで私が、執筆もろくにしない暇人、もとい邪魔者のようではないか。相変わらず、部室内からはキーボードを乱打する音がのべつまくなしと聞こえていた。
今日こそは円周率を三十桁まで覚えてやろうと意気込んでいたと言うのに!
間違った方向に船首を向けての航行と言えども、出鼻をくじかれてしまった私は「〆切に遅れても知りませんからね」となんともそれらしいことをドアに吐いてから、白羽の矢を携えて多目的ホールへとつま先を向けたのであった。
文化祭が迫りつつある昨今、何気なく廊下を歩いていても、窓の外を見ていても、または、屋上に出てみても。どこもかしこもがざわざわと、来る祭りの準備に落ち着きなく青春のエナジーを源に躍動しているように感じて仕方がない。もちろん、私とて昨日辺りから焦り出した。厳密には昨日の部活の帰りくらいからである。
私を省いた部員達が推敲前ではあったものの、作品のページを部長に報告したからである。もちろん一字として書いていない私は「まだわかりません」適当にはぐらかした。だが、作品の総ページ数と、別刷りのページを合わせた統合総ページを部長が流れる電卓裁きで算出したところ「百ページ足りない」との結論に至った。どうやら、各々キーボードをこれでもかと、いじめていたくせに、短編ばかりを提出したらしい。
「夏目君。君の今何ページある?100越えてたら即ボツね。越えてなかったら、うまいこと100で揃えてよ」
安易な口振りで部長は私に言ってくれた。
「えっと、千字詰めで百ですか……」
「うん。そっちの方が印刷屋に大量発注する時、安くなるんだよ。300部で4割引だから」
こんな時にだけ暗黙の了解が萌える草木のごとく自然的に発生する。ほかの似非小説家達は何も言わずに、ぞろぞろと席に戻り作業を続行し、残った私だけがゴルゴダの丘に磔にされた罪人のように、いつになく真剣な部長と無言の駆け引きを迫られるのであった。少なくともこの部室に神も仏もありはしないことだけは確かだ。
100ページと言う未だに私が書き上げたことのない枚数を突き付けられ、すでにこれは夢である。と現実逃避にのみひた走っている私には米粒ほどのアイデアも浮かばなければ執筆の意欲とて缶ジュースの残渣ほどもなかった。
なのに、部長は私に本日、多目的ホールで学生執行部が主導して開催される『今年度文化祭アピール検討会』に出席の旨を命じたのである。
理不尽なことこの上ない。
多目的ホールに入ると備え付けてあるホワイトボードにはまさにそのままの漢字とカタカナが並んでいた。すでに執行部の面々は顔を揃え、私が『文芸部』と記された三角錐の立つ窓際の席に腰を降ろすと、栗毛の女子が「どうぞ」と言って資料プリントが手渡された。彼女はきっと今年選出された書記か会計あたりだろう。
私がそう予測する中、彼女はなんと『副会長』と書かれた三角錐の置かれた席に座ったのである。童顔で声とて可愛らしい彼女が副会長とは、いいや身体的特徴は私の個人的な偏見でしかない。むしろ、副会長自ら資料プリントの配布と言う雑務を進んでこなすその殊勝さにこそ脱帽するべきだ。
残念なことはもう一つ。私とは正反対の廊下側。そこに私の美しくも華々しい百合の花であらせられる、葉山さんが咲いていることである。真面目な彼女は、早速、渡された資料プリントに視線を落としていたが、やがて、持って来ていたノートを開くとすぐに何やらプリントと対照するように、顎を左右に動かしては双眸忙しなく、時折、考え込むようにシャーペンの頭を顎に擦る仕草を私に見せてくれた。別段、私に見せているわけではないにしても、いやはやどうして相貌才媛とたおやかに、臈たけた趣が無限に湧き出でているようである。
やはり葉山さんは可愛らしくも美しい。まさに花も恥じらう乙女と表すに相応しい婦女である。
筆記用具すら持ち込んでいない私であったが、何を憂うこともなく、雪のように白いお肌に絶妙な間合いで納められた眼や鼻や口が讃える葉山さんの横顔をずっと見つめていた。彼女が髪の毛を掻き上げ耳に掛けようものなら、このときめきのうちに、このときめきが原因で意識を失ってしまいたいと、高ぶる鼓動を押さえるのに必死となってしまった。
テニス同好会の遅刻によって23分遅れで会議がはじまり、『執行部部長』と書かれた三角錐には、腕を組んでふんぞり返るでもなく、無意味に存在感の薄い華奢な男。『代議委員委員長』の三角錐に席する眼鏡男の方がよほど無駄な存在感が漂っている。
ちなみに言うと後者は私の嫌いな似非インテリ風な男である。贅肉を程よく身に纏い、お洒落であると勘違いして着込んでいるボタンダウンは襟周りに窮屈。見ていると、縛られたハムさえも連想してしまう。そして、赤い縁取りの眼鏡とて、筆舌に難しいが雰囲気が似合っていない。
お洒落ではない私が、このようにファッションチェックをするのはいかがなものかと思う。だがしかし、基本的にシャツの第一ボタンは開けておくべきであるし、お腹のお肉がのっかるほどにベルト絞り上げなくとも良い。これだけは忠告して差し上げたいと思う。
先程私にプリントを配布してくれた女子は音無 響さんと言うらしく。彼女が今回の文化祭、ひいては『甘美祭』の実行委員長であるらしかった。
会議が始まって、まず本人が最初にそう自己紹介したのであるからして間違いはないと思う。自己紹介を終えた音無さんは、プリントに沿って今回の会議の目的と注意事項、そして、過去にどのようなアピールを行って来たか。と言うことを口頭で説明してくれた。
基本的に駅前でのビラ配りが慣例であるらしく、4年前に代議委員会と白熱した論争と目眩しい根回しによって学生執行部が勝ち取った。『文化祭盛り上げタイ』と背中にプリントされた、蛍光グリーンの半被を着てビラ配りをするのだそうだ。
どうせ、話し合うだけ無駄であろう。私が開始早々から意欲を喪失する背景には、どの部・サークル・同好会も甘美祭に向けての準備に猫の手も借りたい状態であり、わざわざ単発的なピーアール活動に、関わろうと言う気はないと思う。
ゆえに活発な意見も出なければ、誰一人として発言をすることもなく、前席で立ち上がり、今回の文化祭のテーマやらを力説する音無さんが進行のために発言を繰り返し、ものの30分も経たないうちに、毎年恒例である学生執行部構成員による駅前でのビラ配りの決定をもって幕を閉じることになるのだろう。
私には直接関係の無いお話しであるが、各倶楽部やサークルに同好会が自らの模擬店やら出展を誇示してアピールできる機会に、どうして消極的であるのかにはもう一点要因がある。この一点が全ての根源と言っても過言ではないと私観では思っている。それは、委員長席の隣に座する代議委員会の存在である。
代議委員会とは、今回のような場でなされた立案や提案の審議、決定、または予算の有無などを司る、諮問機関である。
部やサークル・同好会においても、この機関に承認を得なければ、創設することは叶わない。ゆえに最後の関門であり、学生執行部の影に隠れてはいるものの、学生組織における最大の有権組織でもあるわけだ。
とは言え、代議委員会が学生達の士気を能動性を尽く否定し切り捨てるようになったのは、かれこれ5年前からであると私の担当教諭は話した。と言うか、私の眼前に鎮座する現代議委員長が、委員長に就任してから歯車が狂いはじめたのである。権力に陶酔してか卒業もせず、未だに委員長の座に君臨し後輩学生達の夢を食い荒らす、驕慢にして封豕長蛇な姿と言ったら、文芸部の部費について召喚を受けた際、矢面に立たされた私は痛いほどよく知り置いている。あの男は鋸歯をちらつかせては、相手の言葉尻を捕まえて、鬼の首を取ったように胸を張る。そんな器の小さな男であるのだ。
ボウフラのように湧いたカストロフィに何人が涙したことだろうか。
あの時はこれまでの真面目な活動と年一回の文芸誌の発行の実行実績が認められ、なんとか事なきを得たのだが、真梨子先輩が居てくれなければ、私は部長の呑酸を舐めながら、夜ごとごまめの歯軋をして過ごさなければならなくなっていたことだろう。
そんな厄介な阿呆漢を相手にしてまで意見しようとする英明に優れた人間もいなければ、気魄に溢れた豪奢とて皆無。所詮は皆、無関心かはたまた鞠躬如の羊か、後は恭謙な狡兎だけなのである。
志ある乱世の英雄などは、全てが一度腐りきらねば現れもしない。
案の定、音無さんの呼びかけに誰一人として挙手する者などおらず、筆記用具を携えている者とて葉山さんただ一人と言う案配であった。それでも、音無さんの髪の毛を束ねる桃色のシュシュはまだ輝きを失っていなかった。それが一層に健気である……
思い出すと私の激昂の火種はいくらでも燻り始める。随意に何か突拍子のない提案をしでかして、一矢報いてやりたい気持ちになるのは私だけではないはずだ。
だが、そう思う私であったのだが、凡庸たる日々をただ怠惰に過ごす凡人たる私がエキセントリックな提案を急遽思い浮かばせることなどできようはずもなく。また、一人で苦虫を噛んでいるだけでしかなかった。
何とも悔しい。
私が片足にて貧乏揺すりをしていると、後方のドアが閉まる音がした。そして私の数席後ろの席に何ものかが腰を据えた様子であった。どうせやる気のない遅刻人であろう。そんな輩が今一人増えたからと言って事態は好転も暗転もしない。
まるで退屈である。とでも言いたげであった代議委員長が急に顔を顰めて私の方を睨み付けはじめたのには、刹那だけ物怖じしたものの、余程、私の貧乏揺すりが目障りなのだろう。そう理解した私は至極真面目な表情を作ると貧乏揺すりにもう片足を加えてやった。
会議中に貧乏揺すりをしてはならないと言う規約はないのだ!
多目的ホールに集ってから20分が経過し、必要事項の説明を終えた音無さんは溜息を漏らしていた。幾度ともなく「提案はありませんか」と私たちに訴え掛けていた……だが、その声に答える者はとうとう誰一人としておらず……必然の帰結としてここ数年続く慣習をまた今年も繰り返さなけばならい結末を目前としていた。
音無さんの落胆の顔色からして、意気軒昂と甘美祭りを盛り上げようと張り切っていたに違いない。それは斟酌してあまりある、去年の文化祭実行委員長も赤いシュシュをトレードマークとしていた。彼女も意気揚々と部長会などで、積極的に提案をしては審判に跳ね返され、その姿には不撓不屈と賞賛して然るべきだと、部長のお供として会議にちょくちょく顔を出していた私は目頭を熱くさせたことを覚えている。
その年の文化祭が粛々と幕を閉じ、後日行われた打ち上げで、彼女は本懐の半分も遂げることができなかったと、真梨子先輩の胸に縋り、本当の涙を流して悔しがっていた。宴が酒に温まった頃合いにて、その光景は目立つことはなかった。けれど……いつも通り素面であった私は、その情景に項垂れるしかなく……あの時ほど、努力を怠った自分を呪ったことはない……
実を言うと、飲み会の席では必ずそれを思い出すのである。彼女に罪はない、そして代議委員会にも……残念ながら罪は無い。全ては……全ては、わかっていながら何もできなかった、いいや!しなかった私にこそ罪があるのだ。
あの時はまだ私も1回生であり、学内の右も左もわからなかった……だから独立不羈と孤高にレジスタンスを起こすこともままならなかったわけであるが……2年目も、今年でさえも、桃色のシュシュに色褪せの涙を流させることになるのかと思うと胸が痛む……私は臆病者でる。胸中に忘れられぬ傷を覚えてなお、何もせずにいる。言い訳や戯言ばかりを並べ、偉そうに憤慨だけしてなんとするのか!
「皆さんから何もなければ、これで終わりますが。最後にもう一度だけ……提案はありませんか」
力の限り握った拳は震えている。甲の皮が張り裂けてしまうのではないかと思うほど張り詰めている。良案愚案共に思い浮かばない。ただ、もどかしさに腹を煮えたぎらせているだけだ。それでも!それでも、ここで私が挙手すれば、挙手さえすれば!
私は胸を張ると歯を食いしばって、右手の拳を解いた……
「美術部の葉山です。予算とかそう言うのはいらないので、部長会の有志で宣伝活動したいんですけど」
それは私ではなく、芙蓉の眥の持ち主たる葉山さんの声であった。
私は中途半端にあげた右手を宙に漂わせたまま、挙手をして立ち上がった葉山さんのことを露骨に見ているしかできないでいた。
正直にこれには驚いたからである。
「えぇっと、できますよ……ね。砂山さん」
どんでん返しの趣で音無さんは希望の花を咲かせ、憎き代議委員長にそう話しを橋渡した。
「まあ」
砂山氏は見るからに、小馬鹿にしたようにそう答えてから、ファイルを閉じ葉山さんを嘲笑うように視線を向け、ずれてもいない眼鏡をなおした。
「わかりました」
葉山さんは、一度だけ机の上に開いたノートに視線を落とすと、それだけを確認して、呆気なく座ってしまった。
葉山さんには悪いが、これでは音無さんも拍子抜けだろうと思う。私とて、これから砂山氏と我ら部長会の面々との激しい論争が繰り広げられるものと心躍らせていたのだが……
「一つだけ言っておくけど。内容によっては、我々代議委員会で審議する場合もあるから」
舐めるように小さな目をぎょろりと葉山さんに向けて砂山氏が付け加える。最後の「くれぐれも忘れないように」と加えられた言葉に私は怒髪天と今にも殴りつけてやろうかと中途半端に彷徨っていた右手に固い拳を拵えた。
「美術部の提案にどうして代議委員会が口出しするんだ。執行部が関わらないかわりに全責任を部長会で分担する決まりだろう。勝手な事を言うな」
私の拳を乗せて言葉を発したのは私の背中からであり、聞き覚えのある声に、私が慌てて振り返ってみると、そこには不貞不貞しい表情を浮かべた古平の姿があった。
古平の席には『フットサル同好会』と書かれた三角錐が立っている。
「部長会と言っても、提案者を含めた3つ以上の倶楽部、サークル、同好会が賛同した場合だ。今のところは美術部だけなんだから、代議委員会で審議する必要はある!」
古平の言葉に目くじらを立てた砂山氏は立ち上がり、激しく古平に向かってそう言い放つ。私の後ろに古平が陣取っている位置的な関係上、砂山氏の鋭い眼光が私に向けられているようで千万不快である。
「そっ!それでは、美術部の提案に賛同の意思を確認します、挙手して下さい!」
これぞ好機と、古平と砂山氏の間に割って入ったのは葉山さんではなく、音無さんだった。砂山氏との間に執行部長を挟んで立ち上がった音無さんは千載一遇のチャンスと言わんばかりに声を張り上げたのである。
「フットサル同好会は賛同」
まず古平が一番に挙手をし、提案した葉山さんは古平に遅れて挙手をした。葉山さんは何かを恥ずかしがっているのか……膝を摺り合わせ、口許を小さくすぼませ、心なしか頬も赤く……漫ろいでいた……
葉山さんにかぎってお手洗いを我慢しているなどあり得ようはずなどない。たとえそうであっても有り得ないのだ。
「他に賛同者はいませんか」
助けを求める瞳で音無さんが言い。その隣の隣ではシャツを下腹で張り出して座り直した砂山氏がうっすらと笑みを浮かべていた。
時は爛熟せり、今こそ立つときぞ!と私は一人で勝ち鬨を揚げていた。大食漢ごときに慄然とする者どもよ、今まさにあがらんとする反旗の御旗の神々しきにその濁った瞳を清めるが良い!
軽慢たる蛮族よ!誇り高き志の前に!誠の前に!その膝を折り慚愧として、因果応報をその身に刻め!
私は高らかとこの右手を、『一人は皆のために!皆は一人のために!』とサーベルを突き上げる三銃士のように、高らかと掲げ、砂山王国に籠絡されていた学生たちの自由と輝ける文化祭を取り戻すのだ!そして、葉山さんに賛美の言葉を賜り、お茶にお誘いすれば万事うまく行く!そう確信して疑うことを考えもしなかった。
正義は必ず勝つ!そして私は「はい」と嬉し恥ずかしと頷く葉山さんを前に哄笑することだろう!
私は自身を高揚させながら、まさに右手をあげようとした。
あげようとしたのだが……
「ソーイング同好会も賛同します」と先頭席に座する乙女に先に手を上げられてしまった……
「文芸びゅ……文芸部も賛同します」
遅れをとっただけでは飽きたらず……その上に舌を噛んでしまった……
ああ、私はどうしてこうなのだ…………
最高のタイミングで挙手をして、葉山さんから賛美の視線を賜り……その後に「ありがとう」なんて言われて……「今度お茶なんてどうですか」とお誘いしよう。そう画策していたと言うのに……ソーイング同好会に持って行かれた上に、舌を噛んでしまうなど……どうして私はこうなのだろう……
挙手をしたまま、項垂れた私であった。
「ほかにいませんか?では、部長会として独自に宣伝活動をすると言うことで決定です」
4本の腕を喜々として見つめ、一人で拍手をする音無さん。それとは対照的なのは言わずもがな砂山氏である。
砂山氏がどんな不細工な顔をしようとも、言葉尻も捕まえられなければ、規約の上にも合法。まさに非の打ち所がない完璧な決定をここに見たわけである。
平静を装いつつも冷淡な目元と独り言だろう、口元を動かす砂山氏は相当この決定が気に入らない様子であった。だが、そんなことは知ったことではない。それ以前に、自分がどれほどの学生たちが持ち込んだ提案をバッサリと切り捨て、多くの涙と謳歌すべき青春のページを破ってきたことだろうか……まさに因果応報である。
悪は栄えずして等しく滅びるのだ。
私は久方ぶりに胸の中がすっきり爽快であった。まるで胸に大きなトンネルが開通したかのようである。風通りの良いことと言ったらまさに快哉!と言うに相応しい。
そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった。
この忙しい時期に、厄介ごとを背負い込んだと部長や他の部員からは白い目を向けられそうであるが、一番五月蠅い部長は真梨子先輩の頼みであると、嘘をついておけば、それ以上は何も言わず、真梨子先輩親衛隊として従順な下僕となることだろう。
そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった……あったのだが……
「いっ、今!この瞬間の青春を燃やそう!」
音無さんが会議の閉幕を宣言する一歩手前で、葉山さんは突然立ち上がると、何を思ったのか拳を高々と突き上げ、しっかりと顔を上げてそう言ったのである。
会場には小さな笑い声が席巻し、砂山氏は、ばかにされたと勘違いしたのだろう。机を思いきり叩いてから大股で部屋を出て行ってしまった。
私はと言えば、笑うに笑えず。かと言って、その意図を理解するに及ばす……すっかり小さくなって座席に深く座り込んだ葉山さんをただ見つめているだけであった……
○
今年の夏休みはとても華やいだものになりました。真梨子先輩に浴衣を着せてもらって、花火大会を見に出掛けたり、盆踊りにも行きましたし、はずしてはいけません、夏祭りにも行きました。
二人して買った林檎飴と綿菓子はとても美味しかったです。
去年の夏休みはアパートのベランダからビルに邪魔をされながら花火を見ていましたし、祭り囃子は聞こえても、盆踊りにも夏祭りにも出掛けませんでした。そうです、確か、部屋を真っ暗にして、まるでホームシックの子供のように膝を抱えて、楽しかった子供の頃を思い出していたのでした。
ホームシックではありません。でも、友人の少ない私は誰からも誘って貰えるわけでもなく、大学が終わればずっと一人きりです。お祭りの日も、家に帰ってから用事もありませんので、お祭りを見に行きましょう。そう思っていたのに、即席麺のラーメンを作って、一人きりの静かな部屋で食べているそんな時、ただならぬ虚無感と切ない気持ちが込み上げてきたのです。楽しいはずのお祭りへも、楽しそうだからこそ行くことができず。そして、いつの間にか膝を抱えて楽しいと深淵から笑えた幼少の頃を思い出して、ただあの頃に帰りたい。そう思っていたのでしょう……つもるところ、私は寂しかったのだろうと思います。
孤独に慣れてしまうのが恐くて嫌で……でも誰も傍にいなくて……
だから、今年はずっと真梨子先輩が傍に居てくれましたし、先輩の紹介で小春日さんとおっしゃる林檎のように可愛らしい人ともお友達になれたのですから。去年と同じはずがありません。
それに、たとえ一人であったとしても、もう膝を抱えたりも、幼少の自分に想いを馳せたりもしないと思います。
私もこの一年で少しは成長できたと思いますから。
『夏』を連想させる行事を片っ端から制覇していった私と真梨子先輩は、小春日さんをまじえて、8月最後の夜に竜田川のほとりで線香花火をして過ぎ去る夏を惜しみました。
けれど「秋は美味しいが沢山あるから、楽しみ!実家から今年も薩摩芋送ってくると思うから、先輩にも葉山さんにもお裾分けしますね」と最後まで線香花火を灯し続けた小春日さんが深甚にも清澄に言うものですから、楽しかった夏に後ろ髪を引かれて、秋に待っている素敵で楽しいことに乗り遅れてはいけません!と私も「後は栗に松茸に十五夜もありますね、そうだ、文化祭!」私と小春日さんは同回生と言うこともあり、二人して顔を見合わせて秋への期待をのみ膨らませたのです。
「そっかあ、文化祭だね」
てっきり真梨子先輩も一緒になって黄色い声を合わせると思っていたのです。けれど先輩は、私と小春日さんの喜色満面を余所に落としてしまった線香花火をてなぐさみながら、どこか憂いた眼元でそうこぼしただけだったのでした。
小春日さんはソーイング同好会に所属していて、文化祭の最終日にはステージにてファッションショーをされるそうです。ですから、夏休みから11月にかけてはショーに着る洋服製作にてんてこまいなのだと、食堂でお昼をご一緒した時に話してくれました。やはり同回生と言うのは気が合います。履修のことも講義のこともそうですが、何かと話題を共有できてお喋りが止まらないのですから。
初秋を迎えて、真梨子先輩の部屋に入り浸っていた私も美術部室にひきこもることが多くなりました。美術部は個人の作品とは別に、門に立てられるアーチやその他の張りぼて、演劇部の小道具と何かと外注を受けて毎日大忙しなのです。
私は絵もかけなければ粘土細工などもできません。ですが、釘をうったり角材の角をヤスリで取ったり、足りない画材があれば自転車に乗って買いに行きます。そんな雑用ばかりで、美術に関われない私です。でも、私はそれで良いのです、できれば、イーゼルにカンバスを置いて、デッサンなどしてみたいと思いますよ。そして、演劇部室へなど赴いて、注文の絵を即興で描いてみたりして打ち合わせもしてみたいです。
でもそれは私にはできません。だから、私は釘を打ったり、買い出しに行ったり、雑用を一生懸命にこなすのです。地味ですが、私が買い出しに行かなければ、色は塗れませんし、お腹も空きます。そして、男手も少ない美術部では釘打ちが上手な私は思いの外重宝されるのです。
派手や地味、理想や願望。それにかまけて私のできる事までなまじっかに済ませていてどうしますか!
『たかだか雑用、されど雑用です』私は胸を張るでしょう。何せ私は一生懸命に頑張っているのですから!
毎日を一生懸命に作業をして、慣れない作業に手に肉刺を拵えても、帰り道、それを見返してみると、どうしてか、少し嬉しくなってしまうのです。きっとそれは、普段、美術部員として美術室にいると言うのに、どこか美術部員としては蚊帳の外にいるように私自身が思い込んでいるからでしょうね。
だから、この文化祭の前だけは、正真正銘本物の美術部員になれているように思えて嬉しくて仕方がありません。それに、多くの人が一つの目標に向かって力を合わせている姿を見るのも、自分がその一員であることも、少しこそばゆくって、でも、とっても温かいと思うのです。
そんな毎日を過ごしていた私は、ふとカレンダーを見てみると、もう10月も下旬に差し掛かっているのですから、まるでタイムスリップしたような不思議な面持ちとなってしまいました。考えてみれば、朝早くに大学へ行くとそのまま夜遅くまで籠もりっきりの毎日でしたもの、昼食も夕食も大学で食べ、時には美術部の先輩たちと飲食禁止の美術部室でカップラーメンを食べたりもしました。大学を出ると言えば買い出しに向かうだけですし、家に帰っても、シャワーを浴びて寝るだけですから、そう考えて見ると光陰矢のごとしも納得できます。
本日も手の平から指先までほわほわとすっかり握力が抜け出てしまい、新しい肉刺を数えながら下宿先に帰って来ました。
さっそくシャワーを浴びて、すっきりしたところで、居間でまったりとしながら、潰れた肉刺の消毒をしようと、薬箱を取りに箪笥の上に手を伸ばしてみたのです。ずぼらに座ったまま薬箱を取ろうとしたのがいけなかったのでしょう。
「あぁ」
薬箱に手が届かず、そのかわりに充電器に差し込んであった携帯電話が落ちて来たのです。絨毯の上で一度跳ねた携帯電話は時折、光を放ちながら、テーブルの下に横たわっていました。
誰からだろうと、着信かまたはメール受信の有無を知らせる、ライティングに私は半月ぶりに携帯電話を開いたのでした……
○
私は激しく後悔をしていました。やはり携帯は携帯するべきでした。携帯しないながらも少しは気にするべきだったのです。携帯が充電器に刺さったまま埃を被っていることも珍しくない私ですから、友人も携帯に期待をせずに家に電話をかけて来る始末なのです。
『本当にごめんなさい。もし許してくれるなら、私の部屋に来て。お願い。お願いします』最後のメールは今日の18時13分に受信していました。
その他にもここ半月以上、毎日一通だけ真梨子先輩からメールが入っていました。最初の数日は謝罪の言葉が、その後からは『夕ご飯どうかな』とか『デロリン買って待ってます』など、遠回しな言葉で私を呼んでくれていたみたいです。そしてこの最後のメールにだけはっきりと、『私の部屋に来て』と書かれてありました。普段、先輩はメールに絵文字を沢山使って鮮やかにしています。なのに、17通を数えるメールにはそれが一切使われていないのです……
先輩に何があったのかは知りません。ですが、ここ最近。いいえ、ここ2ヶ月程、先輩と会話をした記憶がありません。
私は先輩に『今メール全部見ました。今から行きます』と返信をしてから、携帯を握り締め、夜の帳が降りきった外に飛び出すと、アパートの階段を降りきったところで、鍵をかけ忘れてしまったことを思い出して、慌てて階段をまた駆け上がり、ようやく残暑の厳しさを名残と保温するアスファルトの上を韋駄天走りで駆け下りていったのでした。
先輩のアパートに到着すると、私はすぐに何度も呼び鈴を鳴らし、深夜であるにも関わらず「先輩。葉山です」と大きな声を出してドアを何度も叩きました。
ですが、返事はありません。
ドアノブを回してみると、鍵は掛かっていないではありませんか。これはいよいよ先輩の身に何かあったに違いない。そんな不吉なことも脳裏に過ぎらせつつ、私は「先輩?お邪魔します」そう言いながらゆっくりと部屋の中へ入ったのでした。
居間まで一本の廊下にはテレビでしょうか、潮騒の音と蒼と白の光が灯りを灯していない部屋の中を不気味にその輪郭を映し出しています。
居間に入ると、テレビには海の映像が映っており、その蒼白い光を全身に浴びて、その色にのみ染まった真梨子先輩がクッションを抱き締めて小さくなって居間の隅っこに座っていました。
「先輩。遅くなってすみません……」
『どうかしたんですか?』と続けて言いたかったのですが、私は言葉を飲み込みました。その光景は……その光景は、まるで去年の私を見ているようで。どうして真梨子先輩が部屋に灯りも灯さず、小さくなっているのか……その理由が痛いほどわかったからなのです。
私の勘違いと傲慢な思い込みかもしれませんけれど……
「先輩」と私が言いながら真梨子先輩の元に近づいて膝を折り、先輩の肩に手を触れると、先輩はやっと顔を上げて、「なっちゃん来てくれたんだ。誰も来てくれないかと思った……」生気のない疲れた目元で私にそう言ったのでした。
「恭君にもなっちゃんにもメールしてたのに来てくれないんだもん……寂しかった」
電気つけますよ。私はそう言うと、私は先輩の返事を待たずに居間の灯りともしました。
「私、携帯電話に埃かぶるくらいほったらかしにすることが珍しくないので、気が付かなくてすみません。でも、家を出る前に先輩にメールしましたよ」
送信履歴を先輩に見せながら、言った私でしたが、
「見てないもん」と唇を尖らせた先輩が指さす先には和室の端っこに転がっている携帯電話がありました。もしかして先輩が放り投げたのでしょうか……
気丈に振る舞う先輩を見た私はどことなく居づらくなってしまって、たまたま眼に入った洗濯物を逃げ道にすることにしました。まだ私には正面から受け止めてあげられるだけ、胸の厚みはなかったのです。
「もう、洗濯物も取り込んでないじゃないですか」
私は平静を装って、まるでお姉さんのように先輩に言いました。先輩は何も言い返すことはしませんでしたが、私がガラス戸に手を掛けたところで、真梨子先輩は突然私の首に腕を絡ませて、そっと抱き締めたのです。
私の驚きようと言ったら、先輩の吐息が耳の後ろを掠めたのにも、背中にあたる柔らかいものにも、そして甘い香りにも、真梨子先輩を思わせる全てに鼓動を早くしてしまったのでした。
「吃驚するじゃないですか」
私が振り返ろうとすると、その前に真梨子先輩の腕は私から離れて行きました。
ごめん。とはにかんで見せる先輩は、
「なっちゃんって温かいね」と笑って見せたのでした。
その言葉が何を指し示していたのかは窺い知ることはできませんでした。ですが、私は走って来たのですから、汗ばみはしています。
なので「当たり前です。走って来たんですから」とだけ返事をしておきました。
「そっか。じゃあ……シャワー浴びて行って……シャワーだけ」
上目遣いに言う先輩の言いたいことは十分に伝わりました。はっきりと伝えないところが先輩の可愛らしい長所でもあり、もどかしい短所でもありますね………私としたことが、すっかりお姉さん目線で語ってしまいました。
「大丈夫です。それよりも先輩。今晩泊めて下さい。今日はベットの方で寝たいと思います」
私は先輩のためにそう言いました。困った時は弱った時はお互いさまですから。
「本当?やったあ」と生気を宿した先輩は私の手を取ったかと思うと、すぐに私を力一杯抱き締めるのでした。何度もハグをしてから「お腹空いたね」と言い出した先輩はテレビを消してから財布を手に持つと、「お夜食買いに行きましょ、今晩はゆっくりとお話ししたい気分なの」と私の手をひいてと玄関へずんずんと歩いて行きます。
私は元気を取り戻した先輩を見て、嬉しくなっていたので、抵抗もしなければ何も言うことなく、ただ先輩に引っ張られるままに歩いていたのでした。
私は先輩に何かと助けてもらってばかりでした。それは後輩である私の特権なのかもしれません。ですが、助けてもらってばかりでは申し訳ないのです。だから、常々何か恩返しができればと考えていました。女子は何かと集団を作りたがります。なので、いつも集団に入りそびれてしまう私は「なっちゃん、お昼食べ行こう」と離れた講堂で講義を受けているにも関わらず、私を誘いに来てくれる先輩に助けられていました。今でこそ、小春日さんと一緒にご飯を食べることが多くなりましたけれど、そもそも小春日さんと知り合わせてくれたのも真梨子先輩なのです。
だから、だから、私は真梨子先輩のために、少しでも真梨子先輩の力になりたいと思うのです。
そして、その時は今この時だと確信しています。
◇
砂山氏に一石を全力投球した快哉の日から数日。私は文芸誌の100ページと言うサハラ砂漠とまでは言わないながらも、鳥取砂丘は眼中に無くタクラマカン砂漠級くらいはる不毛な文字数に頭を抱えていた。それでも、随分前に見た夢をヒントに図書館に籠もり遅々としてではあったが執筆をしていたのである。
奇妙奇天烈と言う料理の上に珍妙と言うソースをかけたような。そんな夢であった。とは言え、夢中に葉山さんが登場したことに関しては無情の喜びであったと言いたい。
その夢は、何の脈略もなく私が葉山さんと何かしらの縁で出会ったところからはじまった。そして、大学構内で葉山さんを見送った私は、その瞬間に葉山さんに一目惚れしてしまったのである。この点では事実と相違はない。
だが、次の日より、私は大学構内を走り回って葉山さんの姿を探すのだが、見つからず『葉山』と言う苗字がわかっているにも関わらず、頑なに偶然の出会い再びと、誰にも居所を尋ねることもしない。不器用なのか浪漫チストなのか、阿呆なのか。いずれにしても私は葉山さんと出会う事が叶わない。
そこで、私は願を掛けることにした。
現実には存在しないのだが、竜田川沿い稲荷神社に赴いて「どうかどうか、葉山さんと再び出会えますように。彼女と再び逢えるまでは!私はパンツを履き替えません。それは千年も万年も同じ事です。ですから、どうかどうか私を葉山さんと巡り合わせてください!」と頭を地面に擦りつけて神頼みするのである。
その日からきっと私はパンツを履き替えなかったのだろう。
願掛けのシーンから、またしても脈略をほったらかして、私は白無垢姿の女性の隣に立って誰にだろうか、ピースサインをして喜びを表していた。
だが、不思議なことにその女性は葉山さんではないのだ。我が夢ながら、どうして葉山さんとの逢瀬を望がゆえにパンツを書き替えまい。と願を掛けたと言うに………どこでどうなって、私は別の女性を選んでしまうはめになったのだろう。その辺が全て端折られているところが私らしい夢であると言える。
結局のところ、女性であれば誰でも良かったのかもしれない……
とまあ、こんな訳のわからない夢であったのだが、現実的には有り得ないながらも、どうせ描くのはフィクションの世界なのだから問題の一つもありはしない。娯楽小説では大抵のことは許されてしまうのだ。
私はその夢を題材にタイトルを『千年パンツ』と名付けて執筆をはじめた。序盤は大筋で夢の通りに展開を進め、無駄な表現や描写をふんだんに盛り込んだりして、なんとか26ページほどを書き上げた。だが……願を掛けてからが全く泣かず飛ばすであり、どうしたものかと頭を抱えていた。あまりに困ったので机に頭を打ち付けたりもしたが、地味に痛いだけで何一つとして変化をきたすことはなかった。
携帯を開くと我が愛しの葉山さんが黄色く可愛らしいパジャマ姿で今にもポップコーンを口許へ運ぼうとしている。
煮詰まると、こうして麗しの葉山さんを見て自然と発生する貧乏揺すりを沈静化させるのだ
そう言えば、この写真が真梨子先輩から送られて来たの4日ほど前だったと思う。閉館時間まで付属図書館内にてパソコンの画面と睨めっこをして、2ページほどしか書けなかった……と成果に肩を落としながら下宿先に帰った。すると、たまたま家に置いてけぼりにしていた携帯が光っているので、開いて見ると、真梨子先輩から『今すぐに来て欲しい』とだけメールが入っていたのである。
普段絵文字や顔文字を使って鮮やかな文章を送ってくれる真梨子先輩だと言うのに、それらが皆無であったことが気になり、私はメールを受信してから4時間経ってようやく「今から行きます」と返信して、ペガサス号に跨ったのであった。
先輩の下宿先まで時間にして10分。駅前まで坂道が続くがために行きだけは頗る快調であった。
アパートの階段の前にペガサス号を止めると、私は階段を一段飛ばしで飛び上がり、先輩の部屋の呼び鈴を何度も鳴らした。
しかし、うんともすんとも言わない。「真梨子先輩!」と何度か呼んでみたが、反応がない。頭を掻いてからドアノブを回してみると、ドアにはしっかり鍵がかけられてあった。
緊急事態にて解錠する手段はあるのだができれば不本意にてこれを使いたくはない……私は恨めしく合い鍵が隠されてあるドア横にあるメータスペースの蓋を苦々しく見つめた。
とりあえず、私は先輩の携帯に電話を掛けてみた。すると、私の耳に聞こえる呼び出し音と同期して、ドアの向こうから微かに着信のと思しきメロディが聞こえるのである。携帯電話を持ち出していないことを知った私は、どうしようもなく帰ることにした。3度着信履歴を残しておけば、先輩から電話がかかって来るだろうと期待をして……
ペガサス号を押して家路を歩いていた。下宿の駐輪場にペガサス号を止めている丁度その時、ポケットに押し込んでいた携帯が音を鳴らし、真梨子先輩からメールが届いた。
そのメールには『ごめんね。出掛けてた、今から来る?なっちゃんもいるよ』と書かれてあり、なっちゃんとは誰ぞやと思いながら、添付ファイルを受信すると……例の葉山さんの写真が表示された……私は是が非でも真梨子先輩の部屋にお邪魔したかった。何せ我が意中の葉山さんが……葉山さんがパジャマ姿いらっしゃるのである。普段着もそれは可愛い。だが、パジャマ姿など、どうすれば拝見することが叶うだろうか!犯罪すれすれ低空飛行をすれば私でも拝めなくもない。しかし、それでは確実に葉山さんに嫌われてしまう。
『行けるわけないでしょ。でも、何かあったのなら、何でも言って下さいよ。私の出来ることならなんでもしますから。おやすみなさい』と強がりのメールを送信しながら、私はその場に這い蹲ってしまった。
真梨子先輩……あなたは残酷な天使だ……と心中で叫びながら……
あの日の夜は、葉山さんの写真を見つめながら眠った。そして起きがけにまず眼にしたのも葉山さんの写真であった。これまさに寝ても覚めてもと言うに相応しい!
以来、私の携帯電話にはいつでも葉山さんが神々しく祭られてあるのだ。
○
近くのコンビニでお菓子やら冷凍食品を買った私と真梨子先輩は先輩のアパートに戻るなり、レジ袋をテーブルの上に置き去りにして、さっさとパジャマに着替えることになりました。
それと言うのも、先輩が「帰ったらパジャマパーティーしようよ」と言い出したからなのです。
先輩は以前私が見たのと同じ小さな犬が全体に散りばめてプリントされたパジャマに着替えて、私も以前に借りた黄色のパジャマに着替えました。
こんなことを言うのもどうでしょうと思うのですが、先輩の下着はとてもオシャレでした。見えないところにまで気を使う乙女らしさは、やはり私も見習わなければなりません。一番私に欠けているところだと思いますから………
着替えてから、先輩は買い込んだお菓子を片っ端から開けてテーブルの上に並べ、同じく買って来た冷凍食品のカルボナーラをお皿に写してレンジで温めを開始します。
「そんなに食べられませんよ」
と言ってみたのですが、「大丈夫よ」と先輩は余裕綽々に軽くそう言うだけなのです。
なので、私はテレビドラマを見ながらモッくん印の北海道ポップコーンを摘むとぽりぽりと食べていたのでした。ほんのりと効いた塩味とバターの風味が後をひく、私お気に入りのポップコーンなのです。
口を小さく開けて、今まさにポップコーンを食べようとした時でした。携帯カメラのシャッター音がしたので、ポップコーンを口に含んでから台所に立っている先輩の方を見ると、悪戯な笑みを浮かべてメールを打つ真梨子先輩の姿がありました。
レンジが温め終了のチャイムを鳴らす前に、真梨子先輩の携帯が鳴り、メールでしょう。画面に視線を落とした先輩は「残念」ととだけ小さく呟きながらも、とても優しくて、美しい微笑みを浮かべていたのでした……それは私や小春日さんに向けられたことのない特別の微笑みなのだろうと私は直感しました。理由はありません、ただ直感したのです。
「先輩隠し撮りはやめてください」
私がそう言うと「にひぃ」といやらしい声を出すので嫌な予感がしました。
「ひょっとして誰かに送ったんじゃないでしょうね!」
私は立ち上がりました。パジャマ姿を、それもポップコーンをまさに食べようとしている写真なんて、誰にも送られたくはありません。もとい見られたくはありません!今すぐにでも削除してほしいくらいなんですから!
「夏目君になっちゃんもいるよおって」
送っちゃった。と舌を出す先輩でした。
「ちょっと!やめてくださいよ!」
私は恥ずかしくなって真梨子先輩の携帯を奪い取ろうと先輩に詰め寄りました。本当に送信をしてしまったの否かを知りたかったからにほかなりません。
もしも、もしも、本当に送信されていたのであれば、それだけで憂鬱ですから……
先輩は意地悪な姉みたいに、私に携帯を渡すまいと高く掲げ、時にはジャンプをしながらそれでも食い下がる私をもう片方の手で頭を抱き締めて、とても嬉しそうにあしらうのです。私はちっともふざけてません!大まじめだと言うのに!
しばらくの悶着の結果、「嘘よ。誰にも送ってないから」と涙を拭きながらそう言った真梨子先輩の言葉を疲れた私は妥協して信じることにしました。
そして、カルボナーラを二人で半分こして食べた後、お菓子をほとんどそのまま残して布団に入ったのでした。
「勿体ないですよ」と私が言うと、「明日にでも文芸部にでも差し入れるわ」と真梨子先輩が言ったので、それなら無駄にならないでしょうと私も和室へ移動したのです。
ベットの枕元にある照明のみを灯すと、なんともようやくパジャマパーティーの実感が湧いてきました。
台所では悶着を起こしただけでしたから……
ごめんね。先輩は肩肘を立ててその上に頭をのせ、そう言ってから、
「心配させちゃって……だから、今晩泊まってくれたんだもんね」そう言ったのです。
「わかってたんですか」
私から言うつもりはなかったのです。だから、先輩から言われてしまうとなんだか、こそばゆい思いでした。
「そりゃ、私だって、なっちゃんが部屋中の灯り消して、うずくまってたら、心配しちゃうもん」
「そうじゃありません。私は、先輩が泣いてたから、心配したんです」
確かに蒼白い光にのみ照らされた先輩の頬には違う色がありました。それは透明に近かったのですが、私にはとても強烈な色に見えました。
私が静かにそれだけを言うと、先輩も「私、一人には慣れたくないの。寂しかったんだ。とってもとっても……」とだけ話しましたけれど、それ以上は私も聞きませんでしたし、先輩も話し続けることはしませんでした。
きっとそれだけだったのです。寂しかった、それだけだったのです。
「でもどうして海なんですか」
「ああ、あのDVDね。悲しくなると、泣きたくなると私いつも海に行ってたのよ。実家の近くに海があってさ。なんだかね、海見てると落ち着くのよね。悩んで泣きたいのに、辛いのに、水平線を見ると、海の大きさを見せつけられると。自分がとってもちっぽけに見えて、そんなちっぽけな私の悩みなんて、涙を流す価値があるかなって前向きになれたから。でも結局、家に帰ると、泣いちゃうから一緒なんけどね……寂しいよ……一人はやだよって」
私、泣き虫だから。と困った表情をする先輩でした。その後、付け足すように「ここは海なし県だからDVD」と話してくれました。
「だったら先輩はどうして、彼氏をつくらないんですか?」
「えっ」
意外にも真梨子先輩はとても驚いた声を出したかと思うと、上体を起こして「えっ」と、もう一度言ったのです。
私からすれば、真梨子先輩のような女の子なら彼女にしたいと思う男性は星の数ほど居るかと思いますし、これは別に大袈裟でもなんでもないだろうと自信を持って断言できます。
「私にだって好きな人くらい居るもん。寂しいからって誰でも良いってわけじゃないもんね」
心外よ。と腕を組んで憤慨して見せる先輩でしたが、
「その好きな人って、夏目君なんでしょ」
と私が悪戯な笑みを浮かべて言うと。即座に否定するどころか、「はい?えっ、なっ、なんで、なんで恭君なわけ」と組んでいた腕を右往左往させながら、わかりやすく狼狽したのでした。
やはり私の直感は正しかったようです。
「夏目君から返信が来た時、先輩ったらとても嬉しそうでしたし、寂しくて誰でも良かったのなら、私はわかりますけど、どうして夏目君なんですか?私の他に小春日さんもいれば、男性でも先輩には他に知り合いがいるはずですからね」
私はそう言いながら、夏目君からの返信メールを朗らかな表情で見つめていた先輩の姿を思い出しました。やはり、あの表情は恋する乙女の表情に違いありません。
「恭君はダメ。だって恭君には好きな人がいるから、それは私じゃないもん」
そう言うと真梨子先輩は真心を込めた視線を私に投げ掛けたのでした。
○
夏休みも終わり、日を追う事に文化祭は迫ってきます。美術室のカレンダーには、実行委員会も含め各部からの外注の納期が記入され、先輩たちがてんやわんな毎日です。
そんな、名実共に慌ただしい美術室にいると、何もしていない私も気持ちだけが急き立てられて、なんだかかんだか何かをしていなければ!と言う思いに駆られるのです。 けれど、思うだけで私は結局何もできませんから、やはり汚れたパレットを洗いに行ったり、画材を買いに走ることをしているのでした。
ですが、今日では私一人ではありません。私の隣にはにこにこ笑顔の真梨子先輩がいるのです。
「今、文芸は推敲とか入稿で忙しいし、みんなぴりぴりしてるから、私がいると邪魔になるから……」と言う先輩に私は「なら、是非美術室に来て下さい」と誘ったのです。「でも、私がいると邪魔じゃないかしら」そんな風に先輩は遠慮して見せましたけれど。「いいえ。私は美術部員ですけど、美術部らしいことは何でもできませんから、先輩が居てくれると助かります」私はさらにそう言うと、「じゃあ、なっちゃんと美術室に行くわ」寂しがりやさんの先輩はこうして美術室に来ることになったのでした。
先輩も私も釘打ちは得意でしたから、張りぼて組みの際には大いに活躍をしました。先輩は口に釘をくわえて、タオルをねじって頭に巻いてみせるなど、とてもお茶目な格好で釘を打つもので、私はたまに先輩の愉快な格好に見とれて、親指を金槌で叩いてしまいます。そんな時は……そんな時は、なんと先輩が私の親指を口に入れて「大丈夫」と言ってくれるのです。
もちろん、私も木っ端恥ずかしいやら照れくさいやらで、大好きな人に告白されたような、そんなどきどきした胸中で何事もなかったかのように作業を続ける先輩を見つめていました。
その瞬間をたまたま見かけていた美術部の先輩たちも「やっぱり真梨子先輩には敵わないわ」と男子も女子も虜にしてしまう、真梨子先輩の優しい魅力に呻っているばかり。なので、ちょっぴりですけれど自分が褒められているような錯覚ながらも、私は嬉しくなってしまいました。
そんなある日、真梨子先輩の姿が見当たらないまま、私が一人で大工作業をしていると、「葉山さん、甘美祭の会議があるんだけど、葉山さん行ってくれないかな」色とりどりのポスターカラーで汚したエプロンを着ながら、部長が直々に私に言います。
座ってるだけでいいから。と付け加えたのですが……
「はい!行ってきます」
私は嬉しくて、大きな声を出してそう言うと、脇目も振らずに、廊下に飛び出しました。例え座っているだけでよかろうとも、私は美術部代表で会議に出席するのです。
美術部代表!なんと格好の良い響きなのでしょう!
私は意気揚々と筆記用具を抱え、多目的ホールへ向かいました。
歩幅を大きく威風堂々と歩いていますと、渡り廊下を渡り終えたところに、二つに影があり、その一方は真梨子先輩です。もうひと方は背丈は真梨子先輩よりも頭一つ小さく、私と同じくらいでしょうか。髪の毛を栗色に染め、その髪の毛を桃色のシュシュで一つ括りにしていて、大きな目元と小さな口許がアンバランスな印象もありますが、とても明るくて、向日葵を連想させるそんな女の人でした。
美術室にいないと思ったら、こんなところでお喋りにお花を咲かせていたのですね。
「来たね、なっちゃん!」
私は「こんにちは」と真梨子先輩に声を掛けると、先輩はにかっと笑顔をつくって、私の肩を抱くと、その女性の前に連れて行きます。
「音無です。今日は宜しく。全部葉山さんにかかってるからね」
口早に自己紹介を済ませた音無さんはそう言い終わると、私をまるでお地蔵様のように手を合わせてみせ、「じゃあ、私、資料取りに行ってくるから。後、真梨ちゃんお願い」と言い残して、渡り廊下を全力疾走して行ってしまいました。
「先輩。どういうことですか?展開が早すぎて全然わかりません」
こんなのを支離滅裂と言うのだな。そんな風に思った私でした……
○
「はーちゃんの活躍に乾杯!」
真梨子先輩の家に集まった私たちがテーブルの四方を埋めて、音無先輩がそう言いながら麦酒缶を高らかと掲げたのは、あの恥ずかしい思いをした『今年度 文化祭アピール検討会』から2日後のことでした。
『なっちゃん。部屋に入ったら、このノートの中しっかり読んでおいて、絶対にお願いね』
真梨子先輩も音無先輩と同様に私に詳しい説明など一切くれず、私は真梨子先輩から渡された一冊の大学ノートを携え、多目的ホールへ入ると廊下側の席に『美術室』と書かれた三角錐を見つけましたので、さっさと腰を落ち着け、さっそくノートを開いてみました。
すると、まず最初のページに『甘美祭アピール検討会 進行表』と書かれたプリントが挟み込んであり、見開きの2ページ目には進行表に沿い、矢印にて『ここまでは無言で良し、むしろ何も言わない』『ここで勝負!』とか『今!この瞬間の青春を燃やそう!(拳を突き上げて言う)』などと、事細かくまるで台本のように言葉が書き込まれてありました。
私はノートに視線を釘付けにすると、次の瞬間には眉を寄せて。まるで意味と意図がわかりません……と体重を背もたれに預けて、両腕をぶららんとさせていたのでした。
部長は「座っているだけで良いから」とおっしゃってました。活発に発言を……とまでは考えていませんでしたけれど、だからと言ってこんなデキレースのような八百長に荷担したいとは思いません。
はじめから、仕組まれているのであれば会議を開く意味はありませんし、そこに公平性はありません。私はズルは大嫌いなのです。
でも、これに真梨子先輩が関わっているともなると、心苦しくとも無碍に出来ない気持ちもあり、私は悩みました。きっと、今日の議題はそんなに重要な案件ではないと思います。ですから、私が少しだけ私に妥協すれば全ては丸く収まって、今まで通り真梨子先輩と仲良くしていられます。
音無さんでしたか……私に希望を託したような口振りでしたけれど、別段私は、私の心情を貫くためであれば、音無さんの希望を振り払うことさえも吝かではありません。
でも……真梨子先輩に嫌われてしまうのは困ります……少々の自信はありました。真梨子先輩のことだから、私がこのノート通りに発言をしなかったからと言って、手の平を裏返したように私を拒絶したり避けたりはしないと思います。
そんなことが心配なら……素直に妥協すれば良いのに……
「葉山さん、お願いね」
私が頭を抱えていると、耳元にそんな声とともに「配布資料です」と音無さんが私の席の上にプリントを配布してくれました。
私は何も言い返せないまま、音無さんは離れた席へプリントを配布に行ってしまいます。
念を押されたようで、悪意のない悪意と言いましょうか。私はますます何かの瀬戸際で煩悶としなければならなくなってしまったのでした。
視線を上げて見ると実行委員会の席の並びには学生会の顔ぶれが、そして『代議員委員長』の席には学生会の会長よりも存在感のある恰幅良い男性がどっしりと構えていました。
ノートに書かれてある、『天敵 砂O』と言う方でしょう。誰にとってそしてどこが『天敵』なのだろう。私はやはり大義名分の無い戦いはできない。と溜息をついてしまいました。賊軍であろうと官軍であろうとも、大義名分がなければ戦いには決して勝ことはできないのですから…………
音無さんには後で真梨子先輩から謝ってもらうとして、真梨子先輩にはなんて言って謝ろう。そんなことを考えながら、先輩に渡されたノートを弄んでいると、思わぬものを発見してしまったのです。
それは進行表のある反対側。つまり裏表紙側からなるページからでした。赤いペン文字にて、ぎっしりと言葉が綴られてあったのです。
それは4ページに至る『想い』の塊でした。最後に音無 響と署名がされてありました。これは血判状ではありませんか!私は今一度、音無さんの昔年の想いと、幾星霜と苦汁を舐め続けてきた学生たちの苦しみ、そして、音無さんにとって最後となる文化祭にかける意気込みと想いを読み返しました。
「むう」
私は二通り読み終えてから、眉の間に3本皺をよせ、唇を尖らせて『むう』と言いました。
私は知ったのです。砂Oと言う人物が如何に『天敵』であり、どんな『天敵』たるか、そして、誰にとっての『天敵』であるかを!
そうなのです。自分自身も学生の立場でありながら、学生の敵となり、挙げ句の果てには一年に一度の大祭である、文化祭をも己がちっぽけな権力誇示のために協力をしないはもとより、障害となるとは何事ですか!
私だって、甘美祭を楽しみにしています。今だって美術室では先輩方が一生懸命に外注の品に作品に忙しなくしていることでしょう。これに限っては他の部もサークルも同好会も同じことです。ソーイング同好会の小春日さんも、ファッションショーの準備に余念無くと毎日夜遅くまで大学に残っていますもの。
私は紛う事なき大義名分を手に入れました。この上は、全学生の天敵たる砂Oと一戦交えてやろうではありませんか!!
ここで退いては女が廃ります!!
私は水滸伝の女傑 扈三娘[こさんじょ] のごとく海棠の花と私も、音無先輩のために一肌も二肌をも脱ぐ決意を固めたのでした。
『『フットサル同好会』『ソーイング同好会』が同意するから大丈夫』とハートマークで書かれてあるので、そこのところは心配は要りません。ですが……最後の『今!この瞬間の青春を燃やそう!』と言うのはどういう意味があるのでしょうか?
これは明白に、関係がないと思うのです。なので私は首を左右に振ってみたり、恥ずかしがってみたり……一人で二十面相をしていたのでした。
「格好良かったですよ。『今!この瞬間の青春を燃やそう!』」
缶酎ハイを一缶空けた小春日さんは上機嫌で立ち上がると拳を突き上げて、私の真似をしてみせます。
ぬいぐるみを着た。と言う表現が似合う、そんな寝間着を着た小春日さんは、丸っこい耳のついたフードを被ってそれはそれは上機嫌でした。そんな小春日さんを見て、頬にほんのり朱を乗せた真梨子先輩と音無先輩はゲラゲラと笑っています。
桜花の園。これが本当にパジャマパーティーと言うものなのでしょうか……それに私は小春日さんのように高らかに言い切ってません。恐る恐る、遠慮がちに言いましたもの。
それはもちろん恥ずかしさが先立ったからと言うことは言うまでもありません。
なんだか、私が酒の肴されているようで不愉快です。
「なっちゃん、そんなにむくれないでよ。本当に感謝してるんだから、私も響ちゃんも実質今年が最後の文化祭だから、思いっきりやりたいことをやり尽くしたいの」
一人でむくれる私をそっと後ろから抱き締めて、真梨子先輩が言います。熱っぽい頬は良いとしてもアルコール臭の混じった吐息は頂けません。
「まさか、砂山さんが卒業しないなんて、想定の範囲外。大番狂わせだったもん」
黄色いシュシュでポニーテールの音無先輩は、頬を赤くしてますます林檎のように可愛らしくなっています。
『砂O』とは正しくは『砂山』だったのですね。今更ながらどうでも良いことを知った私でした。
頸木である代議員会から合法的にかつ円滑に自由を勝ち取ると言う先輩方の思惑は一様私の奮闘と言う体でもって、完遂されました。予定外と言えば『文芸部』が賛同してくれたことでしょうか。会議に出席していたのは夏目君でしたから、きっと、真梨子先輩が直前にでも根回しをしていたのでしょうね。
今晩のパジャマパーティーは、その祝賀とどんな宣伝活動をするのか。を話し合うために真梨子先輩が提案したものなのです。 夕ご飯を一緒につくって、みんなで食べて、お酒やらお菓子やらを買いに出掛けて、現在に至ります。
こんなに酔っぱらって、話し合いなどできるのでしょうか……と言うのは私の素朴な疑問です。
「真梨子先輩。それで先輩はどんな宣伝活動をしようと考えてるんですか」
「ええぇ、なっちゃん気が早いなあ。夜はまだまだこれからなのよ」
真梨子先輩は音無先輩と連れだって、台所へ向かい『赤霧島』と『八咫烏』と和紙のラベルが貼られたお酒を持って来ると、音無先輩と二人して、喉を鳴らしながら飲み始めるのです。
お湯で割って、烏龍茶で割って……さすがに小春日さんはこれには手を出しませんでした。
なんだかお母さんの面持ちです。何と言うか……あんな悲しくて苦しそうな真梨子先輩はもう見たくありません。どうせなら、目の前にいる無邪気で飾らない。子供のような先輩が良いのです…………
「音無先輩は知ってるんですか?」
今度は小春日さんが八咫烏をやっつけている音無先輩に聞きます。
「もちろん知らない!」
首を左右にぶんぶん振りながら音無先輩はけろりと答えて見せました。シュシュから伸びた尻尾が真梨子先輩の髪の毛を叩いて、まるで真梨子先輩が後ろから扇風機で煽られているように見えたのは少し面白かったです。
「真梨ちゃん。私も知りたい。と言うか教えなさい!」
「ええぇ、まだ……」「真梨子先輩、この前のことこの場でバラしますよ」
いやいやをする真梨子先輩に私は、問答無用と止めの一言を言いました。本当は何をバラすのかさえも決めていませんでしたけれど……もしも、必要に駆られたならば……DVDのことでも話しておきたいと思います。
「ぶー。なっちゃんの意地悪っ。わかりましたーわかりましたよーっだ。話せばいいんでしょ話せば!」
すっかり開き直った先輩は、赤霧島のお湯割りを一気に飲み干し、胸元を弾ませながら勢いよく立ち上がると、
「発表します!」と『真梨子式宣伝大作戦』の全容をここに発表したのでした。
◇
「お前はこれからバカですって名乗れ。いいや、名札を首からさげろ」
会議での決定を部長に伝えた結果、私に帰って来た冷ややか極まりないお言葉であった。
ペンタブレットを私の鼻っ面に向けて、偉そうなことこの上ない物言いである。
私は「バカと言うお前がバカだ」と声に出さない返事を返してから。このままでは面倒くさい問答をもう少しせねばなるまいか、と早くもげんなりしてしまった。
「やるならお前一人でやれよな。俺は入稿まで猫の手も犬の手も借りたいんだ!部長会なんかに付き合ってられるか。それから、100ページも期日までにあげろよな、あがらなかったら文芸部から追放だ!」
本当に五臓六腑に染み渡って、憤慨を煽る部長である。そう思いつつも私が涼しげな表情と眉間に皺を催さないのは、一言必中の殺し文句を手札に持っていたからであり、遠回しに「いまさら、仲間に入れてって言っても無理ですからね」と言いたいわけである。
「さっさと書けよ!お前だけだぞ、原稿一回も持ってきてないの」
すでに軽蔑の眼差しまで含有させるとは、さすがにそれは酷くなかろうか……これには私も少々心中を荒立ててしまった。
元より、部長に私の『千年パンツ』を読ませるつもりはない。はなっから入稿直前に提出する心づもりでいるのだ。
物語には必ず男女のロマンスが必須。と自信まんまんに持論を吐き散らかす部長は、ロマンスのない作品、または、見るからに無理矢理嵌め込んだロマンスも容赦なく、切り捨て、結局ところ、部長好みの作品だけが残って行くか製作されるのである。
そんな統制された物語の何が面白いのか!
そんなもんを読んで心ときめかせるのは、部長と同じくフィギュアのスカートを捲って喜ぶようなソフト変態だけではあるまいか!
だから、私は部長に一行一句とて読ませるつもりはない。
だからと言って『千年パンツ』がロマンス皆無の作品と言うわけではない。むしろ壮大なロマンスであると言いたい。だが、阿呆漢たる主人公の一人称にて、ページの半分以上は、妄想やら阿呆漢たる無駄な努力に勘違い、挙げ句の果てには寂しい様など、大凡、部長の趣向にそぐわない作品構成なのであるからして、やはり見せることはできまい。
何度でも言う。私は部長に作品を読ませるつもりはない!
「わかりました。一様俺は参加します。部長は参加しないんですよね?」
「さっきそう言っただろ!俺は猫の手も犬の……」
「真梨子先輩にそう伝えておきます」
私は部長の声を遮ってそれだけを言うと、爽快な面持ちで悠々と部室を出てやった。
もちろん、慌てて部長の大声が私の背に投げ掛けられたことは言うまでもない。私はドアを閉めたところで、大きな物音が部室の中に木霊したかと思うとその次々に硝子の割れるような音や、部員の悲鳴やらが聞こえて来た。
助言しておきたいと思う。蛸足配線はやめた方が良い。
実のところ、真梨子先輩の関与は知らなかった。だから、往々にして真梨子先輩が参加していないと言うこともあり得るわけだ。
だがしかし、私にとっては真梨子先輩の有無など関係ない。最重要であるは葉山さんが参加していると言うことなのだから。けれど、私には自然と確実にこの部長会の一件には真梨子先輩が一枚噛んでいると信じることができたのである。そもそも、葉山さんが独断であんな提案をするわけもなければ、古平がその提案に賛同することなど、沈まぬ太陽のごとくありえないお話であるからだ。
しかしながら、ここに真梨子先輩が裏から糸を引いている。と言うエッセンスを加えてやると。あら不思議。古平がすんなりと賛同してしまう理由も明白となってしまう。真梨子先輩に大恩のある一人である古平は真梨子先輩にのみ従順な下僕。本人は否定しているが、真梨子先輩に頼られれば断った試しがない。ものの一度としてないのである。
たったそれだけかと言われてしまえば、そこまでであるが、古平と言う男をよくしる私であればこそ、たったこれだけでも確信の領域へ盲信できるのである。
部長との訣別とも言える別れかたをして、私は部室に顔を出すこともなく、図書館に閉じ籠もって『千年パンツ』の完成だけをただひたすらに打ち込むことにしたのであった。一片の後悔はない!そう言い切りたかった……しかしながら、携帯を開く度にポップコーンを今にも頬張りそうな葉山さんが灯ると、なんとも悲しい面持ちとならざるえない。
この屈託のない乙女の姿こそ私の意欲と執筆の源であると言うのに……携帯の電源を落とすようにと促すは、部長からのひっきりなしの電話であった。この期に及んで、私を苦しめようとはなんとも忌々しい部長である。
私は愛くるしい葉山さんのおわす画面を暗黒にするなど選択に最初からなく、部長の電話番号を着信拒否設定にして事の沈静化を図ると、ようやく、真梨子先輩のノートパソコンのキーボードに手をつけたのであった。